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2009年7月

2009年7月31日 (金)

富士山湧水の湧出モデル

御殿場から三島に至る愛鷹山と箱根山に挟まれた南北の谷間は、やや平坦な台地となっている。
この台地は、新富士旧期溶岩流の1つである三島溶岩流によって作られたもので、その上を黄瀬川が流れている。
三島溶岩は、山頂から約35kmも流下して三島に達したことになる。
この末端の小浜池や柿田川は、三島溶岩の間から湧水している。

これまでの研究によると、富士山の雪解け水と降雨は、すぐに地下にしみ込んで地下水となり、破砕された溶岩中に入り込んで、水の浸透しにくい古富士泥流層の上を地下川として流れ、末端で湧出するとされてきた。
柿田川は、国道1号線のすぐ南側が源流というまことに珍しい河川である。
狩野川に合流するまでのわずか1.2kmに過ぎないが、日量100万m3以上の豊富な湧水が流れている。

土隆一氏らが、近くの清水町運動公園でボーリング調査を行い、湧水のメカニズムがわかってきた。
Photo_3 地下の状況は、地表から深さ25mまでは、沖積砂礫層で、深さ20mのところに天城側火山カワゴ平の約3,000年前の噴火で飛来した軽石の層が挟まれている。

深さ25mから70mまで、10層の三島溶岩流があり、その下はまた砂礫層になっている。
これら溶岩層のクリンカー部分(注:クリンカーとは、火山用語で、溶岩の温度が低下するときに生ずる直径数cmの団塊状をした溶岩の破片のことで、玄武岩質から安山岩質溶岩の上表面と下底面に生じる)と下位の砂礫層からは、地表近くまでの水圧を持った地下水が湧き出している。
溶岩層の間の地下水は、富士山系の地下水と考えることができる。

湧水は、約3,000年前の軽石層を突き破って湧き出しているので、柿田川が現在のような河川として流れるようになったのは、およそ2,000年前頃からだろうと、土氏は推定している。
土氏は、柿田川の水は溶岩層の間の被圧地下水が主で、それは富士山系の地下水であるが、その他に表層砂礫層中の自由地下水、軽石層の下の被圧地下水、溶岩層の下の砂礫層の被圧地下水等が混じり合っており、これらには愛鷹山や箱根山からの地下水が流入・混入している可能性があるとしている。
今回の静岡県の環境衛生化学研究所環境科学部と静岡県水利用室による調査で、同位体の分析などから、柿田川湧水には、富士山系地下水のほか、愛鷹・箱根山系の水も3~5割混ざっているなども分かったことは既に記した。
09年7月27日:富士山湧水の由来

土氏は、地下水湧出のメカニズムを、次のように説明している。

湧水の主体はいくつも重なっている溶岩層間のクリンカー状に破砕された部分の被圧地下水であることがわかったが、玄武溶岩層の中心部はゆっくりと緻密に冷え固まって水も透さず、表層と下底はクリンカー状になり、高所へ行くほど溶岩層はより薄く、より傾き、クリンカー部分が多くなるという溶岩層の構造を考えて見ると、高所ほど降雨と雪解けミスは溶岩層間に入り易く、山麓では被圧水体として溶岩層間に蓄えられ、高さによる水圧で溶岩層末端から押し出されるように湧き出す

これを模式的に示したものが次図である。
2

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2009年7月30日 (木)

富士山湧水の水文学

「水文学」という研究分野がある。ミズブンガクではなく、スイモンガク。
Wikipediaでは、次のように説明されている。

水文学(すいもんがく、英: hydrology)とは、地球上の水循環を対象とする地球科学の一分野であり、主として、陸地における水をその循環過程より、地域的な水のあり方・分布・移動・水収支等に主眼をおいて研究する科学である。
研究対象は、水の供給源としての降水の地域的・時間的分布特性、蒸発、浸透、陸水や地下水の移動等が中心となる。

富士山への降水のかなりの部分が伏流水となって、山麓の三島市などで湧出する。
その湧出量が、工場立地に伴い減少してしまった。
2富士山は、飛行機などから眺めると、独立峰であることがよくわかる。
私も大分前のことであるが、冬のよく晴れた日に、富士山を飛行機から見る機会に恵まれ、地上から眺めるのとはまた異なった姿に感動したことがある。
インターネット上にも、富士山の写真は多数ある。
中には、飛行機から撮影したものもあるが、私がみたときに比較的近い写真が掲載されているブログがあった。BoAブログから借用する。

ブラウジングしていたら、土隆一『富士山の地下水・湧水』という論文がヒットした。
著者は、静岡大学名誉教授の地球科学者である。
現時点での富士山湧水の水文学の概説だと思われる。以下、概要を見てみよう。

富士山(3776m)は、およそ10万年前に、駿河湾北部の愛鷹山の北西側、小御岳火山の裾野に誕生した。
Photo_2玄武岩質溶岩と火山灰などの火山砕屑物を繰り返し噴出し、それらが成層して、円錐型となった。
表面の傾斜は、山頂では30°近くに達するが中腹以下では5°前後の緩やかな傾斜で、広い裾野が広がる。
底面の直径はおよそ30~40kmで、体積はおよそ1200~1400km3に達する。
日本の火山の体積の平均は40km3ということだから、富士山は群を抜いて大きい。
山麓一帯には、御殿場周辺の湧水群、三島湧水群、柿田川、吉原湧水群、富士宮湧水群、忍野八海など、数多くの湧水が知られ、富士山の多量の雨や雪が降り、それらが地下にしみ込んで地下水を涵養し、やがて湧水として湧き出していると考えられる。

2_2富士山への降水量は、年間で約22億m3と推定されている。
この富士山への降水に由来すると考えられる湧水は100以上あるとされる。
これらの湧水の中で規模の大きなものは、いずれも新富士旧期溶岩流の末端にある。

新富士旧期溶岩流は、11,000~8,000年前の富士山の大規模噴火によって、山頂付近の火口から御殿場付近を除く山麓一帯に硫化した大量の玄武岩溶岩流で、中期・新期溶岩流に比較して、厚く、広域的に分布している。
ほぼ現在の富士山の輪郭が形成されたと考えられる。
この三島溶岩流の末端に、楽寿園小浜池や柿田川が位置している。

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2009年7月29日 (水)

湧水量の減少の原因と影響

『どこに消えたか三島の湧水』(三島自然を守る会)のサイトにより、三島における富士山湧水の減少経過を追ってみよう。

1954(昭和29)年11月、三島商工会議所は、地域経済活性化のために、野戦重砲連隊跡地に自衛隊砲兵連隊を三島市に働きかける動きをみせた。
そのような状況の中で、東レの三島工場進出話が持ち上がったのだった。
三島市当局は、誘致運動に対し積極的で、東レの三島進出に対して数々の特典を与えた。
当時においては、ごく自然な地域振興策だったといえよう。
しかし、不思議なことに、三島自然を守る会の契約書開示要求に対し、三島市、長泉町、静岡県のいずれも契約書の原本を保管していないという返事だった。
ただ、当時の長泉町助役の個人的な文書綴りの中に、コピーが残っており、それを当時の記事と照合したところ、原本と同一であろう推定できる、というのが同会の判断である。

三島の水は冬場は減少する。それが田植頃には湧いてくるといわれ、小浜池の水位も、例年2~3月頃が最も低く、4月から増水に展示、6月には満水になるというパターンであった。
東レの生産量増大に対応して揚水量も増えていったが、それと反比例して三島市内の湧水は減少し、小浜池の水位も低下していった。
1962(昭和37)年3月26日には、はじめて小浜池が完全に枯渇した。5月になってもカラカラの状態が続き、湧水を農業用水に利用している下流の中郷地区住民は死活問題であるとして、一時的に揚水をストップさせることを三島市に申し入れた。

1965(昭和40)年1月4日には、中郷地区農民約600人が小浜池のセリの瀬で、三島地区生活用水確保住民大会を開催し、損害賠償を求めて、耕運機40台を連ね、のぼり旗を立てて東レ三島工場までデモ行進した。
1月末に、東レは地域社会との摩擦を避けるため静岡県に、工業用水の供給を受けられるよう要請した。
東レと農民との話し合いにより、東レの冷却水の排水を源兵衛川に導入し、中郷地区等三島市南部の農業用水として使用することに合意した。
源兵衛川は、現在は親水環境として知られており、2008(平成20)年度に、環境省の認定する「平成の名水百選」に選ばれると共に、フジサンケイグループが主催する「地球環境大賞」の「環境地域貢献賞」を受賞している。
09年4月24日:水の都・三島と地球環境大賞
4月27日に、三島市は水不足非常事態宣言を出したが、その後上流の裾野市伊豆島田に三島市営水道水源を完成させ、給水を開始して危機を脱した。

果たして、三島市内の富士山湧水の減少、小浜池の水位低下の原因は、東レの揚水にあると特定していいだろうか?
東レに三島進出を勧めたのは、地下水研究者の蔵田延男氏であった。
蔵田氏は、当時、湧水量の減少は、富士山の降水(雪)量減少が原因であるとした。
1962(昭和37)年頃は、実際に積雪が少なかったことは事実である。
静岡県の調査では、「枯渇の原因ははっきりしない」とされたが、三島市の依頼した調査では、湧水減少の原因は、「三島周辺の工業化(=東レを示唆)」による人為的要因であるとしている。

ところで、東レ誘致の経済効果はどうであっただろうか?
東レからの税収は、長泉町が圧倒的に多く、三島市は他の事業者に比べても小額であった。
従業員の現地採用も、事前の説明と比べるとはるかに少なく、東レの従業員の多くが北陸や東北の出身者であった。
結果的に、東レ誘致の経済効果は、負担に比べて小さなものと評価せざるを得ず、三島市議会でも問題とされるところとなった。

東レの操業による地下水湧出量の減少は、三島市民に、工業用水の取水による環境変化を実感させることになった。
1962(昭和37)年8月に、新産業都市建設促進法が施行された。
静岡県は、沼津・三島地区の新産業都市指定を目指したが、指定から漏れ、同地区は東駿河湾工業整備特別地区となった。
静岡県は、東京電力、富士石油、住友化学等による石油化学コンビナート計画を策定し、工業用水として柿田川湧水を利用するとした。
これに対し、三島市、沼津市、清水町の住民が強力な反対運動を展開し、ついに計画断念に追い込んだ。
わが国の工場立地、住民運動史における一大転機となるものであった。
09年2月28日:全日空M資金事件

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2009年7月28日 (火)

三島市内における湧水量の減少/因果関係論(4)

JR三島駅の直ぐ南側の駅前にある楽寿園(旧小松宮別邸)の中にある小浜池は、1940(昭和15)年頃には、3㎥/秒の水を湧出していたが、現在は枯山水状態になってしまった。
この湧水量の減少の因果関係を追究した『どこに消えたか三島の湧水』(三島自然を守る会)を、以下のサイトで紹介している。
http://www12.ocn.ne.jp/~ms14tb57/Sizen/yuusui/yuusui.htm
その原因として言われているのが、上流域における工場立地である。

2_2 1958(昭和33)年に、東洋レーヨン株式会社(現東レ株式会社)が、JR三島駅の北側に立地して操業を開始した頃から三島市内の湧水が減りはじめた。
1961(昭和36)年2月には小浜池の水位は30cmと満水時より約150cm低下し、1962(昭和37)年3月26日に、小浜池の湧水がはじめて完全に枯渇した。
その後、流域への降水量の多寡にもよるが、ほぼ周年池底が露出する状態が続いている。
東レだけでなく、その後数多くの企業が、地下水を利用するために立地した。
したがって、小浜池に象徴される地下水量の減少の原因を、東レの取水だけに帰することはできないだろうが、東レの操業開始がその端緒になったことは疑い得ない。

河川の上下流で、水利用の対立が起こることは、歴史上繰り返されてきた。
富士山の湧水の減少問題もその一形態ということだろう。
地下における水の挙動は、直接目に見えないのでシミュレーションに頼らざるを得ない部分があるが、地下水盆という言葉があるように、地下水の収支がある限度を超えると、もはや元に戻らないことになる恐れもある。
富士山南東麓の地下水揚水には法的規制がないというが、何らかの対策を講じることが必要なのではなかろうか。

東レがこの地域に進出する経緯に関して、上掲サイトでは以下のように記している。

昭和29年頃、東レが帝国人造絹糸株式会社とテトロン生産競争をするにあたって、優れた立地条件の工業用地を物色していた。当時、滋賀工場や愛媛工場の水問題でこりごりしていた首脳部が思いっきり水に恵まれたところということで、蔵田延男しに相談、氏は三島溶岩中の地下川を起用することを考え、野戦重砲兵連隊跡地(約10万坪の殆どが長泉町地籍、三島市地籍は極少)と組み合わせで、三島工場が建設されるようになった。

三島市は、税収入、地元からの社員雇用、社員および工場関係者の購買力の向上などを期待し、誘致運動に積極的に動いた。
当時の事情からすれば、三島市の動きはごく当たり前のことだったといえるだろう。

東レの操業は、水俣病のような極端な公害をもたらすことはなかった。
それは幸いなことというべきだろうが、地下水位の推移をみても、自然環境に大きな影響を与えたことも否定できない。

三島梅花藻という可憐な花がある。
Photo_3 淡い黄色の花が、梅の花に似ている。
三島の名前がついたのは、楽寿園の小浜池で発見されたからである。
梅花藻は高地性のものが多く、低地にあるのは珍しいという。
かつて(東レ進出前)には、小浜池や市内の小川でも見られたらしいが、現在は絶滅している。
柿田川では辛うじてその名残を留めている。
水の汚染に非常に敏感で、日当たりのいい冷たい水でないと育たないという。
果たして、小浜池が湛水し、三島梅花藻の花が見られるようになるほどに自然環境が回復する日が来ることがあるだろうか。
写真は、http://www.kakitagawa.or.jp/kakita/kakita5.htm

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2009年7月27日 (月)

富士山湧水の由来

三島市内を流れる川の水量が、かつては今からは想像できないほど豊かなものであったことは、太宰治の『アルト(老)ハイデルベルヒ』の一節からも窺い知ることができる。
09年6月18日:太宰治と三島・沼津
そして、水量が減ったとはいえ、依然として「水の都」たらんとして、さまざまな努力が続けられている。
09年4月24日:水の都・三島と地球環境大賞

この三島市内を流れる水は、富士山や箱根連山に降った雨が流出したり、地下を通って湧き出したりしたものである。
静岡県の環境衛生化学研究所環境科学部と静岡県水利用室は、県内の富士山周辺に広がる湧水について、地理情報システム(GIS)を利用した電子マップを作成した、と静岡新聞(7月27)日で報じられている。Photo
三島市と沼津市の間に位置する清水町の柿田川湧水も、昔に比べると湧出量が少なくなったとはいえ、豊富な清水を絶えず湧出している姿は訪れる人を感動させる。

富士山に降った雨が、柿田川や三島市内の川に、どれくらいの時間をかけて、どういう経路で湧・流出しているかについては、諸説があった。
今回の調査では、335カ所について現地調査し、271カ所で湧水が確認された。
湧水に含まれる酸素・水素の同位体比を測定し、それぞれの場所の湧水や地下水が、どの地域の降水に由来するかを推定した。

同位体比は、降水の標高によって異なるとされている。
例えば、富士山西麓では白糸の滝に、東麓では棚頭(小山町)に湧き出す水は、標高1700m付近に降った雨水に由来するという。

また、富士山系の水は硫酸イオン濃度が、愛鷹・箱根山系は塩素イオン濃度が比較的高い傾向がある。
この同位体測定データなどをもとに、地下水の流れを3次元モデル化したところ、富士山への降水が白糸の滝などで湧出するまでに、約20年前後かかると推定されるという。
また、柿田川湧水には、富士山系地下水のほか、愛鷹・箱根山系の水も3~5割混ざっているなども分かった。

富士宮市・芝川町(来年3月に富士宮市と合併予定)を流れる芝川に、「芝川のり」という淡水産の緑藻(カワノリ)が自生する。
Photo室町時代や江戸時代には、幕府や朝廷に献上されたというが、近年は収穫量が激減し、「幻のカワノリ」と言われるほどの貴重品になってしまった。
写真は、http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jimusyo/fujiazami/fujiazami_56/56-3.html

「カワノリ」は、栃木県から九州までの太平洋に流れる河川上流部の特定の箇所だけに生えるという特異性があり、育成条件としては、以下があげられる。
1.水温が通年8~15℃と低いこと
2.流速が秒速0.5m以上であり、特に秒速 1~1.5mでよく成長すること
3.日当りのよいこと
4.水深30cm以下であること
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/food/shibakawanori.htm

幻の芝川ノリを特産品として復活させるプロジェクト(日本大学芝川のり研究会(代表:石川元康助教授))が進行中だという。
芝川ノリは、1本隣の水系には自生しないという。
富士山の恵みには計り知れないものがあるようだ。

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2009年7月26日 (日)

日本の化学工業における日窒(チッソ)の先行性

日本の化学産業史におけるチッソの位置づけを、加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)により、トレースしてみよう。
チッソ(日本窒素肥料)は、朝鮮進出と共に、化学企業としての多角化を図った。
1928(昭和3)年には、ドイツのベンベルグ社より、銅アンモニア法による人絹製造特許を購入し、日本ベンベルグ絹糸株式会社を設立、1931(昭和6)年から延岡に工場を建設して人造絹糸の生産を開始した。

肥料生産は朝鮮窒素肥料で行い、人絹生産は延岡工場で行うことにすることによって、水俣工場はアセチレン系有機合成化学の拠点として位置づけられることになった。
第一次大戦中に、ドイツで成立したアセチレン系有機合成工業は、カーバイドの新しい用途を生み出した。
つまり、カーバイドより発生するアセチレンから、アセトアルデヒド(CH3CHO)を作り、さらにアセトアルデヒドを中間原料として、酢酸、無水酢酸、アセトン、ブタノールなどを生産する工業技術体系である。

水俣工場は、1927(昭和2)年に稼働をはじめた合成酢酸工場によって、有機合成工場化した。
酢酸は、木材乾留により製造されていたが、第一次大戦中にドイツでアセトアルデヒドから製造する方法が確立され、わが国でも製法の転換に迫られていた。
業界団体の大日本酢酸製造組合は、大阪市立工業研究所に酢酸合成法の開発を委託し、1928(昭和3)年には合成酢酸が生産されるようになった。

チッソ(日窒)は、大阪市立工業試験所とは独立に、社内で酢酸合成法を開発した。
それだけの技術的力量を持っていたということになる。
水俣工場における酢酸生産は、酢酸誘導製品に対する需要の増大とともに増産されていった。
酢酸誘導製品としては、1934(昭和9)年の無水酢酸、1936(昭和11)年のアセトンなどが次々に開発されていった。
また、平行して、アクリルガラス、有機ゴム製品、塩化ビニルなどの研究が行われた。

これらは、戦時体制色の濃いものであった。
例えば、合成酢酸の誘導品として、アセテート繊維素(アセチルセルロース)が作られ、主として航空機用塗料として用いられたが、民生用のアセテート繊維については使用が禁止された。
水俣工場におけるアセチレン系有機合成品として、塩化ビニルを挙げることができる。

塩化ビニルは、1935年、ドイツのIG社によって工業化されたが、日本へは1937(昭和12)年に輸入された。
チッソ(日窒)は、1941(昭和16)年に、日本で初めて塩化ビニルの工業生産に成功した。
生産された塩化ビニルは、合羽用塗料、電線被覆、乾電池のセパレータなど、すべて軍需用に使用された。

加藤氏は、上掲書において、水俣工場は、日本の化学工業全体との関係で、実験工場的位置づけを持っていた、としている。
つまり、チッソ(日窒)は、パイオニア性を有する企業であったが、それは三井、三菱、住友などの財閥系企業が負担すべきリスクを、肩代わりして負ったということである。
チッソ(日窒)の金融的なバックは、日本興行銀行に依存していたが、加藤氏によれば、それはまさに国家資本ということになる。

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2009年7月25日 (土)

チッソとはどういう会社だったのか

水俣病は、もっとも大規模で、もっとも悲惨な結果をもたらした公害である。
その原因企業(加害者)であるチッソとは、歴史的にみて、どのような会社だったのか?
ホームページの、沿革欄を抜粋してみよう。

1906(明治39)年 曾木電気株式会社設立
1908(明治41)年 日本窒素肥料株式会社に改称、カーバイド製造所に空中窒素固定法による石灰窒素の製造を開始
1923(大正12)年 世界で初めてカザレー式合成アンモニアの製造開始
1927(昭和2)年  朝鮮窒素肥料株式会社設立、世界最大規模の化学コンビナート「興南工場」設立 
1941(昭和16)年 塩化ビニルの製造開始
1945(昭和20)年 全国のトップを切ってアンモニア肥料(硫安)の製造再開
1950(昭和25)年 新日本窒素肥料株式会社としてスタート
1952~52(昭和27~28)年 オクタノール、DOP、アセテートステープルの製造設備完成
1962(昭和37)年 チッソ石油化学工業株式会社設立
1965(昭和40)年 社名をチッソ株式会社に改称
2000(平成12)年 チッソ再生計画スタート
2006(平成18)年 創立100周年

この沿革から、少なくとも社名をチッソ株式会社に改称する以前の段階においては、日本の化学工業を先導してきた会社であることが分かる。
創業者は、野口遵。帝国大学工科大学(東京帝国大学工学部の前身)の出身である。
石灰窒素、合成アンモニア、塩化ビニル、酢酸ビニル、ポリエチレン、合成オクタノールなどを日本で最初に成功させた。
「技術のチッソ」として、そのイノベーション実現力を賞賛されてきた。

問題は、このような技術的先進性を持っていた企業が、いかにして水俣病という最悪の公害の加害者になってしまったか、である。
加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)は、チッソの創業時に遡ってこの問題を検討している。
以下、上掲書により、チッソの化学技術史的展開をみてみよう。

