三島市内における湧水量の減少/因果関係論(4)
JR三島駅の直ぐ南側の駅前にある楽寿園(旧小松宮別邸)の中にある小浜池は、1940(昭和15)年頃には、3㎥/秒の水を湧出していたが、現在は枯山水状態になってしまった。
この湧水量の減少の因果関係を追究した『どこに消えたか三島の湧水』(三島自然を守る会)を、以下のサイトで紹介している。
http://www12.ocn.ne.jp/~ms14tb57/Sizen/yuusui/yuusui.htm
その原因として言われているのが、上流域における工場立地である。
1958(昭和33)年に、東洋レーヨン株式会社(現東レ株式会社)が、JR三島駅の北側に立地して操業を開始した頃から三島市内の湧水が減りはじめた。
1961(昭和36)年2月には小浜池の水位は30cmと満水時より約150cm低下し、1962(昭和37)年3月26日に、小浜池の湧水がはじめて完全に枯渇した。
その後、流域への降水量の多寡にもよるが、ほぼ周年池底が露出する状態が続いている。
東レだけでなく、その後数多くの企業が、地下水を利用するために立地した。
したがって、小浜池に象徴される地下水量の減少の原因を、東レの取水だけに帰することはできないだろうが、東レの操業開始がその端緒になったことは疑い得ない。
河川の上下流で、水利用の対立が起こることは、歴史上繰り返されてきた。
富士山の湧水の減少問題もその一形態ということだろう。
地下における水の挙動は、直接目に見えないのでシミュレーションに頼らざるを得ない部分があるが、地下水盆という言葉があるように、地下水の収支がある限度を超えると、もはや元に戻らないことになる恐れもある。
富士山南東麓の地下水揚水には法的規制がないというが、何らかの対策を講じることが必要なのではなかろうか。
東レがこの地域に進出する経緯に関して、上掲サイトでは以下のように記している。
昭和29年頃、東レが帝国人造絹糸株式会社とテトロン生産競争をするにあたって、優れた立地条件の工業用地を物色していた。当時、滋賀工場や愛媛工場の水問題でこりごりしていた首脳部が思いっきり水に恵まれたところということで、蔵田延男しに相談、氏は三島溶岩中の地下川を起用することを考え、野戦重砲兵連隊跡地(約10万坪の殆どが長泉町地籍、三島市地籍は極少)と組み合わせで、三島工場が建設されるようになった。
三島市は、税収入、地元からの社員雇用、社員および工場関係者の購買力の向上などを期待し、誘致運動に積極的に動いた。
当時の事情からすれば、三島市の動きはごく当たり前のことだったといえるだろう。
東レの操業は、水俣病のような極端な公害をもたらすことはなかった。
それは幸いなことというべきだろうが、地下水位の推移をみても、自然環境に大きな影響を与えたことも否定できない。
三島梅花藻という可憐な花がある。 淡い黄色の花が、梅の花に似ている。
三島の名前がついたのは、楽寿園の小浜池で発見されたからである。
梅花藻は高地性のものが多く、低地にあるのは珍しいという。
かつて(東レ進出前)には、小浜池や市内の小川でも見られたらしいが、現在は絶滅している。
柿田川では辛うじてその名残を留めている。
水の汚染に非常に敏感で、日当たりのいい冷たい水でないと育たないという。
果たして、小浜池が湛水し、三島梅花藻の花が見られるようになるほどに自然環境が回復する日が来ることがあるだろうか。
写真は、http://www.kakitagawa.or.jp/kakita/kakita5.htm
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