近江遷都へのとまどい感
近江の都に関しては、柿本人麻呂の次の歌が人口に膾炙している(日本古典文学大系、岩波書店(5705)。
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌 (万葉集1-29)
玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも
つまり、人麻呂は、近江遷都の理由を推し量りかねている、と言っていいだろう。
「どうして、つぎつぎに都を置いていた大和をから離れたのだろうか?」
「どうして、天離る夷の近江に移ったのだろうか?」
人麻呂がこの歌を作ったのは、持統朝初期の688年のことだとされる。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M72/M724197/9.pdf
つまり、近江京に遷都した667年から、およそ20年後ということになる。
既にその時点で、「春草が繁く生えて」はっきりとは所在確認ができなかったということである。
近江遷都に対しては、額田王の次の歌も有名である。
額田王の近江国に下りし時作る歌、井戸王のすなはちち和ふる歌 (万葉集1-17)
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隅 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや
反 歌
三輪山を 然も隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや (万葉集1-18)
解説をみてみよう。
いままさに大和を離れる一行の目の前で、雲が三輪山をおおい隠した。三輪の神が怒っているのだ。そこで、額田王が「せめて雲だけでも思いやりがあってほしい、どうか三輪山を隠さないでおくれ」と歌うこととなる。
三輪山は古くから大和を代表する山として崇められてきた。この山の魂を鎮めることは、そのまま大和への惜別を告げることにつながったようだ。だからこそ額田王は一行の思いを代弁するように、いつまでも三輪山を見ていたいという思いを歌い上げたのだ。
http://www.katakago.info/library/kikaku/0004/0004-5.htm
この歌も、大和の地への愛惜を強く感じさせる。
つまり、「天離る夷」に対しては、不満だということだろう。
なぜ、近江への遷都を決めたのだろうか?
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