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2009年10月

2009年10月31日 (土)

水銀の化学(5)農薬としての利用

水銀化合物は、医薬品だけでなく、農薬としても多用されてきた。
種子や球根などを消毒しておくと、雑菌類や土壌線虫類などによる発芽不全や根ぐされなどを予防することができる。
その殺菌剤として昔から塩化水銀が用いられてきたが、塩化水銀は殺菌力が強いと同時に薬害もあることが分かって、塩化メトキシエチル水銀が開発された。
殺菌力と薬害の小ささの両立が実現したのである。

東亜・太平洋戦争後の食糧難の時代に、わが国の農薬の研究は著しく進展した。
特に、稲の生育期に発生するイモチ病の対策に注力されたが、1952年に、高知県の農業試験場において、酢酸フェニル水銀と塩化メトキシエチル水銀を消石灰で希釈して散布すると、イモチ病に対して特効性があると共に、生育が旺盛になることが見出された。
水銀剤は、稲以外の穀物や野菜、果樹などにも利用され、散布用の水銀剤の生産・使用量は、グラフに見るように、急増していった。
Photo_2 図は、日本化学会編『嫌われ元素は働き者 #一億人の化学# 』大日本図書(9203)。

有機水銀剤の利用により、コメの生産量は増加していき、1955年当時1000㎡あたり250~350kgだった収穫高は、10年後には450kg前後になった。
わが国が、飽食の時代と呼ばれるまでに食糧難を逃れることができたのは、有機水銀系農薬のお陰であるということもできるだろう。

しかし、水銀系の農薬には毒性もあるので、使用者に中毒の発生が絶えなかった。
さらに、イモチ病用に毒性の低い代替品が開発されるようになり、1966年に、農林事務次官通達によって、1968年度には水銀系散布剤の使用を廃止する方針が打ち出された。
世論も、水銀に対する公害に対する批判が高まり、1969年に水銀系土壌殺菌剤が製造中止になったのをはじめ、1973年度に種子消毒水銀剤も製造登録が取り下げられた。
一世を風靡した水銀系農薬は、日本の市場からすべて姿を消すことになった。

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2009年10月30日 (金)

水銀の化学(4)医薬品としての有機水銀化合物

水俣病とメチル水銀の関係で、有機水銀化合物には、すっかり「悪役」のイメージが染み付いてしまった。
有機化合物とは、基本的には、炭素原子を構造の基本骨格に持つ化合物の総称であるが、グラファイトやダイヤモンド、二酸化炭素、炭酸カルシウムなどは、無機化合物とされる。
「有機的=organic」というのは、生物由来の、という意味と解していいだろう

有機物を構成する基本的な単位、つまりモジュールのことを官能基(functional group)という。
水銀に、アルキル基、ヒドロキシ基、カルボニル基などの官能基が結合した化合物が、有機水銀化合物である。
これまでに数多くの有機水銀化合物が合成され、利用されてきた。
医薬品として利用されてきたものも多く、赤チンとして知られるマーキュロクロム液の原料のマーキュロクロムもその1つである。
医薬品として用いられてきた有機水銀化合物の例には、次のようなものがある。
Photo 図は、日本化学会編『嫌われ元素は働き者 #一億人の化学# 』大日本図書(9203)。

マーキュロクロム液は、かつては一家に一瓶の万能傷薬だった。
酢酸フェニル水銀は、殺菌剤として利用されたほか、殺精虫作用を持つことから、避妊薬として用いられたという。

チメロサール(エチル水銀チオサリチル酸ナトリウム)は、微量でも強い殺菌作用があるため、予防接種液(DPT、日本脳炎など)中に防腐剤として添加されてきた。
エチル水銀は腸管から積極的に排泄されるため、7日以内で血液中の量は半減するが、水俣病の原因になったメチル水銀は血液中の量が半減するのに1.5ヶ月(約45日)もかかる。
アメリカでは、予防注射中のチメロサールが原因で自閉症になった、という訴訟が続いているが、現在チメロサールが自閉症を引き起こすという証拠(エビデンス)は全くない、といわれている。
水銀の悪役イメージには、誤解も多いようである。

マーサリル、メルカプトメリンナtリウムは、利尿作用がある。
腎臓で一部が分解して発生した水銀イオンが、ナトリウムイオンや塩化物イオンの再吸収のために作用する酵素に結合して阻害することによって、利尿作用が起きるとされている。

有機水銀系医薬品は、水銀による副作用との兼ね合いが問題視される。
チメロサールのように、エビデンスが明確でないものもあるが、医薬品としての水銀化合物は次第に使われなくなってきている。
日本の薬局方からはほとんどが削除されている。

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2009年10月29日 (木)

水銀の化学(3)嫌われ元素?

どんな物質でも、利用の仕方によって、メリットを得られる場合もあれば、デメリットを受ける場合もある。
薬だって、適切に処方されたものを適量服用すれば治癒効果があるだろうが、過剰に服用すれば副作用が起こるだろう。
特に効果の強い薬ほどそうなる可能性が高い。

飲酒にしても同様である。
アルコールは、最も安全な向精神剤と言っていいだろう。
適量の酒は、悩みを癒し明日への活力になる。つまり百薬の長である。
しかし、過剰な摂取はさまざまな障害をもたらす。
短期的に精神に作用する要素があるのだから、長期的に過剰摂取すると精神に何らかの影響を残すことになるだろう。
自戒はしているのだが、飲んでいる間は快いことが多いので、往々にして過剰摂取をしてしまいがちである。
ひどい二日酔いになって、後悔したことがある人は多いだろう。
しかし不思議なもので、午前中はしばらくの間酒を見たくない、などと思っていても、夕方近くになるとアルコールが抜けたせいなのかどうか、普段と変わらない状態になっている。

元素も本来的には中立的であるはずであるが、何となく悪役イメージの元素がある。
ヒ素、カドミウムと並んで、水銀も悪役的な立場ではなかろうか?
悪役のイメージは、殺人事件に使われたり、悲惨な公害の原因物質であることによるのだろう。
日本化学会編『嫌われ元素は働き者 #一億人の化学# 』大日本図書(9203)は、これらの「嫌われ元素」が、いかに有効な作用を発揮するかを解説した著書である。

水銀の悪役イメージは、水俣病の原因物質が、有機水銀化合物であると認定されたことによるだろう。
当初水俣奇病といわれていた水俣病が、新日本窒素肥料(チッソ)の水俣工場からの廃液に含まれる水銀が、有機水銀に転化したものであることが明確になった。
2009年7月 7日 (火):水俣病と水上勉『海の牙』
2009年7月 8日 (水):『海の牙』と水上勉の直観力
2009年7月 9日 (木):水俣病の原因物質

チッソではアセチレンをアセトアルデヒドに転換する反応の触媒として、硫酸水銀を用いていた。
アセトアルデヒドは、塩ビや酢酸などの原料である。
その工程の副産物として、塩化メチル水銀が生成する。
Photo山口潤一郎『図解入門 よくわかる最新元素の基本と仕組み―全113元素を完全網羅、徹底解説』秀和システム(0703)。

当時は、海に流出してしまえば毒物も希釈されて影響は出ないだろう、と安易に考えられていた。
そのため、特段の対策も取られずに海に排出されていた。
ところが、これが食物連鎖の過程で濃縮され、メチル水銀を高濃度に含む魚介類を食用したことにより、脳の神経細胞を損傷することになった。

水銀といえば、このメチル水銀による水俣病のことが想起され、「悪い物質」というイメージが固定してしまったようである。
しかし、赤チンのみならず、水銀は医薬品の材料としても多用されていたのである。
まさに、薬と毒は裏腹の関係にあるということになる。
なお、アセトアルデヒドの工業的合成法は、現在は水銀を使わない方法に切り替わっている。

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2009年10月28日 (水)

水銀の化学(2)アマルガム

水銀の利用法の1つとして、水銀と他の金属との合金である「アマルガム」がある。
アマルガムは、広義には混合物一般を指すが、ギリシャ語で「やわらかいかたまり」を意味する malagma を語源としている。
水銀は他の金属との合金をつくりやすい性質があり、常温で液体になる合金も多い。

代表的なアマルガムは、銀とスズの合金に銅や亜鉛を添加し、それを水銀で練ったもので、歯の修復材料として用いられている。
銀スズ合金と水銀との反応はアマルガメーション (amalgamation) と呼ばれる。
反応は銀とスズの合金粉末内に水銀が拡散し、合金の表面と水銀が反応する過程を経て中心に未反応部分を残しながら結晶化する。
廉価ではあるが、金属色が目立つことと、水銀が溶け出す危険性があること、とされている。

アマルガムの応用として、金メッキがある。
銅の表面を磨き上げてから金のアマルガムを塗り加熱すると、水銀のみが蒸発して表面に金が残る。
日本では古墳時代以来使われているメッキ法法で、「消鍍金(けしめっき)」などとよばれた。
代表例として、奈良東大寺の大仏の金メッキが挙げられる。
Photo 図は、山口潤一郎『図解入門 よくわかる最新元素の基本と仕組み―全113元素を完全網羅、徹底解説』秀和システム(0703)。

聖武天皇は、仏教の加護によって国家の安寧を図ろうとした。
そのシンボル事業が、大仏の造立といっていいだろう。
2009年6月21日 (日):聖武天皇と鎮護国家の思想
この大仏によって、聖武天皇の名前は中学生でもよく知っている。
しかし、その実像には謎が少なくない。
2008年7月 8日 (火):聖武天皇をめぐる謎

東大寺の大仏(廬舎那仏)は、(天平勝宝4)752年に造立された。
わが国最大の鋳仏である。
奈良時代の鋳金工芸の粋を結集したものとされる。

東京都鍍金工業組合のサイトにより、東大寺大仏のメッキの様子を見てみよう。

大仏の鋳造は,下から順々と仏体の周囲に築いた土手の上に設置した溶解炉から, 溶銅を流し込んで行くので,頭部まで鋳造の終った大仏は,その周囲を土山で囲われていた。
……
延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,この鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅をついやした。
次に鋳凌いといって,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げている,台座の蓮弁に残された有名な「蓮華蔵世界」の彫刻も, この時作られたものである。
鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,この表面に塗金が行なわれたが, 大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるように,鋳かけ, 鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれた。
これに用いた材料について延暦僧録には,「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉「塗御体如件」とあるが,これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったと回読している。
すなわち,金と水銀を1:5の比率で混合してアマルガムとし,これを塗って加熱し, 塗金を完了するのに5年の歳月を要している。
これは第1に,鋳放し表面を塗金できるまで平滑にすること, 第2に塗金後の加熱を十分慎重に行なわなければ,加熱時に発生する水銀の蒸気は非常に有毒なので, すでに751年,大仏殿の建造も終っている状況では,殿内は水銀蒸気が充満し, 作業者にとって非常に危険な状態だったのであろう。
大仏の鋳造は749年に完成し,その後に金メッキが行なわれ752年, 孝謙天皇の天平勝宝4年に大仏開眼供養会が行なわれた,大仏の金メッキは, この開眼供養の後になされたが,アマルガムによる金メッキが行なわれはじめたときから, 塗金の仕事をする人々にフシギな病気がはやりだした。この不思議な病気の原因は, まさに水銀中毒であった。
蒸発する水銀をすうことが中毒であると真相をつきとめた大仏師国中公麻呂は, 東大寺の良弁僧上とともに今日の毒ガスマスクを工夫して,病気の発生を予防したとのことである。

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2009年10月27日 (火)

水銀の化学

石室や木棺に塗られた朱は、硫化水銀である。
水銀は、比較的なじみの深い元素ではなかろうか。
最近の体温計はデジタル式になっているが、私たちが子供の頃は、水銀体温計が一般的だった。
何かの拍子で割ってしまうと、中の水銀が玉になって散らばる。
小さな玉を転がしてくっつけると大きな玉になる。
それが面白くて、水銀で遊ぶことがあったが、何となく「毒だから……」と教えられていたような気がする。

ケガをすると赤チン(マーキュロクロム液)を塗った。
ヒザ小僧などに、よく赤チンを塗った記憶がある。
この赤チンに水銀が含まれている。
日本薬局方では、外用殺菌消毒剤として、以下のように記載している。
http://database.japic.or.jp/pdf/newPINS/00011684.pdf

本品はマーキュロクロム2w/v%水溶液である。水銀(Hg:200.59) 0.42~0.56w/v%を含む。
本品は暗赤色の液である。

赤チンとは「赤いヨードチンキ」の略だという。
同じ消毒・殺菌の目的で使われていた希ヨードチンキが茶色であったのに対し、マーキュロクロム液は赤いことから、赤チンと呼ばれるようになった。
マーキュロクロム液は、ジョンホプキンス医科大学(アメリカ)のHugh Youngによって1919年に開発され、傷口に塗っても染みず安価なことから日本でも普及した。
私の体験では、最近赤チンに取って替っているマキロンなどよりもずっと効果的だったように思う。
製造過程で水銀中毒になる恐れがあることから国内では製造中止になった。
子供でも多用していて特段の副作用はなかったのだから、赤チン自体は安全だということだと思う。

マーキュロクロムの分子式はC20H8Br2HgNa2O6で、分子構造は以下のようである。
Photoマーキュロクロムのマーキュロは、水銀の英語名のマーキュリー(mercury)に由来するのだろうが、クロムは何によるものだろうか?

「mercury」は、ギリシャ神話の俊足の神、メリクリウス(Mercurius)にちなむという。
金属にもかかわらず常温で液体という奇妙な性質が、変幻自在で油断ならないメルクリウスの性格と関連づけられたらしい。
古代から存在が知られていたので、発見者は特にいない。

元素記号はHgで、hydragyrum=haydro+argyrum(水のような銀)の略である。
常温で液体である唯一の金属である。
液体時の表面張力が高く、床にこぼした時に拡がらないで球状になることは、子供の頃に体験している通りである。

ところで、「金属とは何か?」と改めて問われると、答えるのはなかなか難しい。
金属では、多数の原子が集まっているが、それぞれの原子の最外殻の電子が、個々の原子核の束縛から解かれて、自由に格子の中を動き回るようになる。
この格子の中を自由に自由に動き回ることのできる自由電子を各原子が共有して結合している状態が金属結合ということになる。
各原子が電子を供出して、その電子をすべての原子が共有して集団を作っている、というイメージである。

上記のような構造により、金属は、次のような特徴を持つ。
1)電気および熱の良導体である。
2)金属光沢を示す
3)展性、延性に優れている。

金属は一般に常温では固体であり、水銀は唯一の例外である。

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2009年10月26日 (月)

辰砂

邦光史郎『朱の伝説』集英社(9412)によれば、茶臼山古墳の石室や木棺に塗られていた朱は、辰砂を原料として精製したものである。
Wikipedia(最終更新 2009年9月26日 (土))では、次のように解説されている。

辰砂は、不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出し、練丹術などでの水銀の精製の他に、古来より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている。Photo
中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では弥生時代代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱塗や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは吉野川上流や伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが特産地として知られた。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入された。現在では奈良県、徳島県n、大分県、熊本県などで産する。
辰砂を空気中で 400–600 ℃ に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じる。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製する。
硫化水銀(II) +酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄


\rm HgS + O_2 \longrightarrow Hg + SO_2

邦光氏は、上掲書の中で、昔から宝を埋めた場所を示す謎歌が伝えられているが、その宝物は、黄金が甕に何杯、朱が何杯というように書かれていて、黄金と朱が等価として並んでいた、としている。
宝を埋めた場所は、たとえば、冬の朝日の射す杉の木の影の先端の部位を掘ると、そこに宝が隠されている、というように表現される。
余談になるが、ポーの『黄金虫』と同じ趣向である。

『黄金虫』は、最初の暗号小説と位置づけられている。
主人公は、ある日、黄金色をした珍しいカブトムシを発見する。
友人の語り手にそれを告げるが、途中から様子がおかしくなり、部屋に籠ってしまう。
ろくに食事も睡眠もとらず、召使いはその虫を本当に黄金でできていると思い込んでいるのではないか、と心配する。
語り手が主人公に療養をすすめると、主人公は「僕は気が狂ったのではない。キャプテン・キッドの財宝を見つけたんだ」という。
主人公が解読した暗号は、換字法によるもので、英語の文字や単語の出現頻度がヒントになっている。

邦光氏が朱に興味を抱いたのは、楠木正成を主人公とした小説を書いたときだという。
正成が住んでいた赤坂や千早城の付近で、辰砂、水銀が採取される。
正成は、散所の太夫だったといわれる。
散所というのは、年貢米の代わりに、労力や技術を提供してすませる荒蕪地のことである。
塩や鍋釜をつくって生計を立てていたとされる。

その里長なり、製造集団の長が散所の太夫である。
河内の土豪の楠木正成は、散所の太夫として河内の交通路をおさえ、赤坂、千早の山地で採れる水銀を集めて京都に運んだのだという。
楠木正成は、千早城にこもって戦ったが、その千早城の軍資金を賄ったのが辰砂による利益だったのではないか、というのが邦光氏の推測である。

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2009年10月25日 (日)

朱の効能

茶臼山古墳では、大量の朱が石室や木棺に塗られていて、200kg以上になるだろうと推計されている。
朱は、被葬者を邪気から守ったり、腐敗を防いだりする意味があったのではないかと考えられている。
先ごろ、発生期の古墳ではないかと報道された沼津市の辻畑古墳でも朱が検出されているが、どうやら使用量は茶臼山古墳の方が圧倒的に多かったようである。
2009年9月20日 (日):沼津市で最古級の古墳を発掘

邦光史郎『朱の伝説』集英社(9412)は、弥生人は、朱を燃える火に見立てて、火はものを清める浄化という効用をもつので、あらゆる不潔なものも、いったん火にさらすときれいなものに変わると考えた、と説明している。
奈良の枕詞とされる「あをによし」の「あをに」は、青と丹(赤)のことで、青と朱の2色が寺院に用いられた。
韓国の寺では今でも、青と赤で飾られているという。

日本では、神社の多くは、鳥居こそ朱色に塗られているが、他の部分は塗料が落ちて木肌になっている。
しかし、創建当時は、神社も寺院も朱や青で塗られていた。
中国の五行説では、「青、赤、黄、白、黒」が基本の色とされている。
中央を示す黄以外の4色によって四方を示す四神が表わされる。
青:青龍・東・春(青春)
赤:朱雀・南・夏(朱夏)
白:白虎・西・秋(白秋)
黒:玄武・北・冬(玄冬)

高松塚の壁画に、この四神図が描かれていて、それがさまざまな推論の根拠になっている。
2008年9月10日 (水):被葬者推論の条件…①古墳の築造時期
2008年9月21日 (日):地下の朝賀…梅原猛説
2008年9月22日 (月):反逆の皇子…梅原猛説(ⅱ)
2008年11月 2日 (日):小林惠子氏の高松塚被葬者論…⑨被葬者と築造者

都を定める場合にも、この四神思想による地相によって選定されたといわれる。
たとえば、平安京は、次のように四神相応している地だとされる。
北に山があり、東に川があり、西に道があり、南に池がある。
京都の場合、北に船岡山、東に鴨川、西に山陰道、南にはかつて巨椋池があった。
藤原京、平城京、長岡京の場合にも、この四神思想が影響しているという。

『丹後国風土記』の逸文に、私たちが、「浦島太郎」の昔話として知っている話が載っている。
丹後の国の与謝の郡の日置の里の筒川という村に、島子という人がいた。
雄略天皇の頃、この島子が船に乗って海で釣りをしていたが、三日三夜経っても、魚が釣れない。
しかし、五色の亀を釣り上げ、おかしなものがあるものだ、と思いつつまどろんでいるうちに、その亀が女性になって、島子は女性に常世の国に連れて行かれる。

昔話では、「助けた亀に乗って竜宮城へ行く」ことになっているが、それは室町時代の御伽草紙になってからの潤色らしい。
与謝の郡は、蕪村が滞在した地であり、以後与謝を名乗ったというから、蕪村が気に入った土地だったのだろう。
『丹後国風土記』の島子が釣り上げた五色の亀は、五行説にいう五色だということである。

茶臼山古墳のように、古墳の内部には朱が用いられていることが多いという。
物理的に、朱は防腐剤として機能していたようで、貴重品として扱われていたらしい。
しかし、邦光氏の上掲書によると、古墳の朱の産地については、ほとんどよく分からない、ということである。

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2009年10月24日 (土)

桜井茶臼山古墳の朱塗りの石室

10月23日の各紙は、奈良県桜井市の茶臼山古墳で、全面に朱が塗られた大型の竪穴式石室と木棺が確認された、との橿原考古学研究所の発表を報じている。
910232_2 写真は、日本経済新聞10月23日。
断面図は、以下のように報じられている。
091022 http://www.asahi.com/national/update/1022/OSK200910220095.html
茶臼山古墳は、初期大和政権の大王級の墓といわれている。
Wikipediaの解説(最終更新 2009年10月22日 (木))は以下のとおりである

桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の巨大な前方後円墳である。外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)ともいう。
本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、墳丘長207メートル、前方部が柄鏡形をしている柄鏡式古墳である。古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓に続いて造営された巨大な前方後円墳である。この古墳は戦後しばらくたつころまで学界では知られておらず、自然丘陵を利用し、柄鏡(えかがみ)式の前方後円墳で雑木林に覆われて、単なる丘陵の観を呈している。後円部の頂に高さ2メートル弱、1辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器(二重口縁壺形土器)が壇の裾周りに巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪の使用がない。段築面には葺石がされている陪墳群がみられない。
この古墳の後円部の空濠の外に、宗像人社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、さらに社殿があるのは何時のことか分からない。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。

今回の調査は60年ぶりの再発掘で、石材には、当時は貴重だった水銀朱が全面に塗られており、少なくとも200kgは使われたとみられ、過去最大量の出土例だという。
同時期のほとんどの大型前方後円墳は陵墓や陵墓参考地に指定されていて、立ち入りが禁じられているため、墳丘中心部の調査はきわめて珍しい。

木棺は、コウヤマキの丸太を半分に割って内部をくりぬいた「割竹形」で、底部が長さ4.89m残っていて、復元すると長さ6.7m、直径1.1mで朱を全面に塗っていたとみられる。
数百点にのぼる銅鏡の破片も出土した。
被葬者は不明とされているが、研究成果の整理が待たれるところである。

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2009年10月23日 (金)

蕪村の詩意識と現実意識

吉本隆明「蕪村詩のイデオロギイ」(『抒情の論理』未来社(1959)所収)によれば、蕪村の芸術活動の盛期である明和から天明に至る時代は、「飢饉にあえば、餓死者がるいるいと横たわり、一揆は全国におこる」という地獄絵のような社会状勢だった。
それは、チョウニンブルジョワジイの興隆と、封建ヒエラルキイを挽回しようとする武士階級のあがきと、農民階級の窮乏化が進んだことによる危機の時代であり、当時の芸術意識は、この現実を受感して分裂するに至った、と吉本氏はいう。
そういう中で、蕪村は、この危機を上昇的に受感すること作品を創造していった。
蕪村の、「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚ぶ」という離俗論は、地獄絵のような現実社会を上昇的に受感することによって成立した。

「上昇的に受感する」というのはいささか分かりにくいが、芸術作品に昇華させるということだろうか。
吉本氏は、蕪村詩には次のようなふたつの性格がある、という。
ひとつは、興隆していく町人ブルジョワジイの新鮮な、秩序破壊的な、写実的な感性の一面であり、もうひとつは、徂徠学派のイデオロギイに滲とうされ、封建支配に頭うちされて屈曲した心理主義的な衰弱の一面である。
子規が、写実主義的に捉え、朔太郎が浪漫主義的に捉えたのは、蕪村にこのような二面性が存在しているからである。

吉本氏は、詩の持っている基本的な宿命的な性格は、その詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらないことである、という。
どういうことか?
詩意識が変革されるためには、かならず現実意識が変革されなければならない、と説明している。
西行や芭蕉は、ほとんど全生命を社会から疎外するような生活意識を確立することが必要だった。
それが、西行や芭蕉の詩が、超越的であることを願いながら、生活的な匂いが濃く、思想詩の骨格をもつに至らせた。

それに対し、蕪村は、町人階級のなかにあって、ある程度の安定した生活意識をつくりあげた。
それにより、離俗論を方法化し、、蕉風にかえれというスローガンを掲げることができ、実生活を主題に選びながら、超越的な世界を構成しえた。
蕪村詩が成立した明和から天明にかけての時期は、日本のブルジョワジイにとって、封建階級と農民階級のそれぞれの危機を傍観しながら、安定した支配力をもった時期であったことが、蕪村の詩の秘密である、と吉本氏はいう。

また、吉本氏は、俳諧が中世の連歌式から、しだいに独立した詩型として完結する経過は、町人ブルジョワジイの発生から階級的成立までの社会的な構造のうつりゆきに照応している、とする。
つまり、俳諧の形式、音数律五七五は、封建的な感性と、町人ブルジョワジイの感性が均衡するところで保たれた。
蕪村詩は、成熟した町人ブルジョワジイの支配感性を背景とすることにより、純粋詩の機能をもつに至り、同時に、非俳諧的な発想と、音数律の破壊、詩型の拡張の試みなどによって、封建的な支配感性を破壊する徴候をみせた。

吉本氏は、日本のコトバが漢語から離れて仮名を作り出していったとき、言葉は社会化され、風俗に同化し、日本的な社会秩序に照応する日本的な感性の秩序を反映しえたが、それによって日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなった、という。
蕪村が、長詩を試み、その中で唐詩の発想と語法を借りて、感覚の論理化を図った。
蕪村は、日本の長歌や今様や和歌の発想と根本的にちがっている。

この小論を書いた頃の吉本氏は、いささか詩の表現と、社会的な背景とを強引に結びつけようとし過ぎている感がある。
しかし、明治維新を推進した浪人や下層武士インテリゲンチャが、長歌や和歌などによって、復古的な政治イデオロギー詩を残したことと蕪村を対比させてみせたことは、さすがだいう気がする。

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2009年10月22日 (木)

蕪村の芸術論としての離俗論

蕪村の門人の召波がある日、蕪村に「俳諧とは?」と聞いたところ、蕪村は次のように答えたと、召波の『春泥句集』の序にある、という。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku4-3.htm

俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最かたし。
いわゆる蕪村の「離俗論」である。

この離俗論は、絵画の芸術論から転用したものだという。
上記の召波と蕪村の問答に次のようにある。

却問、叟(おきな・蕪村のこと)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なを是工案をこらして我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。
答曰く、あり、詩を語るべし。子もとより詩を能す、他に求むべからず。彼(召波)疑敢問。夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
答曰く、画家に去俗論あり、曰、画去俗無他法、多読書則書巻之気上升市俗之気下降矣、学者其慎旃哉。それ画の俗を去るだも筆を投じて書を読ましむ、況んや詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。波すなはち悟す。

離俗論について、小西甚一『俳句の世界―発生から現代まで』講談社学術文庫(9501)は、以下のように解説している。

蕪村が有名な離俗論を提唱したのもこの頃(注:明和5(1768)年。蕪村53歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった「介子園畫傳」初集(ママ)の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである--。この思想は、蕪村の描く画についても共通である。かれの画は、南画とか文人画とかよばれるもので単なる技巧だけの画とは性質を異にする。いくら巧くても、巧いだけではいけない。その他にどうしても気韻の高さがなくてはならない。
……
かれは、俳工でもなければ俳商でもない。かれにとって、俳諧は、第一に、君子あるいは士人の藝でなくてはならなかった。

蕪村は、「画禅堂随筆」という画論にも、万巻の書を読み、千里の路を行き、胸中に俗気のなくなった時の効用を述べている、という。
私は、俗に生きるしかない人間であるが、俗を離れた境地があることは理解できる。
そして、そのためには古典をたくさん読むことが重要であることも。
おそらくは、それが「教養」というものの本質であろうし、現在の教育に欠如した要素ではないか、とも思う。

上記サイトでは、頴原退蔵氏の蕪村論から、以下を引用している。

芭蕉は直ちに対象そのものを諦視した心の中にさびを味はうとし、蕪村はかうして洗練された美意識の統制によって、句境を純化しようとして居る。随って蕪村の句には、必ずしも彼自身の姿と生活とは見出されない。いはば芭蕉の俳諧は即ち芭蕉自身の生活であり、蕪村の芸術は結局芸術そのものに終始して居る。そこに両者の素質に大きな相違が認められるのである。

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2009年10月21日 (水)

マルチアーチストとしての蕪村(2)

『芸術新潮2001年2月号』の「与謝蕪村」特集号に、作家・俳人の小林恭二氏が、「ホームランか三振か、強打の俳人蕪村」という文章を掲載している。
小林氏は、江戸の三大俳人といえば、芭蕉、蕪村、一茶というのが通り相場になっているが、小林氏もそれには異論がないが、三人の位置についての考えについては、他の人と多少違うかも知れない、としている。

小林氏は、芭蕉は理論家、思想家だという。
発句を芸術にまで引き上げた最大の功労者で、彼がいなければ現代言うような「俳句」は存在しなかっただろう。
しかし、芭蕉が「いい俳句」の詠み手だったかということについては、疑問だ、という。
芭蕉の句には、見た瞬間に「これはすごい」と思わせる句がないのだ、と。

芭蕉の句の特色は、俳論や俳文、あるいは他の句との連携によって、すばらしさがじわじわと感得されるところにある。
明快なコンセプトがあり、物語があり、独自の理論を伴った美意識がある。
それを知った上で読むと深さを増して我々の心を捕えて離さない。
しかし、それは予備知識を必要とするものであって、そこにある俳句だけから受け得るものではない。

つまり、他の俳人が詠んだなら駄句であるものが、芭蕉の句だから素晴らしい、というケースが多すぎる、と小林氏は言う。
それは、芭蕉のブランド力ということではなく、芭蕉が最初から俳論と俳句をセットにして制作しているということなのだ。
文芸の実作者である小林氏は、文芸作品である限り、そこにある作品だけで勝負すべきだ、という姿勢である。
一方で、発句が文芸になるのは芭蕉の登場によってであるから、小林氏の要求はある意味で最初から無理なのであるが、独立した俳句ということで評価すると、芭蕉の句には疑問を抱く、ということである。

一茶について、小林氏は、天才である、という。
どの句も独立していて、俳論などは必要とせずに、感銘を受けることができる、と。
小林氏は、一茶は巷間言われているように「庶民の俳人」としての要素もあるが、その本質はリリシズムの詩人である、という。
小林氏は次の句を引いて説明する。

短夜の鹿の顔出す垣ね哉

短夜は夏の短い夜のことだが、夜がしらじらとして明けてきた瞬間をイメージすればいい、という。
ぼんやりと外を眺めていると、垣根から鹿が顔を出した。
夜が明ける瞬間であるから、夜とも朝ともつかない時間帯である。
夏の夜をくぐりぬけたデカダンな気分も漂っている、ほどなく訪れるはずの夏の朝の爽快さも予感される。
しかし、そのどちらでもなく、異なる2つの気分を揺曳させながら、印象は揺らいでいない。
一茶の巧さが表れているというのが小林氏の読解である。

さて、それでは蕪村については小林氏はどう説明するであろうか?
世上流布している蕪村のイメージは、「天才」だろう、と小林氏はいう。
小林氏も、蕪村が天才であることは否定しないが、蕪村が真に天才的であるかどうかというと、首を傾げるとする。

小林氏は、蕪村の句集は玉石混淆であるという。
蕪村の発想は基本的に限りなく平易であり、誰もが感じうるようなことをモチーフにしている。
だから、当ったときは万人の官能を直撃する大名句になる。
しかし、空振りも多い。
当れば月まで飛ぶが、当らなければバットをかついですごすご退散するのが蕪村だ、と。

それはなぜか?
蕪村が、「五七五ですべてを見る」類の人間ではなかったからだというのが、小林氏の見方である。
芭蕉も一茶も、まず五七五ありきの俳人だった。
しかし、蕪村にとっては、句はあくまで表現手段のひとつだった。
芭蕉や一茶のように、世の中すべてを五七五で測るなどというようなことはしなかった。
蕪村は、五七五におさまりきらないあらゆる感動をも、五七五で言い留めようとした希有な俳人だった、ということである。
つまりは、マルチアーチストということになるのだろう。

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2009年10月20日 (火)

マルチアーチストとしての蕪村

蕪村が俳人として認知されたのは、正岡子規に再評価されてからのことで、それまでは画家として認められていたという。
言いかえれば、画家として超一流だったということであり、重要なことは、文学的表現と視覚的表現が見事に融合していたことである。
現代でいえば、卓越したコピーライターとしての才能と、デザイナーとしての才能を併せ持っていたということになる。
『芸術新潮2001年2月号』は、「与謝蕪村」特集号であるが、蕪村を「江戸ルネサンス最大のマルチアーチスト」と位置付けている。
2_2 図は、上掲誌に掲載されている「澱河曲」自画賛で、詩書画が1つになった俳画の妙と評価される作品であり、蕪村62歳の安永6(1777)年に発表されたものである。

中名生正昭『芭蕉の謎と蕪村の不思議』南雲堂(0407)によれば、蕪村は幼少の頃から絵に興味を持ち、摂津国池田元荒木町(現池田市大和町)に住む狩野派絵師の桃田伊信から絵を学んだとされる。
享保18(1733)年に17歳で家を出た蕪村は、桃田伊信の紹介で京に行き、俳人早野巴人(宋阿)を知り、元文2(1737)年、巴人が江戸に帰ると蕪村も江戸に行き、巴人改め夜半亭に入門した。

師の宋阿が寛保2(1742)年に没すると、夜半亭一門は消滅してしまい、蕪村は生活基盤を失って、同門の砂岡雁宕を頼って、下総・結城に行き、弘経寺の大玄に帰依した。
蕪村は、結城滞在中に松嶋、象潟などを旅し、「寛保四年宇都宮歳旦帖」を刊行し、はじめて蕪村の号を用いた。
延享3(1746)年ごろ再び江戸に戻り、芝増上寺の裏門近くに住んだ。
江戸では、日本南画の先駆者・服部南郭と交流があり、南画の示唆を受けたのではないか、とされる。

宝暦元(1751)年、江戸から京に移り住んだが、蕪村の狙いは、彭城百川、池大雅らが活躍する京の画壇で、南宋文人画を研鑽することにあったようである。
宝暦4(1754)年、丹後の宮津に赴き、宝暦7年まで滞在した。
宮津では、京での充電期間中に蓄積したさまざまな絵画手法を試行して、絵の修業に努めた。
宮津の近くに与謝という土地があるが、蕪村の母の出身地ではないかともされる。
蕪村は、宮津から京に戻ってしばらくすると、谷口から与謝に改姓している。
京に戻った蕪村は、屏風講組織により屏風絵の販売を生業として画家の地位を築いた。

蕪村の絵の特質を、上掲書の中で、中名生氏は次のように説明している。

蕪村の絵は、生き生きとした精神的な生命を画面に躍動させることにある。一言で言えば『介子園画伝』の画論で言うところの「気韻生動」そのものを感じさせる。気韻生動は学んで得られるものでなく、生来備わっているものとされるから、これは蕪村の天賦の才といえる。

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2009年10月19日 (月)

故郷喪失者としての蕪村

中名生正昭『芭蕉の謎と蕪村の不思議』南雲堂(0407)は、2人の俳聖、芭蕉と蕪村の「同じ」と「違う」を論じている。
その第一部は、「芭蕉と蕪村 故郷と母」であり、さらに「二 故郷への思い」の項には、「帰る芭蕉、帰れぬ蕪村」という副題が付いている。
松尾芭蕉の故郷は、伊賀国上野(現・三重県上野市赤坂町)で、芭蕉は、28歳で江戸に出てからも、しばしば兄のいる上野の家に帰っている。

芭蕉は、寛永21(1644)年の生まれで、蕪村は、享保元(1716)年の生まれだとされるから、蕪村は芭蕉よりおよそ70年後の人ということになる。
しかし、芭蕉の故郷がはっきりしているのに対し、蕪村の故郷ははっきりしていないらしい。
というのは、蕪村が、故郷について、具体的に語ったことがなく、一度も帰省したことがなかったと思われているからである。
蕪村の故郷については、丹後国輿謝郡とか摂津国天王寺村とか諸説がある。

上掲書によれば、庶子だが蕪村が家督を継ぐように育てられた家は、母が亡くなり、次いで父が亡くなって、経営の才のなかった蕪村は、家を出なければならなかった。
蕪村が没して23年後の文化3(1806)年に、大坂の田宮橘庵が刊行した『嗚呼矣草』には、「蕪村は父祖の家産を破敗し」とある。
蕪村にとって、故郷は懐かしくも、近寄ることができない思いがあったのであろう、というのが中名生氏の見解である。

蕪村の出生の事情は分からないことが多いが、『春風馬堤曲』に添えた手紙に「馬堤は毛馬塘也。即ち余が故国也」と記されていることから、毛馬が故国であることが分かり、毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)で幼少期を過ごしたことは間違いないだろうと、推察されている。
毛馬村は、京都盆地から大阪平野に流れ出た淀川が、大坂城へ向かって南に流れを変え、西へ向かう長柄川と分離する地点である。

蕪村が故郷を出た経緯には不詳のことが多いが、享保18年に、画の師桃田伊信の紹介で京に行き、東山の知恩院塔頭に寄宿した。
やがて蕪村は江戸に出て、其角の弟子である早野巴人を頼り、内弟子として住み込む。

夏河を越すうれしさよ手に草履
遅き日のつもりて遠きむかしかな

中名生氏は、次のように書く。

春日遅々。春の日は長く日暮れは遅い。こういった時に幼少のころのことを思うと、このような日が積もり積もってはるか遠い昔となってしまったことを実感する。

確かに、私もこの感懐を理解できる歳になってしまった。
蕪村は望郷の句を遺している。

花いばら故郷の路に似たる哉
路たえて香にせまり咲いばらかな
愁ひつヽ岡にのぼれば花いばら
蜻蛉や村なつかしき壁の色

石川啄木の『一握の砂』に収められている次の歌は、蕪村の本歌取りとも考えられる。

愁ひ来て丘にのぼれば名もしらぬ鳥啄ばめり赤き茨の実

このような「故郷喪失者としての蕪村」と自分を重ね合わせてみたのが萩原朔太郎だった。
安保博史氏は、次のように説く。

昭和初期、萩原朔太郎は、蕪村句集を耽読していた。昭和四年から五年、妻との離婚葬儀、父の死去による家督相続問題等、現実生活のトラブルが打ち続き、
ああ この暗愁も久しいかな!            
我まさに年老いて家郷なく              
妻子離散して孤独なり                
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。             
(「珈琲店 酔月」、『詩・現実』第四号〔昭和六年三月〕)                
と惨憺たる人生の漂泊者としての自己意識を吐露するしかなかった朔太郎の眼前に、「故郷喪失者」蕪村が、「見ぬ世の人」(『徒然草』第十三段)にもかかわらず、単なる鑑賞や学問的研究の対象ではなく、通底し合う詩情を有する座右の「友」として蘇ってきたのである。そして、蕪村が陶淵明を通して行った如く、「故しらぬ霊魂の郷愁」(『青猫』自序・大正十二年刊)、「魂の永遠の故郷」(『詩の原理』・昭和三年刊)を思慕する朔太郎も蕪村の詩的世界に自分自身を重ね、蕪村句を繰り返し「郷愁」の視点から解釈する営みを通して、自らの詩人としての本質と矜持を再認識したのである。
……

朔太郎が蕪村を語ることは、自らを語ることに等しい。そうした蕪村を通した、自己の再発見・再評価の書とも言える評論集『郷愁の詩人 与謝蕪村』(昭和十一年刊)は、期せずして、蕪村俳諧の詩情(ポエジー)の本質が〈郷愁〉であることを発見し、蕪村の〈近代性〉を鋭く解き明かすことになった。蕪村は、真の〈蕪村〉として蘇り、朔太郎は蕪村に救われたのだ。僥倖と言うほかない。
http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_3rd/3rd_1.html                

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2009年10月18日 (日)

天明の世相と「蕪村詩のイデオロギー」

一般に、被災した場合、被災直後にもっとも混乱がひとく、時が経つにつれてだんだんとしずまる。
しかし、大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店(9112)によれば、浅間山の大噴火による被災の場合は反対であった。
天空高く舞い上がった火山灰のせいで、夏であるのに一向に気温が上がらず、信州佐久のあたりでは、土用というのに炬燵に入る日がたびたびあった、という。
結果として作柄も悪く、二百十日になっても、やっと稲穂が半分ほど顔を見せるありさまで、凶作は歴然としていた。

上掲書は、『日本災異志』から、江戸時代の飢饉の記録を引用している。
江戸時代には、35回の飢饉が採録されているが、なかでも江戸時代の三大飢饉といわれる享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉がとくに大きかったとされる。
もっともひどかったのが、浅間山の噴火とかかわりのある天明の飢饉であった。

菅江真澄という江戸時代の紀行家の旅日記に天明の飢饉のことが記されている。
菅江は、天明3(1783)年の浅間山大噴火の年に故郷の三河を出て、文政12(1829)年に秋田県角館で死ぬまで、50年近く旅を続けた。
浅間山の大噴火から2年余りたった天明5年8月10日、青森県西津軽郡まで来ていた。
それまで、飢饉などなかったかのように風流の旅を続けていたのだが、飢饉の惨状を一気にまとめ書きしている。

卯の木、床前という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄や女郎花の生いでているさまは、見る心地がしない。
……
(うしろの人が説明するには)過ぐる天明三年の冬から四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやまって死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腸に足をふみ入れたりしました。

世にも恐ろしい光景である。
蕪村の詩の背景に、このような地獄絵のような世相を見るべきだ、と指摘したのは、評論活動を始めたばかりの頃の吉本隆明氏であった。
「蕪村詩のイデオロギイ」と題する一文である。
昭和30(1955)年10月1日発行の『三田文学』第45巻第10号に発表された。
のちに、『抒情の論理』未来社(1959)に収められ、『吉本隆明全著作集7』勁草書房(6811)に削除されていた部分を復元して収録されている。
私が初見したのは、『抒情の論理』によってである。

吉本氏は、次の蕪村の詩を引く。

紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞
地車のとどろとひびく牡丹かな

吉本氏は、次のように書いている。

江戸の下層町民が、文字通り「地車をとどろとひびかせ」全町の米問屋と豪商の表戸をつきやぶって、掠奪と破壊をやったのは、この詩よりいくらかあとのことだが、蕪村詩が成立した背景には、明和元年(一七六四)の関東農民暴動から、天明の大暴動にいたるまでの空前の百姓一揆が、一揆取締法をおかして、おこなわれたという事実があるのを見おとすわけにはいかない。当時、町人ブルジョワジイは、高利貸付けによって、諸侯や武士階級にたいしてポテンシャルな経済的支配をなしとげていた。一方では鎖国で貿易ができない資本は、土地に投下され、農民階級もまた町人ブルジョワジイのれい属下にはいろうとしていたのである。

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2009年10月17日 (土)

天明3年、蕪村死す

浅間山が大噴火した天明3(1783)年も押し詰まった12月25日、与謝蕪村が往生を遂げた。
68歳だった。
蕪村の名前は、小学生でも知っている。

菜の花や月は東に日は西に

多くの人の口に膾炙してきた句だろう。
小西甚一『俳句の世界―発生から現代まで』講談社学術文庫(9501)の鑑賞をみてみよう。

題「三月二十三日即興」。即興とあるごとく、眼前の景をよんだもので、べつに難しい表現ではない。この発句に対する脇が、樗良の「山もと遠く鷺かすみゆく」なので、ひろびろとした大景であることは明らかだが、その平原にいちめん咲きわたる菜の花が、暮れてゆく微光に包まれたところは想像しても美しい限りではないか。いったい、黄色は、ぱっとした原色で、派手だけれど、深みに乏しい。女性がたがドレスにでもなさるのでしたら、自分の顔だちをよく考慮してからのほうが安全ですよ。しかし、暮光のなかに浮ぶ黄色は陰影もあり華やかさもあった、微妙な色彩感覚である。この句の焦点は、そこに在る。「月は東に日は西に」がちょっとした意外性をもち、しゃれた表現だ--など感心する人は、月竝派的な持ち主だと判断してよろしい。

小学生でも知っている有名句ではあるが、本当に理解しようとするとなかなか難しい。
高橋治『蕪村春秋』朝日新聞社(9809)の冒頭に、次のような文章がある。

のっけに乱暴なことをいうようだが、世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人と、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人とである。
明治三十年、正岡子規は蕪村を研究し論述する仕事を始め、かなり思いきったことをいった。それらの中に大意次のようなものがある。“蕪村は長い年月忘れられていたが、その句は芭蕉に肩を並べ時には芭蕉をしのいでいる”それが脚光を浴びずに終わったのは、句が低俗に堕していないのと、蕪村以後の俳人が無学だったせいである”子規も蕪村に出会って蕪村に狂った一人だったのだ。

蕪村に狂うという境地は残念ながらよくわからない。
つまり、私は、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人の1人ということになるのだろう。
子規は、ほとんど最上級の蕪村評価であるが、小西・上掲書は、もう少し醒めた評価を下している。
小西氏は、江戸の俳壇が芭蕉によって最盛期を迎えたあと、享保期には俳壇が衰退ないし堕落した、としている。
この現象を、唐代の詩が、杜甫によって完成境を示した後、中唐期には杜甫を越えられなかったこととそっくりだとしている。
しかし、中唐期詩壇は、享保俳壇ほど堕落しなかったし、晩唐期には、繊細な美しさに充ちた詩が作られたという。
この晩唐期に似て、天明の頃、俳壇は中興したとする。
小西氏は、蕪村を次のように評価する。

天明諸家のうちで、いちばん偉いのは、もちろん輿謝蕪村である。もっとも、これは、われわれの時代からいってのことで、子規以前は、それほど偉い俳人だと認められたのはない。蕪村の生存当時では、むしろ大島蓼太などの方が、世間的にはずっと有名であった。しかし、子規がたいへん蕪村を持ちあgて、芭蕉以上だとまで相場が上昇させられ、近代俳句、とくに「ホトトギス」系統の人たちにとっては、その源流であるかのごとく尊敬されもした。これらの評価は、どれも絶対的に正しいわけではない。蕪村が蓼太とは比較になりにくいほと偉い作家であることは、動かせないけれど、芭蕉以上に偉いと格づけすることも行き過ぎである。結局、蕪村は、天明俳壇の最高作家だが、芭蕉にくらべてはいくらか見劣りがするといった程度に落ちつくのではないか。

まあ、俳句そのものの評価に客観的な基準があるわけではなく、私が素晴らしいと思う句も、ある人からすれば酷評の対象である。
だから、偉いとか格が上だとか、見劣りがする、などということも、全く主観の問題に過ぎないと思う。
もちろん、狂うという現象も、主観の産物であろう。

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2009年10月16日 (金)

八ツ場ダムの深層(6)吾妻川の地政学

大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店(9112)によれば、鎌原村を押し流して吾妻川に流れ込んだ火砕流は、途中にいくつもの大きなダムを造っては、それが決壊するという形をとりながら利根川へ流れ下った。
2008年8月の「岩手・宮城内陸地震」では、崩落した土砂が谷を埋め、水を堰き止める「自然ダム」ができていることが確認された。
幸いにして、それが決壊したということは報じられていないが、もしダムが崩壊していたら、惨事を増幅したであろうことは想像に難くない。
2008年6月16日 (月):自然ダムの脅威

浅間山大噴火の際の自然ダムは、次々と決壊したということのようである。
浅間山と吾妻川の地形図を見てみよう。
Photo_8Googleマップによって、「八ツ場」をキーワードにして得られた図である。
記号は、以下の地点の表示である。
A:群馬県八ツ場ダム水源地域対策事務所
B:群馬県八ツ場ダム水源地域対策事務所
C:国土交通省関東地方整備 八ッ場ダム工事事務 総務課
D:国土交通省関東地方整備 八ッ場ダム工事事務 川原湯総合相談センター
E:国土交通省関東地方整備局八ッ場ダム工事事務 三島相談センター

天明3年の浅間山大噴火のようなケースは、予測の範囲外のことであるから、計画論として予め想定しておくことは不可能である。
しかしながら、計画を越えた事態が発生した場合にどういうことが起こる可能性があるかは、全く考慮しなくてもいい、ということにはならないだろう。
仮に「八ツ場ダム」の本体工事が完成した後で、天明3年のような爆発が起きていたとしたら、どういうことになるだろうか?

おそらくは、あっという間に土砂はダム湖を埋め尽くすということになるだろう。
とすれば、「八ツ場ダム」は、巨大な砂防ダムとして機能し、下流域への土砂の流出を防ぐ機能を果たすことになるだろうか?
そうだとすれば、天明の浅間焼けが利根川全川に与えた影響を考えれば大きな効果だともいえる。
それとも、土砂の勢いに抗しきれず、決壊してしまうことになるのだろうか?
とすれば、その被害の状況は、想像すら難しい。

天明3年の浅間山大噴火が引き起こした災害は、連鎖反応的に拡がっていった。
成層圏に上がった灰は、日本のみならず北半球全体に及び、フランス革命の原因になったのかもしれないと推測されるほどに、その影響は広範になる。

「八ツ場ダム」を巡る論議の中で、浅間山大噴火との関連性は、余り議論の対象にはなっていないようである。
しかし、ダム問題のみならず、水問題は、かならず上下流、左右岸に利害の相反をもたらす局面がある。
水問題は、本質的に、地政学的要素を含まざるを得ない、ということになるのではなかろうか。

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2009年10月15日 (木)

八ツ場ダムの深層(5)浅間山大噴火の利根川への影響

大熊孝『利根川治水の変遷と水害』東京大学出版会(8102)は、著者が東京大学に提出した博士論文に、一部削除・修正・加筆したものであり(序)、利根川に関する浩瀚な研究の成果である。
その第3章が、「天明3年浅間山の噴火と幕末の治水問題」と題されている。

天明3(1783)年の浅間山大爆発は、その直接被害もさることながら、利根川の河状を一変させ、江戸初期に確立された利根川治水体系に動揺をひきおこした。すなわち、噴火物の流出によって利根川河床が急激に上昇し、全川にわたって激しい水害をひきおこし、従来の治水体系に修正を余儀なくされた。この修正は、抜本的治水対策とは言えず、上下流・左右岸の対立を生みだし、幕末に深刻な治水問題をひきおこした。

浅間山噴火の直後の天明3年7月の洪水は、七分川を埋没させ、上利根川左岸赤岩地先で500間破堤している。
右岸側にも氾濫し、その余波は江戸にまで及んで、新大橋や永代橋を流出させた。
天明6(1786)年7月の洪水は、江戸時代に発生した洪水の中でも、寛保2(1742)と並び、最大規模のものだった。
この洪水は、上流から下流まで全川にわたって惨憺たる水害を引き起こした。
この洪水が、利根川全川の河床上昇に強い影響を与えたと推測される。
寛政3(1791)年8月の洪水は、中条堤を破堤し、上川俣、下村君の上利根川右岸や左岸側の北川辺や渡良瀬川下流部の数カ所を破堤している。

浅間火山の噴出物が火山灰や気泡の覆い火山岩で、比較的比重が軽く流れやすいものであったことと規模の大きな洪水が多発したことによって、短期間に利根川全川の河床上昇が促進されたと考えられている。
浅間山噴火の直後、幕府は、肥後熊本藩主細川越中守重賢に御手伝普請を命じて、武蔵・上野・信濃三国の河渠浚渫、堤防修築を行わせている。
大熊・上掲書によれば、この工事は天明3年11月にはじまり、翌年正月に終わっており、応急処理的な改修にすぎなかった。

しかし、北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館(0610)の「近世における災害救済と復興」(北原糸子)では、翌年早々に復旧工事を熊本藩細川家に命じたとしている。
北原氏は、大名手伝普請について、次のように説明している。

徳川家康は江戸に幕府を開き、駿府、名古屋、大坂、江戸などの主要な都市に、その政治的中心となるべき城郭を大名の手伝普請で行ったことはよく知られている。そして、城の普請が一段落した十八世紀初頭から、幕府は大藩に対して河川改修を中心とする大規模な川普請を命じていく。 図44に、江戸時代後期の大名手伝普請の年代ごとの普請入用高とそれを担当大名の石高で割った一万石当りに負担金を示した。注意しておくべきことは、大名による手伝川普請が集中的に行われたのは関東筋の川々であったという点だ。
Photo_6……
このうちでも、寛保二年、天明六年の普請高が突出していることは図44から読み取れるが、天明四年が利根川を中心とする熊本細川家の手伝普請である。

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2009年10月14日 (水)

八ツ場ダムの深層(4)鎌原村の悲劇

北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館(0610)によれば、天明3(1783)年の浅間山大噴火(浅間焼け)によってもたらされた降灰は、400キロメートル離れた北上、大槌にまで及ぶ広範囲に降った。
Photo_3 (図は上掲書による)。

「鎌原火砕流」によって山腹の樹木・岩石が削り取られ、急速に流下した岩屑なだれのために、鎌原村は一村丸ごと埋められてしまった。
昭和54(1979)年から始められた発掘調査によって、鎌原観音堂下の石段を登ろうとする姿勢の状態で、女性2体の人骨が検出された。

大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店(9112)にも、浅間山北麓の状況が記されている。
北麓は、降灰や砂礫の飛来がほとんどないため、噴火がひどくなればなるほど、珍しい景況となって、関東随一の湯治場といわれた草津温泉などでは、隅田川両国の花火より遥かに見ものだとして、浅間山の噴火を見る人々があつまってきたという。
Photo_5 ところが、7月6、7、8日の最後の3日になると、この北麓を、この世のものとも思われぬ災害が見舞った。
火口から灼熱のマグマが噴き出して、それが北側に流れだしたのだ。

吾妻火砕流、鎌原火砕流、鬼押し出し溶岩流の3つがあったが、惨劇をもたらしたのは、鎌原火砕流だった。
秒速100メートルを遥かに越えただろうと推測される猛スピードで、あっという間に鎌原村を襲い、余勢をかって現JR吾妻線万座鹿沢口のところにある崖を越えて吾妻川に流れ込んだ。

332石あった田畑は、約98%が、厚さ2、3メートルから10メートルに及ぶ火砕流に覆い埋め尽くされ、93軒の民家は全滅、597人いた村民のうち、466人が行方不明(死亡)、馬は200頭のうち、170頭がやられた。

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2009年10月13日 (火)

八ツ場ダムの深層(3)浅間山天明噴火の様子

北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館(0610)によって、浅間山天明噴火による被害の様相をみてみよう。
天明噴火の被害の中で最も甚大な被害を受けたのは、噴火の最終段階で発生した火砕流に襲われた麓の鎌原村であろう。
火砕流は、雲仙普賢岳による災害でわれわれにも馴染みがあるが、天明噴火では、浅間山麓の山肌を削りつつ流下し、削られた岩や土砂とともに猛烈な速度で鎌原村に押し寄せ、北麓を流れる吾妻川に流入し、流域の村々に火山泥流による甚大な被害をもたらした。
上掲書には、このとき発行されたかわら版が収載されている。
Photo_3

浅間山は、群馬県と長野県の県境にあり、広義には黒班、仏岩、前掛山の三火山を指すが、一般には前掛山を浅間山という。
現在も活発に活火山であり、今年の2月にも噴火をしたことは記憶に新しい。
2009年2月 4日 (水):浅間山の癒しと脅威

大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店(9112)にも、「天明の浅間焼けとその被害」と題する項目がある。
同署によれば、天明3年の浅間山の大噴火は、「天明の浅間焼け」と呼び習わされている。
噴火が始まったのは天明3年4月4日(旧暦、以下同じ)である。
中規模噴火で一度しずまったあと、約45日後の5月26日に二度目の爆発があり、これもやがておさまるが、6月18日に第三回目の大爆発が起きた。
さらにその10日後の28日、より一段と大きな噴火が始まった。
周囲の村々に、「石臼をひくような音を伴った地ひびきがあった」「大地がしきりに鳴動し、山の中から赤い雷がしきりに走りでた。人々は身の毛もよだつほどで、見る者はおそろしさのあまり、ひや汗を流し気絶せんばかりであった」というような手記が残されているという。

7月に入ると「筆舌につくし難し」というような激しい噴火が続いた。
6日から7日にかけて、噴火口から灼熱した溶岩が浅間山の火口壁をこえて流れ出し、山体東北側の地表を覆った。
現在の北軽井沢別荘地地帯を覆っている「吾妻火砕流」である。
翌8日午前10時ごろ、火口から噴き出た多量の溶岩流が、まっすぐに北側の急斜面を滑り落ち、あっという間に火口から約15キロメートル北にある鎌原村を埋め尽くし、さらにくだって、利根川の支流の吾妻川になだれ落ちて行った。「鎌原火砕流」である。

つづいて粘性の強い溶岩流が火口から吐き出された。
それが有名な「鬼押し出し」の景観を形成した。
Wikipedia(最終更新 2009年6月5日 (金))では、次のように解説されている。
Photo_5

鬼押出しの溶岩は、普通の溶岩と考えられてきたが、火砕物が火口周囲につもったものが、とけてくっついて固まりながら流れ出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。

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2009年10月12日 (月)

八ツ場ダムの深層(2)天明という時代相

天明というのはどのような時代だったのか?
とりあえず、Wikipedia(最終更新 2008年8月20日 (水))を参照してみよう。

天明(てんめい)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1788年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。
[天明期におきた出来事]
・2年~8年天明の大飢饉。7年5月、江戸・大坂で米屋の打ち壊し事件
・3年7月6日 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化
・4年2月23日 筑前国志賀島で金印発見
・4年3月 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺される
・6年8月 田沼意次が失脚
・7年4月 徳川家斉が将軍に就任
・7年6月 松平定信が老中に就任
・8年1月30日 天明の大火。京都の大半を焼失
・8年 尊号一件

簡単な年表を見るだけでも、大変な時代だったことが窺える。
田沼意次などの時代から、寛政の改革で知られる松平定信の時代であり、大きな時代の転換期だった。
上前淳一郎『複合大噴火』文春文庫(9209)は、この時代の様相を以下のように描いている。

陸奥から常陸、下野にかけての国々は、例年にない暖かさのなかで、天明3(1783)年を迎えた。
元日は朝から南風であった。この南風は、吉兆なのか?
冬暖かい年は夏寒いという古伝もあった。
天明2(1782)年が凶作だったから、この年の気候は、陸奥の農民たちにとっては、文字通り死活問題だった。

4月に入ると、それまでの暖かさが嘘のように、陸奥は肌寒い日が続いた。
7月末まら8月末にかけて、太陽の赤っぽさが増したり、輪郭がぼやけてくっきり見えないというような異常な現象が起きて、農民たちの不安を増幅させた。
8月8日の朝には、津軽に霜が降りた。
盛夏だというのに、晩夏のような寒さだった。

農作物はことごとく立ち枯れ、正月に感じた凶作の不安が、現実のものになりつつあった。
津軽一円の農民たちは、農作業を放棄し、家を捨てはじめ、農地は急速に荒廃していった。
その一方で、大商人たちは、米、粟、豆、味噌などの買い占めを図り、中には藩役人と組んで、御用船を使って内密にコメを積みだして、暴利を上げる者さえいた。
8月半ば過ぎから、陸奥の各地で農民が承認を襲う騒擾事件が起き始めた。

寒さは秋の間続き、冬になると津軽は「年来覚えなく寒烈にて」と記されるほど厳しい寒さとなった。
目を覆うばかりの惨状だった。
牛馬の肉食はタブーとされていたが、牛馬肉の切り売りが次第に広まっていった。
しかし、そのうちに、牛馬肉も手に入らなくなる。
とうとう、餓死した人間の肉を食べることが始まり、さらには食べるために人を殺すという凄惨な事態も起きるようになった。

年が明けても事態は好転しなかった。
天明4(1784)年夏までの津軽藩の死者(餓死者、病死者など)は、8万人を越えた。
陸奥の諸藩は、白河と泉を除き、津軽と同じような惨状だった。
全国的にも、夏の間の冷たい雨が原因で、米が不足した。
四国松山藩では、秋の大雨で、表高15万石のうち、2万5千石が損毛となった。
それでも、西日本は餓死者はほとんど出なかった。
江戸幕府は、6年ごとに人別調べ(人口調査)を行っていたが、天明6(1786)年の調査では、6年前に比べ、92万4千人の人口が減少していた。
江戸時代の人口は、3100~3300万人程度とされるから、3%もの人口が減少したことになる。
Photo_2 http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kikaku/kikaku/files/jinkogensyo.pdf

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2009年10月11日 (日)

八ツ場ダムの深層(1)天明3年の浅間山大噴火

一七八三(天明三)年が明けようとするころ、陸奥から常陸、下野にかけての国々は例年になく暖かだった。

上前淳一郎『複合大噴火』文春文庫(9209)は、このような文章から書き出される。

真冬というのに南部八戸ではさっぱり雪が降らず、ふだんならかたく凍りつくはずの道が土埃をあげ、たまに雨が来るとぬかるんで春先の雪解け道のようになった。生ぬるい南風が吹いてあたりには霞がたちこめ、一足飛びに花曇りの季節になったかと思わせた。

天明3年というのは、有名な大飢饉の年である。
この年の6月25日、信濃と上野の国境にそびえ立つ浅間山が爆発した。
夜が明けるころから、ごろごろと石臼をひくような腹に響く音がし、それが次第に激しくなって、午前10時ごろ爆発した。
翌26日、噴煙は勢いを増し、東方の松井田、高崎あたりまで灰が降ってくるようになった。

7月に入ると、噴煙は少しおさまってきたかのようにみえたが、17日夜8時ごろ大爆発が起き、山頂から火がほとばしり出るのがはっきり認められた。
Photo_2 浅間山夜分大焼之図
浅間山の天明大噴火を描いた古絵図・美斉津洋夫氏蔵

「雨年に豊作なく、旱魃に不作なし」
東日本の人びとは、古くからそういい伝えてきた。
南方系の作物である稲は、西日本では暑さは十分でこわいのは旱魃であるが、寒冷な東日本では、必要なのは日照と暑さである。
平均気温が上がらないと、必ず凶作になった。

山背風-オホーツク高気圧から海を越えて吹き下ろしてくる冷たい東北風である。
雨で上がらない平均気温をいっそう押し下げた。
「飢饉は海から来る」というのが、山背風をおそれた陸奥の人びとの言葉である。

この年、オホーツク海の高気圧が異常に強く発達し、長期間居座っていた。
それが、陸奥に冷たい風と雨を継続させた。
浅間山から吹き上げられた火山灰は偏西風に乗り、信濃から北東あるいは南東方面の各地に降灰をもたらした。
武蔵、下野、常陸、越後、出羽、江戸市中に灰が舞った。

