八ツ場ダムの入札延期 その8.奈良忠さん
奈良忠さんは、(社)日本能率協会や(財)都市調査会等で活躍されたリサーチャーの大先達である。
(社)日本能率協会は、東亜・太平洋戦争中の1942年、日本能率連合会と日本工業協会という能率団体が、商工大臣の岸信介の仲介で統合して発足した団体である。
1960(昭和35)年に、産業調査センターという部門が発足し、のちに産業研究所、総合研究所と名前を変え、1984(昭和59)年に株式会社として分離独立した。
野村證券株式会社の調査部を母体として、旧野村総合研究所が設立されたのが1965(昭和40)年だから、日本能率協会の産業調査センターの設立は、それに先んずること5年ということになる。
もちろん、調査機関にとって歴史の古いことが自慢の材料になるわけではないが、私の知っている能率協会・産業研究所は、アプローチの方法をどう考えるかということからスタートする不定型の調査の実施に関し、高い評価を得てきた。
琵琶湖総合開発に関する調査、しばしば幻のと形容される沼田(岩本)ダムの関連地域開発調査等がその代表例であり、八ツ場ダムの調査もその1つということができる。
これらの調査において、奈良さんが大きな役割を果たしたと聞いている。
しかし、リサーチャーは基本的に黒子の存在なので、奈良さんの名前も表に出ることは少ない。
萩原好夫『八ツ場ダムの闘い』岩波書店(9602)は、奈良さんの名前の登場する数少ない例である。
(財)都市調査会は、京都大学の総長を務められた奥田東さんを理事長に迎えた関西有数のシンクタンクだった。
旧建設省OBだが、少しも役人らしくない豪放な藤野良幸さんが専務理事に就任し、関西国際空港や関西文化学術研究都市構想など、関西の大型プロジェクトを仕切っていた。
(財)都市調査会と連動する民間の機関がいくつかあり、その代表が、都市科学研究所という株式会社だった。
都市科学研究所は、学生運動史上名高い京大の「天皇事件」の頃、京大の学生自治会で一緒に活躍していたという米田豊昭さんが社長、榎並公雄さんが専務で、質の高い仕事をしていた。
米田さんも榎並さんも、財団法人の理事を兼任していたはずである。
榎並さんは、三一新書で『都市の時代』を刊行するなどの理論家だったが、1976(昭和51)年に、48歳という若さで亡くなられた。
榎並さんが亡くなられてすぐに刊行された『榎並公雄君をしのぶ』という小冊子の巻頭に、米田さんが追悼文を寄せている。
その冒頭に、「榎並と私は、三十年近い犬猿の友であった」と書かれている。
学生運動の時代から、行動(オモテ)の米田、思考(ウラ)の榎並という役割分担だったらしい。
榎並さんが亡くなられてから、米田さんは拡大志向に傾き、ブレーキを失ったかのように暴走を始め、遂に破綻してしまうに至っている。
その都市科学研究所が悲願の東京進出を果たすに際し、東京事務所担当の役員として迎えられたのが奈良さんだった。
ネットでブラウジングしていたら、都市調査会と連動するシンクタンクの1つであった、(株)地域計画建築研究所(ARPAC)の三輪泰司さんの回想記がヒットした。
三輪さんの文章によれば、1978年11月24日に、大阪の都市調査会で、奈良さんと三輪さんが2人で、文化学術研究都市の第一次提言書を書いたのだという。
そして、奇しくもと言うべきだろうが、30年後の2008年11月24日、奈良さんが亡くなられている。
三輪さんの文章を引用する。
因みにこの時期は「関西研究学園構想」と称していました。関西学術研究都市という名称は、1978年6月7日、京都府の佐藤尚徳土木建築部長と検討して決定しています。「文化」が付いたのは、1979年10月の奥田・梅棹・岡本・河野会談です。従って「提言」の段階では「学術研究都市」になってます。1978年12月5日、調査懇談会総会で第1次提言を決定。確かに30年経ちました。
昨年の11月24日、奈良忠氏が亡くなりました。30年前のその日、大阪の都市調査会で、奈良さんと二人で第1次提言の起草をしていました。
奥田東先生から言えば次々世代、47歳でした。
上掲の萩原さんの著書には、次のような記述がある。
(水没地の移転計画案について)今度は新計画を誰に頼むか、相談のために上京した。日本能率協会の奈良忠さんと華山謙先生に相談し、二人から磯崎新先生がよいとのアドバイスを受けた。二人とも期せずして同じだった。
……
堀口次長(注:群馬県企画部)が私を訪ね、生活再建対策を日本能率協会に相談しようかと思うがどうかと言う。
……
奈良忠さんは、建設省から依頼された当初から、八ツ場ダム問題に深い関心をもっており、幾度も地元入りしていた。私と堀口次長とで上京し、奈良さんにあった。奈良さんは、「磯崎新先生が手がけられた以上、もはや自分らの出る幕ではない。磯崎さんの意見を聞いてからにしよう」と言う。
断片的な引用にならざるを得ないが、萩原さんが、奈良さんを信頼していたことが分かる。
八ツ場ダムの本体工事の入札が延期になる直前に、奈良さんは亡くなられてしまった。
私は亡くなられる直前に、病床の奈良さんをお見舞いする機会があった。
奈良さんの意向で密葬で送られたということだが、ドイツ語が堪能だった奈良さんは、死に面して意識が混濁する中で、ドイツ語でうわ言を言っていたと聞いた。
こうして、萩原さん、華山さん、奈良さんなど、八ツ場ダム計画に関わった多くの人が既に鬼籍に入ってしまったことになる。
余りにも長い年月であったと言わざるを得ないだろう。
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