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2009年9月

2009年9月30日 (水)

枕詞と被枕詞(続)/「同じ」と「違う」(11)

藤村由加さん(たち)のいう「枕詞=被枕詞」というルールとは、どういうことか?
額田王の暗号』新潮社(9008)の前作として、『人麻呂の暗号』新潮社(8901)がある。
その第二章が、「枕詞が解けた」と題されている。
その中で、藤村さんたちは、「枕詞というものは句調を整えるためのもので、全体の歌の主想には、意味の関連はないものであり、多くの枕詞が意味未詳である」という従来の定説に疑問を抱く。
「意味未詳」ということが半ば定説化されているのはおかしいのではないか?
歌中の枕詞が意味未詳ならば、それを含む歌の意味も未詳ということになりかねない。
しかも、口承的な性格のより強い祝詞には、枕詞はひとつも使われていないという。
枕詞が句調を整えるだけのものであるならば、口承的なものの方が多く使われるのが自然ではないか。

枕詞の代表例の1つが、「あしひきの-山」だろう。
「あしひきの」を古語辞典でみると、「語義・かかり方ともに未詳。山、またはそれに類義の峰にかかる」と説明されている。
従来の説として、以下のようなものがある。
・「足曳き」で、山を行くとき足を引いて歩む意
・「足引城」の略で、足を長く引いたような一構えの地の意
・「足病」や「足疾」などの表記があるように、あしひきは足の病気の意で、「やまひ」と同音の山に係る

「あしひき」の表記はどうなっているか?
藤村さんたちは、『万葉集』のすべての事例を抽出してみた。
足引、足日本、足曳、足檜、足病、安之比奇……
全部で15以上の表記があることが確認されたが、頻度が高いのは、「足日本」「足引」だった。

ところで、当然のことながら、万葉の時代は、現代とはまったく情報環境が異なっていた。
ようやく「書き言葉」が定着しようとした時代だったから、文字は現代における科学技術に相当するものだった、と藤村さんたちは説明する。
漢字の知識は、エリートであるための条件だった、ということである。
だから、使われている漢字に関する知識を最大限に得ると同時に、漢字受容の先進国である朝鮮の言葉も調べてみる必要がある。

「あしひき」の「あし」の部分の表記は、圧倒的に「足」が用いられている。
「足」という漢字の成り立ちは、人のひざから足先までの関節がぐっと縮んで弾力を生み出すというところに着目して生まれた。
その押し縮んで力をためるところから「足りる」という語義も生まれてきた。
「あしひき」の「ひき」で使われる「引」は、弓をまっすぐに引くことの意味である。
また、「曳」は、「申(まっすぐで長いもの)とノ(ひきずるしるし」からできている漢字である。
つまり、いずれをとっても、「引き伸ばす」という意味が共通していることになる。

足がぎゅっと曲った形と弓がミリリと引かれた時の形からイメージできるのは「く」の形だろう。
一方で、「あしひきの」がかかる「山」の姿は、「∧」の形で、「く」と同じである。
つまり、枕詞と被枕詞は、同じ内容なのであって、「枕詞には意味がない」というのは、被枕詞と同義であるということに他ならない。

朝鮮語で「足」を「タリ」と発音するが、「引く」ことも古語で「タリ(ダ)」という。
さらには、「足引」の係る「山」のことも古代朝鮮語では「達(タル)」といっていた。
朝鮮語でも、「あしひきの」という枕詞とそれが係る「山」とが「タリ」の語呂合わせになっているということである。

枕詞と被枕詞が同義であるという内容は、漢字を共有した中国、朝鮮、日本の言語の関連で、明らかになるというわけである。
「係り方未詳」とされてきた枕詞であるが、「枕詞と被枕詞は同義の関連語である」というルールに沿って係り方が決められているということであり、ある意味では当然のことではあるが、当たり前すぎることは、往々にして見過ごしてしまうことになりがちである。
エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』のように、見向きもされないようなところに、探し物が隠されている、ということかも知れない。

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2009年9月29日 (火)

枕詞と被枕詞/「同じ」と「違う」(10)

茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流

藤村由加さん(たち)は、この歌の解釈をするに際し、“あかねさす”という枕詞の解釈から出発している。
「枕詞=被枕詞」というルールが、彼女(たち)の推論のエンジンである。
しかし、「枕詞=被枕詞」とは?

そんなことを教わった記憶はない。
多くの人が、高校などの古文の時間に、「枕詞」について学んだとき、何となく釈然としない思いを持っただろう。
枕詞の起源・役割などについて、どうも納得的な説明を受けたような思い出はない。

枕詞についてのイメージは、例えば、ハテナの説明のようなこんな感じだったのではなかろうか。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%ED%BB%EC

和歌などで、特定の語の前に置かれて語調を整える語句。大抵の場合五拍である。
 ・ひさかたの→光
 ・たらちねの→母
 ・あをによし→奈良
 ・あしびきの→山
 ・ちはやぶる→神 等々。

しかし、これだけでは、枕詞と被枕詞との関係にどうにも必然性が感じられない。
アタマから覚えるしかないのか、という感じである。
しかし、原則的に31文字しかない和歌の世界で、5文字といえば相当の(約16%)のウェイトである。
語調を整える役割しか持っていないとすれば、ずいぶんもったいない話である。

「和歌入門附録 古典的修辞法」というサイトの「枕詞」の項を見てみよう。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/intro/syuuji.html

枕詞は特定の語の前に置くことが慣習化された語で、ふつう五音からなります(四音・三音もあり)。和歌の修辞法の一つですが、古い信仰心の名残のようにも感じられます。枕詞が冠せられる語を調べると、(ちはやぶる)神、(ひさかたの)光、(あしひきの)山、(たらちねの)母、(くさまくら)旅など、古代人が大切なもの、聖なるもの、あるいは非日常的なものとして、尊んだり畏れたりした物事が多いことに気づきます。枕詞は地名に掛かるものも多いのですが、地名とは古人にとって地霊を呼び起こす畏るべきことばでした。聖なるものへの畏敬の心――それゆえの距離感が枕詞を生んだ、とは言えないでしょうか。たやすく口にのぼせることを躊躇わせるような対象に対し、もってまわったような言い方をすることで、心理的負荷を払拭する詞――そんな、おまじないのようなものであったのではないか。本来、決して作歌上のテクニックのようなものでもなければ、一首をみそひと文字に収めるための埋め草でもなかったはずです。

そして、枕詞の類型について、以下のように分類・例示されている。
1 被枕と意味上の関係で結びつく枕詞
1-1 同格型
「庭つ鳥 鶏(かけ)」のように、被枕と同格の関係にある枕詞。
同じものを指す異なる語を重ねた形になる。同意語反復型。
ももしきの-大宮:「ももしき」は一説に「百石木」で、宮殿はたくさんの石や木で作ったものであることから。

1-2 比喩型
枕詞が被枕の喩えとなっている型。さらに分類すれば、換喩型・暗喩型・直喩型に分けらる。
●換喩型
しきしまの-大和:「しきしま(敷島、磯城島)」はかつて崇神天皇等の宮殿が置かれた、大和地方の中心地。ゆえに「しきしま」で「大和」全体を指す象徴となった。
●暗喩型
ぬばたまの-夜:夜の闇はぬばたま(ヒオウギの種子)のように黒いことから。
●直喩型
入り日なす-隠り:入り日のように隠れる、という直喩から。

1-3 転用型
敷衍拡大して用いるもの。例えば、本来「夜」などの枕詞であった「ぬばたまの」を、夢は夜見るものであることから「夢」の枕詞に転用している場合など。
ひさかたの-月:「ひさかたの」は本来「天」にかかる枕詞。それを天にある月の枕詞に転用した。

2 被枕と音韻上の関係で結びつく枕詞
「梓弓」と「春」、「柞葉」と「母」など、枕詞と被枕が、意味の上では関係がないにもかかわらず、音によって通じ合うゆえに結び付いたもの。
2-1 掛詞型
あずさゆみ-春:弓を「張る」ということから同音の「春」を導く。

2-2 同音反復型
松が根の-待つ:「松」「待つ」が同音

枕詞の現象論については、おおよそ上記のようなことだとして、本質論についてはどう考えるべきだろうか?

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2009年9月28日 (月)

「逝」と「行」(続)/「同じ」と「違う」(9)

さて、藤村由加さんは、「逝」と「行」の違いをどう解読したのだろうか?
額田王の暗号』新潮社(9008)には、以下のような解説がある。

「行」は、もと十字路を描いた象形文字で、とどこおりなく直進する意を持っている。それに対し「逝」は、同じいくことでも、ふっつりと折れるようにしていってしまうことを意味している。逝去、逝水などというように、去っていって二度とは戻らぬいき方を表している。
字を書き分けたということは、そこにもたせる意味あいを明確に違うものとして表しているということではなかったか。武良前野には逝くが、標野には行くのだと。どうやら「逝」「行」の二文字の対比は、原文にみえるいくつかの不思議な対比を映し出し、呼応しているようである。
この歌は、ほかにもいくつかの興味ある対比を含んでいる。先の「君」と対照的に描かれている「野守」、そして「武良前野」と「標野」とである。そして、「逝」と「行」。
……
このように見てくるとこの歌の前半部の技巧には、
同じことをいっているようでも違う、また違うようでも同じという一種のパラドックスがあることがわかってくる。

そして、藤村由加さんは、「枕詞=被枕詞」という彼女たちが発見した公式を応用して、“あかねさす”の解読を試みる。
“あかねさす”は、東の空にあかね色の光が照り映える意味で、日、昼、君などに掛かる枕詞とされている。
しかし、この枕詞が、“むらさき”に掛かるのは、万葉集中でもこの一首だけだ。

茜の字源は、「艸(クサカンムリ)+西(月の落ちる方向)」で、色でいえば夕暮れの空の色、もとはやや黒ずんだ赤、緋色を指したものだという。
紫の字源は、「止(足先の形)+匕(比ぶの右半分)+糸」で、不揃いな二色が、一本の糸の上に交差してあらわれるようすを、不揃いに並び交差する、足先の字形(字音)であらわしている。

原文では紫は武良前と表記されている。
武の字源は、戈を持って前進することで、半歩ずつ進んでいく足の動きを「武」とよんだ。
前も、足を揃えながら進む、足の動きを表している。
武や前で示される足のはこびは、神社などで見られるような、右足のところまで左足をひきつけ、また右足を前に出し、また左足をひきつけ、半歩ずつ前進するというものである。
つまり、紫と「武と前」は同じことを言っているということになる。

茜は、赤根とも表記されるように、もともと赤を意味するものである。
草は、「あおあおとした」という形容でも分かるように青である。
つまり「茜草」は、「赤と青」で紫である。
紫が、赤と青の二色が不揃いに並ぶようすを、足の状態で表したのと同様に、手の指の状態で表し、「茜草指」と表記している。
つまり、この歌のテーマは、不揃いに並ぶということだと考えられる。

不揃いに並ぶとは?
倫の旁の「侖」は、もともと集めてきちんと並べられた短冊を象った文字である。
つまり「倫」の字は、きちんと並んだ人間の間柄を意味している。
つまり、平らに並ぶことのできない関係は、“不倫”である。

額田王は、最初大海人皇子の妻として十市皇女を産み、後に天智天皇の寵愛を受けたと伝えられている。
つまり、蒲生野の遊猟の時点では、大海人皇子は、不揃いにしか並ぶことができない関係だった。
「逝」と「行」の使い分けに関する藤村由加さんの解釈は、次の通りである。
標縄をめぐらし、そこが天皇の御料地であることを示した「標野」。
そこは、許された者のみが出入りできる場所である。
つまり、「標野行」は、額田王と天智天皇の関係を暗喩したものである。

これに対し、「武良前野逝」は、並び揃うことのできない額田王と大海人皇子の関係を暗示している。
額田王にとって、紫を染める不揃いな赤と青の色は、自分と大海人の関係をたとえるのにまことに相応しい色だったということになる。

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2009年9月27日 (日)

「逝」と「行」/「同じ」と「違う」(8)

藤村由加『額田王の暗号』新潮社(9008)は、額田王の「茜さす」の歌の表記に対する疑問から話を展開していく。
普通、私たちは、次のような表記で、額田王の歌を鑑賞している。

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る  (1-20)

「あかねさす」という全体の情景の美しさ、「紫野行き標野行き」と畳み掛けるような韻律の心地よさ。
例えば、受験参考書でその名前の記憶がある保坂弘司さんの、『声で読む万葉・古今・新古今』学燈社(0701)の「鑑賞」は以下のようである。

自分に思慕の情を示してそでを振る皇太子に、一方では心ときめかしながらも、一方ではその大胆なしぐさを見とがめられることを懸念している作者の複雑な女ごころが、切実な実感として伝わってくる。「むらさき野行き標野行き」という繰り返しに、思慕の心やみがたく、ゆくゆくそでを振る若い皇子のいちずな姿が、生き生きと描きだされている。

私は、この「思慕の心やみがたく」から、「恋心、なりやまず。」というコピーの入った魅惑的な「風の盆」のポスターを連想してしまう。
http://www.city.toyama.toyama.jp/yatsuo/nourin/owara/poster/owara_1993.jpg
越中八尾の「風の盆」のポスターは、高橋治『風の盆恋歌』新潮社(新装版0306)を意識したものが多いのでないだろうか。
その効果で、多くの観光客を惹き付ける効果を持っているのだろう。驚くべき人出である。
それはともかくとして、額田王の歌については、まず保坂氏のように鑑賞するのが定番的なところだろう。
私もそういう解釈で納得してきたが、定番的な解釈は時代と共に変化してきてもいる。
2009年9月23日 (水):蒲生野の相聞歌の解釈-斎藤茂吉と大岡信

解釈の重要なポイントが表記の仕方にあることは論を俟たない。
この歌の表記は、いわゆる万葉仮名の典型であろう。

茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流

藤村由加さんが着目したのは、「逝」と「行」の使い分けであった。
もちろん、知る人は知っていることであるが、「藤村由加」は、佐「藤」まなつ、北「村」まりえ、榊原「由」布、高野「加」津子という4人の女性の名前から1字ずつとって作ったペンネームである。
上掲書では、平均年齢28歳で、韓国語・中国語をはじめ9ヶ国語に通暁する、と紹介されている。

私は、かつて、『万葉集』が韓国語で読める、というような説が流行した頃、キワモノ的な印象を持っていた記憶がある。
そもそも、その頃は古代史に対する関心なども薄く、『万葉集』などを手に取ってみることもなかったので、単なる感想としてではあるが。
しかし、白村江の敗戦後、百済を初めとして、朝鮮半島から多くの移入者があり、その人たちが書き言葉としての日本語の成立に大きな役割を果たしたらしいことを知るにつけ、『万葉集』の特に初期の表記には、韓国語の影響が大きい可能性も十分あり得るだろうと考えるようになった。

上掲書に戻る。
なぜ、武良前野(むらさきの)には「逝」が使われ、標野には「行」が使われているのか?
逆も可だったのか?
額田王の真意は、このような文字の使い分けに関係しているのだろうか?

ものごとの「同じ」と「違う」をどう認識するかは、思考のもっとも基礎的な要素だと考えられる。
これまでも、いくつかの例を取り上げてきた。
2009年8月 8日 (土):「同じ」と「違い」の分かる男
2009年8月14日 (金):「同じ」と「違う」(1)熱と温度 その1.熱容量と比熱
2009年8月17日 (月):「同じ」と「違う」(1)温度と熱 その2.水の特異性
2009年8月18日 (火):「同じ」と「違う」(2)ギラン・バレー症候群と砒素中毒の鑑別診断
2009年8月24日 (月):「同じ」と「違う」(3)大川隆法と田母神俊雄
2009年8月26日 (水):「同じ」と「違う」(1)熱と温度 その3.熱伝導率と熱拡散率
2009年8月27日 (木):「同じ」と「違う」(1)熱と温度 その4.熱伝導率と熱拡散率(続)
2009年8月28日 (金):「同じ」と「違う」(4)さまざまな「戦後」

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2009年9月26日 (土)

マエハラ(タ)、頑張れ!(続)

八ツ場ダム、JAL、高速道路の無料化と、国土交通行政をめぐって難題が山積している。
そういう中で、JR西日本・福知山線の脱線事故の事故調査委員会をめぐって、信じられないようなことが報じられている。
結果的に起訴されることになった山崎正夫前社長が、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の山口浩一元委員から事故報告書案を入手し、JR西に不利にならない内容に書き換えるように働きかけていたというのである。

山崎前社長が修正を求めたのは、事故現場にATS(自動列車停止装置)がなかったことに関して、あれば事故が防げたと指摘している箇所だという。
この事件については、下記で触れたことがある。
2009年7月18日 (土):過失論と予見可能性

論点は、「ATSを設置していれば事故が防げたことを予見していたか否か」である。
事故が故意に起こされたものでないことは当然である。
問題は、責任を問われるべき過失があったのかどうか、であり、予見可能性がその判断基準となる。
山崎社長は、社内会議で「ATSがあれば(函館線の)事故は防げた」との報告を受けていた。
つまり、福知山線についても、危険性の認識があったと考えるのが相当であるとして起訴された。

山崎前社長は、「ATSがあれば事故が防げた」という認識は、「後出しじゃんけんのようなもの」だから、山口元委員に、表現を柔らかくするか、削除して欲しいと要請した。
これを受けて、山口元委員は、「後出しじゃんけんのようで、いかがなものか」と発言したという。
結果的に、他の委員や事務局の反発で受け入れられなかったという。

「ATSがあれば事故が防げた」という認識は、果たして「後出しじゃんけん」か?
山崎社長は、事前に認識できなかったということを主張したかったのだろう。
しかし、それこそが、第三者的な判断を求められるところではないのか?
当然のことながら、事故調査委員会の委員は、利害関係者との個別の接触を禁じられている。
山崎前社長は、まさに当事者中の当事者である。

山口元委員は、山崎前社長の先輩に当たるという。
山口氏に協力を求めた見返りは、夕食の接待や菓子・新幹線の模型・チョロQなどの手土産だったという。
食事の場は、「赤ちょうちんに近い店で供応のイメージとは違う」と説明している。
たとえ「赤ちょうちん」そのものであっても、調査が進展している段階での接触そのものが論外というべきだろう。

山口元委員は、「法に触れるという認識はあった」と述べている。
それにもかかわらず、山崎前社長と接触して情報を漏洩しているのは、先輩後輩という間柄だったからだという。
ここにも「仲間主義という妖怪」がいたことになる。
2009年3月13日 (金):日本を徘徊する「仲間主義」という妖怪

前原国交相は、「今後は密接関係者を審議から外す」としている。
事故調査委員会は、国交省内に置かれ、調査官は同省から派遣されている。
それで委員会の独立性が保たれるのか、事故の遺族等からは、従前から疑問が呈されていた。
脱官僚主導の必要性が、こうしたところにも窺えるだろう。

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2009年9月25日 (金)

偶然か? それとも・・・(5)袖振り合う縁

本を読んでいると、ちょうどその時に考えていた問題等にジャスト・タイミングで出会うことがある。
一瞬、「何という偶然か」と思うが、考えてみれば、そういう意識になったから気がついた、ということなのだろう。
2007年8月21日 (火):偶然か? それとも・・・ 
2007年8月27日 (月):偶然か? それとも・・・②大津皇子
2008年5月27日 (火):偶然か? それとも・・・③『雲の墓標』
2008年7月22日 (火):偶然か? それとも・・・④幻視する人々

蒲生野の遊猟の際の額田王の歌についても、同様の体験があったことを思い出した。
蒲生野の現場で詠まれたものか、後の宴会の場のざれ歌として詠まれたものかは別として、額田王の「茜さす」の歌は、大海人皇子が額田王に向かって、袖を振ったことをきっかけとしている。
私は、この「袖を振る」という言葉に関して、上記のような「偶然か?」と思う体験をした。

ある会合で、20年以上も前に付き合いのあった組織の人と知り合いになり、共通の知人がいることも分かった。
その経緯を「袖触れ合ったことのある縁」として、紹介したところ、その直後に、藤村由加『額田王の暗号』新潮社(9008)に、「君が袖振る」の解説に際して、「袖振り合うも他生の縁」という言葉を引用している箇所に出会った。
「袖が触れる?」or「袖を振る?」
果たして私は長い間、誤用をしていたのだろうか?

気になって調べてみたところ、以下のようなサイトがあった。
http://www.tt.rim.or.jp/~rudyard/torii023.html

「先ず、「袖触れ合うも多少の縁」と覚えていたら大間違い。
正解は、「袖振り合うも多生の縁」。
以下のように解説が付加されている。

多生」とは仏教の言葉で、この世に何度も生まれ出ること。
生と死を繰り返す「輪廻転生」「生まれ変わり」の思想です。
道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、それは何度も繰り返された過去の世の縁によるもの。
すべては理由のないただの「偶然」ではなく、縁によって定められた「必然」である。
仏教の基本理念である「因果応報」につながる考え方と言えます。

「多少」が間違いで、「多生」であることは理解できた。
私は「他生」という字だと思っていたが、ご丁寧に、以下のように記されている。

多少」が間違いであることを知っていても、この「他生」が正解だと思っている人は非常に多いです。
Googleでの検索結果を見ても、「多少」にバツを付けて「他生」をマルにしている解説のなんと多いことか。
他生の縁:73,400件
多生の縁:52,700件
多少の縁:20,700件
他生」でも完全に「間違い」と言い切れるわけではないのですが、「他生」と「多生」には明確な違いがあります。
それを知らずに「他生」を正解と信じる人々の知識は、いかにも「中途半端」と言わざるを得ません。
他生」もまた仏教の言葉で、「今生 (こんじょう)」に対する「前世」と「来世」を示します。
ことわざとしての解釈は「多生の縁」とほぼ同じですが、この場合は「前世」のみに限定する必要があります。
「来世の縁」では因果律が崩れてしまいますので、「因果応報」につながりません。
意味がまるっきり変わるわけではありませんので、「他生」を「正解扱い」することも可能でしょう。
しかし、他人の「多少」を訂正するなら、本当は「多生」であることを知っておきたいものです。

しかし、上記の解説では、「袖が触れ合う」が間違いだというよりも、正解だとしている「袖振り合う」よりも適切なように感じる。
この部分については、以下のような説明である。

解釈としては、「袖振り合う」も「袖触れ合う」も一緒です。
今の世の中、振れるほどの袖がある衣装を着ている人は限られますから、「触れ合う」の方がわかりやすいですね。
また、「袖振れ合う」という表記もあります。
読み方は「触れ合う」と同じ「ふれあう」でしょう。
この場合、「触れ合う」のつもりで誤変換しているのか、「振り合う」の活用形なのかは不明です。
他にも、「擦り合う」「擦れ合う」を使う場合などがあります。
これらの「ひらがな」バージョンを含めれば、表記の種類は結構な数に達します。
ひとつ特別なものとしては、「袖触り合う」という表記があります。
本来は、これが「仏教用語」として正しい形なのだそうです (読者様から情報を頂きました)。
おそらく、「触れる」と「振れる」の混同から「触り合う」が「振り合う」に変化したのでしょうね。
前半が「触れ合う」でも「擦り合う」でも「触り合う」でも、言葉の解釈に大きな影響はありません。
重要なのは、後半が「多生」になっていること。

私の語感では、「触れ合う」は、「たまたま触れてしまった」という偶然性に力点があるのに対し、「袖振り合う」は明確な意思表示として行われていると思う。
ニュアンスがだいぶ異なるように思うが、果たして如何だろうか?

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2009年9月24日 (木)

マエハラ(タ)、頑張れ!

私たち位の世代の人間は、どこかで一度は、「マエハタ、ガンバレ!」という声を耳にしているのではないだろうか。
1936(昭和11)年のベルリン・オリンピックの時のアナウンサーの声である。
私はいま、それをもじって、「マエハラ、ガンバレ!」と前原誠司新国土交通相に声援を送りたいと思っている。

「八ツ場ダム」建設の中止をめぐって、渦中にある前原国交相が、23日建設予定地の群馬県長野原町を訪れて、工事の進捗状況や水没し地区の代替地を視察した。
20909132民主党は、マニフェストの冒頭に、八ツ場ダムの建設「中止」を明記しており、前原国交相のスタンスもそれに沿ったものであるが、関係都県知事や地元住民などから批判の集中砲火を浴びている。
先日もTVの番組で、自民党の道路調査会会長・山本有二氏が、前原氏の姿勢を威丈高に批判していた。

私は、山本氏の名前は知らなかったが、コンクリート行政の元締め的立場にこういう人がいて、ハコモノや道路などを作り続けてきたのだな、と思わざるを得なかった。
名神や東名などの高速料金を下げられないのは、次々と建設される新しい高速道路の建設費と維持費を賄うためである。
新設の道路だけ切り離して効果対費用を計算すれば、やはり効率が悪いものが多いはずである。
もちろん、効率性と公平性の両方の視点が必要だとは思うが。

八ツ場ダムが長期的に進展し得なかった背景には、こういう人たちが、ハード主導で政策を推進してきたからだろう。
折しも、一方で自民党の総裁選の最中であるが、公共事業のあり方を争点の1つとすべきだろう。
何が何でも、計画したものは実施するという従来の公共事業だった。
前原氏は、それをブレーキのない暴走車にたとえていた。
そういう公共事業のあり方に対して、「NO!」というのが民意だったわけである。
新生自民党は、どういうスタンスで取り組むのか?

もちろん、政策を転換する場合、総論的には大所高所の議論が重要だと思うが、個別の各論についてはそれぞれの事情を勘案することが重要だろう。
前原氏は、端正な顔つきであることもあって、資産家もしくは世襲議員の仲間のように感じている人もいるだろうが、高校時代から奨学金を貸与されてきた苦学派である。
私も高校から、特に貧困な家庭を対象とした特別奨学金の恩恵に与ってきた。
そういう面からも、前原氏の苦労人としての視線に期待したいと思うものである。

石原都知事なども、建設中止ならば、都が負担した分は返還して貰うといち早く声明している。
もちろん、自治体の長としては当然のことかも知れないが、負担した資金の返還に触れる前に、長い間、下流地域の犠牲になってきた上流域住民の心に思いを致すべきではないか。
「友愛」などとは言わないが、弱者への思いやりがなければ、自民党の再生などあり得ないだろう。

地元住民は、「中止ありきでは話し合わない」ということで、前原国交相と地元住民との直接対話はならなかった。
八ツ場ダムの場合、地元のこの頑なまでの態度も当然のような気がする。
ダム建設の場合でも、途中で中止になる場合でも、方向は異なるが、今までの生活を強制的に転換させられるという意味では同じことである。
公共事業を中止する場合の措置をどう講じていくかを含めて論議すると言っている。
中止ありきではあるが、地元の理解を得るまで中止手続きを始めない方針だというので、必ずしも頑迷な姿勢ということではないと思う。

八ツ場ダム問題は、八ツ場ダム固有の問題であると同時に、「脱ダム社会」へ向かっての第一歩という位置づけも持っている。
地元の住民からすれば、「そんなの関係ない」のではあるが、やはり日本をどういう国にするかという問題の根幹である。
確かに、写真(産経新聞9月13日)に見るように、八ツ場ダムは、本体工事は別として、既に周辺工事はかなり進捗している。
しかし、本体工事に未着手の今が再考の最後の機会だとも考える。
ここは前原氏の力量に期待し、エールを送りたいと思う。

さて、「マエハタ、ガンバレ!」について、Wikipedia(2009年8月24日 (月) 最終更新)では、次のように解説している。

3年後の1936年(昭和11年)、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリン・オリンピックの200m平泳ぎに出場し、ドイツ代表のマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利。日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況した日本放送協会アナウンサー河西三省は、中継開始予定時刻の午前0時を過ぎたため「スイッチを切らないでください」という言葉から始めた。
河西は、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた。この放送を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件も起こった。その放送は現在でも語り草となっており、レコード化もされている(ただし一部は異なっており、「前畑危ない」というセリフはカットされている)。

この時の映像は、下記で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=7GgWI1i5kj8
もちろん、私が生まれる前のことである。
しかし、日本人として、アナウンサーと一緒に「マエハタ、頑張れ」と声に出したくなる気になるだろう。
いま、それからの連想で、「マエハラ、ガンバレ!」と言葉を発したいと思う。

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2009年9月23日 (水)

蒲生野の相聞歌の解釈-斎藤茂吉と大岡信

額田王と大海人皇子の歌のやりとりをどう解釈するか?
博学多識にして読み巧者である丸谷才一氏と山崎正和氏の対談『日本史を読む (中公文庫)』(0101-元版は、中央公論社(9805))の冒頭で、丸谷氏がこの歌を取り上げて、次のように言っている。

私はこれを中学生のころ、1938(昭和13)年、岩波新書がはじまったばかりのとき斎藤茂吉の『万葉秀歌』で読んで、どうも状況がつかめなくて弱った。茂吉は、はっきりとではありませんが、「対詠的」などと評して、遊猟中に野原においての二人のやりとりのようにとらえているみたいでした。どうも、実景を歌った真摯な恋歌と思い込んでいる。私が困ったのは、第一に、衆人環視のなかで袖を振ったりしては危険である。秘密の恋にならない。第二に、遠くにいる相手に歌で語りかけるなんてメガフォンでも使うのか(笑)。あるいは、使いに手紙を持たせるか、それとも口述してその者に届けさせるのか。それで後年、私は、これはその夜、密室で二人きりになって親しくしているとき、日中の二人の情景を心に思い浮かべて、まるで屏風絵に添える屏風歌のように歌を詠んだのだ、と解釈して、ようやく心が落ち着いた記憶があります。
ところが最近、大岡信さんが『私の万葉集』のなかでこの二首を論じて、じつにいい解釈を示しているのですね。
これはハンティングが終わってからの夜の宴会の席で、二人がふざけて、即興で披露したざれ歌である、二人の昔の関係はみんなが知っているから、これで大いに盛り上がったろうというのです。この解釈を裏づけるものとして、二首が相聞(恋歌)の巻にではなく、雑歌(宮廷儀礼の歌)の巻に収められていることを指摘します。そして、ここが大事なところですが、冗談の背後に、昔の恋をしのぶ優しい思い、恋ごころと言っていいようなものがあったかもしれないと言い添える。じつにゆきとどいた鑑賞ぶりです。

丸谷氏は、続けて次のように解説を加えている。
茂吉はもちろん、近代の短歌界を代表する歌人である。
実作者の強みということもあるが、茂吉の解釈の影響力は大きかった。
茂吉は、正岡子規の直系の弟子で、子規は紀貫之を評価しなかった。
これに対して貫之を評価したのが大岡氏である。
茂吉は「アララギ」の大歌人であり、「アララギ」と対立して敗れ去ったのが「明星」。
「明星」の与謝野鉄幹の弟子の窪田空穂の弟子が大岡信氏のお父さん。
丸谷氏は、そういう歌学の伝統を下敷きにして、茂吉解釈と大岡解釈を対比させている。

茂吉の写生の強調すなわち十九世紀リアリズム寄りの文学論に対するに、大岡は二十世紀のシュルレアリスムに親しむことから出発した詩人です。茂吉の深刻好きの大まじめに対して、大岡は「宴と孤心」ということを提唱し、つまり宴遊性、社交性と孤独の両者が文学には大事だと説く立場です。茂吉はわが近代文学のロマンチックな個人主義に縛られていて、宮廷詩人柿本人麻呂を論じても共同体の詩人というところはうまくつかまえられなかった。
大岡はそのロマンチックな個人主義文学から脱出しようとしている。

まあ、この辺りは、浅学菲才の身としては、そうですか、と言うしかない。
丸谷氏によれば、茂吉のように、現地での歌のやりとりということではなく、宴会の席でのざれ歌という解釈は、池田彌三郎氏と山本健吉氏の『万葉百歌』において、ということであり、大岡氏はそれを受け継ぐ説である。
蒲生野遊猟の当時の額田王の年齢は不詳ではあるが、40歳前後というのが有力のようである。
とすれば、当時とすれば相当のオバサンだったのだろうから、生々しい恋歌ではないのかも知れないが、額田王の実相は謎だと考えるのが妥当だろうから、この歌の情景は読む人の想像力次第ということでいいのだろう。
私は、ざれ歌というよりも、もっとロマンチックで官能的な雰囲気を感じたいと思う立場である。
まあ、額田王を挟んでの天智と天武の関係が、壬申の乱の背景だというのは行き過ぎだとは考えるが。

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2009年9月22日 (火)

蒲生野の相聞歌

白村江の戦い(663年)に敗れた中大兄皇子は、667年に、近江への遷都を断行する。
2009年8月29日 (土):白村江敗戦のもたらしたもの
この遷都について、『日本書紀』には、次のように書かれている(岩波文庫ワイド版(0311)。

(六年)三月の辛酉の朔己卯jに、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。

柿本人麻呂は、壬申の乱によって廃都となって荒れた古都を前に、近江遷都について疑義を呈しているようであるし、近江遷都をリアルタイムで体験した額田王も、大和への別れを断ち難い風情であった。
2009年8月30日 (日):近江遷都へのとまどい感

しかし、額田王も、近江遷都後は、また気分を新たにしたのだろう。
上記『日本書紀』には、次のような記述がある。

(七年)五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉くに従なり。

この際に作られたという額田王と大海人皇子の歌は、『万葉集』の中でも、とりわけ多くのファンに愛唱されている、と言っていいだろう。

  天皇、蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

  皇太子の答へましし御歌(明日香宮に天の下知らしめしし天皇、諡して天武天皇といふ)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも

  紀に曰はく、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野の縦猟したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆従そといへり。

縦猟というのは、「薬猟」のことだとされている。
つまり、男は鹿狩りをし、若い鹿の袋角〔若さをとりもどす薬とされていたらしい〕を取り、女は薬草摘みをすることだとされる。
ハイキングのようなイベントかというように思われるが、宮廷の重要人物がことごとく参加するというのだから、単なる遊びだったとも思われない。

この額田王と大海人皇子の歌のやりとりについては、実際に現地で詠まれたものなのかどうかを含めて、さまざまな解釈がある。
しかし、声調の優れていることから、多くの人が口に出してみたことだろう。
そして、蒲生野で行われた薬猟の様子に思いを馳せたのではなかろうか。

滋賀県全図(郷土資料事典25・人文社(9710)を見てみよう。
蒲生野は、現在でも、蒲生郡、蒲生町の名に引きつがれているし、八日市市、蒲生郡安土町に「蒲生野」の名が散在し、輪郭ははっきりしないが、この一帯であることは間違いない、とされる。
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http://www.creategroup.co.jp/manyo/warera/gamou.html

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2009年9月21日 (月)

沼津市で最古級の古墳を発掘(続)

沼津市の辻畑古墳は、前方後方墳である。
この型の古墳について、Wikipedia(2009年4月28日最終更新)は、次のように解説している。
Photo_5

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)とは、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。

東北・関東前方後円墳研究会編『東日本における古墳の出現―第9回東北・関東前方後円墳研究会研究大会《シンポジウム》東日本における古墳出現について開催記録 (考古学リーダー (4))』六一書房(0505)に、石野博信(徳島文理大学 教授・奈良県香芝市二上山博物館館長)氏が、次のような推薦の言葉を寄せている。

なぜ、古墳が生まれたのか?弥生時代・数百年間の日本列島は、方形墳が中心だった。それがあるとき円形墓に変わった。しかも、円形墓に突出部とか張出部とよんでいる“シッポ”が付いている。やがてそれが、ヤマト政権のシンボルとして全国に広まったのだという。それならば列島で最も古い突出部付き円形墓(前方後円墳ともいう)は、いつ、どこに現れたか?よく、ヤマトだというが、本当だろうか?東北・関東では、初期には突出部の付いた方形墓(前方後方墳ともいう)が中心で、地域によって円形墓が参入してくる。住み分け、入り乱れ、いろいろとありそうだ。本書では近畿だけでは分からない東北・関東の人々の方形墓(伝統派)と円形墓(革新派)の実態が地域ごとに整理されていてありがたい。その上、討論では最新の資料にもとづく新見解が次々と飛び出し、楽しい。討論から入り、ときとぎ講演と報告にもどる読み方もありそうだ。

古墳の年代は、出土する土器や埴輪の様式によって知ることができる。
上掲Wikipediaでは、次のような記載もある。

主に弥生時代後期末から前方後方墳の祖形である前方後方形墳丘墓が造られ始め古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)で前方後方墳がよく造られる。西日本の前方後円墳の世界に対し、東日本は前方後方墳の世界であったと捉えることができる。
……
1つの説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとするものがある。

大塚初重『「「古墳時代」の時間―大塚初重のレクチャー』学生社(0403)によれば、土器、埴輪の編年は図のようである。
愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長が、高坏が「廻間2式」の特徴を持ち、それにより築造が230年前後と推測される、と解説するのは、図のような編年に基づいている。Photo                      
辻畑古墳から出土した土器の様式は、ほぼ「纏向3式」と同年代ということになる。
何となく、古墳については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、西日本と東日本は、ほぼ並行していたとみていいようである。
辻畑古墳について、今後のさらなる検討が楽しみである。

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2009年9月20日 (日)

沼津市で最古級の古墳を発掘

静岡県沼津市東熊堂の辻畑古墳が、日本最古級の可能性があると報道されている。
Rimg00162 出土した高坏の素材や色、形状などから、出現期古墳と推測さるということである。
今後、名古屋大と共同して科学的に分析し、築造時期の特定作業が進められることになっている。
発掘を行っている沼津市教育委員会によると、辻畑古墳は前方後方墳で、南北約62メートル、東西は現存する部分で約32メートル。高坏は古墳の周濠の底から割れた状態で出土した。脚部の上の方に、くしで引いたような横じまが入るなど「廻間(はさま)2式」と呼ばれる特徴があるという。
発掘を指導している愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長は「高坏の特徴から230年前後」と説明している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090907-00000007-maip-soci

発掘は、伊豆半島への接続を予定している伊豆縦貫道が、国道1号線にぶつかる付近。
既に古墳のすぐ近くまで道路工事が進んでおり、今年秋には発掘調査を終えて、この古墳は消え行く運命にある。
個人的には何とか保存できないものかと思うが、沼津市にとって悲願の道路ということでもあり、計画の変更はない見通しである。
しかし、計画当時とは事情が違うことも事実である。

辻畑古墳からは、割れた銅鏡なども出土し、朱なども検出された。
割れた鏡は、いわゆる破砕鏡と考えられるが、鏡を割る理由については、未だ謎だとされている。
朱については、邦光史郎『朱の伝説』集英社(9412)に、次のような説明がある。

朱、赤い色は、太陽の赤であり、血の赤さでもあって、どちらも人にとってなくてはならない貴いものである。
さらに、朱には、除魔、つまり邪悪なものを追い払う効果があると信じられた。
海に潜る海士は赤い褌をしめていて、鮫や海蛇などに出会うと褌を長く垂らして、怪魚を遠ざけようとした。
……
Photo_4辰砂はもともと中国が本場である。朱は中国の湖南省辰州から産出するのが一番上等とされていた。そこでその地名をとって、辰の砂と書いて辰砂とした。天然に産するものを朱の砂、朱砂と呼んでいる。さらに天然の朱は貴重であったため、人工的に水銀と硫黄を化合させてつくった物質を銀砂と呼んでいた。
ヨーロッパの化学の始まりは何かというと、それこそ錬金術であって、さまざまの薬品を熱して、化合させたり、変化させたりして、黄金を造り出そうとして、あらゆる実験と努力をくり返した。

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2009年9月19日 (土)

八ツ場ダムの入札延期 その8.奈良忠さん

奈良忠さんは、(社)日本能率協会や(財)都市調査会等で活躍されたリサーチャーの大先達である。
(社)日本能率協会は、東亜・太平洋戦争中の1942年、日本能率連合会と日本工業協会という能率団体が、商工大臣の岸信介の仲介で統合して発足した団体である。
1960(昭和35)年に、産業調査センターという部門が発足し、のちに産業研究所、総合研究所と名前を変え、1984(昭和59)年に株式会社として分離独立した。
野村證券株式会社の調査部を母体として、旧野村総合研究所が設立されたのが1965(昭和40)年だから、日本能率協会の産業調査センターの設立は、それに先んずること5年ということになる。

もちろん、調査機関にとって歴史の古いことが自慢の材料になるわけではないが、私の知っている能率協会・産業研究所は、アプローチの方法をどう考えるかということからスタートする不定型の調査の実施に関し、高い評価を得てきた。
琵琶湖総合開発に関する調査、しばしば幻のと形容される沼田(岩本)ダムの関連地域開発調査等がその代表例であり、八ツ場ダムの調査もその1つということができる。
これらの調査において、奈良さんが大きな役割を果たしたと聞いている。
しかし、リサーチャーは基本的に黒子の存在なので、奈良さんの名前も表に出ることは少ない。
萩原好夫『八ツ場ダムの闘い』岩波書店(9602)は、奈良さんの名前の登場する数少ない例である。

(財)都市調査会は、京都大学の総長を務められた奥田東さんを理事長に迎えた関西有数のシンクタンクだった。
旧建設省OBだが、少しも役人らしくない豪放な藤野良幸さんが専務理事に就任し、関西国際空港や関西文化学術研究都市構想など、関西の大型プロジェクトを仕切っていた。
(財)都市調査会と連動する民間の機関がいくつかあり、その代表が、都市科学研究所という株式会社だった。
都市科学研究所は、学生運動史上名高い京大の「天皇事件」の頃、京大の学生自治会で一緒に活躍していたという米田豊昭さんが社長、榎並公雄さんが専務で、質の高い仕事をしていた。
米田さんも榎並さんも、財団法人の理事を兼任していたはずである。

榎並さんは、三一新書で『都市の時代』を刊行するなどの理論家だったが、1976(昭和51)年に、48歳という若さで亡くなられた。
榎並さんが亡くなられてすぐに刊行された『榎並公雄君をしのぶ』という小冊子の巻頭に、米田さんが追悼文を寄せている。
その冒頭に、「榎並と私は、三十年近い犬猿の友であった」と書かれている。
学生運動の時代から、行動(オモテ)の米田、思考(ウラ)の榎並という役割分担だったらしい。
榎並さんが亡くなられてから、米田さんは拡大志向に傾き、ブレーキを失ったかのように暴走を始め、遂に破綻してしまうに至っている。

