白村江敗戦のもたらしたもの
古代の日本列島は、中国などの史書では、「倭」と呼ばれていた。
それでは、「日本」という国号は、いつ誕生したのだろうか?
諸説があるが、663年に白村江において、唐・新羅連合軍に大敗を喫して、まさに国難的状況を迎えたことが1つの大きな契機となったことは、おおむね間違いないことであろう。
『日本書紀』の記述をどこまで信用していいかは問題であるが、いわゆる大化改新(乙巳のクーデター)から壬申の乱を経て、文武朝に至る期間は、「日本国」の誕生との関連でさまざまな出来事が起き、多くの謎と論点を秘めている。
例えば、以下のような出来事であるが、これらがまことにめまぐるしく起きたことになる。
645年:乙巳のクーデター
663年:白村江の敗戦
664年:甲子の宣
667年:近江京遷都
670年:庚午年籍
672年:壬申の乱
694年:藤原京遷都
701年:大宝律令
この時期の諸相については、いままで関心の赴くままに、言い換えれば余り体系的ではない形で触れてきた。
2007年9月22日 (土):倭国のラストプリンセス?
2008年1月12日 (土):「白鳳」という時代
2008年2月20日 (水):白鳳年号について
2008年3月13日 (木):天智天皇…④その時代(ⅲ)
2008年4月 5日 (土):大化改新…⑨白雉期の位置づけ
2008年5月16日 (金):「日本国」誕生
2008年6月10日 (火):「時の記念日」の夢幻と湧源
中でも、白村江の敗戦は、先の東亜・太平洋戦争の敗戦に比すべき、大きな試練だったと想定される。
その影響は多方面に渡っていたであろうが、未だ全貌が明確に捉えられているとはいえないのではなかろうか。
例えば、戦後、百済等から大量の帰化人が渡来してきたとされている。
そして、その帰化人が、「日本語」の読み書きに大きな影響を与えたとされる。
日本語は、もともと朝鮮語と近い言葉だったと思われる。
日本語と朝鮮語の「同じ」と「違う」については、最近、金容雲『日本語の正体―倭の大王は百済語で話す 』三五館(0908)という著書が刊行されているが、まだ読了していない。
以前、白村江敗戦の言語的影響を解析した藤井游惟氏の説を紹介したことがある。
2008年4月17日 (木):言語学から見た白村江敗戦の影響
2008年4月18日 (金)言語学から見た白村江敗戦の影響②
藤井氏は、7世紀末から8世紀前半の律令制草創期に編纂された『記紀万葉』の表記法から発見された「上代特殊仮名遣い」(08年2月8日の項、08年2月9日の項)を分析すると、それが日本語以外の言語を母語とする「言語的外国人」が、日本語を聞き取り、表記したものと考えざるを得ない、としたのであった。
その言語的外国人とは、他でもない白村江敗戦によって、大量に亡命してきた百済帰化人の一世・二世・早期の三世の世代だった、ということである。
この藤井氏の所説は、まさに目から鱗が落ちるような感じを覚えるものであった。
ところで、白村江での敗戦後、西日本各地に朝鮮式(百済式)の山城が築かれたことが知られている。
筑紫、対馬、長門、讃岐、大和などの地であり、瀬戸内海を進軍する唐の水軍を想定したものと考えられている。
その築城の技術的指導は、やはり亡命百済人によると考えられているが、相当広範囲に労働力が調達されたであろうから、白村江敗戦による痛手もあって、人々の不満も大きなものとなっていたと思われる。
そういう中で、近江への遷都が行われたのであった。
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