降灰は、陸奥にまで及んだ。
7月27日、仙台は雨だったが、小やみになると灰が落ちてくるのが分かった。
会津でも、灰が白く積って、歩くと足跡がついた。
南部領の太平洋岸の大槌では29日朝から灰が降り始め、やがて雨になったために、家の屋根や草木が白い水を打ったようになった。
浅間山は休むことなく連日火を吐き、黒煙を噴き上げていた。
降灰は範囲を広げ、激しさを増していった。

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2009年10月10日 (土)

プライマリーな独創とセカンダリーな独創

西澤潤一『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)は、タイトルが示すように、著書全体が独創性についての論考であるが、特に「独創」とは何か、を論じた箇所がある。
日本人の独創性について、「独創力がある」と評価する人と、「ない」と否定する人がいる。
その違いは、日本の得意とする「改良・応用技術」をどう評価するか、という点にかかっている。

日本の技術開発の成功率は、世界に類をみない高さである。
西澤氏は、これは先ず第一に、外国で成功したことをやるからであり、また改良・応用技術の分野をやるからである。
種子から育てていこうとする欧米の技術風土と決定的な違いがある。
この物真似技術、改良・応用技術にも技術革新の努力が必要であり、「独創」の範疇に入るが、西澤氏は、これは「セカンダリーな独創」の域を出ない、という。

そして、西澤氏は、やはり基本的(プライマリー)な独創を高く評価するとする。
それが実現すると革命的に世の中が変ってしまうようなものこそ、真の独創であり、そこにロマンがある。
しかし、ロマンは人それぞれである。
わが子に「俺がつくったんだぞ」と胸を張れるようなら、すべて独創であるといって構わないともいう。
要するに、人はみなそれぞれ「分」というものがある、ということである。
「分」とは、西澤流に表現すれば、あるがまま裸で付き合い、尊重し合えるための基本的なアイデンティティである。

たとえば、奇妙な現象にAが気が付き、Bが着目して、Cがアイディアを思いついて、Dが実験で確かめ、Eが理論的に体系づけて、Fが実用化し、Gが工業化した。
A、B、C、D、E、F、Gそれぞれが広義の独創者である。
しかし、時に、すべて自分ひとりの独創だといいはる人もいる。

西澤氏は、セカンダリーな技術が「独創」ではない、ということではない、という。
しかし、「応用・改良ないしは総合化という意味での“独創”である」ということを自覚することが必要だ。
その自覚があれば、「プライマリーな独創」を尊重する態度になってくるだろう。

そして、独創的な成果を生むには、思考の原点において自由でなければならない、という。
誰もいまだかって通ったことにない道を、ただ自らを信じて切り拓いていけるのは、そういう自由があればこそである。

「自由」ということで思い出すは、日本で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論が生まれる過程を解説した米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風』化学同人(9910)である。
副題が示すように、福井謙一博士のノーベル賞受賞の背景に、自由な学風があったこと示したものである。
もとより、著者らは、福井博士の弟子筋にあたる人たちだから、「京都大学が伝統的に持つとされる自由な雰囲気」を称揚する。
しかし、それを差し引いても、理論化学の分野において、世界的に京都学派と呼ばれるほどの勢力を誇る背景には、自由な学風が寄与したことは間違いないだろう。

福井博士の受賞は、フロンティア軌道理論に対して与えられたものである。
現代化学理論の根幹を成すものとされる。
著者らは、フロンティア軌道理論の誕生に立ち会った人たちで、ノーベル化学賞受賞の功績は、もちろん基本的には福井博士自身の卓越した能力、特にその数学的な実力によるものであるが、それが開花する土壌として、喜多源逸、兒玉信次郎らの先駆者にによって培われてきた学風がある、とする。

著者らは、喜多、兒玉、福井と継承されてきた自由を尊び、基礎を重視する学風が先見性の伝統を生んだ、とする。
それを著者らは「山脈」と表現している。
福井博士の博士論文は、「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」というものであるが、全篇数式で埋められていたという。
理論だけで工学博士号が授与された初めてのケースでもあるという。

思うに、自由とは、非主流に身を置くことを可能にする条件なのではないだろうか。
フロンティア軌道理論も、誕生当時二重の意味で非主流の立場にあった。
すなわち既存の反応性理論に対する非主流の立場と、実験的研究に対する理論的研究という非主流の立場である。
その非主流の立場が、同時代の趨勢を抜け出た先見性をもたらしたのだと考える。

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2009年10月 9日 (金)

問題意識について

西澤潤一『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)から、西澤氏の研究者としての姿勢を感じさせる言葉を引用する。
西澤氏は、大学の研究者としては驚異的な数の特許を取得しているが、はなばなしい発明物語など、私には無縁なものである、と書いている。
独創的技術は、地味で、地道な努力の上に発現する、ということである。
とことん物事にこだわり、考え抜き、気の遠くなるような営みをコツコツと積み重ねることによって、成果が得られる。

これは言うは易く、行うのが難しいことだろう。
多くの人は、どこかで方便を用意し、いい加減で妥協し、生半可なところで終わっているが、西澤氏は、自分は愚直に物事に徹底して当たる、と書いている。
耳の痛い言葉である。

西澤氏は、頭の中が体系づけられていれば、どんなことにも対応できる、としている。
あることを説明する場合、説明の仕方や立場によって、別の事象のようになってしまうことがあるが、どの角度からみても「こうだ」と信じられるまで、疑いと観察と判断を繰り返して納得するまでの実践的訓練をどれほどやっているか、ということが問われるのだという。
そして、思考の体系づけを生むのが「現場」である。

西澤氏は、20代のこと、人が1回ですませる実験を、10回はやったという。
そして、観察力と判断力をフルに働かせようとして、頭をいじめ抜いた。
西澤氏は、「頭がよい」には、「頭の回転がはやい」という側面以外に、「頭が強い」という側面がある、という藤田尚明氏の指摘を引き、自分は頭がいいほうではないので、せめて強くなりたいと願ったそうである。
そして、「頭をいじめ抜いた」ことによって、頭が強くなり、いくつもの発見や発明をすることができ、人から評価されるような業績を上げることができたのではないか、と書いている。
アスリートが体を鍛えて筋力をつけるように、頭を鍛えたということである。

「発想法」や「能力開発法」などは、便宜的に、若い研究者を指導するときに、使う。
通俗的なところから入った方が分かりやすい場合があり、そのテクニックの1つとして、ということである。
そういうものと位置づけているから、遠慮がちにさわりだけ使う、という。
つまり、ほとんどの部分は「使えない」ということだろう。

「発想法」や「能力開発法」のなかで、1つだけ双手を挙げて賛成する点があるという。
それは「問題意識を持て」という項目である。
「問題意識」を持たなければ、なにごとも始まらない。
西澤氏は、「問題意識を持つ」を、「すべての事象をまず疑い、裏を取れ、確認しろ」というように表現する。
つまりは懐疑主義である。

「問題意識を持て」と強調しなければならないということは、通説や俗説がはびこっているということである。
自然科学の分野では、定説を金科玉条とする態度が、独創の手足をもぎとってしまっている。
西澤氏が実験をすると、これまでにない変わった現象が次々と現れてくる、という。
他の人が同じように調べても、現れないらしい。
それは、現れないのではなく、「見れども見えず」だと西澤氏はいう。
ささいな注意力の差なのだ、と。

私は、「問題意識」というと、「和歌山カレー殺人事件」の問題点を、当時はさほど当たり前ではなかったインターネットを駆使して追求した三好万季さんの『四人はなぜ死んだのか』文春文庫(0106)に、「付録」として収載されている『シめショめ問題にハマる』を思い浮かべる。
これは万季さんが中学2年の夏休みの国語の宿題として提出したレポートで、「ハジメマシテ」の表記は、「始めまして」が正しいのか「初めまして」が正しいのかを調査したものである。
「シめショめ」とは「始め初め」の意味である。
万季さんが、お父さんのワープロを使って文章を書いてとき、「HAJIMEMASHITE」と入力して変換キーを押したところ、「始めまして」と変換された。

この変換に違和感を持ったことが調査のきっかけだった。
「問題意識」というのは、ある事柄をオカシイと思ったり、変だと感じたりすることがきっかけになるのではないだろうか。
つまり、それはかなり感性に依存するのではないかと思う。

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2009年10月 8日 (木)

光ファイバーの発明と特許問題

西澤潤一氏が東北大学に入学したのは、昭和20(1945)年4月のことで、その年に、西澤氏の父上が東北大学の工学部長に就任されたということである。
西澤潤一『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)

西澤氏は当初数学を専攻しようと考えていたが、父上の「成績の良くない者が理学部に行ってもつぶしがきかないから、工学部へ進め」という言葉に従い、工学部電気工学科に入学した。
工学部に入った西澤氏に大きな影響を与えた言葉があった。

私が小学校の時に,親父も東北大学工学部でしたので,机の上に工学部で出しております親睦雑誌が転がっていました。ひょいと見たら,うちに時々お見えになって,その後九州にお帰りになった前田孝矩先生のお書きになった文章が出ておりました。
その題目が「工とは何か」というのです。読んでみますと,「工」の上の横一本棒は天が人間に与えてくれた自然および自然現象である。下の横一本棒は地の上の社会と人を表す。つまり,われわれ工学者というのは,天が与えてくれた自然とか自然現象を十分に活用して,地の上の人と社会に幸せをもたらすべきであるということが書いてありました。他のことはみな忘れても,これだけは覚えていたわけですが,たまたま私が学士院賞を頂戴した折,私の直接の指導教官ではなかったのですが,松平先生という方がお祝いに来てくださいまして,「西澤の仕事は工業の工の字をまさに具体的にしたような仕事だ」と言われたのが大変うれしゅうございました。

西澤氏は、“工”の精神を、「森羅万象のなかから社会が必要とするものを組み立て、つくりだし、役立てていくことが私たちの仕事なのだ。それが社会に対する責務でもある。」(上掲書)と表現している。
独創技術とは、社会が必要とするものを創造するもので、真に社会が必要とし、社会をよくしていくものでなければ独創技術とは呼べない、という信念である。

上掲書には、今年のノーベル物理学賞授賞対象となった光ファイバーについての、西澤氏に係わるエピソードが載っている。
西澤氏は、ガラス繊維の中心部から周辺部へいくにつれて、徐々に屈折率が小さくなるようにすれば、光が全反射の理屈で中心部に集束されるような形で遠くまで届くだろうと考え、内部に屈折率分布をもった集束型グラスファイバーを、光伝送線路として特許出願した。
昭和39(1964)年11月12日と日付が明記されている。

この特許出願に対して、特許庁は、「書式が整っていない、明細が不備だ」などの理由で却下し書類を戻してきた。
申請しなおしてもまた却下される。
さらに書類を整えなおして申請して、やっと公告になったら、異議申し立てがある。
ベル研究所の特許に書いてあるというのであるが、アメリカの原本を取り寄せてみると、書いてない。
それでも却下ということで、二十数回も繰り返したという。

拒絶査定ということで、審判に持ち込むと、地方裁判所は門前払いである。
高等裁判所の判断を仰ぐと、原審差し戻しとなった。
すなわち、特許庁の却下理由は妥当ではないという判断が示されたわけであるが、特許庁はふたたび拒否の姿勢をとった。
そして、昭和59(1984)年暮れに期限切れを迎え、光ファイバーに関する西澤氏の特許はお蔵入りということになってしまった。

一方で、昭和43(1968)年には、日本板硝子と日本電気の共同開発になる集束型グラスファイバーが、繊維部門で特許として認められたという報道があった。
特許庁の判断は、西澤氏の出願は「不均一な光学材料」という表現であり、「ガラスは均一な光学材料だから」という理由で拒絶し、「ガラス繊維」はガラスではなく繊維だからOKだということらしい。
理由にもならない理由というのが西澤氏の言い分である。
言い換えれば、発明の本質的な評価基準である「新規性と進歩性」においてではなく、表現上の問題で拒絶されたということになる。
2007年10月23日 (火):選句の基準…③新規性と進歩性

なおかつ、アメリカでは、コーニング・グラス・ワークスという会社が昭和45(1965)年にクラッド(周辺)型グラスファイバーの開発に成功し、全世界的に光通信の研究開発になだれ込んでいくという状況になる。
そして、光ファイバーの特許をめぐって、日本企業を震撼させる事件が、1987年に起きる。
コーニング社が、住友電工USAを相手に争っていた特許侵害訴訟で、住友電工側が全面敗訴の判決が下りたのである。
住友電工は、コーニング社に対し和解金約33億円を払い、アメリカからの撤退を余儀なくされた。

光ファイバー技術について、高橋啓三という人のサイトでは、以下のように解説されている。
http://homepage2.nifty.com/tkeizo/book120925-j.html

