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2009年10月21日 (水)

マルチアーチストとしての蕪村(2)

『芸術新潮2001年2月号』の「与謝蕪村」特集号に、作家・俳人の小林恭二氏が、「ホームランか三振か、強打の俳人蕪村」という文章を掲載している。
小林氏は、江戸の三大俳人といえば、芭蕉、蕪村、一茶というのが通り相場になっているが、小林氏もそれには異論がないが、三人の位置についての考えについては、他の人と多少違うかも知れない、としている。

小林氏は、芭蕉は理論家、思想家だという。
発句を芸術にまで引き上げた最大の功労者で、彼がいなければ現代言うような「俳句」は存在しなかっただろう。
しかし、芭蕉が「いい俳句」の詠み手だったかということについては、疑問だ、という。
芭蕉の句には、見た瞬間に「これはすごい」と思わせる句がないのだ、と。

芭蕉の句の特色は、俳論や俳文、あるいは他の句との連携によって、すばらしさがじわじわと感得されるところにある。
明快なコンセプトがあり、物語があり、独自の理論を伴った美意識がある。
それを知った上で読むと深さを増して我々の心を捕えて離さない。
しかし、それは予備知識を必要とするものであって、そこにある俳句だけから受け得るものではない。

つまり、他の俳人が詠んだなら駄句であるものが、芭蕉の句だから素晴らしい、というケースが多すぎる、と小林氏は言う。
それは、芭蕉のブランド力ということではなく、芭蕉が最初から俳論と俳句をセットにして制作しているということなのだ。
文芸の実作者である小林氏は、文芸作品である限り、そこにある作品だけで勝負すべきだ、という姿勢である。
一方で、発句が文芸になるのは芭蕉の登場によってであるから、小林氏の要求はある意味で最初から無理なのであるが、独立した俳句ということで評価すると、芭蕉の句には疑問を抱く、ということである。

一茶について、小林氏は、天才である、という。
どの句も独立していて、俳論などは必要とせずに、感銘を受けることができる、と。
小林氏は、一茶は巷間言われているように「庶民の俳人」としての要素もあるが、その本質はリリシズムの詩人である、という。
小林氏は次の句を引いて説明する。

短夜の鹿の顔出す垣ね哉

短夜は夏の短い夜のことだが、夜がしらじらとして明けてきた瞬間をイメージすればいい、という。
ぼんやりと外を眺めていると、垣根から鹿が顔を出した。
夜が明ける瞬間であるから、夜とも朝ともつかない時間帯である。
夏の夜をくぐりぬけたデカダンな気分も漂っている、ほどなく訪れるはずの夏の朝の爽快さも予感される。
しかし、そのどちらでもなく、異なる2つの気分を揺曳させながら、印象は揺らいでいない。
一茶の巧さが表れているというのが小林氏の読解である。

さて、それでは蕪村については小林氏はどう説明するであろうか?
世上流布している蕪村のイメージは、「天才」だろう、と小林氏はいう。
小林氏も、蕪村が天才であることは否定しないが、蕪村が真に天才的であるかどうかというと、首を傾げるとする。

小林氏は、蕪村の句集は玉石混淆であるという。
蕪村の発想は基本的に限りなく平易であり、誰もが感じうるようなことをモチーフにしている。
だから、当ったときは万人の官能を直撃する大名句になる。
しかし、空振りも多い。
当れば月まで飛ぶが、当らなければバットをかついですごすご退散するのが蕪村だ、と。

それはなぜか?
蕪村が、「五七五ですべてを見る」類の人間ではなかったからだというのが、小林氏の見方である。
芭蕉も一茶も、まず五七五ありきの俳人だった。
しかし、蕪村にとっては、句はあくまで表現手段のひとつだった。
芭蕉や一茶のように、世の中すべてを五七五で測るなどというようなことはしなかった。
蕪村は、五七五におさまりきらないあらゆる感動をも、五七五で言い留めようとした希有な俳人だった、ということである。
つまりは、マルチアーチストということになるのだろう。

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