その都市科学研究所が悲願の東京進出を果たすに際し、東京事務所担当の役員として迎えられたのが奈良さんだった。
ネットでブラウジングしていたら、都市調査会と連動するシンクタンクの1つであった、(株)地域計画建築研究所(ARPAC)の三輪泰司さんの回想記がヒットした。
三輪さんの文章によれば、1978年11月24日に、大阪の都市調査会で、奈良さんと三輪さんが2人で、文化学術研究都市の第一次提言書を書いたのだという。
そして、奇しくもと言うべきだろうが、30年後の2008年11月24日、奈良さんが亡くなられている。
三輪さんの文章を引用する。

因みにこの時期は「関西研究学園構想」と称していました。関西学術研究都市という名称は、1978年6月7日、京都府の佐藤尚徳土木建築部長と検討して決定しています。「文化」が付いたのは、1979年10月の奥田・梅棹・岡本・河野会談です。従って「提言」の段階では「学術研究都市」になってます。1978年12月5日、調査懇談会総会で第1次提言を決定。確かに30年経ちました。
昨年の11月24日、奈良忠氏が亡くなりました。30年前のその日、大阪の都市調査会で、奈良さんと二人で第1次提言の起草をしていました。
奥田東先生から言えば次々世代、47歳でした。

上掲の萩原さんの著書には、次のような記述がある。

(水没地の移転計画案について)今度は新計画を誰に頼むか、相談のために上京した。日本能率協会の奈良忠さんと華山謙先生に相談し、二人から磯崎新先生がよいとのアドバイスを受けた。二人とも期せずして同じだった。
……
堀口次長(注:群馬県企画部)が私を訪ね、生活再建対策を日本能率協会に相談しようかと思うがどうかと言う。
……
奈良忠さんは、建設省から依頼された当初から、八ツ場ダム問題に深い関心をもっており、幾度も地元入りしていた。私と堀口次長とで上京し、奈良さんにあった。奈良さんは、「磯崎新先生が手がけられた以上、もはや自分らの出る幕ではない。磯崎さんの意見を聞いてからにしよう」と言う。

断片的な引用にならざるを得ないが、萩原さんが、奈良さんを信頼していたことが分かる。
八ツ場ダムの本体工事の入札が延期になる直前に、奈良さんは亡くなられてしまった。
私は亡くなられる直前に、病床の奈良さんをお見舞いする機会があった。
奈良さんの意向で密葬で送られたということだが、ドイツ語が堪能だった奈良さんは、死に面して意識が混濁する中で、ドイツ語でうわ言を言っていたと聞いた。
こうして、萩原さん、華山さん、奈良さんなど、八ツ場ダム計画に関わった多くの人が既に鬼籍に入ってしまったことになる。
余りにも長い年月であったと言わざるを得ないだろう。

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2009年9月18日 (金)

八ツ場ダムの入札延期 その7.政権交代と行政の継続性

鳩山内閣が16日に発足した。
各紙の報道によれば、国土交通相に就任した前原誠司氏は、早速、八ツ場ダムの建設中止を明言した。
国土交通省サイドは、八ツ場ダム建設問題は、新大臣の判断に委ねるとしていたので、事実上建設中止が決定したということになる。
民主党のマニフェストには、川辺川ダムと共に八ツ場ダムの建設中止が明記されていたので、ある意味では当然の判断といえよう。
しかし、これで一件落着というわけではもちろんない。
というよりも、新たな問題の始りと考えるべきだろう。

八ツ場ダムの周辺住民で、ダム建設を前提に、既に移転をしてしまっている人も少なくない。
1090913写真(産経新聞090913)で見るように、水没予定地域の川原畑地域では、代替地への墓地の移設を行っている。
墓地こそは、先祖伝来の地の象徴のようなものであり、この段階での中止の決定がさまざまな問題を派生させることは間違いない。

もちろん、前原国交相も、「やみくもに中止すると現場の方々も混乱するので、補償措置について地元の方々や関係自治体とも話し合いたい」と述べている。
新たな制度的枠組みを創設しても、補償には万全を期することが必要だろう。

八ツ場ダムについて、地元の群馬県の大沢知事は、「共同事業者である1都5県の意見を聞かずに建設を中止したのは言語道断で極めて遺憾」とする談話を発表している。
埼玉県の上田知事は、「ルール無視。手続き無視。あってはならないことだ」と猛反発している。
東京都の石原知事は、「負担金の返還を求める」意向を明らかにしている。
つまり、関係自治体は、基本的に建設賛成の立場である。

政権交代による政策の変更は、当然のことである。
しかしながら、住民の生活と密着した行政施策は継続性が求められるだろう。
行政担当者の困惑ぶりが目に浮かぶが、だからこそ計画段階にこそ注力が必要だということだと思う。

当然のことながら、建設反対派は、前原国交相の意向を歓迎している。
建設続行すれば、重大な公約違反となるから、建設中止の方向に進まざるを得ないだろう。
水資源開発については、近年の水需要の動向からすれば、八ツ場ダムが建設されなくても、さほど大きな問題にならないと考えられる。
しかし、ダムありきで検討されてきた地元の生活再建の問題、洪水調節機能の代替をどう考えるかという問題は、今後の大きな検討課題である。
八ツ場ダム建設に関する今までの経緯は、余りにも大きな犠牲を生んだとせざるを得ないだろう。

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2009年9月17日 (木)

八ツ場ダムの入札延期 その6.華山謙さん

萩原好夫『八ツ場ダムの闘い』岩波書店(9602)の中に、個人的に胸が痛くなるような思いのする故人が2人登場する。
東京工大元教授の華山謙さんと、(社)日本能率協会や(財)都市調査会等のシンクタンクで活躍した奈良忠さんである。

華山さんは、ダムの補償問題からスタートし、環境政策における合意形成など、幅広い分野で活躍していた学者だったが、1985(昭和60)年のクリスマスの夜に、46歳の若さで自ら命を絶ってしまった。
私は何回か少人数で話を聞く機会があり、そのプロセスで知り得た人柄と識見について、深く尊敬していた。
まさに知・情・意を兼ね備えた人であったと思う。

主著は、『補償の理論と現実 ダム補償を中心に』勁草書房(1969)で、ダムの水没者をフォローして、その実態を明らかにした。
いささか古い資料ではあるが、『ジュリスト増刊総合特集23・現代の水問題-課題と展望』に収載されている「水没補償と生活再建のあり方」という論文を見てみよう。
華山さんの問題意識は、ダム建設は上流地域に犠牲を、下流地域に受益をもたらすが、この利害対立を円滑に調整する手段が欠けており、新たな調整の仕組みが必要ではないか、というところにある。

華山さんは、補償問題には次元を異にする3つの課題があるとする。
第一は、起業地の範囲内において、そこで従前生活していた人々の生活をどのようにして再建するか、という課題である。
第二は、起業地の周辺に住む人々に対して、事業が及ぼす悪影響をどう補償するか、という問題である。
第三は、事業によって被害を受ける地域と利益を受ける地域との格差の問題である。言い換えれば、開発利益をどう還元するかという問題である。

第一の生活再建の問題は、ダム建設が、水没者の財産の一部を取得するものではなく、全生活の根本的変更を求めるものであり、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」では、十分な解決を得ることができないところに問題の原因がある。
ダムの起業者は、補償を財産権に対するものと考え、個々の物件に対して補償額を計算しようとするが、被補償者は、受け取る金額で生活の再建を図らなければならない。
被補償者は属人主義、起業者は属物主義の立場ということもできる。

ダムの場合、水没者の大部分は下流平野に移転する。
貯水池周辺は、地形の制約等から移転が困難であるからである。
そして、取得される土地の評価額は、水没予定地の近傍類地の取引価格を基準としており、その単価は一般に下流部に比べて低廉であるから、補償金で下流地域で土地を取得することは困難になる。
この問題は、生活権補償の観点から、下流部での宅地取得が可能な補償額を払うか、宅地に対する補償額を近傍類地を基準にするのではなく、下流平野部の類地を基準にするかしないと解決しない。

長年住み慣れた土地を離れることは、大きな精神的負担を強いられるものである。
しかし、この精神的負担は定量的に評価することが難しく、社会生活上受忍すべきものとされている。
上記の「要綱」にも精神補償の項目はないが、現実には、下流感謝金などを名目として、各戸に支払われる金額がある。
これは、現実に、被補償者の受ける苦痛が、社会的受忍の範囲を遙かに超えるものであることが共通認識になっているためである。

第二の事業損失についてはどうか?
事業損失とは、工事の期間中に起こる騒音や振動の問題、工事完成後に起こる電波障害や日照の問題、移転に伴う人口減少の問題等である。
この問題は、起業者の責任範囲をどう捉えるか、ということに帰着する。
起業者が故意または過失があれば賠償の責任があるとするものを過失責任論、故意または過失がなくても、損害の実態が相当の因果関係を持つものであれば責任ありとするものを無過失責任論とすれば、「要綱」は過失責任論の立場に立っている。
事業損失については、その損失の実態を厳密に把握し、損失と事業との関係に相当の因果関係が認められるならば、無過失責任論の方が妥当性を有すると考えられる。

第三の開発利益の還元についてはどう考えるべきか?
公共投資は、公平・公正の観点と効率の観点を両立させることが求められる。
しかし、多くの場合、この2つの観点は両立しない。
ダム建設の開発利益の還元について、公平・公正性を優先しようとすれば、従前より上流域への還元を増やす方向になるだろうし、効率性を優先しようとすれば、人口の稠密な下流域への還元額が大きくなる。

華山さんが亡くなられて既に20年以上の時間が過ぎている。
華山さんの提起された問題に対して、もっと速やかな対応がなされていれば、八ツ場ダムもここまでこじれなかったと思われる。
それにしても、政権交代が実現し、地域主権をどう具現化していくかが問われている現在、華山さんが生きていれば、と考えるのは私ばかりではないだろう。

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2009年9月16日 (水)

八ツ場ダムの入札延期 その5.土地問題としてのダム

ダム建設の契機は水問題であるが、建設における最大の課題は、土地問題である。
ダム建設によって水没する地域に、生活している人が皆無だというようなことはあり得ない。
多かれ少なかれ、これらの水没地域の生活者は、移転を余儀なくされるわけであるが、その際に補償が行われる。
用地補償に対しては、代替地を要求されることも多く、事業者が代替地を造成するケースもある。

神奈川県の宮ケ瀬ダムの建設に際しては、建設省が、厚木市に、宮の里という住宅団地を造成している。
宮ケ瀬ダムの移転者数は281名に及んだが、宮の里の代替地に移転した被補償者は190名で、68%に及ぶ。
Photohttp://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/TPage/TPDYouti1k.html
ダムの場合には、水没する土地が面として存在するため、そこで生活している人たちの間には、当然コミュニティとしての関係がある。
そのため、集団で移転することを希望することが多く、その要求に応えるためには、大規模な代替地が必要になってくる。

ダムの場合には、代替地の提供が行われることが多くなってきているが、用地補償においては、代替地の提供が事業者に義務付けられているわけではない。
「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」においては、損失の補償は、原則として金銭をもってする、と定められている。
権利者が金銭以外の方法による給付を要求した場合には、「要求が相当であり、かつ、真にやむを得ないものであると認められるとき」は、事情が許される限り給付するようんい努めるべし、という努力規定である。

土地収用法においても、損失の補償は原則的に金銭をもってするものとしている。
そして、土地所有者等は、補償金に代えて替地による補償を要求できるとし、その要求が相当であると認められるときには、収用委員会は起業者に対して替地の提供を勧告する等ができ、一定の要件のもとでは権利取得採決において、替地による損失の補償を裁決することができる、としている。

これらの基準の背景に流れている思想は、金銭補償によって損失はカバーできるはずだ、ということである。
しかし、市場経済化が進んだとはいえ、金銭ですべてが解決するものではないことは当然である。
先祖代々長く住んできた土地には、多分に精神的な要素が存在している。
「故郷」への思いは、金銭的に評価できない部分がある。
そういう意味では、損失の金銭的評価を、客観的に確定することは相当に難しいということになるだろう。
同様に、被補償者の要求の「相当」性の判断基準も曖昧なものとならざるを得ないだろう。

そもそも、損失補償の問題と生活再建の問題は、別の問題であって、重要なことは損失が補償されることよりも、生活が再建されるのか否かということである。
現実に、ダム建設の水没者などの場合、生活再建がままならないことが多かった。
そういう実態が明らかにされると共に、事業者の側も、生活再建へ向かって努力を傾けるようになってきているが、制度が対応していないので、八ツ場ダムのように、半世紀以上の時間が過ぎてしまうことになるわけである。

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2009年9月15日 (火)

八ツ場ダムの入札延期 その4.地域主権の実体化

今回の総選挙の論点の1つとして、地方分権のあり方があった。
民主党のマニフェストにも、「中央集権から、地域主権へ」という原則が明記されている。
原則としてはその通りであろう。
しかし、地域主権をどう現実化していくか、ということになると、途端に難問が発生する。
八ツ場ダムにしてから、地域のとらえ方をどう考えるかによって、賛否は逆転する。
経緯は別として、現時点で言うならば、水没地域の予定者の範囲でも、建設推進派が多数であろう。
下流の受益権の知事は、こぞって推進の必要性を主張している。

地域主権の立場にたった場合、八ツ場ダムの建設をどう考えるべきか?
同ダムの総事業費は、4600億円の予定とされ、既に3210億円が08年度までに支出されているという(日本経済新聞09年8月24日)。
Photo 写真をみれば、既に周辺の工事が相当に進捗していることが分かる。
入札延期となった本体工事などは、ダムの全体計画からすれば、最後の仕上げのようなものともいえるだろう。

これらの工事を推進するに際して、既に支出されているものには、下流都県の負担分もあるから、建設中止となった場合、その処理をどうするかも大問題だ。
また、予定されている4600億円で完了するのかどうか、という問題もある。
(写真は、http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/CO2009090301000456.html
静岡空港などの場合、運営段階で発生する赤字を、どう負担するかということが問題になっているが、ダムにおいても当然運用コストは発生する。
開発利益は、当然全体のコストよりも大きいはずであるが(そうでなければ建設の論理が成り立たない)、その超過利益をどう配分するのか?

