近江は「天ざかる夷」なのか?
前掲の林田正男『「天ざかる夷歌」攷』には、「ヒナ」の用例を、万葉集から抽出した表がある。 アンダーラインを付した2例が「ひな」、「 」の2例が「ひなざかる」、※の付いている1例が「あまさがる」、( )は同一歌と異伝である。
上記以外の22例はすべて「あまざかる」という枕詞を冠している。
万葉集における「天ざかる夷」の最も古い使用例は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の題詞の付された歌である。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感
2009年10月 1日 (木):「同じ」と「違う」(6)枕詞と被枕詞(その3)
……天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に……
この部分に大きな疑問を呈した人がいる。
吉田舜『書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)である。
吉田氏の問題提起は、「近江の大津は、日本書紀によれば、景行天皇の晩年から仲哀天皇までの皇居の所在地で、孝徳紀の詔においては、畿内に定められているにもかかわらず、「天離る夷」と歌われているのは不自然ではないか」ということである。
吉田氏は、『日本書紀』における近江の記事を抽出し、以下のような結論を導出している。
(ⅰ)景行、成務、仲哀天皇は、近江の大津を皇居としている。
(ⅱ)応神天皇は近江に行幸し莬道野で歌を詠んでいる。
(ⅲ)顕宗、仁賢天皇の父であった市辺押磐命は、近江の来田綿の蚊屋野で、狩猟にことよせて、雄略天皇から謀殺されたので、両天皇は置目と共に父の遺骸を、来田綿の蚊屋野に求めている。
(ⅳ)孝徳天皇は近江の大津までを畿内に定めている。
(ⅴ)斉明天皇は近江の平浦に行幸している。
吉田氏は、これらの記述が示していることは、大和と近江の関係は非常に密接であり、「天離る夷」という表現は、『日本書紀』に記述されている現実と遊離した、全く不適切な言葉であることがわかる、としている。
次に、吉田氏は、万葉集における「天離る夷」の歌を分析する。
そして、万葉集における「天離る夷」とは、石見、筑前、対馬島、越前、越中等、文字通り大和から遠く離れた辺鄙な地をさしており、大和から目と鼻の先である近江の大津が、「天離る夷」とはどう考えても不適切な表現である、とする。
つまり、『日本書紀』の記録が正しいとすれば、人麻呂の「天離る夷」の表現は余りにも不自然であり、人麻呂の歌の表現が正しいとすると、『日本書紀』の記録が全く信用できないということになる。
この矛盾をどう解決するか?
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「日本古代史」カテゴリの記事
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
- 薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)(2016.12.28)
- 半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)(2016.10.07)
- 天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)(2016.10.05)
- 国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)(2016.09.28)
「思考技術」カテゴリの記事
- 際立つNHKの阿諛追従/安部政権の命運(93)(2019.03.16)
- 安倍トモ百田尚樹の『日本国紀』/安部政権の命運(95)(2019.03.18)
- 平成史の汚点としての森友事件/安部政権の命運(92)(2019.03.15)
- 横畠内閣法制局長官の不遜/安部政権の命運(91)(2019.03.12)
- 安倍首相の「法の支配」認識/安部政権の命運(89)(2019.03.10)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント