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2009年10月17日 (土)

天明3年、蕪村死す

浅間山が大噴火した天明3(1783)年も押し詰まった12月25日、与謝蕪村が往生を遂げた。
68歳だった。
蕪村の名前は、小学生でも知っている。

菜の花や月は東に日は西に

多くの人の口に膾炙してきた句だろう。
小西甚一『俳句の世界―発生から現代まで』講談社学術文庫(9501)の鑑賞をみてみよう。

題「三月二十三日即興」。即興とあるごとく、眼前の景をよんだもので、べつに難しい表現ではない。この発句に対する脇が、樗良の「山もと遠く鷺かすみゆく」なので、ひろびろとした大景であることは明らかだが、その平原にいちめん咲きわたる菜の花が、暮れてゆく微光に包まれたところは想像しても美しい限りではないか。いったい、黄色は、ぱっとした原色で、派手だけれど、深みに乏しい。女性がたがドレスにでもなさるのでしたら、自分の顔だちをよく考慮してからのほうが安全ですよ。しかし、暮光のなかに浮ぶ黄色は陰影もあり華やかさもあった、微妙な色彩感覚である。この句の焦点は、そこに在る。「月は東に日は西に」がちょっとした意外性をもち、しゃれた表現だ--など感心する人は、月竝派的な持ち主だと判断してよろしい。

小学生でも知っている有名句ではあるが、本当に理解しようとするとなかなか難しい。
高橋治『蕪村春秋』朝日新聞社(9809)の冒頭に、次のような文章がある。

のっけに乱暴なことをいうようだが、世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人と、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人とである。
明治三十年、正岡子規は蕪村を研究し論述する仕事を始め、かなり思いきったことをいった。それらの中に大意次のようなものがある。“蕪村は長い年月忘れられていたが、その句は芭蕉に肩を並べ時には芭蕉をしのいでいる”それが脚光を浴びずに終わったのは、句が低俗に堕していないのと、蕪村以後の俳人が無学だったせいである”子規も蕪村に出会って蕪村に狂った一人だったのだ。

蕪村に狂うという境地は残念ながらよくわからない。
つまり、私は、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人の1人ということになるのだろう。
子規は、ほとんど最上級の蕪村評価であるが、小西・上掲書は、もう少し醒めた評価を下している。
小西氏は、江戸の俳壇が芭蕉によって最盛期を迎えたあと、享保期には俳壇が衰退ないし堕落した、としている。
この現象を、唐代の詩が、杜甫によって完成境を示した後、中唐期には杜甫を越えられなかったこととそっくりだとしている。
しかし、中唐期詩壇は、享保俳壇ほど堕落しなかったし、晩唐期には、繊細な美しさに充ちた詩が作られたという。
この晩唐期に似て、天明の頃、俳壇は中興したとする。
小西氏は、蕪村を次のように評価する。

天明諸家のうちで、いちばん偉いのは、もちろん輿謝蕪村である。もっとも、これは、われわれの時代からいってのことで、子規以前は、それほど偉い俳人だと認められたのはない。蕪村の生存当時では、むしろ大島蓼太などの方が、世間的にはずっと有名であった。しかし、子規がたいへん蕪村を持ちあgて、芭蕉以上だとまで相場が上昇させられ、近代俳句、とくに「ホトトギス」系統の人たちにとっては、その源流であるかのごとく尊敬されもした。これらの評価は、どれも絶対的に正しいわけではない。蕪村が蓼太とは比較になりにくいほと偉い作家であることは、動かせないけれど、芭蕉以上に偉いと格づけすることも行き過ぎである。結局、蕪村は、天明俳壇の最高作家だが、芭蕉にくらべてはいくらか見劣りがするといった程度に落ちつくのではないか。

まあ、俳句そのものの評価に客観的な基準があるわけではなく、私が素晴らしいと思う句も、ある人からすれば酷評の対象である。
だから、偉いとか格が上だとか、見劣りがする、などということも、全く主観の問題に過ぎないと思う。
もちろん、狂うという現象も、主観の産物であろう。

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