上記日経新聞には、「地域の争点」として、以下が取り上げられている。
1.群馬県の八ツ場ダム
2.岐阜県の徳山ダム導水路
3.北海道の新幹線延伸
4.長崎県の諫早湾干拓事業
いずれも複雑な事情を抱えた事業である。

共同通信の記事によれば、八ツ場ダムの場合「関係自治体に反対ゼロ」ということである。
民主党がマニフェストに「八ツ場ダムの建設中止」を盛り込んだことに対して、上田清司・埼玉県知事は8月5日に、民主党の鳩山由紀夫代表宛に八ツ場ダムの建設中止の見直しを要請した文書を郵送している。
それによると、「八ツ場ダムは水道水の確保と利根川の洪水調節の両面において必要不可欠なダムである」ことや「地元・長野原町などの関係自治体の声を聞くことなくマニフェストに記載された」ことを理由に建設続行を求めた。なかでも、八ツ場ダムの建設を中止した場合、「逆に支出が増える」と、事実誤認を指摘した。
八ツ場ダムの地元、長野原町や東吾妻町もダム建設には賛成だ。高山欣也・長野原町長や茂木伸一・東吾妻町長らも8月6日に、民主党に対して建設中止の撤回を要請した。
長野原町役場は「ダム建設に反対している町民はいない」とまでいう。総選挙での「民主圧勝」後のいまも、「建設推進の立場に変わりはありません」と言い切る。

一方で、反対派グループの「八ツ場あしたの会」は、ダム建設が地方の雇用創出などに役立つという考えに理解を示しながらも、「治水と利水の目的も社会情勢の変化で、すでに失っています。
他のダムをみても、経済効果は完成後の10年程度を経過すると地域が衰退した前例もあります。
公費は別の使い方があるはずです」(事務局)と反対の理由を説明する。

いずれにしろ、今までの経緯の中で、水没を前提にした地域住民は、既に多大な犠牲を払っている。
民主党は、ダム建設を中止した場合、「ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法(仮称)」をつくり、ダム建設を中止した場合の生活再建・地域振興を進めるとしているが、是非住民参加の固いで、生活再建・地域振興が実行されることを願う。
地域主権の実体がそこで試されるのではなかろうか?

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2009年9月14日 (月)

八ツ場ダムの入札延期 その3.利根川における水資源開発

東亜・太平洋戦争に敗れたわが国は、まさに「国破れて山河あり」という状態だった。
したがって、山河のもたらす恵みを最大限に活用することが、敗戦からの復興の最優先テーマであった。
アジア・モンスーン地帯に属し、雨量の多いわが国にとって、山河の恵みの代表は水資源である。
大規模ダムの建設は、水資源の確保という側面と、洪水を貯めて下流域への流下水量を調節し、水害を防ぐという側面において、まさに公共性を有するものだったといえる。

利根川は、「板東太郎」と呼ばれ、わが国を代表する河川である。
群馬県の大水上山(標高1,840m)に源を発し、千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。
幹川の流路延長は322km、水源から河口までの支川を含めた流路延長は約6,700kmで、流域は東京都、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、埼玉県の1都5県にまたがり、流域面積は16,840平方kmにおよぶ。
(図は、http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/img/tone03.jpg
2 江戸時代以前には、現在の東京湾に注いでいたが、江戸時代に流れを東に遷し、太平洋に注ぐようにした。
この「利根川東遷」については、その目的、経緯等をめぐって多くの論議があり、まことに興味深いテーマであるので、機会をみて触れたい。

利根川水系におけるダム計画は、まさに戦後の公共事業の歴史だったということができる。
Wikipediaの「利根川水系8ダムの項(2008年11月16日最終更新)から引用しよう。

1951年(昭和26年)には国土総合開発法の施行に伴い利根川水系は『利根特定地域総合開発計画』の指定地域となり、より強力な河川開発を行うことと成った。1950年代には前記のダム事業の内藤原ダム・相俣ダム・五十里ダムが完成していたが、これに加え日本最大の多目的ダム事業となる予定の「沼田ダム計画」、印旛沼付近から東京湾へ利根川の洪水を放流する「利根川放水路」計画、そして利根川河口堰計画が新規事業として計画された。
だがこの頃になると戦後の混乱期を脱し次第に東京都の人口が増加、又京浜工業地帯の拡充による工業生産活動の増大により急速に上水道・工業用水道の需要が拡大した。1957年(昭和32年)には多摩川に小河内ダムが完成し東京の水がめとなったがこれだけでは安定した水供給は望めず、更に埼玉県・千葉県等の郊外も人口が増加し水需要の逼迫は明白となった。これに対処すべく政府は1967年(昭和32年)に『水資源開発促進法』を施行し総合的な利水事業の整備を目的とした水資源開発公団(現・水資源機構)を設立。関東と関西の急増する水需要に対応しようとした。利根川は淀川と共に水資源開発水系に指定され、以後『利根川水系水資源開発基本計画』(フルプラン)に基づく水資源開発が公団によって手掛けられるようになった。これより利根川の河川開発は洪水調節を主眼においた治水から、安定した水供給の確保という利水に重点が置かれるようになった。
公団発足の同年矢木沢ダム・下久保ダムが建設省より公団に事業移管され、その後フルプランの改定に伴い事業が拡大。草木ダム・利根川河口堰が新たに公団に事業移管した他奈良俣ダムが計画された。1968年(昭和43年)には思川開発が事業に加わり、1974年(昭和49年)には荒川が水資源開発水系に指定されて利根川水系と一体化した水資源開発が実施された。一方建設省は従来足尾銅山の鉱毒沈殿を目的としていた渡良瀬遊水地の利水目的付加にも乗り出し、1973年(昭和48年)より「渡良瀬第一貯水池」(谷中湖)建設事業を行い1989年(平成元年)に完成させた。翌1990年(平成2年)には奈良俣ダムも完成し、現在の利根川水系8ダムが形成されるに至った。8ダムより放流される水は利根川中流の利根大堰で取水され、武蔵水路を経て東京都へ送水される。この他見沼代用水や房総導水路、霞ヶ浦用水等を通じ埼玉県・千葉県・茨城県へも供給される。ダムの水は汚染しきった隅田川の水質改善にも寄与している)。

利根川水系の開発史は、国土開発史の中心であるから、問題性においても中心的な位置を占めることになる。
なお、戦後最初の日本共産党書記長に就任した徳田球一に、『利根川水系の綜合改革 : 社会主義建設の礎石』駿台社(5208)という著書(というよりもパンフレットに近い)がある。
世界大恐慌による打撃からの復興にテネシーバレー開発(TVA)が果たしたのと同様の役割を、利根川水系の総合開発に託そうとしていたということができよう。

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2009年9月13日 (日)

八ツ場ダムの入札延期 その2.官僚専権と公共事業

萩原好夫『八ツ場ダムの闘い』岩波書店(9602)に、「はしがきに代えて」ということで、経済学者の宇沢弘文氏が『官僚専権の弊害/新しい政治の流れを求めて』と題する一文を寄せている。
宇沢氏は、日本の経済・社会の現状(1996年当時)を、高速道路や新幹線、公共建造物などに代表される世界と、貧しい一般庶民の住居や環境破壊に代表される世界の対照によって特徴づけられるとする。
その対照は、戦後50年の間に形成され、ますます拡大・深刻化しつつある。

そして、その中心的な要因は、行政官僚、とくに中央官庁の上級官僚の強大な権限にある、としている。
これらの行政官僚群は、戦前・戦中を通じて、日本を悲惨な戦争に巻き込んでいった。
その同じ行政官僚が、ときとしては占領軍と手を組み、ときとしては占領軍からの指示を適当にサボタージュしながら、所属する官庁の権限と縄張りを拡大化し、強化してきた。
おそらくは、安倍晋三元首相の祖父・岸信介などは、その典型といえるだろう。

農商務省に入省した後、農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。
満州国の派遣され、産業部次長、総務庁次長などを歴任し、計画経済・統制経済を取り入れた「満州産業開発5ヶ年計画」を実施した。
満州国国務院総務長官を務めた星野直樹、関東軍参謀長の東條英機、日産コンツェルンの鮎川義介、満鉄総裁を務めた松岡洋右と共に、いわゆるニキ三スケと呼ばれた。

戦後は、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、冷戦の激化に伴うGHQの方針転換により不起訴となり、釈放されて政治活動に携わる。
鳩山一郎と共に、日本民主党を結成し、幹事長に就任。
保守合同を主導して、自由民主党の幹事長に就任し、石橋湛山が病で倒れると、首相に就任し、60年安保の一方の主役となった。

岸信介は、まさに55年体制による自民党の長期政権構築の最大の功労者だった。
そして、自民党が政権を確保していた55年体制において、自民党は、各省庁の権限と縄張りを拡大・強化する役割を担ってきた。
岸信介こそ、官僚専権を体現した政治家だったということになる。
そして、官僚専権による公共政策、公共事業は、特定の官僚群、密接な関係を持つ個別企業・個別的産業、あるいは特定の利益集団に利益をもたらすものであって、本来の意味における公共性を欠くところとなった。
自民党、政府官僚、大企業を中心としたトロイカ体制の形成である。
官僚専権のもとでのトロイカ体制が、富の配分を不公正なものとしていった。
その結果が、上記の2つの世界の対照をもたらしたのである。

宇沢氏は、官僚専権を脱する動きが展開されようとしている、として、次のような事例をあげる。
1.成田空港問題における共生委員会の成立
2.八ツ場ダム計画における新しい町づくりへの動き
つまり、八ツ場ダムは、官僚専権の公共事業の代表例であり、かつそれを脱却する動きの代表例でもある、と位置づけられているということである。
それにしても、宇沢氏が新しい動きを指摘してから、さらに10年以上の時間が過ぎているということになる。

水問題の関係者の間では、八ツ場ダムは有名な存在であるが、一般国民にとってはどうであろうか?
八ツ場ダムは、工事がかなりの程度進行してしまっていることが、問題をさらに複雑にしている。
生活再建のために、既に移転してしまっている人たちのことをどう考えるべきか?
過去に投じられた巨額の税金をどうするのか?
ダム建設を契機に新しい町づくりをめざしてきた萩原さんたちの動きにどう対応するか?
そもそものダム建設の目的には、何らかの代替的手段が存在するのかどうか?

本体工事が中止という事態になれば、また新たな問題が噴き出してくる。
ダム建設は中止されることになるのだろうが、中止後の諸問題について、民主党の真価が問われることになるのではなかろうか。

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2009年9月12日 (土)

八ツ場ダムの入札延期 その1.計画の現況

国土交通省の谷口博昭事務次官が、群馬県の八ツ場(ヤンバ)ダムの11日から予定していた本体工事の入札延期を表明した。
民主党は、マニフェストにおいて「ムダづかい」をなくすことを第一に挙げている。
その第一として、公共事業における「ムダ」が取り上げられており、「川辺川ダム」「八ツ場ダム」は中止、と明記されている。
時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直すとしており、その代表例として、八ツ場ダムが取り上げられているわけである。

今回の総選挙で民主党が圧勝したことにより、このマニフェストを考慮に入れた国土交通省の判断ということになる。
谷口次官は、新政権の国土交通相に説明した上で、判断を仰ぐとしている。
しかしながら、マニフェストに具体名を明記していることから、本体工事がストップすることは、ほぼ確実と思われる。
時代に合わない公共事業の見直しは当然のことであろう。

ダムなどの公共事業は、計画されてから実施に移されるまでにかなりの時間を要する。
そのため、計画時の諸環境と大きく様相が変わってしまうことがあることは避けえない。
先ごろ開港した静岡空港についても同様である。
というよりも、静岡空港については、計画の時点から疑念があったというべきであろう。
静岡空港便の搭乗率が劇的に改善される可能性があるだろうか?
私は悲観的にならざるを得ない。
赤字のツケは、結局は県民が負担しなければならないのである。

静岡に空港を持つ必然性があったのかどうか?
もちろん、搭乗率向上の努力はしなければならないだろうが、いずれ、ムダな施設だったという評価を下されることになるのではなかろうか。
公共事業は、一度計画され、着手に移されると、往々にしてその遂行自体が目的化してしまう。
八ツ場ダムについていえば、最初の計画発表は、1952(昭和27)年だから、半世紀以上も前のことである。

この間、「反対-賛成」をめぐって、数多くのドラマがあった。
八ツ場ダムの建設予定地は、吾妻渓谷の川原湯温泉のある場所である。
1198(建久5)年に源頼朝が開いたと伝えられているが、多くの文人墨客に愛されてきたら関東の名勝である。
その養寿館という旅館の主の萩原好夫さんという人がいる。
若いころは、日本共産党の活動家でもあったようである。

萩原好夫『八ツ場ダムの闘い』岩波書店(9602)は、多くのことを考えさせられる著書である。
八ツ場ダムの本体工事の入札延期は、「脱ダム社会」の到来を予感させるものである。
「脱ダム」とは、単にダムだけの問題ではない。
「ダム」は、官主導で行われてきた大型公共事業のシンボルである。

私は、公共事業は必要であると考えるし、ダムも有用であると考える。
水資源の安定供給と、洪水被害の軽減は、まさに公共的課題であろう。
問題は、開発利益の配分と費用負担のバランスの問題である。
ダムの場合、水没地域の住民は、まったく新たに生活の再建を図らざるを得ない。
その難易度は、ダム建設予定地とその周辺の土地条件によるが、社会経済的な環境にも大きく影響される。

ダムの受益者は、下流の大都市圏である。
ここに、ダム建設の費用負担者と受益者が、上流と下流という地域間対立となって現れる。
八ツ場ダムについても、受益者である東京都は、すでに457億円を支出しているという。
石原都知事は、建設が中止になれば、今までの支出の返還を国に要求すると意思表示している。

もちろん、計画発表から50年以上の期間、建設予定地の住民は、経済的にも心理的にも多くの負担と圧迫を受けてきた。
その実態は、上掲書で窺い知ることができるが、実際の辛苦を体感することはできない。
八ツ場ダムの問題は、大規模な公共事業においては、計画段階こそ重要であることを示しているように思う。

