「脳死は人の死」と判断していいのだろうか?
麻生首相が、衆院を21日にも解散し、8月18日公示、8月30日投開票の日程で行うことを決断し、自公両党執行部も合意した、という。
首相は、14日解散、8月8日投開票を想定していたが、与党内の反発が強く、先送りしたということである。
衆議院の任期は9月には満期になるのだから、いずれにしろ直近で総選挙を行わざるを得ない。20日ほど先送りすることの意味がどれほどのものか良く分からないが、自公両党としては、いま直面している逆風をなるべくおさめる期間が欲しいということだろう。
この20日余りの時間がどう作用するか、現時点では神のみぞ知る、である。
あたかも総選挙日程と引き換えかのように、改正臓器移植法が参院本会議で可決、成立した。
いわゆるA案である。
改正法と現行法とはどこが異なるのか?
改正法のポイントは、以下の通りである。
1.脳死は一律に人の死と位置づける
2.本人が拒否していない場合は家族の同意で提供できる
3.提供は15歳以上に限定するという現行の年齢制限を廃止する
4.親族へ優先的に提供しておくと意思表示しておくことができる
臓器移植法の改正を朗報と考える多くの人がいることは承知している。
国内には、移植を待つ患者が1万人以上いるという。
中でも、海外渡航移植に頼らざるを得なかった子供を持つ親にとっては、重要な朗報といえるだろう。
しかし、である。
本当に、「脳死は人の死である」と一律に、法定してしまっていいのだろうか?
「脳死を人の死」と法定することに対する疑義については既に記した。
2009年7月 3日 (金):臓器移植法案について
法改正によって、現行法の10倍近い移植例が想定されているという。
「脳死は一律に人の死」と規定するのは、臓器提供への家族の心理的負担を軽減する効果があるという。
しかし、である。
本当に、家族の心理的負担は軽減されるのだろうか?
そもそも「脳死」とはいかなる状態か?
要は、もはや脳の機能が回復しないであろうと「判断」した状態である。
「脳死」の状態でも、人工呼吸器による呼吸があり、心臓も鼓動しているという。
脳が回復しない、ということを、どうして決定できるのだろうか?
例えば、0歳児に対して脳死状態である、などということが決め付けられるのであろうか?
脳の回復力というものを否定してしまっていいのだろうか?
脳死と判定されても、身長も体重も増え続けている例も知られている。
改めて、人の尊厳とは何かを考えされられる問題である。
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