日本の化学工業における日窒(チッソ)の先行性
日本の化学産業史におけるチッソの位置づけを、加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)により、トレースしてみよう。
チッソ(日本窒素肥料)は、朝鮮進出と共に、化学企業としての多角化を図った。
1928(昭和3)年には、ドイツのベンベルグ社より、銅アンモニア法による人絹製造特許を購入し、日本ベンベルグ絹糸株式会社を設立、1931(昭和6)年から延岡に工場を建設して人造絹糸の生産を開始した。
肥料生産は朝鮮窒素肥料で行い、人絹生産は延岡工場で行うことにすることによって、水俣工場はアセチレン系有機合成化学の拠点として位置づけられることになった。
第一次大戦中に、ドイツで成立したアセチレン系有機合成工業は、カーバイドの新しい用途を生み出した。
つまり、カーバイドより発生するアセチレンから、アセトアルデヒド(CH3CHO)を作り、さらにアセトアルデヒドを中間原料として、酢酸、無水酢酸、アセトン、ブタノールなどを生産する工業技術体系である。
水俣工場は、1927(昭和2)年に稼働をはじめた合成酢酸工場によって、有機合成工場化した。
酢酸は、木材乾留により製造されていたが、第一次大戦中にドイツでアセトアルデヒドから製造する方法が確立され、わが国でも製法の転換に迫られていた。
業界団体の大日本酢酸製造組合は、大阪市立工業研究所に酢酸合成法の開発を委託し、1928(昭和3)年には合成酢酸が生産されるようになった。
チッソ(日窒)は、大阪市立工業試験所とは独立に、社内で酢酸合成法を開発した。
それだけの技術的力量を持っていたということになる。
水俣工場における酢酸生産は、酢酸誘導製品に対する需要の増大とともに増産されていった。
酢酸誘導製品としては、1934(昭和9)年の無水酢酸、1936(昭和11)年のアセトンなどが次々に開発されていった。
また、平行して、アクリルガラス、有機ゴム製品、塩化ビニルなどの研究が行われた。
これらは、戦時体制色の濃いものであった。
例えば、合成酢酸の誘導品として、アセテート繊維素(アセチルセルロース)が作られ、主として航空機用塗料として用いられたが、民生用のアセテート繊維については使用が禁止された。
水俣工場におけるアセチレン系有機合成品として、塩化ビニルを挙げることができる。
塩化ビニルは、1935年、ドイツのIG社によって工業化されたが、日本へは1937(昭和12)年に輸入された。
チッソ(日窒)は、1941(昭和16)年に、日本で初めて塩化ビニルの工業生産に成功した。
生産された塩化ビニルは、合羽用塗料、電線被覆、乾電池のセパレータなど、すべて軍需用に使用された。
加藤氏は、上掲書において、水俣工場は、日本の化学工業全体との関係で、実験工場的位置づけを持っていた、としている。
つまり、チッソ(日窒)は、パイオニア性を有する企業であったが、それは三井、三菱、住友などの財閥系企業が負担すべきリスクを、肩代わりして負ったということである。
チッソ(日窒)の金融的なバックは、日本興行銀行に依存していたが、加藤氏によれば、それはまさに国家資本ということになる。
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