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2009年9月11日 (金)

詐欺のケーススタディ(3)メガバンクの内部協力者

詐欺のケーススタディとして、以下を取り上げてきたが、またまた格好の材料が現れた。
コシ・トラストという不動産会社が、三井住友銀行から融資金を騙し取った事件である。
2009年6月12日 (金):詐欺のケーススタディ-脱税容疑を入口に
2009年6月29日 (月):詐欺のケース・スタディ(2)-未公開株取引とマルチ商法
かつて、住友銀行といえば、攻撃的でありつつも、手堅い行風で知られていた。
例えばWikipediaでは、次のように記述されている(最終更新 2009年7月11日 (土))。

住友グループの中核で、本店は大阪市中央区の淀屋橋(現在の三井住友銀行大阪本店営業部)に置かれていた。2001年4月にさくら銀行と合併して三井住友銀行となった。また、先進的・効率的経営で定評がある一方、『逃げの住銀』・『石橋を叩いても渡らない』『住銀の歩いた後にはぺんぺん草も生えない』と評され、経済誌の顧客イメージランキングでは、常に他行の後塵を拝していた。同じ大阪に本店を置く三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)、大和銀行(現・りそな銀行)と並ぶ在阪三大都市銀行の一行でもあった。統一金融機関コード0009で、三井住友銀行に引き継がれている。

以前、私の関係していた会社も、住友銀行を準メインバンクとしていたが、業績が順調な時には新規案件の紹介に熱心であるが、業績に陰りが見えたりすると、手のひらを返したように債権管理に敏感になる。
これは銀行の一般的な態度でもあるが、住友の場合、特に顕著だったように思う。

Photo_2 今回の事件は、三井住友銀行高円寺支店を舞台としており、以下のような経緯である。
http://www.gendaisangyojoho.co.jp/cgi-bin/backnumber.cgi?NO=619&BODY=16

東京・渋谷に本社を置いていたコシ・トラストという不動産会社が、60数社を三井住友銀行に紹介、同行が約170億円を融資、100億円以上が回収不能となっている
……
『読売新聞』によれば、コシ・トラスト融資の仕組みは次のようなものだった。
「60数社の大半は融資の申し込みの際、偽造された経理書類を提出し、約20社は営業実態のないペーパーカンパニーだった」
この信じがたい迂闊さは、コシ・トラストを担当した三人の高円寺支店の行員が、程度の差こそあれ中林明久社長に籠絡されていたことで、ある程度、納得できた。最も親しかった元行員は、家賃補助を受けていたうえに、車やクルーザーの便宜を図ってもらっていたのだから、中林社長に「審査のくぐり抜け方」を伝授していたとしても無理はない。
……
マルチ商法と未公開株販売は、この商法に慣れ親しんだ人間たちが、くっついたり離れたりしながらビジネスを展開する場であり、最近は、そこに暴力団関係者が“しのぎ”として関与することが少なくない。今回、そこに三井住友、三菱UFJという二大メガバンクを引き連れた中林社長が飛び込んできた。

マルチ商法と未公開株販売は、上記のケーススタディ(2)でも取り上げたが、既に古典的な手口なのかも知れない。
ここで問題にしたいのは、三井住友銀行というメガバンクにおいて、内部に共犯者がいたと考えざるを得ない事態である。

高円寺といえば、ねじめ正一氏の『高円寺純情商店街』新潮文庫(9204)などで知られるように、ユニークな商店街を擁する下町(?)である。
高円寺で行われている「阿波踊り」は今や大人気のイベントで、静岡県の裾野市では、これを高円寺から移入し、数多くの連が踊りを競って、夏祭りを盛り上げている。

今回の事件は、このような街におよそ相応しくないものであるが、事情通の間では、闇勢力のメッカとも言われているようである。
http://facta.co.jp/article/200806036.html
上記サイトには、以下のような言葉が載っている。

「コシ・トラスト? ああ、三井住友銀行の高円寺支店から、なんぼでもカネ引けるちゅう会社やろ。有名だったわ。ブローカーの集まるような高円寺の喫茶店じゃ、関西弁が飛びこうとるって聞きましたで」(関西在住の企業舎弟)

3  9月10日の日経新聞では、他に逮捕された人物として、元コシ社役員で元暴力団組員や行政書士、法律事務所職員らがいる。
これらの事件関係者は、経営実体のない会社の虚偽の決算書類などを同行高円寺支店法人営業部に提出するなどして、融資を申し込んで詐取した。
銀行内部に協力者がいなければ、そう簡単に審査は通らなかったと思われる。
金額の大きさもさることながら、メガバンクに闇社会が深く食い込んでいる構図が明らかにされたことは重要であろう。
(図は、産経新聞9月10日)

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2009年9月10日 (木)

自由民主党・自壊の構造 その7.ガバナンスの欠如

今さらではあるが、総選挙への対応をめぐって、麻生首相では戦えない、という声が自民党の中に広がったことは記憶に新しい。
結果的にはその通りであったわけだが、武部勤、中川秀直、加藤紘一氏らの幹事長経験者がその先鋒だったことは、自民党という政党のガバナンスの欠如を示すものだったといえよう。
2009年7月16日 (木):混迷深める自民党
2009年7月17日 (金):反麻生勢力は、“一日天下”か?

ガバナンスとはどういうことか?
次のように説明されている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%ac%a5%d0%a5%ca%a5%f3%a5%b9?kid=129014#seeall

governance
1.「統治」を意味する名詞。
2.統治の対象が私企業の場合の「コーポレートガバナンス」は、特に法令遵守性や「報・連・相」の徹底などの文脈で使用されることも多い。

関連用語としてよく用いられるものに、ガバナビリティという言葉がある。
被統治能力、すなわち統治されやすさ、という意味で、GHQに対する日本国(民)などがその例かと思われるが、統治する能力すなわち統率力・リーダーシップなどの意味として誤用されることもある。
いずれの意味にしても、総選挙前の自民党が著しくガバナンス、ガバナビリティに欠けていたことは事実であろう。

およそ組織にとって、ガバナンスは最重要事項であろう。
ガバナンスが欠けている状態では、組織である意味がなくなるからだ。
ところで、ガバナンスの基盤になるものは何か?

人は何をもって行動するのだろうか?
近代経済学は、合理的な経済的判断が人間の行動原理だという仮定に基づいて体系が組み立てられている。
しかし、現実社会においては、このような基準だけで行動する人はいない。
というよりも、そもそも何が合理的な経済判断かが不明だと考えるべきだろう。
もちろん、判断の要素は多数あり、まさに複雑系ともいうべき環境の中で、直観的に判断をせざるを得ないことがほとんどであるが、それが合理的なものである保障はないからである。

また、経済性の範囲をどう考えるかにもよるが、人間が人間である所以は、理念によって動くというところが大きいのではないか。
吉本隆明風にいえば、共同幻想ということになるのかも知れない。
自民党の理念は何だったのだろうか?

冷戦時代は、西側の自由主義陣営ということがあった。
また、経済成長なども、多くの国民の支持するところだっただろう。
しかし、冷戦終結の辺りから、自民党を成立させていた共同幻想が失われ、既得の権益構造を維持することが党の存立基盤に変質してしまったのではないか?
「構造改革」という言葉は、この既得の権益構造からの脱却を目指すかのように見えて、権益の帰属先が変わっただけだったのではないか、と考えられる。

ガバナンスの基盤として考えられる別の要因として、論理性がある。
しかし、自民党は、もともと論理性よりも、義理人情に頼る部分が多かったように思う。
もちろん、論理整合性よりも、義理人情が重要な局面は多々あるので、否定すべきものではないのだが、余りにも論理が破綻していれば、ガバナンスは低下するだろう。
宗教は、多くの場合、論理性が薄い。
幸福の科学(幸福実現党)の場合などは、特に顕著で、多くの人が異様な感じを持つのではないだろうか。
2009年8月20日 (木):「幸福の科学」の奇怪な世界観

また、統治者の人格・人間性もガバナンスの大きな要因であろう。
魅力的な人物の下には多くの人が集まる。
それを、大衆的な人気と勘違いしたポピュリズムに陥っていたのが、ポスト小泉の自民党だと思う。
麻生氏自身の数多くの失言・迷言をみれば、人格・人間性についての評価も自ずから明確ではなかったのか?
2009年9月 8日 (火):自由民主党・自壊の構造 その5.逆statesman
結局、自民党は敗れるべくして敗れたのだというしかないと思う。

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2009年9月 9日 (水)

自由民主党・自壊の構造 その6.連立の相手

自由民主党の歴史を振り返ってみよう。
自民党が衆議院で単独過半数割れしたのは、言い換えれば「55年体制」が終焉したのは、宮沢喜一内閣への不信任案に、小沢一郎や武村正義ら一部の自民党員が賛成票を投じて成立し、解散して実施された1993年の第40回総選挙であった。
自民党の獲得議席は223。
それでも第一党の座は維持しえた。

この選挙において、自民党から離党し羽田孜氏を党首とした小沢一郎氏らが結成した新生党は55議席を獲得し、同じく自民党から脱退したグループで作られた新党さきがけは武村正義氏を党首にして13議席を獲得した。
公明・民社・共産は微増または微減で、際立って惨敗したのは、議席を半数(70)に減らした社会党だった。
つまり、「55年体制」の終焉である。

され、この総選挙の結果、何が生じたか?
本来、第一党の自民党を中心とした連立内閣が誕生するところを、「豪腕」の力というべきか、35議席を獲得した日本新党を率い、国民的人気も急上昇していた元熊本県知事・細川護煕氏を首相とする、社会党も取り込んだ非自民・非共産の連立内閣がスタートしたのだった。
しかし、8カ月の短命に終わった。
その要因として、当初は盟友関係にあった武村氏と不和になっていったことが大きいとされる。

バブル崩壊が明白になり、実質GDP成長率はぎりぎりプラスの状態で、平均株価はピークの半分まで落ち込んだ。
「就職氷河期」という言葉が生まれるほど労働市場は冷え込んでいった。
官房長官職にあった武村氏は、政治改革より景気対策を優先させるよう細川首相に進言するが、細川氏は聞き入れず、次第に距離が開くようになってきた。
細川首相は次第に武村氏よりも「1・1ライン」=小沢一郎・市川雄一(公明党書記長)らに接近していくようになる。

93年末田中角栄が死去。
そして、細川内閣は、当時3%だった消費税を7%の「国民福祉税」とする構想を発表するもののすぐに撤回せざるを得なくなった。
根回しがなく、寝耳に水だった社会党や武村が強く反対したからで、社会党と細川=小沢ラインの距離が離れ、社会党と武村氏が接近することになる。

こうした状況で、景気対策が遅れ、予算審議も難航して、株価は下落の一途をたどる。
「佐川急便問題」で細川氏が政権を放擲すると、「1・1ライン」は、社会党が与党第1党の状況をなんとか変えようとする。
羽田孜を首班とする政権誕生直後、民社党委員長・大内啓伍が社会党とさきがけ抜きの統一会派「改新」の結成を発表。
社会党の倍ちかい130議席を持つ衆議院第2会派が誕生した。

これに対し、寝耳に水の社会党が激怒して政権離脱し、さきがけも閣外協力という形で距離をおくことになった。
羽田政権は過半数に届かない少数与党政権になった。
6月に予算がようやく成立した直後、自民党が内閣不信任案を提出し、羽田氏は悩んだあげく総辞職を選んで、羽田政権はわずか64日で倒壊した。

自民党幹事長の森喜朗氏は、社会党の幹部・野坂浩賢らに接近を図っていた。
羽田政権崩壊後、自社両党の接近は公なものとなり、自民党は村山富市社会党委員長を首相に擁立する案を提示する。
これに対し、小沢一郎氏らは、自民党の海部俊樹を離党に導き擁立する。
状況が混沌とする中で、決戦投票により村山氏が首班指名を受け、自社さ連立政権が成立する。

しかし、村山政権がムリの産物で、長続きしないことは誰の目にも明らかだったといえよう。
第3党党首で、格別のリーダーシップがあるわけでもない。
1995年は、いわゆる「戦後50年」という節目の年であったが、社会党が独自性を発揮することはできなかった。
沖縄基地問題が表面化し、日米安保条約を違憲とすら考えていた社会党の委員長には、この問題を現実的に処理する能力がなかった。

95年夏の参院選で社会党は惨敗。
自民党も大幅な議席回復はならず、河野洋平総裁の責任論となり、橋本龍太郎氏が総裁になって、村山氏は橋本氏に政権を譲る。
その後の政党の改編と連立の枠組みの変化はめまぐるしい。

自社さ連立-橋本内閣
自自連立-小渕内閣
自自公連立-小渕内閣
自公保連立-森内閣、第1次小泉内閣
自公連立-小泉内閣、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣

自公連立内閣は、2000年の森内閣からおよそ10年間で終止符を打つことになった。
小選挙区を中心に票を集める自民党と比例代表を中心に票を集める公明党による選挙協力が、自公両党が連立する大きなメリットだった。
しかし、小泉首相が掲げる構造改革路線によって、同党の支持基盤だった建設業や農漁業などの業界団体や後援会組織の多くが離反し、自民党は公明党の支持母体である創価学会への依存を強めざるを得なくなる。
それに対して、それまでの自民党支持層が反発し、党勢がさらに低下する悪循環に陥った。

今回の総選挙でも、自民党は、「比例区は公明党に」などと、公明票をあてにしなければ当選の見込みが立たない状況に追い込まれることになった。
当選しなければ意味がないのが個人としての政治家であるが、党としてのアイデンティティを失ってしまったと言わざるを得ないだろう。

今回の総選挙の結果を、自公対民主としてみると、以下のようになる。
       解散時勢力   当選者
自公      334       140
民主      112       308

単に自民党の惨敗ということではなく、自公連立という政権のあり方が否認されたとせざるを得ないだろう。
それは、宗教団体が政権の立場にあることへの拒否感ではないだろうか。

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2009年9月 8日 (火)

自由民主党・自壊の構造 その5.逆statesman

政治家を和英辞典で引くと、次のように出ている。

政治家 a statesman; a politician

両者の違いについて、高校時代に英語の時間に教えられた記憶がある。
politicianは、政治的な策を弄する人、statesmanはstatementを発信する人、というような説明だったように思う。
ちなみにstatemenは、以下のように説明されている。

