チッソとはどういう会社だったのか
水俣病は、もっとも大規模で、もっとも悲惨な結果をもたらした公害である。
その原因企業(加害者)であるチッソとは、歴史的にみて、どのような会社だったのか?
ホームページの、沿革欄を抜粋してみよう。
1906(明治39)年 曾木電気株式会社設立
1908(明治41)年 日本窒素肥料株式会社に改称、カーバイド製造所に空中窒素固定法による石灰窒素の製造を開始
1923(大正12)年 世界で初めてカザレー式合成アンモニアの製造開始
1927(昭和2)年 朝鮮窒素肥料株式会社設立、世界最大規模の化学コンビナート「興南工場」設立
1941(昭和16)年 塩化ビニルの製造開始
1945(昭和20)年 全国のトップを切ってアンモニア肥料(硫安)の製造再開
1950(昭和25)年 新日本窒素肥料株式会社としてスタート
1952~52(昭和27~28)年 オクタノール、DOP、アセテートステープルの製造設備完成
1962(昭和37)年 チッソ石油化学工業株式会社設立
1965(昭和40)年 社名をチッソ株式会社に改称
2000(平成12)年 チッソ再生計画スタート
2006(平成18)年 創立100周年
この沿革から、少なくとも社名をチッソ株式会社に改称する以前の段階においては、日本の化学工業を先導してきた会社であることが分かる。
創業者は、野口遵。帝国大学工科大学(東京帝国大学工学部の前身)の出身である。
石灰窒素、合成アンモニア、塩化ビニル、酢酸ビニル、ポリエチレン、合成オクタノールなどを日本で最初に成功させた。
「技術のチッソ」として、そのイノベーション実現力を賞賛されてきた。
問題は、このような技術的先進性を持っていた企業が、いかにして水俣病という最悪の公害の加害者になってしまったか、である。
加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)は、チッソの創業時に遡ってこの問題を検討している。
以下、上掲書により、チッソの化学技術史的展開をみてみよう。
日本化学工業史における日本窒素肥料株式会社(日窒)成立の意義は、電気化学工業の出発点をなしたことである。
上記の沿革の曾木電気株式会社は、鹿児島県伊佐郡大口村で設立され、1907(明治40)年に、野口遵と藤山常一が中心となって設立された日本カーバイド商会が合併して、日本窒素肥料株式会社になった。
日窒は、1909(明治42)年に水俣工場を完成させて、石灰窒素の生産を開始した。
1914(大正3)年に完成した八代郡鏡町の鏡工場が、石灰窒素と硫安を大量生産する能力を備え、それが日窒発展の原動力になった。
硫安は年毎に需要が増大し、一方第一次世界大戦によって輸入が途絶したため、鏡工場はドル箱工場となり、日窒の企業基盤が一挙に確立した。
また、第一次世界大戦勃発直後に、水俣新工場の建設を決定し、1918(大正7)年に、石灰窒素・変成硫安の一貫生産設備が完成した。
鏡工場と水俣新工場の両工場によて、日窒は巨大な超過利潤を蓄積した。
1921(大正10)年、野口遵は、世界大戦後の欧州を視察するため渡欧し、アンモニア合成法を見学して、直ちに特許権購入の交渉を行って、契約締結に持ち込んだ。
現在ならば、ベンチャー精神に溢れた企業家という評価になるだろう。
アンモニア合成は、上記の沿革にあるように、1923(大正12)年に宮崎県東臼杵郡恒富村の延岡工場で稼動を始める。
さらに水俣工場も合成硫安生産工場に切り替えられた。
合成硫安技術は、水素ガスを電気分解に求めるもので、電気化学工業としての性格を持ち、日窒は、所要電力の確保のために電源開発を進めた。
また、1926(昭和元)年には朝鮮水電株式会社を設立し、翌年には朝鮮窒素肥料株式会社を設立した。
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