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2009年10月 5日 (月)

近江遷都に関する吉田舜説

大伴家持にも、畝火の橿原を歌った歌がある。
2008年7月 6日 (日):家持の族(ヤカラ)に諭す歌

  族(ヤカラ)に諭す歌一首並に短歌
ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし 眞鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の 丈夫武雄を 先に立て 靭取り負せ 山川を 磐根さくみて ふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従はぬ 人をも和し 掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方に 極め尽して 仕へ来る 祖の職t 言立てて 授け給へる 子孫の いやつぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜しき 清きその名ぞ 凡ろかに 心思ひて 虚言も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 丈夫の伴  (20-4465)

城島の倭の國に明らけき名に負ふ伴の緒こころ努めよ  (20-4466)

剣刀(ツルギタチ)いよよ研ぐべし古(イニシヘ)ゆ清(サヤ)けく負ひて来にしその名ぞ  (20-4467)

  右は、淡海眞人三船の讒(ヨコ)し言すことに縁りて、出雲守大伴古慈悲宿禰任を解かえき。ここを以ちて家持この歌を作れり。

この歌では、「橿原の 畝傍の宮に」になっている。
吉田舜『
書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)において、以下の指摘がある。
『日本書紀』に記されている神武天皇の都所は、次のように表現されている。
(ⅰ)夫れ畝傍山の東南の橿原の地
(ⅱ)畝傍の橿原に宮柱底磐の根に太立てて

家持の歌は天平勝宝8(756)年に詠まれたものである。
『古事記』の献上が和銅5(712)年であり、『日本書紀』の奏上が養老4(720)年とされている。
つまり、家持の歌は『古事記』の献上から44年、『日本書紀』の奏上から36年後に作られた。
にもかかわらず、「橿原の畝傍の宮」と、地名が逆になっている。
このことは、家持が『日本書紀』の記事を記憶していなかったことを示している。

一方、記紀の成立以前に詠まれた柿本人麻呂の歌の表記は、記紀と全く等しい。
これをどう考えるか?

家持は、記紀には通じていなくても、柿本人麻呂の歌には通じていた可能性がある。
とすれば、家持の時代には、人麻呂の歌の地名は、畝火山の橿原と記されていなかったのではないか?

吉田氏は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」に見られる不自然さを解決する解として、以下を提示している。

人麿は天智天皇が九州王朝の兄天大王の王権を簒奪したのち、北九州を去り、初めて筑紫からはるばる天離る夷の地であった近江の大津に遷都したことを詠んだと考えられる。
ここには畝火山の橿原ではなく、倭の磐余宮と歌われていたと考えられる。

つまり、吉田氏は、人麻呂の歌は、記紀成立後に改竄されたのだというのである。
にわかには信じ難い説ではあるが、日本古代史の霧を透視する1つの見方とも考えられる。

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