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2009年10月 9日 (金)

問題意識について

西澤潤一『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)から、西澤氏の研究者としての姿勢を感じさせる言葉を引用する。
西澤氏は、大学の研究者としては驚異的な数の特許を取得しているが、はなばなしい発明物語など、私には無縁なものである、と書いている。
独創的技術は、地味で、地道な努力の上に発現する、ということである。
とことん物事にこだわり、考え抜き、気の遠くなるような営みをコツコツと積み重ねることによって、成果が得られる。

これは言うは易く、行うのが難しいことだろう。
多くの人は、どこかで方便を用意し、いい加減で妥協し、生半可なところで終わっているが、西澤氏は、自分は愚直に物事に徹底して当たる、と書いている。
耳の痛い言葉である。

西澤氏は、頭の中が体系づけられていれば、どんなことにも対応できる、としている。
あることを説明する場合、説明の仕方や立場によって、別の事象のようになってしまうことがあるが、どの角度からみても「こうだ」と信じられるまで、疑いと観察と判断を繰り返して納得するまでの実践的訓練をどれほどやっているか、ということが問われるのだという。
そして、思考の体系づけを生むのが「現場」である。

西澤氏は、20代のこと、人が1回ですませる実験を、10回はやったという。
そして、観察力と判断力をフルに働かせようとして、頭をいじめ抜いた。
西澤氏は、「頭がよい」には、「頭の回転がはやい」という側面以外に、「頭が強い」という側面がある、という藤田尚明氏の指摘を引き、自分は頭がいいほうではないので、せめて強くなりたいと願ったそうである。
そして、「頭をいじめ抜いた」ことによって、頭が強くなり、いくつもの発見や発明をすることができ、人から評価されるような業績を上げることができたのではないか、と書いている。
アスリートが体を鍛えて筋力をつけるように、頭を鍛えたということである。

「発想法」や「能力開発法」などは、便宜的に、若い研究者を指導するときに、使う。
通俗的なところから入った方が分かりやすい場合があり、そのテクニックの1つとして、ということである。
そういうものと位置づけているから、遠慮がちにさわりだけ使う、という。
つまり、ほとんどの部分は「使えない」ということだろう。

「発想法」や「能力開発法」のなかで、1つだけ双手を挙げて賛成する点があるという。
それは「問題意識を持て」という項目である。
「問題意識」を持たなければ、なにごとも始まらない。
西澤氏は、「問題意識を持つ」を、「すべての事象をまず疑い、裏を取れ、確認しろ」というように表現する。
つまりは懐疑主義である。

「問題意識を持て」と強調しなければならないということは、通説や俗説がはびこっているということである。
自然科学の分野では、定説を金科玉条とする態度が、独創の手足をもぎとってしまっている。
西澤氏が実験をすると、これまでにない変わった現象が次々と現れてくる、という。
他の人が同じように調べても、現れないらしい。
それは、現れないのではなく、「見れども見えず」だと西澤氏はいう。
ささいな注意力の差なのだ、と。

私は、「問題意識」というと、「和歌山カレー殺人事件」の問題点を、当時はさほど当たり前ではなかったインターネットを駆使して追求した三好万季さんの『四人はなぜ死んだのか』文春文庫(0106)に、「付録」として収載されている『シめショめ問題にハマる』を思い浮かべる。
これは万季さんが中学2年の夏休みの国語の宿題として提出したレポートで、「ハジメマシテ」の表記は、「始めまして」が正しいのか「初めまして」が正しいのかを調査したものである。
「シめショめ」とは「始め初め」の意味である。
万季さんが、お父さんのワープロを使って文章を書いてとき、「HAJIMEMASHITE」と入力して変換キーを押したところ、「始めまして」と変換された。

この変換に違和感を持ったことが調査のきっかけだった。
「問題意識」というのは、ある事柄をオカシイと思ったり、変だと感じたりすることがきっかけになるのではないだろうか。
つまり、それはかなり感性に依存するのではないかと思う。

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