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2009年10月12日 (月)

八ツ場ダムの深層(2)天明という時代相

天明というのはどのような時代だったのか?
とりあえず、Wikipedia(最終更新 2008年8月20日 (水))を参照してみよう。

天明(てんめい)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1788年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。
[天明期におきた出来事]
・2年~8年天明の大飢饉。7年5月、江戸・大坂で米屋の打ち壊し事件
・3年7月6日 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化
・4年2月23日 筑前国志賀島で金印発見
・4年3月 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺される
・6年8月 田沼意次が失脚
・7年4月 徳川家斉が将軍に就任
・7年6月 松平定信が老中に就任
・8年1月30日 天明の大火。京都の大半を焼失
・8年 尊号一件

簡単な年表を見るだけでも、大変な時代だったことが窺える。
田沼意次などの時代から、寛政の改革で知られる松平定信の時代であり、大きな時代の転換期だった。
上前淳一郎『複合大噴火』文春文庫(9209)は、この時代の様相を以下のように描いている。

陸奥から常陸、下野にかけての国々は、例年にない暖かさのなかで、天明3(1783)年を迎えた。
元日は朝から南風であった。この南風は、吉兆なのか?
冬暖かい年は夏寒いという古伝もあった。
天明2(1782)年が凶作だったから、この年の気候は、陸奥の農民たちにとっては、文字通り死活問題だった。

4月に入ると、それまでの暖かさが嘘のように、陸奥は肌寒い日が続いた。
7月末まら8月末にかけて、太陽の赤っぽさが増したり、輪郭がぼやけてくっきり見えないというような異常な現象が起きて、農民たちの不安を増幅させた。
8月8日の朝には、津軽に霜が降りた。
盛夏だというのに、晩夏のような寒さだった。

農作物はことごとく立ち枯れ、正月に感じた凶作の不安が、現実のものになりつつあった。
津軽一円の農民たちは、農作業を放棄し、家を捨てはじめ、農地は急速に荒廃していった。
その一方で、大商人たちは、米、粟、豆、味噌などの買い占めを図り、中には藩役人と組んで、御用船を使って内密にコメを積みだして、暴利を上げる者さえいた。
8月半ば過ぎから、陸奥の各地で農民が承認を襲う騒擾事件が起き始めた。

寒さは秋の間続き、冬になると津軽は「年来覚えなく寒烈にて」と記されるほど厳しい寒さとなった。
目を覆うばかりの惨状だった。
牛馬の肉食はタブーとされていたが、牛馬肉の切り売りが次第に広まっていった。
しかし、そのうちに、牛馬肉も手に入らなくなる。
とうとう、餓死した人間の肉を食べることが始まり、さらには食べるために人を殺すという凄惨な事態も起きるようになった。

年が明けても事態は好転しなかった。
天明4(1784)年夏までの津軽藩の死者(餓死者、病死者など)は、8万人を越えた。
陸奥の諸藩は、白河と泉を除き、津軽と同じような惨状だった。
全国的にも、夏の間の冷たい雨が原因で、米が不足した。
四国松山藩では、秋の大雨で、表高15万石のうち、2万5千石が損毛となった。
それでも、西日本は餓死者はほとんど出なかった。
江戸幕府は、6年ごとに人別調べ(人口調査)を行っていたが、天明6(1786)年の調査では、6年前に比べ、92万4千人の人口が減少していた。
江戸時代の人口は、3100~3300万人程度とされるから、3%もの人口が減少したことになる。
Photo_2 http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kikaku/kikaku/files/jinkogensyo.pdf

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