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2009年7月 3日 (金)

臓器移植法案について

柄にも無く「神の摂理」というような言葉が頭を駆け巡る。
臓器移植の問題である。
衆議院で、「脳死を人の死」とするいわゆるA案が、あっけなく(?)可決され、参議院で審議中である。

制度上の問題で、海外での移植手術に頼らざるを得ず、その結果手術をする前に亡くなった子供の例などをみると、国内で手術が可能になるように制度を変更するのは当然のようにも考えられる。
しかし、脳死の時点でも、細胞がすべて活動を停止してしまっている、というわけではない。
本当に「脳死は人の死」などと、法律で決めてしまっていいのだろうか?

自分自身のことについていえば、もし、私の臓器がどなたかの役に立つならば、脳死の時点で摘出して移植してもらうのは、大変結構なことだと考える。
しかし、果たしてそれを一般化してしまっていいのだろうか?

そもそも、脳死の判定は、誰が判定しても動かないものなのか?
臓器移植を受けた側の人(レシピエント)に対する影響はないのか?
免疫性の問題などを考慮すれば、それで必要かつ十分なのだろうか?
臓器を提供した人(ドナー)の遺族が、肉親の臓器を切り取ったことで、精神的にダメージを受けるような例もあるという。

吉本隆明『老いの流儀』日本放送出版協会(0206)に、興味深いことが書いてある。
吉本氏は、「宗教的な死を含んだ死というのは、科学と融合した理解が届かないと、本当の「死」といえないが、今の科学のレベルはそれ以前の段階で、そういう科学の段階で、脳死は人の死か否かといったことを国会で決議したり、脳死の判定基準をつくったりするのはもってのほか」とした上で、以下のように書いている。

では、何をもって人の死とするのか。フランスの哲学者で医学者でもあるミシェル・フーコー(1926~84)が、『臨床医学の誕生』という著書の中で、「疑問の余地のない死」について明確に言及しています。フーコーがいう「疑問の余地のない死」とは、全細胞が死滅した状態です。つまり、心臓死でもなければ、脳死でもない。全細胞が死滅したときが死だ、とフーコーは言っているわけです

死は点としては表わせないし、徐々に進行するプロセスなんですね。

「死」にいちばん最初に侵されやすい弱いところは粘膜質の部分で、そこから死がはじまると言います。それから徐々に内臓が死んでいって、次第に死んでいる部分が多くなり、生きている部分が少なくなっていく。

「脳死が人の死」というのは、脳死が折り返し不能だろうという判断ポイントである、ということである。
しかし、フーコー流に言えば、それは疑問の余地なき死に向かって進行中のプロセスでもある。
折り返し不能という判断も、現在の医学の水準での判断である。
医学が進歩すれば、脳死よりももっと手前の判断ポイントが提示されるかも知れないし、脳死からの帰還の可能性も論議されることになるのかも知れない。

もちろん、脳死状態の人が自ら意思表示できるわけではない。
だから、実際のところ、脳死の状態で臓器を摘出された人のことは誰にも理解できない。
次のような事例もある。

「A案が成立すると、うちの子どものような生き方が認められなくなるのではないか」。長男みづほ君(9)が「長期脳死」の女性=関東在住=は、A案の大差での可決を知り、肩を落とした。
みづほ君は00年、1歳のとき、原因不明のけいれんをきっかけに自発呼吸が止まり、脳内の血流も確認できなくなった。旧厚生省研究班がまとめた小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たした。それから8年、人工呼吸器をつけて自宅で過ごし、身長は伸び体重も増えた。
「今後も移植が必要な人は、どんどん増えるだろう。さらに臓器が足りなくなれば、死の線引きが変わり、私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」と不安を口にする。
http://mainichi.jp/select/science/news/20090619k0000m040100000c.html

脳死であっても、痛覚はある、という人もいる。
結論的にいえば、私は今の時点で、「脳死を人の死」と法律で決めてしまうことには賛成できない。
いつやら、臓器移植法案を審議中の国会の様子がTVで放映されたことがあった。
驚くべきことに、少なからぬ議員が、明らかに居眠りをしていた。
何人かは私にも見覚えがあり、中には女性議員もいた。
もし、自分の選挙区だったら、絶対に投票したくないと思った。

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コメント

「脳死を人の死」と法律で決めてしまうことには賛成できない ー ー 全く同意見です。
国会で審議する、ということは、それが国家事業として成り立つかどうか ~ つまり、金になることかどうか という審議に掛けるということなんだと思います。
人の命の損得を審議すること って、普通の人の感情を持っていたら、普通は 出来ないことだと思います。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月 4日 (土) 14時20分

重陽の節句を祝う様

コメント有り難うございます。
臓器移植の問題について、私自身、いまだすっきりとした考えに至っておりません。
おそらくは、ずっとすっきりなどしないだろうと思います。
現時点では、あくまで、自発的に臓器提供の明確な意思表示をした人の臓器だけを対象にすべきだと思います。
その範囲で、助けられるものは助ける、という辺りが限界のように考えます。
また、自分が自分の臓器提供に同意していない人は、他人の臓器提供も受けるべきではないと思います。
移植によって助けられる命があるとしても、提供可能な臓器が不足している状態である現実は受忍しなければならないのではないでしょうか。
今後とも宜しくお願いいたします。

投稿: 管理人 | 2009年7月 5日 (日) 20時47分

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