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2009年7月24日 (金)

集中豪雨禍と本家防災論

2_2梅雨明けの前後には、集中豪雨が発生しやすい。
最近は、温暖化のせいで日本列島の気象が亜熱帯化しているというが、どうも雨の降り方が昔より凶暴化しているような気がする。
山口県防府市の特別養護老人ホーム「ライフケア高砂」では、集中豪雨による土石流の発生で、多数の被害者が出た。
「ライフケア」というネーミングが虚しく感じられる。
「ライフケア高砂」の立地や防災上の措置などについて詳しく調べたわけではないが、被災のニュースに接し、むかし宮村忠・関東学院大学教授に聞いた「本家防災論」の話を思い出した。
写真は、http://www.asahi.com/national/update/0721/SEB200907210005.html?ref=goo

本家は、基本的に旧家であり、格式も高い。
したがって、土地の生活の歴史の中で、災害が起こり難い場所に立地する。
これに対し、分家は、より劣悪な条件の場所に立地せざるを得ない。
したがって、本家と分家を比較すると、本家の被災ははるかに頻度が少ないし、壊滅的な被害に遭うことも滅多にない。
つまり、自然災害にもある種の階級性がある、ということであり、同時に防災のために、本家の経験・知恵に学べ、ということだと理解している。

おそらくは、特別養護老人ホームというような施設は、分家よりもさらにレートカマーとしての立場にある。
つまり、災害に対しては条件が悪い場所に立地せざるを得なかったはずである。
例えば、崩落した「ライフケア高砂」の裏山付近は、土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域に指定されていたらしい。
しかし、市災害対策本部から、避難勧告などはなかったというから、防災における運用上のケアも十分だったとは言えないような気がする。

市の担当者が言うように、土砂崩れの予兆が分かりにくいのは事実だろう。
しかし、警戒を要する地域に、素早い対応が困難な老人が入居していたのだから、もう少し配慮できなかっただろうか、と思う。
入居者は、施設に入らなければならないという意味での弱者、施設の立地条件が不利だという意味での弱者、当局の運用において十分に目配りをされていなかったという意味での弱者、というように多重的な弱者だったとも言えるだろう。

宮村さんは、『水害-治水と防災の知恵』中公新書(8506)において、次のように書いている。

治水は、計画者あるいは為政者、行政者が、河川をどのように扱うかという立場のものであり、水防は、地域や個人がどのように被害を少なくするかという立場で発想するものである。

そして、第二次大戦後の治水の歴史でもっとも特徴的な現象の1つが、水防と治水が乖離してしまったことだ、としている。

介護の問題も、防災の問題とやや似たようなところがあるのではなかろうか。
昔は、家庭の中で介護を行ってきた。
しかし、それでは家族の負担が大き過ぎて耐えられない。
そこで、専門に介護を行う施設が作られるようになった。
しかし、上述のように、それは地域の施設としてはレートカマーの立場になる。

私の生活圏でも、クルマでなければ行けないような街の中心地から離れた場所に、老人施設が作られているのを目にすることが多い。
治水的な目ではなく、水防的な目で介護施設を考えるとすれば、土砂崩れの危険性のある場所ではなく、孫なども含めた家族が訪問し易い場所に設置されるべきではなかろうか。
老人を「本家扱い」できるような社会にしたいものである。

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コメント

老人を「本家扱い」できるような社会にしたいもの、
この考え方が、広く 世間の通念となることを私も 強く願います。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月28日 (火) 10時56分

重陽の節句を祝う様

コメント有難うございます。
格差社会の1つの現れなのかも知れませんが、自然災害の被災の場合でも、人為的な犯罪の場合でも、弱者特に老人が被害に会うケースが、以前より多くなったような気がします。
かくいう私も、遠からず老人の仲間入りということになるわけですが。
誰でも行き着く先であることに思いを致すようにしたいですね。

投稿: 管理人 | 2009年7月30日 (木) 17時10分

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