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2009年7月23日 (木)

「海洋国家日本」論と水俣病

日本が海洋国家であることを忘れていた象徴が、水俣病ではないだろうか。
宇井純編『技術と産業公害』東京大学出版会(8509)の第四章「水俣病」で、宇井さんは、次のように書いている。

20世紀初頭、南九州の西岸にある水俣村は、入江の奥に港と若干の塩田、水田をもつ半農半漁の集落であった。対岸の天草から産出した石炭が、奥地の金山に港を通して運びこまれ、後背山地の林産物が、港から積出されてにぎわった他には、これといって特徴のない沿岸の村の一つであった。

日本の原風景の1つといえるだろう。
大学を出て間もない青年電気技術者・野口遵は、日本最初のカーバイドの工業生産に参加して成功したあと、奥地の金山へ電力を供給する水力発電所を作り、その余剰電力を活用してカーバイドを生産する工場の適地を探していた。
水俣村の地場産業の塩田が、専売制が施行されることによって経済性を失う時期であったこともあり、水俣村の有力者たちは、野口に新工場建設を強く要請した。
そのために、塩田の土地、工業用水、港、発電所から工場までの送電線費用の一部などを、無償もしくは格安の条件で提供することを申し出た。
これも、農漁村から脱して工業化を図る際に、どこの地域でもみられた光景といえるだろう。

工場の進出により、水俣村は繁栄し、人口も増加してやがて町に昇格し、第二次大戦後は市になった。
この経済発展は間違いなく工場によるものであった。
市の公共投資も、工場の産業基盤が優先された。
典型的な企業城下町、工場と地域との運命共同体が形成されていったのである。
日本の軍事化が進むと共に、石油の乏しい日本では、航空機燃料をはじめとする石油系軍需物資の供給が大きな課題となった。
その解決策の1つとして注力されたのが、合成化学である。

わが国における合成化学の産業化の歴史は、アセチレン化学から始まった。
アセチレン(HC≡CH)は、三重結合を持っているため、反応性に富む。
つまり、化学品合成の原料として好適である。
軍との結びつきにおいて、日本窒素肥料株式会社(日窒)は優位なポジションを確保し、朝鮮から満州へ進出していった。

しかし、第二次大戦の敗戦により、日窒は植民地資産のすべてを失った。
日窒は、占領軍の財閥解体の対象となり、水俣工場も戦時下の爆撃によって重大な被害を受けた。
にもかかわらず、日窒の技術者の能力と志気は高く、水俣工場は、戦後の飢餓状態の中で、食糧増産のキー・ファクターである硫安の生産を、敗戦の2カ月後に再開した。
戦争の被害が比較的小さかった水力発電を主エネルギー源とする肥料工業とカーバイド電炉工業は、戦後の混乱の中でいち早く立ち直った産業だった。

戦後の消費生活の中で、私たちが大きな恩恵を蒙っているものとして、プラスチックや繊維などの合成化学品がある。
その先鞭が塩化ビニル樹脂(PVC)だった。
日本でPVCの生産の経験を持っていたのは水俣工場だけで、1949(昭和24)年に占領軍から生産許可が得られると、市場を独占する商品となった。
日窒の技術陣は、PVCの可塑剤として不可欠のDOP(ジオクチルフタレート/フタル酸ジオクチル)の合成に成功し、国内市場を完全に独占した。

かくして、1950年代に水俣工場は、第二の黄金時代を迎えることになった。
市税の60%が工場関係からの収入であり、市長は引退した工場長がつとめ、議員の多数も工場関係者だった。
典型的な工場城下町の姿である。
水俣工場のアセトアルデヒドとPVCの生産設備は、1950年代を通じて日本最大の規模を維持した。
この両工程が、水銀化合物を触媒として大量に使っていた。
排水は無処理で水俣湾に放流された。
死んだ魚が目撃され、漁獲量も激減して、漁業の被害が増大した。

漁協は、永久示談として、今後永久に苦情を申し出ないことを条件に、海面の埋立権を工場に与え、若干の補償金を得た。
その頃から、漁村に多い猫が、突然飛び上がり、狂いまわり、海に飛び込むという奇妙な現象が見られるようになった。
海洋国家日本の代表的工場は、「豊饒の海」を死の海に変えてしまったのである。
水俣病は、日本の近代史あるいは戦後史が、海洋国家であることを放棄してきたことの焦点に位置していると言えるのではなかろうか。

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