蒲生野の相聞歌
白村江の戦い(663年)に敗れた中大兄皇子は、667年に、近江への遷都を断行する。
2009年8月29日 (土):白村江敗戦のもたらしたもの
この遷都について、『日本書紀』には、次のように書かれている(岩波文庫ワイド版(0311)。
(六年)三月の辛酉の朔己卯jに、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。
柿本人麻呂は、壬申の乱によって廃都となって荒れた古都を前に、近江遷都について疑義を呈しているようであるし、近江遷都をリアルタイムで体験した額田王も、大和への別れを断ち難い風情であった。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感
しかし、額田王も、近江遷都後は、また気分を新たにしたのだろう。
上記『日本書紀』には、次のような記述がある。
(七年)五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉くに従なり。
この際に作られたという額田王と大海人皇子の歌は、『万葉集』の中でも、とりわけ多くのファンに愛唱されている、と言っていいだろう。
天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る皇太子の答へましし御歌(明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇といふ)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも紀に曰はく、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野の縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆従そといへり。
縦猟というのは、「薬猟」のことだとされている。
つまり、男は鹿狩りをし、若い鹿の袋角〔若さをとりもどす薬とされていたらしい〕を取り、女は薬草摘みをすることだとされる。
ハイキングのようなイベントかというように思われるが、宮廷の重要人物がことごとく参加するというのだから、単なる遊びだったとも思われない。
この額田王と大海人皇子の歌のやりとりについては、実際に現地で詠まれたものなのかどうかを含めて、さまざまな解釈がある。
しかし、声調の優れていることから、多くの人が口に出してみたことだろう。
そして、蒲生野で行われた薬猟の様子に思いを馳せたのではなかろうか。
滋賀県全図(郷土資料事典25・人文社(9710)を見てみよう。
蒲生野は、現在でも、蒲生郡、蒲生町の名に引きつがれているし、八日市市、蒲生郡安土町に「蒲生野」の名が散在し、輪郭ははっきりしないが、この一帯であることは間違いない、とされる。
http://www.creategroup.co.jp/manyo/warera/gamou.html
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