日本化学工業史における日本窒素肥料株式会社(日窒)成立の意義は、電気化学工業の出発点をなしたことである。
上記の沿革の曾木電気株式会社は、鹿児島県伊佐郡大口村で設立され、1907(明治40)年に、野口遵と藤山常一が中心となって設立された日本カーバイド商会が合併して、日本窒素肥料株式会社になった。
日窒は、1909(明治42)年に水俣工場を完成させて、石灰窒素の生産を開始した。
1914(大正3)年に完成した八代郡鏡町の鏡工場が、石灰窒素と硫安を大量生産する能力を備え、それが日窒発展の原動力になった。

硫安は年毎に需要が増大し、一方第一次世界大戦によって輸入が途絶したため、鏡工場はドル箱工場となり、日窒の企業基盤が一挙に確立した。
また、第一次世界大戦勃発直後に、水俣新工場の建設を決定し、1918(大正7)年に、石灰窒素・変成硫安の一貫生産設備が完成した。
鏡工場と水俣新工場の両工場によて、日窒は巨大な超過利潤を蓄積した。

1921(大正10)年、野口遵は、世界大戦後の欧州を視察するため渡欧し、アンモニア合成法を見学して、直ちに特許権購入の交渉を行って、契約締結に持ち込んだ。
現在ならば、ベンチャー精神に溢れた企業家という評価になるだろう。

アンモニア合成は、上記の沿革にあるように、1923(大正12)年に宮崎県東臼杵郡恒富村の延岡工場で稼動を始める。
さらに水俣工場も合成硫安生産工場に切り替えられた。
合成硫安技術は、水素ガスを電気分解に求めるもので、電気化学工業としての性格を持ち、日窒は、所要電力の確保のために電源開発を進めた。
また、1926(昭和元)年には朝鮮水電株式会社を設立し、翌年には朝鮮窒素肥料株式会社を設立した。

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2009年7月24日 (金)

集中豪雨禍と本家防災論

2_2梅雨明けの前後には、集中豪雨が発生しやすい。
最近は、温暖化のせいで日本列島の気象が亜熱帯化しているというが、どうも雨の降り方が昔より凶暴化しているような気がする。
山口県防府市の特別養護老人ホーム「ライフケア高砂」では、集中豪雨による土石流の発生で、多数の被害者が出た。
「ライフケア」というネーミングが虚しく感じられる。
「ライフケア高砂」の立地や防災上の措置などについて詳しく調べたわけではないが、被災のニュースに接し、むかし宮村忠・関東学院大学教授に聞いた「本家防災論」の話を思い出した。
写真は、http://www.asahi.com/national/update/0721/SEB200907210005.html?ref=goo

本家は、基本的に旧家であり、格式も高い。
したがって、土地の生活の歴史の中で、災害が起こり難い場所に立地する。
これに対し、分家は、より劣悪な条件の場所に立地せざるを得ない。
したがって、本家と分家を比較すると、本家の被災ははるかに頻度が少ないし、壊滅的な被害に遭うことも滅多にない。
つまり、自然災害にもある種の階級性がある、ということであり、同時に防災のために、本家の経験・知恵に学べ、ということだと理解している。

おそらくは、特別養護老人ホームというような施設は、分家よりもさらにレートカマーとしての立場にある。
つまり、災害に対しては条件が悪い場所に立地せざるを得なかったはずである。
例えば、崩落した「ライフケア高砂」の裏山付近は、土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域に指定されていたらしい。
しかし、市災害対策本部から、避難勧告などはなかったというから、防災における運用上のケアも十分だったとは言えないような気がする。

市の担当者が言うように、土砂崩れの予兆が分かりにくいのは事実だろう。
しかし、警戒を要する地域に、素早い対応が困難な老人が入居していたのだから、もう少し配慮できなかっただろうか、と思う。
入居者は、施設に入らなければならないという意味での弱者、施設の立地条件が不利だという意味での弱者、当局の運用において十分に目配りをされていなかったという意味での弱者、というように多重的な弱者だったとも言えるだろう。

宮村さんは、『水害-治水と防災の知恵』中公新書(8506)において、次のように書いている。

治水は、計画者あるいは為政者、行政者が、河川をどのように扱うかという立場のものであり、水防は、地域や個人がどのように被害を少なくするかという立場で発想するものである。

そして、第二次大戦後の治水の歴史でもっとも特徴的な現象の1つが、水防と治水が乖離してしまったことだ、としている。

介護の問題も、防災の問題とやや似たようなところがあるのではなかろうか。
昔は、家庭の中で介護を行ってきた。
しかし、それでは家族の負担が大き過ぎて耐えられない。
そこで、専門に介護を行う施設が作られるようになった。
しかし、上述のように、それは地域の施設としてはレートカマーの立場になる。

私の生活圏でも、クルマでなければ行けないような街の中心地から離れた場所に、老人施設が作られているのを目にすることが多い。
治水的な目ではなく、水防的な目で介護施設を考えるとすれば、土砂崩れの危険性のある場所ではなく、孫なども含めた家族が訪問し易い場所に設置されるべきではなかろうか。
老人を「本家扱い」できるような社会にしたいものである。

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2009年7月23日 (木)

「海洋国家日本」論と水俣病

日本が海洋国家であることを忘れていた象徴が、水俣病ではないだろうか。
宇井純編『技術と産業公害』東京大学出版会(8509)の第四章「水俣病」で、宇井さんは、次のように書いている。

