水俣病の原因物質
7月8日、救済を求める水俣病未認定患者に、一時金や療養手当などを支給することを規定した特別措置法が、参院本会議で可決、成立した。
その救済の枠組みは、図の通りである(静岡新聞7月8日夕刊)。
約1万1000人を対象にした1995年以来の救済拡大で、今月中にも施行される見通しだという。
今回の特措法での救済希望者は約3万人いると推測され、そのうちの約2万人が対象になる見込みとされている。
この図を見れば、今まで、水俣病として認定されている患者が氷山の一角に過ぎなかったこと、1995年の政治解決がいかに不十分な形で行われたかが分かる。
救済の原資は、チッソを親会社と子会社に分割し、親会社が持つ子会社の株の配当金や売却益などを充当することになっているが、株式の譲渡は、救済の終了と市況の好転まで凍結する、とされているので、事実上は国からの金融支援に頼らざるを得ない。
速やかな救済の実現を優先すべきであり、国が支援を行いつつ、質と量の両面から十分な補償が行われることを期待する。
しかし、もちろんチッソの責任が棚上げされるようなことになってはならないだろう。
企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)ということが言われているが、水俣病はCSRなどという以前の問題であろう。
JR西日本の福知山線で起きた脱線事故では、結果として山崎正夫社長(だけ)が起訴された。
企業のあり方を考える上でも、水俣病への対応の経緯を認識しておくことは重要だろう。
現在、水俣病の原因物質といえば、メチル水銀であることが広く知られている。
しかし、水俣病の歴史の中で、メチル水銀が公認されるまでにはさまざまな紆余曲折があった。
以下、西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(0106)による。
水俣病の最初の急性激症型患者が発生したのは、1953(昭和28年)末のことだった。
それが全く新しい奇怪な病気「水俣奇病」として認知されたは、1956(昭和31)年4月である。
それまでに発病患者は29名を数えていた。
狭い地域で集中的に患者が発生したわけであるが、「奇病」であることの認識に2年半かかったことになる。
発見された「奇病」は、当初は伝染病ではないかと疑われ、患者の一部は水俣市伝染病隔離病舎に収容された。
患者が発生した地域がパニック的状況に陥ったであろうことは、容易に想像できる。
しかし、熊本大学の研究班の努力によって、1956年11月には、伝染性疾患ではなく、重金属中毒であって、人体への侵入が水俣湾の魚介類によることが確認された。
その重金属類の汚染源はどこだろうか?
常識的に考えれば、新日本窒素肥料(チッソ)の工場以外にあり得ないだろう。
しかし、チッソ水俣工場は、秘密保持を理由に外部者の立入りを禁止しており、熊本大学の研究班も工場の中に入ることができなかった。
どんな重金属が工場から排出されているか、何も分からない状況だった。
熊本大学研究班は、成書の記載から類似の中毒症状を呈する毒物を探索し、工場廃水や水俣湾の海水・底泥などを分析して、その毒物が含まれているかどうかを調べるという方法をとらざるを得なかった。
結果はどうだったか?
海水や底泥からは、疑わしい毒物が次々と検出された。
つまり、水俣湾は多重に汚染されていたのである。
その結果、原因物質として、マンガン説、セレン説、タリウム説などが提唱された。
チッソは、これらの物質について、内外の事例から、原因物質ではあり得ないことを主張し、提唱された説を否定することに注力した。
さまざまな可能性の検討の末に、熊本大学研究班は、メチル水銀中毒患者に関する症状や病理所見と水俣病患者が合致することを見出し、1959年7月に公表した。
しかし、研究班内部で意見の差異があり、メチル水銀という特定を避け、有機水銀と表現した。
有機水銀説に対し、チッソは、水俣工場のアセトアルデヒド合成工程で硫酸水銀を触媒として使用していること、塩化ビニルの合成の触媒に塩化第二水銀を使用していることを認め、かつその水銀の損失の一部が排水溝から海に流入していることも認めた。
しかし、チッソで承知している水銀の形態はあくまで無機水銀であり、有毒な有機水銀が生成するということについては否認した。
一方で、1959年10月には、チッソ水俣工場の付属病院長の細川一院長が、アセトアルデヒド工場の精留塔のドレーン(塔底液)を猫に直接投与する実験を行い、水俣病の発症を確認した。
チッソは、アセトアルデヒド工場が、水俣病の原因であることを認識したわけであるが、その後もメチル水銀が工場内で生成することについて、強硬に否定を続けた。
そして、、1959年12月、「水俣病が工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という条件のもとに、水俣病患者に見舞金を支払うことで、幕引きを図った。
チッソの水俣工場の技術部では、1961年末から62年初頃、アセトアルデヒド精留塔ドレーンから塩化メチル水銀を抽出したが、極秘にされ、一切発表されなかった。
工場内でメチル水銀が生成し、それが排出されることを知らなかった熊本大学研究班は、工場から排出された無機水銀が、どの段階でメチル水銀となるかということを研究対象とした。
しかし、1962年夏頃に、研究班は、アセトアルデヒド製造工程スラッジ(排出汚泥)から、塩化メチル水銀を抽出することに成功し、1963年2月、水俣病は水俣湾産魚介類を摂食することにより発症し、その原因毒物はメチル水銀化合物と正式に発表した。
政府が水俣病についての正式見解として、チッソ水俣工場アセトアルデヒド設備内で生成されたメチル水銀化合物と断定したのは、1968年9月26日で、熊本大学の正式発表から、実に5年半後のことだった。
熊本大学に同期して政府が対策を講じていれば、あるいは1965年頃に発生した新潟水俣病を防ぐことができたのかも知れない。
また、熊本大学が有機水銀説を公表した1959年7月から数えると、およそ9年になるが、この間に、水俣病患者はさらに多数発生しているのである。
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