八ツ場ダムの深層(4)鎌原村の悲劇
北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館(0610)によれば、天明3(1783)年の浅間山大噴火(浅間焼け)によってもたらされた降灰は、400キロメートル離れた北上、大槌にまで及ぶ広範囲に降った。 (図は上掲書による)。
「鎌原火砕流」によって山腹の樹木・岩石が削り取られ、急速に流下した岩屑なだれのために、鎌原村は一村丸ごと埋められてしまった。
昭和54(1979)年から始められた発掘調査によって、鎌原観音堂下の石段を登ろうとする姿勢の状態で、女性2体の人骨が検出された。
大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店(9112)にも、浅間山北麓の状況が記されている。
北麓は、降灰や砂礫の飛来がほとんどないため、噴火がひどくなればなるほど、珍しい景況となって、関東随一の湯治場といわれた草津温泉などでは、隅田川両国の花火より遥かに見ものだとして、浅間山の噴火を見る人々があつまってきたという。 ところが、7月6、7、8日の最後の3日になると、この北麓を、この世のものとも思われぬ災害が見舞った。
火口から灼熱のマグマが噴き出して、それが北側に流れだしたのだ。
吾妻火砕流、鎌原火砕流、鬼押し出し溶岩流の3つがあったが、惨劇をもたらしたのは、鎌原火砕流だった。
秒速100メートルを遥かに越えただろうと推測される猛スピードで、あっという間に鎌原村を襲い、余勢をかって現JR吾妻線万座鹿沢口のところにある崖を越えて吾妻川に流れ込んだ。
332石あった田畑は、約98%が、厚さ2、3メートルから10メートルに及ぶ火砕流に覆い埋め尽くされ、93軒の民家は全滅、597人いた村民のうち、466人が行方不明(死亡)、馬は200頭のうち、170頭がやられた。
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