20世紀初頭、南九州の西岸にある水俣村は、入江の奥に港と若干の塩田、水田をもつ半農半漁の集落であった。対岸の天草から産出した石炭が、奥地の金山に港を通して運びこまれ、後背山地の林産物が、港から積出されてにぎわった他には、これといって特徴のない沿岸の村の一つであった。

日本の原風景の1つといえるだろう。
大学を出て間もない青年電気技術者・野口遵は、日本最初のカーバイドの工業生産に参加して成功したあと、奥地の金山へ電力を供給する水力発電所を作り、その余剰電力を活用してカーバイドを生産する工場の適地を探していた。
水俣村の地場産業の塩田が、専売制が施行されることによって経済性を失う時期であったこともあり、水俣村の有力者たちは、野口に新工場建設を強く要請した。
そのために、塩田の土地、工業用水、港、発電所から工場までの送電線費用の一部などを、無償もしくは格安の条件で提供することを申し出た。
これも、農漁村から脱して工業化を図る際に、どこの地域でもみられた光景といえるだろう。

工場の進出により、水俣村は繁栄し、人口も増加してやがて町に昇格し、第二次大戦後は市になった。
この経済発展は間違いなく工場によるものであった。
市の公共投資も、工場の産業基盤が優先された。
典型的な企業城下町、工場と地域との運命共同体が形成されていったのである。
日本の軍事化が進むと共に、石油の乏しい日本では、航空機燃料をはじめとする石油系軍需物資の供給が大きな課題となった。
その解決策の1つとして注力されたのが、合成化学である。

わが国における合成化学の産業化の歴史は、アセチレン化学から始まった。
アセチレン(HC≡CH)は、三重結合を持っているため、反応性に富む。
つまり、化学品合成の原料として好適である。
軍との結びつきにおいて、日本窒素肥料株式会社(日窒)は優位なポジションを確保し、朝鮮から満州へ進出していった。

しかし、第二次大戦の敗戦により、日窒は植民地資産のすべてを失った。
日窒は、占領軍の財閥解体の対象となり、水俣工場も戦時下の爆撃によって重大な被害を受けた。
にもかかわらず、日窒の技術者の能力と志気は高く、水俣工場は、戦後の飢餓状態の中で、食糧増産のキー・ファクターである硫安の生産を、敗戦の2カ月後に再開した。
戦争の被害が比較的小さかった水力発電を主エネルギー源とする肥料工業とカーバイド電炉工業は、戦後の混乱の中でいち早く立ち直った産業だった。

戦後の消費生活の中で、私たちが大きな恩恵を蒙っているものとして、プラスチックや繊維などの合成化学品がある。
その先鞭が塩化ビニル樹脂(PVC)だった。
日本でPVCの生産の経験を持っていたのは水俣工場だけで、1949(昭和24)年に占領軍から生産許可が得られると、市場を独占する商品となった。
日窒の技術陣は、PVCの可塑剤として不可欠のDOP(ジオクチルフタレート/フタル酸ジオクチル)の合成に成功し、国内市場を完全に独占した。

かくして、1950年代に水俣工場は、第二の黄金時代を迎えることになった。
市税の60%が工場関係からの収入であり、市長は引退した工場長がつとめ、議員の多数も工場関係者だった。
典型的な工場城下町の姿である。
水俣工場のアセトアルデヒドとPVCの生産設備は、1950年代を通じて日本最大の規模を維持した。
この両工程が、水銀化合物を触媒として大量に使っていた。
排水は無処理で水俣湾に放流された。
死んだ魚が目撃され、漁獲量も激減して、漁業の被害が増大した。

漁協は、永久示談として、今後永久に苦情を申し出ないことを条件に、海面の埋立権を工場に与え、若干の補償金を得た。
その頃から、漁村に多い猫が、突然飛び上がり、狂いまわり、海に飛び込むという奇妙な現象が見られるようになった。
海洋国家日本の代表的工場は、「豊饒の海」を死の海に変えてしまったのである。
水俣病は、日本の近代史あるいは戦後史が、海洋国家であることを放棄してきたことの焦点に位置していると言えるのではなかろうか。

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2009年7月22日 (水)

海の日と『文明の海洋史観』

私たちの世代には、「海の日」というのは余り馴染みがない。
先日も、同級生のグループで話をしていて、「今度の3連休は・・・」という話題になったとき、既にリタイヤしている友人が、「3連休って?」と言った。
「そうだね、毎日が休日だもんね・・・」ということになったのだが、国民の祝日となったのは1996(平成8)年からである。
趣旨については、国民の祝日の関する法律(祝日法)では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う」とされている。
「海の日」を国民の祝日としているのは、日本だけだという。

確かに、日本は島国で四周を海に囲まれているから、「海洋国家日本」という規定はその通りだろう。
陸地面積では、世界で第60位であるが、排他的経済水域を含めれば、世界で第6位の面積になるという。
しかし、通常、あまり「海洋国家日本」という意識を持たない人が多いのではないだろうか。
その意味で、「海の日」はもっとPRされるべきではないかと思う。

いよいよ国民に政権選択を迫る総選挙の選挙戦に入った。
政権選択とは、国家像を競う選挙ということでもある。
戦後レジームの中で、海洋国家として、どういう戦略を構想すべきかを説いたのが、高坂正尭『海洋国家日本の構想 (中公クラシックス) 』中央公論新社(0801)である。

高坂氏は、「近代の超克」で有名な高坂正顕の次男で、京都大学で猪木正道に師事した国際政治学者だった。
「中央公論」の名編集長といわれる粕谷一希氏によって論壇に送り出され、現実主義の立場から数多くの発言をした。
氏がデビューしたのは60年代の前半で、まだ20代だったが、その当時は、論壇の中心には、いわゆる進歩的文化人が位置していて、高坂氏はやや異端の論客であった。
持前の頭の回転の速さから、TV等でも活躍したが、1996年に62歳の若さで亡くなられた。
民主党の副代表の前原誠司氏は、高坂氏のゼミの出身であり、師を深く尊敬していることで知られる。

京大には、湯川秀樹・貝塚茂樹兄弟、朝永振一郎、桑原武夫など、父が京大教授という知的名門とでもいうべきグループがある。
高坂正尭もその1人に数えられるだろう。
猪木氏の教え子の中でも抜群に優秀だったという。
彼らのほとんどが、洛北高校、旧制でいえば京都一中の出身である。
私の知人にも、父親が京大教授という人がいる。
DNAはまあ仕方がないにしても、育った環境の知的雰囲気というものが、われわれとはまるで違うよなあ、と感じさせられる。

先の静岡県知事選で、自公の推薦する坂本由紀子前参議院議員を破って当選した川勝平太氏も京都生まれである。
渡来人の秦氏の流れを汲むというが、京都の新しい名門校である洛星高校の卒業で、早稲田大学に進んだ。
大都市圏では、高校の偏差値などにおいて、公低私高が著しいらしいが、幸いにして(?)、地方都市では依然として、公立高校が名門とされている例が多い。
それはともかくとして、川勝氏の代表作といえば、『文明の海洋史観 (中公叢書)』中央公論新社(9711)ということになるだろう。
静岡県内では、この書をはじめ、川勝氏の著作の売れ行きが伸びているそうだ。

川勝氏は、従来の文明史観が陸地を中心としたものの見方・考え方に偏っていたことに対し、海からの視点の重要性を提起した。
川勝氏は、次のように言う。

日本は島国であるから、日本列島における歴史は、海をわたってくる文明に洗われながら、島として自立の過程を歩んできた。西洋、東洋、日本の歴史は言うまでもなく、相互に連関なく発達してきたのではない。むしろ連関を深めつつ発達してきた。
……
ところが、歴史研究の基礎ともいうべき歴史観において、交流をつなぐ海は本質ではなかった。唯物史観にせよ、生態史観にせよ、内陸の歴史事象が念頭におかれている。それは従来の縦割りないしタコ壺的な歴史学のあり方と無縁ではないだろう。
……
こうして、戦後の日本人は海をとりこんだ歴史観をもってこなかった。海洋をとりこんだ歴史観をここでは陸地史観との対比において海洋史観と呼ぶことにしよう。

川勝氏は、海洋史観をベースに、日本の国土の将来像として、「ガーデン・アイランズ」を提唱した。
ガーデン・アイランズとは、美しい庭園の島である。
そして、家と庭が一体となった「家庭」を再建しよう、という。
そのために、軽井沢に土地を求めた。別荘としてではなく、永住の地として、である。
静岡県知事選の際の住所も軽井沢であった。
先ずは日本の縮図ともいうべき静岡県を、美しいガーデンの方向に変えていくことが、知事としの責務であろうか。

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2009年7月21日 (火)

衆議院の解散

いよいよ衆議院が解散され、総選挙に向かって動き出した。
Photo自公与党が相次ぐ地方選の敗北で厳しい情勢にあることは間違いないだろうが、一寸先は闇といわれる世界である。
総選挙の動向も、まだ何とも言えないと考えるべきだろう。
都議選の結果と同じように、自公も民主党が連立を想定している社民・国民新の合計も過半数に達しない可能性もかなりの確率で起こり得るだろう。
そうすると、共産党がキャスティング・ボードを握るという状況になる。
人知の及ばない世界なのかも知れない。
グラフは、http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/house_of_representatives_election/?1248160572

そういう状況の中で、自民党の津島派会長・津島雄二氏が、総選挙に立候補しないという意向を表明した。
津島派は、旧経世会の流れを汲み、自民党第二の数の派閥である。
しかし、最近は存在感が薄かったことも事実だろう。
小泉純一郎元首相が「ぶっ壊す」とした自民党の象徴ともいえる。
元首相の目論見はようやく顕現したというべきなのか?

ところで、津島氏は、太宰治の長女の娘婿である。
太宰ブームの一方で、政界引退を表明せざるを得ないのも何かの因縁ということだろうか。
津島氏は、東京大学を卒業後大蔵省に入省し(司法試験には卒業前に合格しており、既に弁護士資格を取得している)、大平内閣時代に一般消費税導入案に関係したことなどから、代議士になってからは宏池会に所属していた。
1994年に、自社さ連立政権に反対して非自民連立統一候補の海部俊樹氏を支持して、自民党を離党。
1995年に復党して、平成研究会(小渕派)に加入。橋本龍太郎氏が、日本歯科医師連盟からヤミ献金を受けていた問題で橋本氏が会長を辞任した後、会長に就任した。

大蔵省出身という履歴的にも政策通であることが窺えるが、政権交代をかけた戦いの直前に、派内にも相談なしの引退表明だというから、唐突感がある。
しかし、今や政界で何が起きようと余り驚くような気にならない。

そもそも解散自体が、相当に異例のことずくめともいえる。
麻生首相の解散日程の決定は、麻生降ろしの動きを封じるためだったということだろうが、以下のような異例さが指摘されている。
http://allabout.co.jp/career/jijiabc/closeup/CU20090720A/index.htm?NLV=CN000028-422

