水俣病と水上勉『海の牙』
水俣病をテーマにした小説に、水上勉『海の牙』双葉文庫(9511)がある。
昭和34(1959)年12月の「別冊文藝春秋」に発表した「不知火海沿岸」をベースに大幅に加筆し、昭和35(1960)年に、河出書房新社から刊行された。
松本清張によって開拓された社会派ミステリーに分類される作品である。
昭和34年はまだ水俣病という病名が確立していたわけではない。
「水俣奇病」と呼ばれていたし、チッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)は、工場廃液が原因ではないと頑なに主張していた。
原因については、学者の間でも、風土病説、火薬爆発説などを唱える人もいた。
そういう状況の中で、水上勉は、病気の原因を工場廃液であると断定する形で小説を構成している。
水上勉自身の「「海の牙」について」という文章によれば、水上勉が小説化しようと思い立ったのは、NHKのTV番組がきっかけだった。
プロの作家になりかけていた水上は、当時はまだ原稿注文もない境遇だった。
TVでアナウンサーが、水俣市で発生している奇病を紹介しながら、その原因はいまだにわからず、工場廃液の水銀の影響だという説も、確定的とはいえないと説明している。
その時点で、既に49人の死者が出ていたというのに、原因は不明とされ、患者たちは工場廃液説に基づいて日夜陳情を続けているが、工場は関知しないことだとつっぱねて見舞金すら出していない。
政府も、手をこまねいて眺めているという状態だった。
水上勉は、これは白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないのか、と考えた。
そして、1ヵ月くらいの宿泊賃をもって現地に出かけた。
もちろん、取材費を提供してくれる出版社があるような作家になる前のことである。
そして、現地で約15日間、関係者にあって取材を続けた。
その結果、工場廃液説を確信したのだった。
帰京後直ちに執筆に着手し、工場都市の財政を支える唯一の大工場の排水に混じっている水銀が、魚介類を経て人間に摂取され、脳障害を起こすという南九州大学の説を冒頭に紹介している。
そして、それを否定する工場側と、補償を求める漁民との抗争を、軸にして小説を構成した。
その筆力によって、「水俣奇病」の恐ろしさが、リアリティをもって迫ってくる。
水上勉は、この『海の牙』で、昭和36(1961)年、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞した。
また、同年上半期第45回直木賞を『雁の寺』で受賞し、いちやく流行作家の仲間入りを果たした。
1日平均30枚、月産1200枚を書いたと伝えられている。
水上勉と無言館館主窪島誠一郎氏との血脈関係の不思議さについて書いたことがある。
07年12月8日:血脈…②水上勉-窪島誠一郎
そして、太宰治と太田治子の間にも、同じような関係があった。
09年6月26日:太宰治と三島・沼津(4)
そういえば、太宰治と水上勉には、少なからぬ類似点があるのではないだろうか。
第一に、いま風にいえば、美系男子であった。
第二に、無頼の徒であった、もしくは無頼の徒を気取っていた。
第三に、第一と第二の結果として、大変女性にもてた(らしい)。
ちなみに、水上勉は、大正8(1919)年3月8日の生まれである。
太宰とちょうど10歳違ったことになる。
太宰の没した昭和23(1948)年の時点では、水上勉は、処女作『フライパンの歌』を上梓したばかりで、無名というに近い存在だった。
『海の牙』(双葉文庫版)の山村正夫氏の「解説」に、水上勉自身が、『フライパンの歌』は「僕は愛着のある作品ではないんです。……それまで僕は文学青年でしたけど、そういう生活が嫌になったんです。」と語っていることが引用されている。
つまり、太宰が入水した頃、水上勉は小説を捨てる生活を始めていたわけで、実人生において、太宰治と水上勉が交差したという可能性はほとんどないだろう。
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コメント
「海の牙」 という小説は知りませんでしたが、テレビのドキュメンタリー番組で‘水俣病’を取り上げていたのを見たことがあります。
私は小学生でしたので、猫が出てくる場面などは憶えていますが、その 公害とか、社会や企業の問題性などについて理解したり考えを及ぼすことは出来ませんでしたし、記憶がありません。
こちらの記事を読み、思えば、そのテレビは 「海の牙」 を下敷きにした番組だったのだと思います。
訳も分からず、恐ろし気な死に方をしていった人達の、その声となること、マスコミや作家が使命を果たす とは、正にそういうことを云うのだと思います。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月17日 (金) 11時49分
重陽の節句を祝う様
こんにちは。
コメント有難うございます。
水上勉は、最終的には『雁の寺』などの純文学作家として評価されるのでしょうが、私が初めて接したときには、推理作家という評価だったと思います。
太宰治と水上勉に類似点があるのではないか、などと今まで思ってもいなかったのですが、書いているうちに、いろいろなことを考えることになるのだろうと思います。
投稿: 管理人 | 2009年7月21日 (火) 17時20分