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2009年10月23日 (金)

蕪村の詩意識と現実意識

吉本隆明「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』未来社(1959)所収)によれば、蕪村の芸術活動の盛期である明和から天明に至る時代は、「飢饉にあえば、餓死者がるいるいと横たわり、一揆は全国におこる」という地獄絵のような社会状勢だった。
それは、チョウニンブルジョワジイの興隆と、封建ヒエラルキイを挽回しようとする武士階級のあがきと、農民階級の窮乏化が進んだことによる危機の時代であり、当時の芸術意識は、この現実を受感して分裂するに至った、と吉本氏はいう。
そういう中で、蕪村は、この危機を上昇的に受感すること作品を創造していった。
蕪村の、「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚ぶ」という離俗論は、地獄絵のような現実社会を上昇的に受感することによって成立した。

「上昇的に受感する」というのはいささか分かりにくいが、芸術作品に昇華させるということだろうか。
吉本氏は、蕪村詩には次のようなふたつの性格がある、という。
ひとつは、興隆していく町人ブルジョワジイの新鮮な、秩序破壊的な、写実的な感性の一面であり、もうひとつは、徂徠学派のイデオロギイに滲とうされ、封建支配に頭うちされて屈曲した心理主義的な衰弱の一面である。
子規が、写実主義的に捉え、朔太郎が浪漫主義的に捉えたのは、蕪村にこのような二面性が存在しているからである。

吉本氏は、詩の持っている基本的な宿命的な性格は、その詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらないことである、という。
どういうことか?
詩意識が変革されるためには、かならず現実意識が変革されなければならない、と説明している。
西行や芭蕉は、ほとんど全生命を社会から疎外するような生活意識を確立することが必要だった。
それが、西行や芭蕉の詩が、超越的であることを願いながら、生活的な匂いが濃く、思想詩の骨格をもつに至らせた。

それに対し、蕪村は、町人階級のなかにあって、ある程度の安定した生活意識をつくりあげた。
それにより、離俗論を方法化し、、蕉風にかえれというスローガンを掲げることができ、実生活を主題に選びながら、超越的な世界を構成しえた。
蕪村詩が成立した明和から天明にかけての時期は、日本のブルジョワジイにとって、封建階級と農民階級のそれぞれの危機を傍観しながら、安定した支配力をもった時期であったことが、蕪村の詩の秘密である、と吉本氏はいう。

また、吉本氏は、俳諧が中世の連歌式から、しだいに独立した詩型として完結する経過は、町人ブルジョワジイの発生から階級的成立までの社会的な構造のうつりゆきに照応している、とする。
つまり、俳諧の形式、音数律五七五は、封建的な感性と、町人ブルジョワジイの感性が均衡するところで保たれた。
蕪村詩は、成熟した町人ブルジョワジイの支配感性を背景とすることにより、純粋詩の機能をもつに至り、同時に、非俳諧的な発想と、音数律の破壊、詩型の拡張の試みなどによって、封建的な支配感性を破壊する徴候をみせた。

吉本氏は、日本のコトバが漢語から離れて仮名を作り出していったとき、言葉は社会化され、風俗に同化し、日本的な社会秩序に照応する日本的な感性の秩序を反映しえたが、それによって日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなった、という。
蕪村が、長詩を試み、その中で唐詩の発想と語法を借りて、感覚の論理化を図った。
蕪村は、日本の長歌や今様や和歌の発想と根本的にちがっている。

この小論を書いた頃の吉本氏は、いささか詩の表現と、社会的な背景とを強引に結びつけようとし過ぎている感がある。
しかし、明治維新を推進した浪人や下層武士インテリゲンチャが、長歌や和歌などによって、復古的な政治イデオロギー詩を残したことと蕪村を対比させてみせたことは、さすがだいう気がする。

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