『海の牙』と水上勉の直観力
水上勉は、水俣市での取材を終え、『海の牙』双葉文庫(9511)の執筆にとりかかった。
その際、「水俣病」と名づけることを控えて、「水潟病」とした。
熊本県に、小説の舞台として、架空の水潟市という都市をつくったのである。
水上勉は、なぜ「水潟」という名前にしたか?
チッソ(新日本窒素肥料)と似たようなビニールの可塑剤を製造している工場が、新潟県の阿賀野川上流にあることを知っていたからである。
それは昭和電工の工場であった。
その時点では、単なる思いつきだと、水上勉は言っている。
しかし、思いつきかも知れないが、それは大きな示唆を内包した直観力の産物だった。
『海の牙』が発表されてから約8年後、第二水俣病とも呼ばれる新潟水俣病の発症が確認されたのである。
チッソの関係者が、工場廃液説を認めていたら、あるいは厚生省などが本腰を入れて調査をしていたら、新潟水俣病は、たとえ発生を防げなかったとしても、実際に起きたほどの悲惨な事態は避けられたのではないだろうか。
Wikipedia(09年2月15日最終更新)で、新潟水俣病の経緯をみてみよう。
患者が起こした損害賠償請求訴訟において昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張していた。1964年に発生した新潟地震により、水銀農薬を保管していた新潟港埠頭倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したのではないかと疑われた。しかし当時、新潟県当局は被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたことを確認している。また、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また、農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、より上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになり、全くその主張の根拠を失った。
死亡患者の遺族の一人の法廷証言に「父は悶え、苦しみ……犬のように、猛獣のように狂い死にしました」とある。
第二水俣病は、熊本水俣病に対しての政府の責任回避ともいうべき対応によって引き起こされたといえる。政府は熊本水俣病が発生した時点で原因の究明を怠り、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしなかったからである。熊本水俣病に対して的確な対応をしていたならば新潟水俣病は避けられたはずであるといわれる。また昭和電工は証拠隠滅のため都合の悪い資料をすべて破棄したと見られ、事件の全容解明はほぼ不可能とみられる。
国は、熊本の水俣病と同様、患者の認定基準に厳格さを貫き続けている。
新潟県は国の基準では認定されない患者も救済する方向で条例制定を目指している。
水上勉は、自ら化学知識がほとんどない、と言っている。
厚生省などの公衆衛生の専門家は、水上勉よりはるかに化学知識を備えていたはずである。
にもかかわらず、熊本水俣病において、不作為ともいうべき対応をし、間接的に新潟水俣病の加害者になっている。
チッソや昭和電工の社内技術者は、自社の工程がメチル水銀を排出することを認識していたであろう。
あるいは、明確なメカニズムは不明だったとしても、工場廃液が原因物質である可能性を想定していたはずである。
昭和電工が証拠隠滅を図っていることがそれを示している。
かつて「日経ビジネス」誌が、明治以来の日本の会社のランキングの変遷を調べ、その記事を再編集して単行本化した。
後に、『会社の寿命-盛者必衰の理』新潮文庫(8908)として文庫化されるほどのベストセラーとなった。
産業構造の変化が、個別企業の盛衰に大きな影響を与えることは当然である。
09年6月8日の項:GMの破綻と「盛者必衰の理」
会社ランキングの変遷はそのことを雄弁に物語るデータだった。
昭和の初めの金融恐慌や昭和大恐慌を経た昭和8(1933)年のランキングをみてみよう。
日本窒素(野口遵)、日本産業(傘下に、日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日本油脂など/鮎川義介)、昭和電工(森矗昶)などのいわゆる新興財閥が新たにランキング入りしているのが興味を惹く。
後に日本の公害史を代表することになる企業が同時に台頭しているのは、果たして偶然の一致なのだろうか。
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 際立つNHKの阿諛追従/安部政権の命運(93)(2019.03.16)
- 安倍トモ百田尚樹の『日本国紀』/安部政権の命運(95)(2019.03.18)
- 平成史の汚点としての森友事件/安部政権の命運(92)(2019.03.15)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント