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2009年9月 9日 (水)

自由民主党・自壊の構造 その6.連立の相手

自由民主党の歴史を振り返ってみよう。
自民党が衆議院で単独過半数割れしたのは、言い換えれば「55年体制」が終焉したのは、宮沢喜一内閣への不信任案に、小沢一郎や武村正義ら一部の自民党員が賛成票を投じて成立し、解散して実施された1993年の第40回総選挙であった。
自民党の獲得議席は223。
それでも第一党の座は維持しえた。

この選挙において、自民党から離党し羽田孜氏を党首とした小沢一郎氏らが結成した新生党は55議席を獲得し、同じく自民党から脱退したグループで作られた新党さきがけは武村正義氏を党首にして13議席を獲得した。
公明・民社・共産は微増または微減で、際立って惨敗したのは、議席を半数(70)に減らした社会党だった。
つまり、「55年体制」の終焉である。

され、この総選挙の結果、何が生じたか?
本来、第一党の自民党を中心とした連立内閣が誕生するところを、「豪腕」の力というべきか、35議席を獲得した日本新党を率い、国民的人気も急上昇していた元熊本県知事・細川護煕氏を首相とする、社会党も取り込んだ非自民・非共産の連立内閣がスタートしたのだった。
しかし、8カ月の短命に終わった。
その要因として、当初は盟友関係にあった武村氏と不和になっていったことが大きいとされる。

バブル崩壊が明白になり、実質GDP成長率はぎりぎりプラスの状態で、平均株価はピークの半分まで落ち込んだ。
「就職氷河期」という言葉が生まれるほど労働市場は冷え込んでいった。
官房長官職にあった武村氏は、政治改革より景気対策を優先させるよう細川首相に進言するが、細川氏は聞き入れず、次第に距離が開くようになってきた。
細川首相は次第に武村氏よりも「1・1ライン」=小沢一郎・市川雄一(公明党書記長)らに接近していくようになる。

93年末田中角栄が死去。
そして、細川内閣は、当時3%だった消費税を7%の「国民福祉税」とする構想を発表するもののすぐに撤回せざるを得なくなった。
根回しがなく、寝耳に水だった社会党や武村が強く反対したからで、社会党と細川=小沢ラインの距離が離れ、社会党と武村氏が接近することになる。

こうした状況で、景気対策が遅れ、予算審議も難航して、株価は下落の一途をたどる。
「佐川急便問題」で細川氏が政権を放擲すると、「1・1ライン」は、社会党が与党第1党の状況をなんとか変えようとする。
羽田孜を首班とする政権誕生直後、民社党委員長・大内啓伍が社会党とさきがけ抜きの統一会派「改新」の結成を発表。
社会党の倍ちかい130議席を持つ衆議院第2会派が誕生した。

これに対し、寝耳に水の社会党が激怒して政権離脱し、さきがけも閣外協力という形で距離をおくことになった。
羽田政権は過半数に届かない少数与党政権になった。
6月に予算がようやく成立した直後、自民党が内閣不信任案を提出し、羽田氏は悩んだあげく総辞職を選んで、羽田政権はわずか64日で倒壊した。

自民党幹事長の森喜朗氏は、社会党の幹部・野坂浩賢らに接近を図っていた。
羽田政権崩壊後、自社両党の接近は公なものとなり、自民党は村山富市社会党委員長を首相に擁立する案を提示する。
これに対し、小沢一郎氏らは、自民党の海部俊樹を離党に導き擁立する。
状況が混沌とする中で、決戦投票により村山氏が首班指名を受け、自社さ連立政権が成立する。

しかし、村山政権がムリの産物で、長続きしないことは誰の目にも明らかだったといえよう。
第3党党首で、格別のリーダーシップがあるわけでもない。
1995年は、いわゆる「戦後50年」という節目の年であったが、社会党が独自性を発揮することはできなかった。
沖縄基地問題が表面化し、日米安保条約を違憲とすら考えていた社会党の委員長には、この問題を現実的に処理する能力がなかった。

95年夏の参院選で社会党は惨敗。
自民党も大幅な議席回復はならず、河野洋平総裁の責任論となり、橋本龍太郎氏が総裁になって、村山氏は橋本氏に政権を譲る。
その後の政党の改編と連立の枠組みの変化はめまぐるしい。

自社さ連立-橋本内閣
自自連立-小渕内閣
自自公連立-小渕内閣
自公保連立-森内閣、第1次小泉内閣
自公連立-小泉内閣、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣

自公連立内閣は、2000年の森内閣からおよそ10年間で終止符を打つことになった。
小選挙区を中心に票を集める自民党と比例代表を中心に票を集める公明党による選挙協力が、自公両党が連立する大きなメリットだった。
しかし、小泉首相が掲げる構造改革路線によって、同党の支持基盤だった建設業や農漁業などの業界団体や後援会組織の多くが離反し、自民党は公明党の支持母体である創価学会への依存を強めざるを得なくなる。
それに対して、それまでの自民党支持層が反発し、党勢がさらに低下する悪循環に陥った。

今回の総選挙でも、自民党は、「比例区は公明党に」などと、公明票をあてにしなければ当選の見込みが立たない状況に追い込まれることになった。
当選しなければ意味がないのが個人としての政治家であるが、党としてのアイデンティティを失ってしまったと言わざるを得ないだろう。

今回の総選挙の結果を、自公対民主としてみると、以下のようになる。
       解散時勢力   当選者
自公      334       140
民主      112       308

単に自民党の惨敗ということではなく、自公連立という政権のあり方が否認されたとせざるを得ないだろう。
それは、宗教団体が政権の立場にあることへの拒否感ではないだろうか。

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1999年の統一地方選挙の頃からマニフェストが作られるようになりました。マニフェストの意味と使い方などを有権者の立場で考えてみようと思います。 [続きを読む]

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