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2009年9月30日 (水)

枕詞と被枕詞(続)/「同じ」と「違う」(11)

藤村由加さん(たち)のいう「枕詞=被枕詞」というルールとは、どういうことか?
額田王の暗号』新潮社(9008)の前作として、『人麻呂の暗号』新潮社(8901)がある。
その第二章が、「枕詞が解けた」と題されている。
その中で、藤村さんたちは、「枕詞というものは句調を整えるためのもので、全体の歌の主想には、意味の関連はないものであり、多くの枕詞が意味未詳である」という従来の定説に疑問を抱く。
「意味未詳」ということが半ば定説化されているのはおかしいのではないか?
歌中の枕詞が意味未詳ならば、それを含む歌の意味も未詳ということになりかねない。
しかも、口承的な性格のより強い祝詞には、枕詞はひとつも使われていないという。
枕詞が句調を整えるだけのものであるならば、口承的なものの方が多く使われるのが自然ではないか。

枕詞の代表例の1つが、「あしひきの-山」だろう。
「あしひきの」を古語辞典でみると、「語義・かかり方ともに未詳。山、またはそれに類義の峰にかかる」と説明されている。
従来の説として、以下のようなものがある。
・「足曳き」で、山を行くとき足を引いて歩む意
・「足引城」の略で、足を長く引いたような一構えの地の意
・「足病」や「足疾」などの表記があるように、あしひきは足の病気の意で、「やまひ」と同音の山に係る

「あしひき」の表記はどうなっているか?
藤村さんたちは、『万葉集』のすべての事例を抽出してみた。
足引、足日本、足曳、足檜、足病、安之比奇……
全部で15以上の表記があることが確認されたが、頻度が高いのは、「足日本」「足引」だった。

ところで、当然のことながら、万葉の時代は、現代とはまったく情報環境が異なっていた。
ようやく「書き言葉」が定着しようとした時代だったから、文字は現代における科学技術に相当するものだった、と藤村さんたちは説明する。
漢字の知識は、エリートであるための条件だった、ということである。
だから、使われている漢字に関する知識を最大限に得ると同時に、漢字受容の先進国である朝鮮の言葉も調べてみる必要がある。

「あしひき」の「あし」の部分の表記は、圧倒的に「足」が用いられている。
「足」という漢字の成り立ちは、人のひざから足先までの関節がぐっと縮んで弾力を生み出すというところに着目して生まれた。
その押し縮んで力をためるところから「足りる」という語義も生まれてきた。
「あしひき」の「ひき」で使われる「引」は、弓をまっすぐに引くことの意味である。
また、「曳」は、「申(まっすぐで長いもの)とノ(ひきずるしるし」からできている漢字である。
つまり、いずれをとっても、「引き伸ばす」という意味が共通していることになる。

足がぎゅっと曲った形と弓がミリリと引かれた時の形からイメージできるのは「く」の形だろう。
一方で、「あしひきの」がかかる「山」の姿は、「∧」の形で、「く」と同じである。
つまり、枕詞と被枕詞は、同じ内容なのであって、「枕詞には意味がない」というのは、被枕詞と同義であるということに他ならない。

朝鮮語で「足」を「タリ」と発音するが、「引く」ことも古語で「タリ(ダ)」という。
さらには、「足引」の係る「山」のことも古代朝鮮語では「達(タル)」といっていた。
朝鮮語でも、「あしひきの」という枕詞とそれが係る「山」とが「タリ」の語呂合わせになっているということである。

枕詞と被枕詞が同義であるという内容は、漢字を共有した中国、朝鮮、日本の言語の関連で、明らかになるというわけである。
「係り方未詳」とされてきた枕詞であるが、「枕詞と被枕詞は同義の関連語である」というルールに沿って係り方が決められているということであり、ある意味では当然のことではあるが、当たり前すぎることは、往々にして見過ごしてしまうことになりがちである。
エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』のように、見向きもされないようなところに、探し物が隠されている、ということかも知れない。

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