━━ n., vt 陳述; 言ったこと; 声明(書); 報告[明細]書

言い換えれば、政治家にとって、言説というものがきわめて重要だということだろう。
自民党の幹部とされる人たちの失言・迷言は数知れない。
特に、麻生首相に関しては、あきれるくらい多かったというべきだろう。
wikipedia(09年8月3日最終更新)に掲載されているものから、首相就任後になされたものの一部を抜粋(多すぎて全部は引用しきれない)してみよう。

首相就任後、麻生は毎晩のように高級ホテル(帝国ホテル、ホテルオークラニューオータニなど)のバーや、料亭で会食していることを報道された。記者団に「庶民の感覚と懸け離れているのでは」と質問された際に麻生は「高級料亭、毎晩、みたいな話で作り替えている。引っかけるような言い方はやめろ」などと答え、その後も攻撃的な口調で答えた。

2008年9月24日、毎日新聞が「とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて普通の人には分からんだろうな」と発言したと報道した。

2008年10月26日に行われた自民党の秋葉原街頭演説会の様子がYou Tubeに投稿され、九州でのある事例で、非正規社員が正規社員に転換されたことで婚姻率が上昇したことを紹介したうえで「女性がもう、結婚する相手が、なんとなーく、食いっぱぐれそうな顔してるとこりゃちょっと、結婚したらあたしが一人で働かないかんと。そら、なかなか結婚したくないよ。そら、女性のほうも選ぶ権利がある」と演説した。前後の文脈から「食いっぱぐれそうな顔をしている」というのは非正規雇用の男性を指していることは明白であり、非正規雇用の男性を差別する発言だとしてインターネット上で話題になった。

2008年11月20日、全国知事会議で「自分が病院を経営しているから言うわけじゃないけれど、大変ですよ。はっきり言って(医師は)社会的常識がかなり欠落している人が多い」「(医師不足の)責任はおたくら(医師)の話ではないですか」と発言した。会議後、記者団に発言の真意を問われ、「まともなお医者さんが不快な思いしたっていうんであれば、申し訳ありません」と謝罪した。

2008年11月20日の経済財政諮問会議において、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金 (医療費)を何で私が払うんだ」「私の方が(多額の)税金は払っている」「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」と、発言していたことが、2008年11月26日に公開された議事要旨から判明した。

2008年11月14日のワシントンでの同行記者団との懇談で、定額給付金について「給付なんておれはいらない、というプライドもある人もいっぱいいる」と、定額給付金を受け取る国民はプライドが無いとも取れる発言をした。

2008年12月14日、北九州エコタウン(北九州市)を視察し、「民間で銭にしちゃおう、『しのぎ』にしようというのがすごい」と発言し、毎日新聞は暴力団の資金集めなどを指す時に使われることが多く品位に欠けるとの指摘もありうる問題発言として報道した。

2008年12月15日、参院決算委員会で健康増進策に関する質問に対して、自身の朝の散歩を挙げ「いい年こいて朝歩いているなんて、徘徊老人と間違われたりする時代があった。呼び止められたことが何回もありますから」と答弁したところ、記者団から「配慮に欠ける発言ではないか」と質問を受けると「どうして?何かよく分からない、言っている意味」と発言した。

余りにも素直過ぎるというべきか、他者に対する配慮が足りないというか、このような発言を繰り返していては、支持者を減らすばかりなのも当然といえるだろう。
statementによって支持を得るのではなく、支持を失うという意味で、逆statesmanである。
そして、重要なポイントは、他者に対する配慮が足りない、ということに関して、ほとんど自覚がないように見えることだ。
政治は、畢竟「他人のため」に行うものではないだろうか。
漢字の読み間違いも相当なものだと思うが、上記の発言は、いわば本音が吐露されたものである。
このような人が圧倒的多数で総裁に選ばれた自民党が自壊していくのは必然だったと思う。

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2009年9月 7日 (月)

自由民主党・自壊の構造 その4.小選挙区制の罠

総選挙で、自民党と民主党の勢力がそっくり入れ替わった現象の原因として、やはり小選挙区制度の導入があげられるだろう。
今の日本の選挙は小選挙区制プラス比例代表制によって行われている。
小選挙区で300人、比例区で180人が選出されるが、各小選挙区で勝てる候補者は1人だけである。
1人しか勝てない条件で多数を占めるためには、多数派の賛同が得られるような政策を取らざるを得ない。
分布が極端に歪んでいるような場合を除き、多数派とは中間層と同義である。
結果的に、政策の差異性はかなり小さなものになる傾向があるといえるだろう。

55年体制で自民党が安泰な立場を維持していた時代、選挙制度は中選挙区制だった。
1993年8月、第40回総選挙の結果により、細川護煕氏を首班とする連立政権が誕生した。
日本新党とさきがけは、連立の条件として、政治改革の実現を挙げ、頓挫していた政治改革を再開した。
各党は、制度改革のあり方について異なる意見を持っていたが、1994年に、政治改革4法という形で現実化した。
小選挙区比例代表並立制と政党交付金の導入を柱とするものであった。

一般に、1人しか当選者がいない小選挙区では、組織力・資金力に勝る大政党ほど有利になる。
比例代表は、小政党にも議席獲得のチャンスを与えるものである。
細川内閣は、小政党の寄り合い所帯であったから、当時圧倒的多数を占めていた自民党とは制度原案において乖離があって、なかなか調整がつかなかった。
いわば妥協の産物として政治改革4法が成立したが、当然のことながら、自民党は、小選挙区制度を有利なものと位置づけていたはずである。

政治改革の目的の1つとされたのが、政権交代が起こり易い制度への変更ということであった。
なぜ、小選挙区制だと政権交代が起きやすいか?

1人だけが当選するということは、各候補者にとっては、勝つか負けるかの結果しかない。
つまり、勝敗が明確である。
白と黒しななく、グレイゾーンがないから、オセロゲームのように、一気に形勢逆転という現象が起きる可能性がある。
前回の郵政民営化総選挙と今回の総選挙において、まさにこのような事態が起きたわけである。

中選挙区制や大選挙区制の場合であれば、1位当選に拘らずに、2位当選とか3位当選を目指す戦略が成立する。
つまり、多数派としての中間層にフィットする政策というよりも、特色のある政策を打ち出すことが可能である。
政権交代可能な2大政党を目指すというのが当時の多数意見だったので、制度変更から15年にして、意図した結果が現れたということになる。

私は、政権交代自体には賛成するものであるが、余りにドラスティックな変化は、やはりリスキーな要素が多いのではないかと思う。
つまり、小選挙区制よりも中選挙区制の方が好ましいと考える。

自民党は、結果として、小選挙区制の罠にはまった。
自民党自身が、小選挙区制の方が有利だと判断していたはずであり、郵政民営化総選挙ではまさに思惑通りの結果を得ていたのだから、まあ、自業自得ともいえるのではなかろうか。

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2009年9月 6日 (日)

自由民主党・自壊の構造 その3.遺産を食いつぶした三代目

自民党が、首相指名選挙への対応でもめているらしい。
首相指名選挙は、9月16日に予定されている。
麻生太郎総裁は既に辞意を表明しているが、後継を決める自民党総裁選挙は、18日告示、28日投開票で行うことになっている。
したがって、16日時点では麻生氏が総裁であるが、敗軍の将である麻生氏の名前を書くことに異論が噴出しているのだという。

そのため、白紙で臨むという案が有力になってきているという。
麻生総裁で白紙投票とは如何なものか、ということで、辞任を前倒しにするなどの意見も出ているようだ。
そんな状態だから、惨敗を喫することになる、ということだろう。
今までは、自民党総裁=内閣総理大臣であり、総裁選は、首相を選ぶのと同義であった。
しかし、今回は首相指名選挙では、民主党の鳩山由紀夫代表が指名されることは確実である。
つまり、自民党の総裁は野党の党首を選ぶという意味しかない。

もちろん、党再生の重要な第一歩であるから、広範な意見を徴することも重要であろう。
しかし、自民党が野党でいる期間は、おそらく細川内閣時代よりもずっと長引くのではないか。
安倍、福田、麻生の短期総裁を考えれば、暫定総裁という可能性だって大きい。
速やかに次期総裁を決定し、その名前を書くことが、自民党としてなすべきことではないのだろうか?

権力の承継というのは難しい。
江戸の川柳に、「売り家と唐様で書く三代目」がある。
そのこころは、次の通りである。
http://kotowaza.exblog.jp/1424039/

初代はその財を築くために、それこそ夢中になって働いて、文字を習う暇もないほどであったが、その子や孫はその財産を使うばかり。そのうちには悪い遊びも覚え、三代目あたりになると財産といえば自分の家くらいしか残らなくなってしまう。ついにはその家までも手離さなければならず、ただ一つ身についた腕で、売家という文字を唐様のしゃれた書体で書く。祖父の忍苦を忘れて、孫の代で無残に財産を使い果たす意味の川柳。名家や富豪と評判の家で三代目につぶれる家が多い。
語:唐様=明(みん)の書風をまねた漢字の書体。

日本古代史においても、蘇我氏三代の例がある。
事実上の初代ともいうべき馬子から、蝦夷を経て、三代目の入鹿で滅亡した。
藤原鎌足を初代とすれば、不比等を経て、三代目の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の三代目は、同じ年に病死した。
源頼朝を初代とする源氏政権は、頼家を経て、三代目の実朝が暗殺されて滅亡した。
近代に目を移しても、明治維新で誕生した大日本帝国は、明治、大正、昭和の三代で潰えた。

権力を三代を超えて維持しようと意図すれば、当然のことながら、創業に近い努力を継続しなければならない。麻生首相も、吉田茂元首相の孫であるから、三代目の宿命を背負っていた。
今の指導者層は、戦後の再出発から三代目世代ということになる。
象徴天皇制の出発点を昭和天皇とすれば、皇太子が三代目ということになる。
皇室の危機が顕在化するのは、皇太子が皇位に就いてからだろう。

自民党についていえば、麻生首相は、ポスト小泉の安部、福田に次ぐ三代目とみるべきかも知れない。
郵政民営化総選挙の遺産は、見事に三代の間に食いつぶされたということではないだろうか。

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2009年9月 5日 (土)

自由民主党・自壊の構造 その2.戦略の不在

自由民主党の自壊は、どのような条件を背景として起こったか?
企業戦略と対応させて考えてみよう。
例えば、「戦略の構図」と呼ばれる図式がある。
Photo北矢行男多摩大学名誉教授(前同大学総合研究所長) の考案になるもので、シンプル・ストラテジーを「見える化」させるものとして、多くのプロジェクトで活用されてきた。

この構図に照らして考えてみよう。
先ずは、自民党の「どうなりたいか・どうしたいか」という主体的意思はどうであったか。
1955年の結党以来、例えば憲法改正が立党の基本的な立脚点だったはずであるが、国民世論や世界史の動向の中で、明確に憲法改正を主張することを取りやめてしまっている。
もちろん、憲法改正の主張が支持を広げるとはいえないが、明確な主体的意思が伝わってこない。
結果として、長期政権によって獲得した諸権益を維持したいということが残り、著しく「志」の要素が欠けていることが国民の目に曝されることになってしまった。
郵政民営化を錦の御旗とした小泉政権は、この点において、主体的意思については明確であったといえる。

一方で、構造改革の負の遺産ともいうべき「格差の拡大」という環境条件に関して、議席を獲得した条件でもある構造改革路線を否定するわけにもいかないから、明確な対応をとれず、もちろんパラダイム・シフトも見出されようがなかった。
一方で、マニフェストの作成で出遅れ、内容的にも民主党を差別化できる形にし得なかった。
結果として、自民党の「ビジネス・モデル」は旧態然としたものに留まらざるを得ず、チェンジを求める国民の関心に応え得なかったということになる。

また、戦略検討の最もベーシックなツールとして、SWOT分析がある。
Wikipediaでは、次のように説明されている(09年8月13日最終更新)

SWOT分析(-ぶんせき、SWOT analysis)とは、目標を達成するために意思決定を必要としている組織や個人の、プロジェクトやベンチャービジネスなどにおける、強み (Strengths)、弱み (Weaknesses)、機会 (Opportunities)、脅威 (Threats) を評価するのに用いられる戦略計画ツールの一つ。

SWOTは、次のような4象限で表される。
Swot内部環境的に、自民党はどうであったか?
「かんぽの宿」譲渡問題における麻生首相と鳩山前総務相の対立。
多くの国民は、少なくとも、「かんぽの宿」譲渡のプロセスに関して、疑念を抱いたのではないだろうか?

