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2009年9月22日 (火)

蒲生野の相聞歌

白村江の戦い(663年)に敗れた中大兄皇子は、667年に、近江への遷都を断行する。
2009年8月29日 (土):白村江敗戦のもたらしたもの
この遷都について、『日本書紀』には、次のように書かれている(岩波文庫ワイド版(0311)。

(六年)三月の辛酉の朔己卯jに、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。

柿本人麻呂は、壬申の乱によって廃都となって荒れた古都を前に、近江遷都について疑義を呈しているようであるし、近江遷都をリアルタイムで体験した額田王も、大和への別れを断ち難い風情であった。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感

しかし、額田王も、近江遷都後は、また気分を新たにしたのだろう。
上記『日本書紀』には、次のような記述がある。

(七年)五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉くに従なり。

この際に作られたという額田王と大海人皇子の歌は、『万葉集』の中でも、とりわけ多くのファンに愛唱されている、と言っていいだろう。

  天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

  皇太子の答へましし御歌(明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇といふ)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも

  紀に曰はく、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野の縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆従そといへり。

縦猟というのは、「薬猟」のことだとされている。
つまり、男は鹿狩りをし、若い鹿の袋角〔若さをとりもどす薬とされていたらしい〕を取り、女は薬草摘みをすることだとされる。
ハイキングのようなイベントかというように思われるが、宮廷の重要人物がことごとく参加するというのだから、単なる遊びだったとも思われない。

この額田王と大海人皇子の歌のやりとりについては、実際に現地で詠まれたものなのかどうかを含めて、さまざまな解釈がある。
しかし、声調の優れていることから、多くの人が口に出してみたことだろう。
そして、蒲生野で行われた薬猟の様子に思いを馳せたのではなかろうか。

滋賀県全図(郷土資料事典25・人文社(9710)を見てみよう。
蒲生野は、現在でも、蒲生郡、蒲生町の名に引きつがれているし、八日市市、蒲生郡安土町に「蒲生野」の名が散在し、輪郭ははっきりしないが、この一帯であることは間違いない、とされる。
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http://www.creategroup.co.jp/manyo/warera/gamou.html

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