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2009年10月 3日 (土)

近江は「天ざかる夷」なのか?

前掲の林田正男『「天ざかる夷歌」攷』には、「ヒナ」の用例を、万葉集から抽出した表がある。
Photo アンダーラインを付した2例が「ひな」、「 」の2例が「ひなざかる」、※の付いている1例が「あまさがる」、( )は同一歌と異伝である。
上記以外の22例はすべて「あまざかる」という枕詞を冠している。

万葉集における「天ざかる夷」の最も古い使用例は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の題詞の付された歌である。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感
2009年10月 1日 (木):「同じ」と「違う」(6)枕詞と被枕詞(その3)

……天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に……

この部分に大きな疑問を呈した人がいる。
吉田舜『書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)である。
吉田氏の問題提起は、「近江の大津は、日本書紀によれば、景行天皇の晩年から仲哀天皇までの皇居の所在地で、孝徳紀の詔においては、畿内に定められているにもかかわらず、「天離る夷」と歌われているのは不自然ではないか」ということである。

吉田氏は、『日本書紀』における近江の記事を抽出し、以下のような結論を導出している。
(ⅰ)景行、成務、仲哀天皇は、近江の大津を皇居としている。
(ⅱ)応神天皇は近江に行幸し莬道野で歌を詠んでいる。
(ⅲ)顕宗、仁賢天皇の父であった市辺押磐命は、近江の来田綿の蚊屋野で、狩猟にことよせて、雄略天皇から謀殺されたので、両天皇は置目と共に父の遺骸を、来田綿の蚊屋野に求めている。
(ⅳ)孝徳天皇は近江の大津までを畿内に定めている。
(ⅴ)斉明天皇は近江の平浦に行幸している。
吉田氏は、これらの記述が示していることは、大和と近江の関係は非常に密接であり、「天離る夷」という表現は、『日本書紀』に記述されている現実と遊離した、全く不適切な言葉であることがわかる、としている。

次に、吉田氏は、万葉集における「天離る夷」の歌を分析する。
そして、万葉集における「天離る夷」とは、石見、筑前、対馬島、越前、越中等、文字通り大和から遠く離れた辺鄙な地をさしており、大和から目と鼻の先である近江の大津が、「天離る夷」とはどう考えても不適切な表現である、とする。

つまり、『日本書紀』の記録が正しいとすれば、人麻呂の「天離る夷」の表現は余りにも不自然であり、人麻呂の歌の表現が正しいとすると、『日本書紀』の記録が全く信用できないということになる。
この矛盾をどう解決するか?

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