あるいは、解散間近の時点における中川秀直元幹事長らによる、いわゆる「麻生降ろし」の動き。
自民党は、強みとか弱みをいう以前に、組織としてのガバナンス能力を失っていたと言わざるを得ないのではなかろうか。
リーマンショックなどのように、麻生内閣が、外部環境的に恵まれなかったということもあると思う。
しかしながら、外部環境については、「激変」が常態化しつつあるのであって、その「激変」に柔軟に対応できない組織は、淘汰されざるを得ないのだと思う。
衆議院で圧倒的多数を占めることになった民主党についても、外部環境に柔軟に対応できなければ、直ちに脅威が襲い掛かってくる。
情報化というのは、環境との相互作用が緊密になるということであり、ちょっとした出来事が、思わぬ重要な結果を生むことになる。
つまり、機会と脅威が、短時間で入れ替わり易い時代なのではなかろうか。

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2009年9月 4日 (金)

自由民主党・自壊の構造

今回の総選挙の結果について、民主党の勝利というよりも、自由民主党が自壊した結果という印象を持つ人が多いのではなかろうか。
私自身も、自民党が自壊したと思うし、それが歴史的な転換を意味しているとも思う。
もう30年以上も前のことになってしまったが、リサーチャーに成り立てだった私に、見慣れぬ著者名の一冊の本が紹介された。
菊入龍介『日本経済・自壊の構造』日本実業出版社(7311)である。

第一次石油危機が起きたのが1973年10月のことだから、その直後の刊行である。
石油危機発生の以前から、すでに『成長の限界―ローマ・クラブ人類の危機レポート』ダイヤモンド社(7205)などにより、石油を基盤とする現代文明の行き詰まり感が指摘されていた。
そういうこともあって、石油の供給が途絶するかもしれないという不安感が、石油危機のパニックを増幅したのではないだろうか。

菊入氏は、そのような危機感の背景にある事情を見事に分析してみせたのだった。
菊入氏は、危機の本質がハッキリしないときこそ真の危機であるとし、現代(執筆時)の危機は五重構造になっているとした。

第一は、文明論的危機論である。すなわち、近代文明社会が危機に瀕しているということであり、現象的には、公害と人口爆発と食糧危機の問題である。
第二は、資本主義の危機である。インフレ問題、通貨問題、企業活動に関する諸原理への批判などである。
第三は、自民党の危機である。自民党の一貫した得票率の低下であり、タカ派の台頭による分裂の可能性である。
第四は、感覚的な危機論である。社会心理的な危機論といってもいい。
第五は、天災危機論である。異常気象による農業、漁業等へ深刻な影響と、大地震による未曽有の被害の予測である。

実は、菊入龍介というペンネームは、かの立花隆の別名であったのだが、一冊の調査報告書として、目配りや筆力という観点から、リサーチャーとして学ぶべきものが多いだろう、ということで紹介されたのだった。
その後の立花氏の活躍ぶりは今さら言うまでもないが、危機の五重構造という認識は、私にとっては、構造的理解というものの格好の教材のように思えた。

そんなことから、今回の自民党の自壊を、構造的に捉えてみると、どういうことになるだろうか、と考えてみた。
自民党の危機は、上記のように1973年時点で、既に言われていたことであった。
そして、その後、単独での政権維持ができなくなったものの、第一党の立場を維持しつつ、連立を組むことによって政権を維持し続けてきた。
野に下ったのは、細川内閣の約8カ月間だけであった。

しかし、自民党の歴史的使命は、とうに終わっていたと考えるべきであろう。
自由党と日本民主党が合併して、自由民主党が誕生したのは、1955(昭和30)年11月のことであった。
いわゆる55年体制ということであるが、東西冷戦構造を背景として、自由民主党がいわゆる西側、日本社会党が東側勢力という位置づけであった。
時々で多少の変動はあるものの、社会党は自民党の50%程度の勢力だったから、2大政党というよりも、1.5大政党というべき時代だった。

しかし、東西冷戦という背景は、既に1989年に喪失しており、その反映としての日本の政治構造も、当然のことながら対立軸の変化を要請されることになったのだった。
55年体制を戦後レジームというならば、戦後レジームからどう脱却するのかを問われることになった。
しかし、自民党自身が、安倍晋三内閣まで、戦後レジームからの脱却を口にすることはなかった。
89年以降は、旧来的な利権維持装置としてのアンシャンレジームでしかなかったというべきだろう。
それを象徴するのが、密室での取り引きで成立した森喜朗内閣だった。

国民の不満が極度に高まったとき、トリックスターとして登場したのが小泉純一郎氏ということになる。
2009年8月25日 (火):ポピュリズムとトリックスター
手品師のごとく、自民党に対する不満を、期待感に変えて自民党の延命に貢献した。
しかし、構造的に自民党の命脈は既に尽きていたのであり、その後の安部、福田、麻生内閣は、結局は小泉内閣の遺産の食い潰しでしかなかった。
小泉氏の「自民党をぶっ壊す」という言葉が、現実化したということになる。

安倍、福田両内閣が、任期途中で政権を投げ出したことも、国民の失望感を招いた。
そして決定打となったのが、麻生内閣でのさまざまなお粗末な出来事であった。
女性問題でのスキャンダル大臣、朦朧とした状態で国際的な記者会見に臨んだ大臣、「かんぽの宿」譲渡問題等に露呈した構造改革そのものへの疑問など、首相として収束させるべき課題を整理しきれず、自らも漢字の読み間違いや、高所からの目線を修正できなかった麻生首相は、自民党政治に終止符を打つに相応しい人物だったといえるかもしれない。

自民党は、自壊すべくして自壊した。
民主党を中心に、新たなレジームの構築が目指されるわけであるが、寄せ集め集団の民主党に、統一的な国家像を求めるのは難しいように思われる。
環境的には、多重的な危機の構造はさらに深まっていると考えられるので、政界の再編成は不可避なのではないだろうか。

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2009年9月 3日 (木)

「空気」が「風」に変わるメカニズム

山本七平氏は、『「空気」の研究 』文春文庫(8310)において、次のように述べている。

一体、以上記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。
……
いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成して、最終的には「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。
では一体この「空気」は、どのように醸成され、どのように作用し、作用が終わればどのようにして跡形もなく消えてしまうのであろう。
これを探究する一つの手掛りは、だれかが、何らかの意図のもとに、ある種の「空気」を意識的に醸成した場合である。言いかえれば、議論が議論そのものよりも、明らかに、議論によるある種の「空気」の醸成を狙っている場合である。通常「空気」は、このような人工的操作によって作られるものでなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、いわば自然発生的に醸成されるから「空気」なのだが、それはある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の醸成が不可能だということではない。

つまり、「空気」は、通常は自然発生的に醸成されるが、人工的に醸成することも不可能ではない、ということである。
私は、前回総選挙における「郵政民営化」あるいは「構造改革」という言葉は、まさに人工的に醸成された「空気」だったと考える。
竹中平蔵氏などの市場原理主義者、グローバリストたちが、意図的に狙っていた「空気」が、小泉純一郎氏などのキャスティングを得て、見事に醸成されたのではなかったか。

それでは、今回の総選挙のキーワードとなった「政権交代」は、果たして人工的な空気だったのか、自然発生的な空気だったのか?
私は、郵政民営化総選挙で得た議席を最大限に利用して、内閣をタライ回しにしてきた自公連立政権が、空気が読めず、漢字も読めない麻生首相というキャスティングを得て、自ずから政権交代への期待・願望が高まってきたのではないかと思う。
つまり、多分に自然発生的で、中川昭一氏の朦朧記者会見などが、それを加速したのだろう。

ところで、醸成された「空気」が、強い「風」として作用するのはどうしてだろうか?
私は、情報化の進展、とりわけネット化の影響が大きいのではないかと思う。
人は、環境からの刺激を情報として判断する。
その環境からの情報的な刺激に接する頻度が格段に高まってきていることは事実だろう。

人は、情報を資源としてインプットし、判断をアウトプットとして生産する。
3 環境にアウトプットされた情報は、当然判断の基準として利用されることになる。
つまり、図のような一種のフィードバック・ループが形成されるわけである。
このフィードバック・ループは、ポジティブに作用するだろう。
つまり、一方向に傾いた情報は、その方向にさらに傾斜し易くなる。
それが、「風」ということではないのか。

フィードバック・ループの網の目が細かく多様になることが情報化の進展であるから、情報化は、世論を一方向に誘導し易くなる、ということができる。
前回の郵政民営化総選挙における自民党の圧勝、今回の総選挙における民主党の圧勝は、そうした情報化の進展の帰結ではないかと思う。

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2009年9月 2日 (水)

新規立党政党に対する参入障壁

私の住んでいる静岡県の全選挙区で候補者を擁立していた幸福実現党は、全員、法定得票数を得ないで落選した。
2009年8月31日 (月):総選挙の結果
結果からすれば、選挙に費やした相当の資金(供託金だけでも全国で10億円超と想定されている)はムダだったように思える。
これくらいの資金など、問題にならないくらいの資金力を有しているということだろうか?
あるいは、当選自体が目的ではなく、他の効果を狙っていたということだろうか?

直接的な選挙という以外の、間接的というか迂回的な目的があるとすれば、何が考えられるだろうか?
第一に考えられるのは、それが布教活動の一環として行われた、ということである。
大量のビラが作られ、選挙カーが走り回っていた。
PRの大きな機会であったことは間違いない。
通常の布教活動に比べて、効率的だと判断すれば、そこに資源を投入することは理解できる。

しかし、果たして、プラスの効果だったのかどうか?
私などからすれば、それぞれに存在するという「守護霊」の能力を疑わせるものという意味で、マイナスとしか思えないが、もっと別の視点もあるのだろうか?
選挙区での当選者0という公明党は、想定外の大敗北だったのだろうが、それでも比例区で21名を当選させている。
教義的に両立しないだろう創価学会に遠く及ばないというのが現在の姿だ、ということを、国民(布教対象者)に示したことになる。

もちろん、信仰の自由は憲法の保障するところであり、個人としてどのような宗教心を持とうが、他人(私)から批判される筋合いのものではない。
しかし、同時に憲法上は、いかなる宗教団体も、政治的な権力を持つことが禁じられているのである。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
すなわち政教分離の原則である。
現在の宗教団体をベースとする政党の活動を、この規定との関係でどう考えるのか?
政教分離をうたうであろうが、どの宗教であろうとも、政教一致こそが教義に適合した考え方ではないのだろうか。
それはそれとして、新規に立党した政党にとっては、現在の選挙制度には厳しい参入障壁があるように思われる。
公職選挙法等における政党の要件は、以下の通りである(Wikipedia09年9月1日最終更新)。
日本では、公職選挙法・政治資金規正法・政党助成法(法人格付与法は政党助成法と同じ定義)でそれぞれ似ているが微妙に異なる要件を定めている。すなわち、「政治団体のうち、所属する国会議員(衆議院議員又は参議院議員)を5人以上有するものであるか、近い国政選挙で全国を通して2%以上の得票(選挙区・比例代表区いずれか)を得たもの」を政党と定めている。
つまり、新規に立党した政党には、そもそも満たしようのない要件である。
政党には認められ、政治団体には認められない活動として以下がある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1429844259

・政党助成金が受け取れない
・小選挙区と比例代表の重複立候補ができな
・比例代表を擁立する場合、定数の20%以上を擁立させなければならない
・政見放送ができない
・政党は候補者とは別に、党の選挙カー、ビラ、ポスターを利用できる

これらの条件は、非政党の政治団体(言い換えれば、諸派)にとっては、かなり大きなハンディキャップということになるのではなかろうか。
私は、幸福の科学の教義にも賛成できないし、政教分離の観点からも、私が幸福実現党に票を投ずることはないが、制度的な参入障壁が大きかったことも事実だと思う。
2大政党以外の政党にとっては、小選挙区は極めて難しい土俵であり、結局は2大政党を補完する存在に過ぎなくなるということだろう。

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2009年9月 1日 (火)

総選挙における「風」と「空気」

第45回総選挙の、民主党と自民党の当選者数と解散時における勢力は以下の通りであった。
       解散時勢力   当選者
自民党     303       119
民主党     112       308

この結果をみれば、自民党と民主党の立場がそっくり入れ替わったとみなしていいだろう。
自民党が獲得していた議席は、「自民党をぶっ壊す」として登場した小泉純一郎元首相がしかけた郵政民営化総選挙によるものであった。
多分にバクチ的だったと小泉氏自身が語っているようだが、結果は歴史的な大勝利だった。
それが、1回の選挙でまったく逆転してしまったわけである。

前回も、今回も、「風がどう吹いたか」ということがいわれる。
前回、自民党を後押していた風が、今度は民主党を押す方向に吹いた……
自民党候補者は、一様に、ものすごい逆風に吹き飛ばされた、というようなことを言っている。

しかし、「風」はどうして生まれるのか?
単なる環境条件ではないだろう。
それぞれの党や政治家の活動の結果として生み出されるものだと思う。
あるいは、「風」を吹かせることができないような政治家は、力量不足だということではないのか。

一般的な用語として言うならば、「風」とは、「空気」の動きということだろう。
よく、「場の空気を読め」といわれる。
空気を読めない人をKY(空気読めない)といういわゆるKY語の話も余り聞かなくなった。
もっとも、麻生さんの場合は、「漢字読めない」の略でもあったのだが。

この「空気」に着目し、「空気」の支配力のよってきたるところを明確にしたのが山本七平氏だった。
2008年4月28日 (月):山本七平の『「空気」の研究』

文春文庫版の解説を担当している日下公人氏は、山本七平氏には4つの世界をもっている、という。
1.日本人および日本社会論の世界
『日本人とユダヤ人』山本書店(1970)に始まる。
『「空気」の研究』も、この系統の1つである。

2.日本陸軍物語
『私の中の日本軍』文藝春秋(1975)を代表とする世界。
山本氏は、昭和17年に青山学院を卒業と同時に陸軍に召集され、昭和19年5月に門司からフィリピンに送られた。
地獄の比島戦を生き抜き、昭和22年に帰国。
この戦争体験は、山本氏の論説の基盤になっている。

3.聖書の世界
山本氏は、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語に通じ、戦争体験から、技術や戦法、地勢や気候にも通じるところとなって、『聖書の旅』文藝春秋(1981)などの著書を生み出した。

4.山本書店主の世界
山本書店は、ベストセラーになった『日本人とユダヤ人』の版元であるが、長く山本七平氏が1人で切り盛りする会社だった。
そのため、“世界最小の出版社”を自称していたが、上記のような事情もあって、日下氏が解説を書いている時点では、社員が2人になったそうである。
しかし、マイナーな出版社であることに変わりはない。
山本氏自身は、この4つの世界の中で、山本書店主であることを最も誇りとしていたということである。

さて、日本人が「空気」に抵抗できないのは、多神教だからだという。
太陽が照りつける砂漠に住む人々は、神に「髪の毛まで算えられている」という感覚になるのだという。
つまり、天から見られているという感じである。
それに対し、多雨で曇天続きの日本では、そういう感覚は育たない。

確かに、前回の郵政民営化総選挙も、今回の総選挙も、「空気」によって投票行動が左右された面があることは否定できないだろう。
小選挙区制という制度は、その空気の影響が極端に表れる傾向がある、ということだろう。

郵政民営化総選挙には、詐欺に類似した構造があったと考える。
2009年6月14日 (日):郵政民営化総選挙という“詐欺”
しかし、多くの国民は、そこから学習したものも少なくないのではなかろうか。
「風」が「空気」の動きであるとすれば、ユダヤ人のように、というのは馴染まないだろうが、その「空気」を自覚することが、KYから抜け出す第一条件のように思える。

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