沼津市で最古級の古墳を発掘(続)
沼津市の辻畑古墳は、前方後方墳である。
この型の古墳について、Wikipedia(2009年4月28日最終更新)は、次のように解説している。
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)とは、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。
東北・関東前方後円墳研究会編『東日本における古墳の出現―第9回東北・関東前方後円墳研究会研究大会《シンポジウム》東日本における古墳出現について開催記録 (考古学リーダー (4))』六一書房(0505)に、石野博信(徳島文理大学 教授・奈良県香芝市二上山博物館館長)氏が、次のような推薦の言葉を寄せている。
なぜ、古墳が生まれたのか?弥生時代・数百年間の日本列島は、方形墳が中心だった。それがあるとき円形墓に変わった。しかも、円形墓に突出部とか張出部とよんでいる“シッポ”が付いている。やがてそれが、ヤマト政権のシンボルとして全国に広まったのだという。それならば列島で最も古い突出部付き円形墓(前方後円墳ともいう)は、いつ、どこに現れたか?よく、ヤマトだというが、本当だろうか?東北・関東では、初期には突出部の付いた方形墓(前方後方墳ともいう)が中心で、地域によって円形墓が参入してくる。住み分け、入り乱れ、いろいろとありそうだ。本書では近畿だけでは分からない東北・関東の人々の方形墓(伝統派)と円形墓(革新派)の実態が地域ごとに整理されていてありがたい。その上、討論では最新の資料にもとづく新見解が次々と飛び出し、楽しい。討論から入り、ときとぎ講演と報告にもどる読み方もありそうだ。
古墳の年代は、出土する土器や埴輪の様式によって知ることができる。
上掲Wikipediaでは、次のような記載もある。
主に弥生時代後期末から前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始め古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)で前方後方墳がよく造られる。西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であったと捉えることができる。
……
1つの説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとするものがある。
大塚初重『「「古墳時代」の時間―大塚初重のレクチャー』学生社(0403)によれば、土器、埴輪の編年は図のようである。
愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長が、高坏が「廻間2式」の特徴を持ち、それにより築造が230年前後と推測される、と解説するのは、図のような編年に基づいている。
辻畑古墳から出土した土器の様式は、ほぼ「纏向3式」と同年代ということになる。
何となく、古墳については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、西日本と東日本は、ほぼ並行していたとみていいようである。
辻畑古墳について、今後のさらなる検討が楽しみである。
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コメント
私の年代では、弥生時代、遺跡、とくれば静岡県の‘登呂遺跡’が、その代名詞のように記憶されています。
観光で行ったこともあります。
弥生文化の遺跡のある県で、最古級の古墳の存在が明らかになった ー ー ー 魏志倭人伝にある、卑弥呼の勢力の尽きるところ、というのは、この辺りのことでしょうか、羽衣伝説の残る三保の松原もありますし、富士山 (かぐや姫) もありますし、色々、想像の膨らむところです。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年9月22日 (火) 11時29分
重陽の節句を祝う様
コメント有難うございます。
私も、社会科見学で登呂遺跡の見学をした思い出があります。
古代には、辻畑遺跡の近くの現在の国道1号線の辺りが海岸線だったと聞きました。その土地条件と、相当の権力者だったと推定される被葬者との関係なども興味深いところです。
ところで、辻畑古墳にも見られた「朱」を採掘していた丹生一族と関わる丹生神社(丹生都比売を祀る)と、白鳥伝説が重なり合うということのようです。
伝承・伝説と歴史との関係について、よろしくご教示ください。
投稿: 管理人 | 2009年9月23日 (水) 01時23分