八ツ場ダムの深層(5)浅間山大噴火の利根川への影響
大熊孝『利根川治水の変遷と水害』東京大学出版会(8102)は、著者が東京大学に提出した博士論文に、一部削除・修正・加筆したものであり(序)、利根川に関する浩瀚な研究の成果である。
その第3章が、「天明3年浅間山の噴火と幕末の治水問題」と題されている。
天明3(1783)年の浅間山大爆発は、その直接被害もさることながら、利根川の河状を一変させ、江戸初期に確立された利根川治水体系に動揺をひきおこした。すなわち、噴火物の流出によって利根川河床が急激に上昇し、全川にわたって激しい水害をひきおこし、従来の治水体系に修正を余儀なくされた。この修正は、抜本的治水対策とは言えず、上下流・左右岸の対立を生みだし、幕末に深刻な治水問題をひきおこした。
浅間山噴火の直後の天明3年7月の洪水は、七分川を埋没させ、上利根川左岸赤岩地先で500間破堤している。
右岸側にも氾濫し、その余波は江戸にまで及んで、新大橋や永代橋を流出させた。
天明6(1786)年7月の洪水は、江戸時代に発生した洪水の中でも、寛保2(1742)と並び、最大規模のものだった。
この洪水は、上流から下流まで全川にわたって惨憺たる水害を引き起こした。
この洪水が、利根川全川の河床上昇に強い影響を与えたと推測される。
寛政3(1791)年8月の洪水は、中条堤を破堤し、上川俣、下村君の上利根川右岸や左岸側の北川辺や渡良瀬川下流部の数カ所を破堤している。
浅間火山の噴出物が火山灰や気泡の覆い火山岩で、比較的比重が軽く流れやすいものであったことと規模の大きな洪水が多発したことによって、短期間に利根川全川の河床上昇が促進されたと考えられている。
浅間山噴火の直後、幕府は、肥後熊本藩主細川越中守重賢に御手伝普請を命じて、武蔵・上野・信濃三国の河渠浚渫、堤防修築を行わせている。
大熊・上掲書によれば、この工事は天明3年11月にはじまり、翌年正月に終わっており、応急処理的な改修にすぎなかった。
しかし、北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館(0610)の「近世における災害救済と復興」(北原糸子)では、翌年早々に復旧工事を熊本藩細川家に命じたとしている。
北原氏は、大名手伝普請について、次のように説明している。
徳川家康は江戸に幕府を開き、駿府、名古屋、大坂、江戸などの主要な都市に、その政治的中心となるべき城郭を大名の手伝普請で行ったことはよく知られている。そして、城の普請が一段落した十八世紀初頭から、幕府は大藩に対して河川改修を中心とする大規模な川普請を命じていく。 図44に、江戸時代後期の大名手伝普請の年代ごとの普請入用高とそれを担当大名の石高で割った一万石当りに負担金を示した。注意しておくべきことは、大名による手伝川普請が集中的に行われたのは関東筋の川々であったという点だ。
……
このうちでも、寛保二年、天明六年の普請高が突出していることは図44から読み取れるが、天明四年が利根川を中心とする熊本細川家の手伝普請である。
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