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2009年10月 4日 (日)

「畝火の橿原」について

吉田舜『書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の冒頭部分にも疑問を提起している。

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし…… 

この歌が詠まれたのは、持統3(689)年ごろと推測されている。
『古事記』が献上されたのは和銅5(712)年とされているから、人麻呂は、その20年以上も前に、神武記の畝火山の橿原を歌っている。
人麻呂の人生には不明な部分が多いが、吉田氏は、次のように要約している。

人麿は持統三年(六八九)、日並皇子の殯宮挽歌を献呈した頃から、大宝元年(七○一)の新田部皇子への献呈歌までの十数年、大和で生活し、その後筑紫・讃岐を経て石見国に至り、和銅二年(七○九)頃、その生涯を終えていることがわかる。

つまり、人麻呂は、『古事記』の成立を知らなかった。
神武天皇の和風諡号には、倭・磐余という地名が含まれている。
その皇居の地は、畝火橿原宮とされている。
地名を含む和風諡号を持つ天皇は、表のようである。
Photo この表の和風諡号の中の地名は、すべて遷都の地あるいは宮の名前を示している。
神武天皇のみ、和風諡号の地名と宮の名前が異なっている。

吉田氏は、九州王朝論者であり(ただし、古田武彦氏の多元説に対し、九州王朝一元説)、神武東征説話は、北九州平定説話を大和平定説話に造作したもので、神武天皇の和風諡号に刻まれている磐余の地は、九州王朝の創立者神武天皇が北九州を平定し、皇居をここに定めて即位した地であるとしている。
磐余の地名について、神武東征条から、次の記述を引用して自説を説く。

夫れ磐余の地の旧の名は片居、亦は片立と曰ふ。我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。

吉田氏は、奈良県と北九州の磐余の地名について比較する。
奈良県の磐余は、「奈良県桜井市阿部付近の古地名」と説明されている。
しかしながら、阿部付近には、片居、片立という地名は見当たらない。

一方、北九州には福岡県の三輪町、小郡市付近に、片居、片立に類似した地名がたくさんある。
片-干潟・屋形原・平方・姫方・萱片
立-花立・立石・西太刀洗
井-井上・大坂井、依井

三輪町を中心に、周辺には岩、石を含む地名がたくさんある。
筑穂朝-黒岩・砥石山、筑紫野市-大石・岩本、夜須町-石櫃・黒岩、甘木-日向石・十石山・石成、小郡市-立石・下岩田、鳥栖市-立石、久留米市-大石町、北野町-石崎、杷木町-石動・乙石、田主丸町-明石田・石垣、小石原村-小石原・白石山

磐余は、万葉集には石村と記されている。
つまり、三輪を中心とした石を含む地名の中心的な存在が磐余であったのではないか。

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