一人は、のちに東北大学総長を務め、「光ファイバの生みの親」とも呼ばれる西澤潤一だ。昭和三十九年(一九六四年)、当時、東北大学電気通信研究所の教授であった西澤は、断続した光の符号によって通信をおこなうための収集性光ファイバの開発に成功し、特許を申請し  た。これは、光ファイバによって大容量の光通信が可能であることを世界ではじめてあきらかにした、まさに大発明であった。しかし、特許申請の手続き上の不備から、西澤の特許は認められなかった。もう一人は、のちに香港中文大学学長を務め、「光ファイバの育ての親」とも呼ばれる、中国人のチャールズ・カオ(Charls Kao)である。
スタンダード通信ケーブル社の主任研究員であったカオは、ガラスに含まれる重金属類を取り除くとガラスにおける光の吸収損失が少なくなることを発見した。これは、光ファバーの実用化の鍵であった。低損失の材料開発を可能にした点で、画期的だ。カオはそn研究成果を、アメリカ電気電子技術者協会(IEEE)の学会誌一九九六年七月号に発表。『光表面伝送電体ファイバ』と題する論文で、低損失の光ファイバの製造法を報告した。さらに論文の結び手、屈折率の高いコアと屈折率の低いクラッドという、今日の光ファイバの構造を提案している。

つまり、今年のノーベル賞は、「生みの親」には与えられず、「育ての親」に与えられた、ということである。

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2009年10月 7日 (水)

今年のノーベル物理学賞と西澤潤一氏の研究

今年のノーベル物理学賞は、光ファイバーによる情報通信への貢献を評価された元香港中文大学長のチャールズ・カオ博士と電荷結合素子(CCD)センサーの発明を評価されたウィラード・ボイル博士、ジョージ・スミス博士の3人が受賞した。
日本人として気になるところは、「光通信の父」と呼ばれ、国際的にも高い評価を得てきた西澤潤一元東北大学長に賞が与えられなかったことである。
西澤氏が所長を務めていた東北大学電気通信研究所の矢野雅文所長は、「カオ博士より西澤先生の方が早く業績を上げ、国際的にも認められている。選考委員会の評価の仕方が違うのだろうか。残念の一言に尽きる」と、選考結果にいささか不満気である。
しかし、当の西澤氏は、「基本的なことは我々が成し遂げた。(カオ博士に)おめでとうと言いたい」とさほどのこだわりは感じられない。
http://mainichi.jp/select/science/news/20091007ddm003040084000c.html

私なども、「光ファイバーといえば西澤」というように条件反射的に捉えていたので、光ファイバーが授賞対象になるのであれば、西澤氏を外すことについてはいささか疑問を持つ。
西澤氏自身も、ノーベル賞に対する思い入れはあったはずである
以下、『独創は闘いにあり』プレジデント社(8603)の「プロローグ」からの引用である。

そんな気持ちを文化功労者顕彰にこめて、各マスコミのインタビューに答えていた最中のことであった。東京の某新聞社から「先生、ノーベル賞に決まりそうですよ」という電話が飛び込んできた。
「まさか」と思い、文化功労者顕彰の間違いじゃないですか、と応じたのだが、「そんなことはありません。ノーベル賞です」と、電話口からは、力強い記者の声が返ってくる。
いずれにせよ私は文化功労者の栄誉に浴することになった。が、ノーベル賞についてはその後は沙汰やみのままである。
それはそれとして、受話器を通して「ノーベル賞」という言葉を耳にしたとき、奇妙に冷静だったことを覚えている。驚天動地、青天の霹靂だったかというと、それがそうでもなかったのだ。

上記の引用は、要するに「ノーベル賞」にも違和感はない、という自信の表明である。
しかし、西澤氏がノーベル賞の候補になったという噂が流れたとき、陰湿な批判めいた話が伝わってきた、とも書いている。
「候補にもなっていないのに、自分の業績をことさら吹聴している」……
しかし、西澤氏は、一度でも名利のために研究に励んだり、してやったりと勲章を手にしたりということはない、と言う。

上記のように、西澤氏は「光通信の父」と呼ばれている。
「光通信」について、上掲書から、西澤氏自身の解説を引用すれば以下のようである。

「光通信」は、簡単にいえば情報の発信側で電気信号を光信号に変え、その信号を伝送路を通して送り、これを受け取った受信側で光信号を再び電気信号に換えて判読し、情報の伝達・交換を行なう通信システムである。電話その他、従来の電流、電波によって情報を送る通信手段に比べ、きわめて周波数の高い“光”という電磁波に乗せると情報の伝送内容が桁違いに増えるので、夢の通信システムと呼ばれて嘱望されてきたものである。
技術的には、この通信システムの発信側で「電気→光」という交換を可能とする発信装置、その光信号を送る伝送媒体、そして受信側で「光→電気」の変換をする受信装置の、三つの要素が必要不可欠となってくる。
その光通信の三要素すべてについて、私が基本的な発明をする機会にめぐりあわせた。

西澤氏は、上記のように自他ともに認める「光通信の父」であるが、自分自身としては、半導体づくりのための結晶化技術により長く深く係わってきたという思いがあるようである。
西澤氏の最初の特許取得は、昭和25(1950)年のPinダイオードだという。
このダイオードを実現するために、半導体結晶を徹底して研究した。

半導体は文字通り導体と絶縁体の中間的な性質を有するもので、電子回路の中で「整流作用」や「検波作用」などの機能を持つ。
最近は化合物半導体が主流で、高純度のシリコンに、砒素、燐、インジウム、ガリウムなどの元素を混合して、所要の特性をもった半導体材料をつくる。
LED(発光ダイオード)もその1ジャンルである。
ガリウムや砒素などの元素を組み合わせて作った化合物半導体が、発光しやすい性質を持っていることを利用したもので、最近では照明用として省エネへの貢献が期待されている。

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2009年10月 6日 (火)

血脈(5)中川昭一元財務相の死

私は、自分が早く父を亡くしたことも関係があるのかも知れないが、父と子の不思議な因縁に関心を覚え、そのことについて何回か触れてきた。
2007年12月 7日 (金):血脈…①江国滋-香織
2007年12月 8日 (土):血脈…②水上勉-窪島誠一郎
2007年12月23日 (日):血脈…③万世一系
2007年12月31日 (月):血脈…④日亜化学異聞

中川昭一元財務相の訃報を耳にしたとき、瞬間的に「自殺ではないのか?」という思いが頭を掠めた。
父親の中川一郎氏との連想である。
「そんなことはあるまい」と思い直したが、睡眠薬を常用していたということでもあり、何らかの薬理的な作用が影響した可能性がある。
とすれば、緩慢なる自殺ということになるのかも知れない。

中川氏といえば、今年2月のG7閉会後の朦朧とした記者会見の様子が記憶に新しい。
2009年2月16日 (月):中川財務相の醜態と歴史的に低い内閣支持率
明らかに酩酊していると思われる状態で記者会見に臨んだことで多くの人の顰蹙を買った。
結果的に財務相を辞任することになったが、当然のことだったと思う。
そういうことの延長上でもあるのだろうが、先の総選挙では落選の憂き目をみた。
「ただの人」に戻ったのだが、一部では「自民党再生」を担うべき人物と目されていたようである。

それにしても、なぜそんな状態で記者会見に臨んだのか?
周囲は、酩酊状態を承知で止めなかったわけで、それは、この人の足を引っ張る策動だというような見方もあったらしい。
積極的に足を引っ張るということではなくても、見て見ぬフリをして、自業自得を待ったということはあり得る。
しかし、そういうようなあれやこれやは、所詮証明のしようがないことである。

昭一氏は、不眠がちで、医師から睡眠薬を処方してもらっていたという。
睡眠薬とアルコールが複合すると、効果が強まるという。
朦朧記者会見のときも、睡眠薬を通常よりも多量に服用していたと弁明していた。

しかし、そもそも、その不眠の理由は何なのか?
父親の一郎氏は、「北海のヒグマ」と呼ばれ、たくましいイメージの人だった。
昭和58(1983)年1月9日早朝、宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを夫人の貞子さんが発見した。
当初、死因は「急性心筋梗塞」ということだったが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発表された。
死因には不審な点が多く、いまでも「他殺か自殺」か論議が分かれている。
さらに、死亡してから僅か2日後に荼毘に付されており、遺体の検証も十分でなかったと指摘する声もあった。
一般に、大物政治家であれば遺族は党との相談で葬儀をする。
そのため、死亡してから数日間はそのままの状態で置かれる場合が多いが、一郎氏の場合、あまりにも荼毘に付すのが早いように思われた。
また、一郎氏は遺書らしいものは何も残していなかった。
自殺する場合、通常では考えられないことである。

不審な点はあるにしても、一郎氏は、自死したということだろう。
とすれば、豪放磊落そうな表の顔の裏に、相当に繊細な精神があったとも考えられる。
一郎氏は、大正14(1925)年北海道に生まれた。
十勝農業学校、宇都宮高等農林、九州帝国大学農学部で学び、父の願いに沿う形で北海道庁で役人生活を始めるが、酒の飲みっぷりがいいということで、北海道開発庁長官だった大野伴睦の秘書となる。

昭和38(1963)年に北海道5区から出馬して初当選。
昭和48(1973)年に故・渡辺美智雄、石原慎太郎(現東京都知事)らと「青嵐会」を結成し、昭和54(1979)年に中川派を旗揚げした。
死の前年の昭和57(1982)年に、自民党総裁選に出馬するが落選。
この頃から思い悩み、衰弱していったといわれる。
享年57歳だった。

昭一氏は、一郎氏のDNAを継承していたであろう。
それは、保守理念の政治家という面もそうであっただろうが、決定的なのは飲酒癖であろう。
なぜ、クセが悪いと言われるまでに飲むのか?
おそらくは、メンタル面での弱さに起因するのだろう。
こういう人がプレッシャーを受けると、酒が格好の逃避の材料になる。
私自身もそういう傾向があるからよく分かるが、酒を飲んで解決するのは一時的に案件を忘れることができるだけで、問題が解決するわけではない。
にもかかわらず、酒を飲んで忘れてしまいたい、と思うことがあることも事実だ。

昭一氏も、おそらくは一郎氏に似て、繊細な精神の持ち主だったのだろう。
結局、プレッシャーからの解放を求めて、酒を飲まずにいられない。
それが、彼の政治生命だけでなく、身体的な生命をも奪ったということではないだろうか。
とすれば、政治家に向いていたとは言えないのかも知れない。
今後新たな事実が知らされることになるかも知れないが、既にこの世にいない人である。
56歳だった。奇しくも父とほぼ同年である。
今は静かに冥福を祈ることにしたい。

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2009年10月 5日 (月)

近江遷都に関する吉田舜説

大伴家持にも、畝火の橿原を歌った歌がある。
2008年7月 6日 (日):家持の族(ヤカラ)に諭す歌

  族(ヤカラ)に諭す歌一首並に短歌
ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし 眞鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の 丈夫武雄を 先に立て 靭取り負せ 山川を 磐根さくみて ふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従はぬ 人をも和し 掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方に 極め尽して 仕へ来る 祖の職t 言立てて 授け給へる 子孫の いやつぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜しき 清きその名ぞ 凡ろかに 心思ひて 虚言も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 丈夫の伴  (20-4465)

城島の倭の國に明らけき名に負ふ伴の緒こころ努めよ  (20-4466)

剣刀(ツルギタチ)いよよ研ぐべし古(イニシヘ)ゆ清(サヤ)けく負ひて来にしその名ぞ  (20-4467)

  右は、淡海眞人三船の讒(ヨコ)し言すことに縁りて、出雲守大伴古慈悲宿禰任を解かえき。ここを以ちて家持この歌を作れり。

この歌では、「橿原の 畝傍の宮に」になっている。
吉田舜『
書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)において、以下の指摘がある。
『日本書紀』に記されている神武天皇の都所は、次のように表現されている。
(ⅰ)夫れ畝傍山の東南の橿原の地
(ⅱ)畝傍の橿原に宮柱底磐の根に太立てて

家持の歌は天平勝宝8(756)年に詠まれたものである。
『古事記』の献上が和銅5(712)年であり、『日本書紀』の奏上が養老4(720)年とされている。
つまり、家持の歌は『古事記』の献上から44年、『日本書紀』の奏上から36年後に作られた。
にもかかわらず、「橿原の畝傍の宮」と、地名が逆になっている。
このことは、家持が『日本書紀』の記事を記憶していなかったことを示している。

一方、記紀の成立以前に詠まれた柿本人麻呂の歌の表記は、記紀と全く等しい。
これをどう考えるか?

家持は、記紀には通じていなくても、柿本人麻呂の歌には通じていた可能性がある。
とすれば、家持の時代には、人麻呂の歌の地名は、畝火山の橿原と記されていなかったのではないか?

吉田氏は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」に見られる不自然さを解決する解として、以下を提示している。

人麿は天智天皇が九州王朝の兄天大王の王権を簒奪したのち、北九州を去り、初めて筑紫からはるばる天離る夷の地であった近江の大津に遷都したことを詠んだと考えられる。
ここには畝火山の橿原ではなく、倭の磐余宮と歌われていたと考えられる。

つまり、吉田氏は、人麻呂の歌は、記紀成立後に改竄されたのだというのである。
にわかには信じ難い説ではあるが、日本古代史の霧を透視する1つの見方とも考えられる。

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2009年10月 4日 (日)

「畝火の橿原」について

吉田舜『書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の冒頭部分にも疑問を提起している。

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし…… 

この歌が詠まれたのは、持統3(689)年ごろと推測されている。
『古事記』が献上されたのは和銅5(712)年とされているから、人麻呂は、その20年以上も前に、神武記の畝火山の橿原を歌っている。
人麻呂の人生には不明な部分が多いが、吉田氏は、次のように要約している。

人麿は持統三年(六八九)、日並皇子の殯宮挽歌を献呈した頃から、大宝元年(七○一)の新田部皇子への献呈歌までの十数年、大和で生活し、その後筑紫・讃岐を経て石見国に至り、和銅二年(七○九)頃、その生涯を終えていることがわかる。

つまり、人麻呂は、『古事記』の成立を知らなかった。
神武天皇の和風諡号には、倭・磐余という地名が含まれている。
その皇居の地は、畝火橿原宮とされている。
地名を含む和風諡号を持つ天皇は、表のようである。
Photo この表の和風諡号の中の地名は、すべて遷都の地あるいは宮の名前を示している。
神武天皇のみ、和風諡号の地名と宮の名前が異なっている。

吉田氏は、九州王朝論者であり(ただし、古田武彦氏の多元説に対し、九州王朝一元説)、神武東征説話は、北九州平定説話を大和平定説話に造作したもので、神武天皇の和風諡号に刻まれている磐余の地は、九州王朝の創立者神武天皇が北九州を平定し、皇居をここに定めて即位した地であるとしている。
磐余の地名について、神武東征条から、次の記述を引用して自説を説く。

夫れ磐余の地の旧の名は片居、亦は片立と曰ふ。我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。

吉田氏は、奈良県と北九州の磐余の地名について比較する。
奈良県の磐余は、「奈良県桜井市阿部付近の古地名」と説明されている。
しかしながら、阿部付近には、片居、片立という地名は見当たらない。

一方、北九州には福岡県の三輪町、小郡市付近に、片居、片立に類似した地名がたくさんある。
片-干潟・屋形原・平方・姫方・萱片
立-花立・立石・西太刀洗
井-井上・大坂井、依井

三輪町を中心に、周辺には岩、石を含む地名がたくさんある。
筑穂朝-黒岩・砥石山、筑紫野市-大石・岩本、夜須町-石櫃・黒岩、甘木-日向石・十石山・石成、小郡市-立石・下岩田、鳥栖市-立石、久留米市-大石町、北野町-石崎、杷木町-石動・乙石、田主丸町-明石田・石垣、小石原村-小石原・白石山

磐余は、万葉集には石村と記されている。
つまり、三輪を中心とした石を含む地名の中心的な存在が磐余であったのではないか。

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2009年10月 3日 (土)

近江は「天ざかる夷」なのか?

前掲の林田正男『「天ざかる夷歌」攷』には、「ヒナ」の用例を、万葉集から抽出した表がある。
Photo アンダーラインを付した2例が「ひな」、「 」の2例が「ひなざかる」、※の付いている1例が「あまさがる」、( )は同一歌と異伝である。
上記以外の22例はすべて「あまざかる」という枕詞を冠している。

万葉集における「天ざかる夷」の最も古い使用例は、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」の題詞の付された歌である。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感
2009年10月 1日 (木):「同じ」と「違う」(6)枕詞と被枕詞(その3)

……天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に……

この部分に大きな疑問を呈した人がいる。
吉田舜『書紀漢籍利用の推計学的研究』葦書房(9707)である。
吉田氏の問題提起は、「近江の大津は、日本書紀によれば、景行天皇の晩年から仲哀天皇までの皇居の所在地で、孝徳紀の詔においては、畿内に定められているにもかかわらず、「天離る夷」と歌われているのは不自然ではないか」ということである。

吉田氏は、『日本書紀』における近江の記事を抽出し、以下のような結論を導出している。
(ⅰ)景行、成務、仲哀天皇は、近江の大津を皇居としている。
(ⅱ)応神天皇は近江に行幸し莬道野で歌を詠んでいる。
(ⅲ)顕宗、仁賢天皇の父であった市辺押磐命は、近江の来田綿の蚊屋野で、狩猟にことよせて、雄略天皇から謀殺されたので、両天皇は置目と共に父の遺骸を、来田綿の蚊屋野に求めている。
(ⅳ)孝徳天皇は近江の大津までを畿内に定めている。
(ⅴ)斉明天皇は近江の平浦に行幸している。
吉田氏は、これらの記述が示していることは、大和と近江の関係は非常に密接であり、「天離る夷」という表現は、『日本書紀』に記述されている現実と遊離した、全く不適切な言葉であることがわかる、としている。

次に、吉田氏は、万葉集における「天離る夷」の歌を分析する。
そして、万葉集における「天離る夷」とは、石見、筑前、対馬島、越前、越中等、文字通り大和から遠く離れた辺鄙な地をさしており、大和から目と鼻の先である近江の大津が、「天離る夷」とはどう考えても不適切な表現である、とする。

つまり、『日本書紀』の記録が正しいとすれば、人麻呂の「天離る夷」の表現は余りにも不自然であり、人麻呂の歌の表現が正しいとすると、『日本書紀』の記録が全く信用できないということになる。
この矛盾をどう解決するか?

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2009年10月 2日 (金)

「天ざかる」という枕詞

「天ざかる」という枕詞がある。
「天ざかる夷」というように、「夷」に係る。
藤村由加『人麻呂の暗号』新潮社(8901)では、以下のように説明している。

天は中央や都を指し、そこから離れた意味で“ひな”(ひなびた田舎)に係るという説や、天の遠く隔ったところに日があるから、同音の「ひな」に係るという説や、天のように離れているから、というような説がある。
しかし、未詳というのが定説といっていい。

表記的には、万葉前期においては、「天離夷」がほとんどである。
「離」を中に挟んで、「天」と「夷」が対照に位置する。
意味的にも、「天」は高い意味を持ち、「夷」は低いことを示す。

漢字には、ひとつの字が正反対の意味を持つものがある。
「二」は、「ふたつのものがくっつく」という意味と、「ふたつに分かれる」という意味をあわせ持つ。
「乱」は、「みだれる」と「治める」、「副」は、「ぴたりと寄り添う」と「別々に分かれる」というように、逆の意味をひとつの漢字が持っている。
もちろん、正反対というのは無関係ということではない。
むしろ、正反対とはあい補っているものと考えられる。
「枕詞=被枕詞」のイコールの範疇の1つと考えることができる。

「離」という字は、离(大蛇)と隹(とり)というまったく正反対なものを並べることによって、「くっつく」という意味と「分かれる」という正反対の意味を表わしている。
「天離夷」は、正反対の意味を持つ漢字を並べているわけである。
「離」を中心に、正反対の漢字を並べることによって、「天離 夷」という枕詞は、「別々に分かれる」という意味を表していると解することができる、というのが藤村さんの解説である。

この「天ざかる夷」という用法について詳しく検討している論文がある。
林田正男『「天ざかる夷歌」攷』である。
http://nels.nii.ac.jp/els/110000054957.pdf?id=ART0000394035&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1254440964&cp=

林田氏は、冒頭部分で、万葉集の筑紫に関する歌には、「天ざかる夷」「大君の遠の朝廷」「「しらぬひ筑紫」などの詞句を伴うものがあり、これらの表現が筑紫に関係する歌の性格、本質、風土的関連性などに重要な関係を持っている、としている。
そして、先人の考察を概観している。

先ず、高木市之助氏は、「ひな」と「みやこ」が対比的に捉えられることによって、風土的文芸世界を形成している、とした。
中西進氏は、観念的な「ひな」が中央貴族の自意識の中に誕生し、末期万葉の中央官人たちが、選民意識によって都に対比させた、とした。
益田勝美氏は、大伴旅人を「鄙の放たれた貴族」と規定し、彼が都を恋うる望郷の念は、都鄙の差別感を契機としている、として貴族独自の心情の歴史を跡づけた。
石井庄司氏は、「夷」という語は、とくに「天離る」というときには、はっきりと都を本体として、その出先としての「夷」ということになるとして、万葉集における「鄙」と「都」の文学は、「素朴文学」と「情感文学」に比することができる、とした。
戸谷高明氏は、「天離る」は、古今集後選集にはみられないことから、書紀歌謡にはじまり、万葉歌で開花し、終息した表現だった、とした。

これらの論考に共通するのは、「天離る夷」という表現の基盤に、「都」と「夷」を対比的に捉える意識があった、ということである。

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2009年10月 1日 (木)

枕詞と被枕詞(その3)/「同じ」と「違う」(12)

藤村由加『人麻呂の暗号』新潮社(8901)に、『万葉集』の代表的歌人別の枕詞使用状況調査結果の表が掲載されている。
2 用いられている枕詞の種類数をみると、柿本人麻呂が圧倒的に多い。
柿本人麻呂の出自や人生については謎が多いが、藤村さんたちが言うように、枕詞が中国、朝鮮、日本の言語の関連で形成されたものとすれば、柿本人麻呂は、まさにそういう言語状況の中で、際立った才能の持ち主だった、ということになる。

柿本人麻呂の有名な近江荒都歌を見てみよう(日本古典文学大系、岩波書店(5705)。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感

   近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌  (万葉集1-29)

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

「玉襷」「天にみつ」「あをによし」「天離る」「石走る」「楽浪の」「ももしきの」と、枕詞のオンパレードといった観がある。
冒頭の「玉襷」について、上掲書に解説がある。
「玉襷」は、「畝」や「畝火」あるいは「懸ける」に係る枕詞である。
しかし、どうしてか?
玉ダスキに当てられている漢字を抜き出すと、「玉手次・玉田次・珠手次」がある。
しかし、「手次」「田次」がどうしてタスキになるのか?
玉ダスキが係る「畝」と「懸」にはどういう共通性があるのか?
藤村さんたちは『説文解字』を参照してみた。
次のような辞典である(Wikipedia(最終更新 2009年9月30日 (水))。

説文解字せつもんかいじ ピンイン:Shuōwén Jiězì)は、最古の部首別漢字字典。略して説文ともいう。
後漢の許慎(きょしん)の作で和帝のとき(紀元100年/永元12)に成立。叙1篇、本文14篇。所載の小篆の見出し字9353字、重文1163字。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを「象形・指事・会意・形声・転注・仮借」の6種(六書;りくしょ)に分けて解説し、字の本義を記す。
部首の立て方は造字の理論に従っているが、陰陽五行の理念に基づく面が強く、現今の漢字字典における形状を主体とした部首の立て方とは幾分様相が異なる。成立の当時、甲骨文字が知られていなかったため、漢字の本義を俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、19世紀に至るまで漢字研究の「聖典」的地位を占め、その説は絶対視されてきた。新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。

そして、「挂は縣なり」「五十畝を畦となす」という言葉を見つける。
縣と挂、畝と畦が同意であるということであり、共に「圭」という字を含んでいる。
「圭」は、天子が諸侯に領土を授けた印として持たせた玉器のことだという。
「枕詞=被枕詞」のルールを援用すると、「玉手次」「玉田次」と挂・畦の間に次のような関係があることが分かってくる。
2_2 つまり、「挂」と「畦」の字形を分解したものが、「玉手次」「玉田次」ということである。

「枕詞=被枕詞」という基本的なルールは、漢字の同音・同義の関係に基づいているわけである。
藤村さんたちは、さらに枕詞に関する探究を深め『枕詞千年の謎』新潮社 (9208)(後に『枕詞の暗号』と改題して新潮文庫化)を上梓している。
その締め括りの部分が枕詞に関する総括になっている。

国語の修辞の一つとして、記紀、特に万葉集において、最も多彩に生き生きと用いられた枕詞ではあったが、その多くがいつの頃からか語義不詳となっていった。易が非科学的な迷信として、排斥されていったことと決して無縁ではなかっただろう。人々の中から易の意味が消滅していったとき、枕詞もまたおのずとその意味を失っていったのである。
今、呪的のひと言で片付けられている枕詞も、最も呪的な存在ともいえる神代紀の神々の姿も、易本来の思想の奥行のなかに、その姿を復元できるにちがいない。
枕詞の旅の終わりは、神々の物語への旅の始まりになりそうである。

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