蒲生野の相聞歌の解釈-斎藤茂吉と大岡信
額田王と大海人皇子の歌のやりとりをどう解釈するか?
博学多識にして読み巧者である丸谷才一氏と山崎正和氏の対談『日本史を読む (中公文庫)』(0101-元版は、中央公論社(9805))の冒頭で、丸谷氏がこの歌を取り上げて、次のように言っている。
私はこれを中学生のころ、1938(昭和13)年、岩波新書がはじまったばかりのとき斎藤茂吉の『万葉秀歌』で読んで、どうも状況がつかめなくて弱った。茂吉は、はっきりとではありませんが、「対詠的」などと評して、遊猟中に野原においての二人のやりとりのようにとらえているみたいでした。どうも、実景を歌った真摯な恋歌と思い込んでいる。私が困ったのは、第一に、衆人環視のなかで袖を振ったりしては危険である。秘密の恋にならない。第二に、遠くにいる相手に歌で語りかけるなんてメガフォンでも使うのか(笑)。あるいは、使いに手紙を持たせるか、それとも口述してその者に届けさせるのか。それで後年、私は、これはその夜、密室で二人きりになって親しくしているとき、日中の二人の情景を心に思い浮かべて、まるで屏風絵に添える屏風歌のように歌を詠んだのだ、と解釈して、ようやく心が落ち着いた記憶があります。
ところが最近、大岡信さんが『私の万葉集』のなかでこの二首を論じて、じつにいい解釈を示しているのですね。
これはハンティングが終わってからの夜の宴会の席で、二人がふざけて、即興で披露したざれ歌である、二人の昔の関係はみんなが知っているから、これで大いに盛り上がったろうというのです。この解釈を裏づけるものとして、二首が相聞(恋歌)の巻にではなく、雑歌(宮廷儀礼の歌)の巻に収められていることを指摘します。そして、ここが大事なところですが、冗談の背後に、昔の恋をしのぶ優しい思い、恋ごころと言っていいようなものがあったかもしれないと言い添える。じつにゆきとどいた鑑賞ぶりです。
丸谷氏は、続けて次のように解説を加えている。
茂吉はもちろん、近代の短歌界を代表する歌人である。
実作者の強みということもあるが、茂吉の解釈の影響力は大きかった。
茂吉は、正岡子規の直系の弟子で、子規は紀貫之を評価しなかった。
これに対して貫之を評価したのが大岡氏である。
茂吉は「アララギ」の大歌人であり、「アララギ」と対立して敗れ去ったのが「明星」。
「明星」の与謝野鉄幹の弟子の窪田空穂の弟子が大岡信氏のお父さん。
丸谷氏は、そういう歌学の伝統を下敷きにして、茂吉解釈と大岡解釈を対比させている。
茂吉の写生の強調すなわち十九世紀リアリズム寄りの文学論に対するに、大岡は二十世紀のシュルレアリスムに親しむことから出発した詩人です。茂吉の深刻好きの大まじめに対して、大岡は「宴と孤心」ということを提唱し、つまり宴遊性、社交性と孤独の両者が文学には大事だと説く立場です。茂吉はわが近代文学のロマンチックな個人主義に縛られていて、宮廷詩人柿本人麻呂を論じても共同体の詩人というところはうまくつかまえられなかった。
大岡はそのロマンチックな個人主義文学から脱出しようとしている。
まあ、この辺りは、浅学菲才の身としては、そうですか、と言うしかない。
丸谷氏によれば、茂吉のように、現地での歌のやりとりということではなく、宴会の席でのざれ歌という解釈は、池田彌三郎氏と山本健吉氏の『万葉百歌』において、ということであり、大岡氏はそれを受け継ぐ説である。
蒲生野遊猟の当時の額田王の年齢は不詳ではあるが、40歳前後というのが有力のようである。
とすれば、当時とすれば相当のオバサンだったのだろうから、生々しい恋歌ではないのかも知れないが、額田王の実相は謎だと考えるのが妥当だろうから、この歌の情景は読む人の想像力次第ということでいいのだろう。
私は、ざれ歌というよりも、もっとロマンチックで官能的な雰囲気を感じたいと思う立場である。
まあ、額田王を挟んでの天智と天武の関係が、壬申の乱の背景だというのは行き過ぎだとは考えるが。
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