第一の異例は、首相による解散予告である。
首相の専管事項中の専管事項ともいえる解散について、約1週間も前に方針を明らかにしてしまったことは、前代未聞とされる。

第二の異例は、8月中の投・開票である。
実に107年ぶりのことだという。
現行憲法下ではもちろん初めてのことで、お盆などの休みもあるし、暑い中でもある。

第三の異例は、任期満了直前の投・開票ということである。
任期満了日は9月10日だから、その11日前ということになる。
言い換えれば、解散という伝家の宝刀も、ほとんど実質的な意味を持たないといえるだろう。

第四の異例は、解散から投・開票までの期間の長さである。
憲法では、以下のように規定されている。

第54条 衆議院が解散されたときは、解散の日から40日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から30日以内に、国会を召集しなければならない。

今回の7月21日解散、8月30日投・開票という日程は、上記の規定の限度ということになる。
地方選の連敗、特に東京都議選の惨敗により、選挙は1日でも遅くしたいという心理であろう。
もちろん、最長記録ということになるが、従前は、麻生首相の祖父・吉田茂元首相が、1953年に行った「バカヤロー解散」で、56年ぶりの更新だという。
これも何かの因縁めいてはいる。
これらの多くの異例の中で行われる総選挙の結果は、果たしてどうなるだろうか?
マニフェストなど余り真剣に検討したことはないが、今回はじっくり読み比べてみようか、という気にはなる。

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2009年7月20日 (月)

カタリの諸相

刑法では、詐欺について次のように規定している。

第246条 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

つまり、人を欺くことが要件である。
「欺く」という言葉を辞書で確認してみよう。

あざむく  【欺く】
(動カ五[四])
補足説明「浅向く」の転か
(1)相手を信頼させておいてだます。
  ・「人を―・く」
  ・「人目を―・く」
(2)(「…をあざむく」の形で)…とまちがえさせる。
  ・「花を―・く美人」
  ・「昼を―・くばかりの明るさ」
(3)あたりかまわず口にする。
  ・「月にあざけり、風に―・くことたえず/後拾遺(序)」
(4)相手を恐れず、接する。
  ・「大敵を見ては―・き、小敵を見ては侮らざる/太平記 16」
(5)ないがしろにする。いいかげんに扱う。
  ・「是を見ん人拙き語を―・かずして法義を悟り/沙石(序)」
  ・
可能動詞 あざむける
  ・
[慣用] 昼を―・雪を―

いずれも相手のある行為のようである。
似たような言葉として、「騙る」がある。

かたる 【騙る】
(動ラ五[四])
  ・補足説明「語る」と同源
(1)だまして人の金品を取る。
  ・「金を―・る」
(2)身分・地位・名前などを偽る。詐称する。 

三島市にある三嶋大社で、「古典講座」が開催されている。
月に1度の開講で、2回のお休みがあるので、年間10回の講座である。
国学院大学教授の菊地義裕さんが講師で、「万葉集」の解説が行われている。
私も、三嶋大社に立ち寄った時に、このような講座があることを知り、3年前から受講している。
千葉県や愛知県からも受講している人がいるらしい。
菊地先生の解説はまさに名調子という感じで、飽きさせない。

7月12日の講座で、「カタリの諸相」という言葉が出てきた。
テキストとして櫻井満監修『万葉集を知る事典 』東京堂出版(4版:0407)が使われている。

カタリとは、カタ(型)やコト(事)とかかわる語で、主に神話や伝説など、共同体が忘れてはならない事柄やひとまとまりの発話行為をいう。他人をだましたり、詐欺をする行為をあらわす「騙り」ともかかわって、聞き手の魂にカタリ技法によってはたらきかけ、同一の感情を抱かせる機能をもっている。
カタリという行為の起源は、神々や精霊・死霊などの語り手への憑依(神がかり)にあったとみられている。語り手は、そうした特別な能力や資格を持つ者であり、音楽や舞をともなって由緒ある語りを行った。

上記の辞書で、「騙る」と「語る」が同源、という説明の意味は、以上の通りである。
菊地先生の講義では、ウタ((人の感情を)ウツと同源)は韻文に、カタリは散文に発展していった。
詐欺行為において、「カタリによって、聞き手に同一の感情を抱かせる機能」や「音楽や舞」などの演出が重要なことが納得できる気がする。

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2009年7月19日 (日)

因果関係の立証と疫学的方法/因果関係論(3)

わが国では、刑法的な処罰は罪刑法定主義によっている。
つまり、法律で「犯罪」と定められた行為について罰せられる。
それでは、どのような行為が犯罪と定められるのか?
前田雅英『刑法総論講義』東京大学出版会(第2版9402)では、以下の2つの要件を満たす行為であるとしている。
①処罰に値するだけの害悪の存在すること
②行為者に、その行為につき非難が可能であること
ここで、①の要件が違法性、②の要件が責任である。

2 上記の「違法性」と「責任」の問題は、客観と主観に対応していると言える。
つまり、①は、客観的に、「処罰に値するだけの害悪を伴う行為」に該当するかどうか、という問題であり、②は、現在の日本国民が非難可能と考える主観的事情、という問題である。
客観的構成要件において重要なことは、行為と結果との因果関係であり、主観的構成要件において重要なことは、故意か過失かという認識の問題であり、結果を予見可能であったか否かという問題である。

因果関係とは、行為と結果との間の関係が、客観的な「原因と結果」の関係である。
しかし、刑法における因果関係は、自然科学における「因果関係」とは完全には一致せず、民法における因果関係とも同一ではない、とする(上掲書)。
既遂としての処罰に値するか否かの価値判断を含むところに、刑法としての因果関係の認識の特性がある。

因果関係を考える場合に基礎となるのは、条件関係である。
条件関係とは、当該行為が存在しなければ当該結果が存在しなかったであろうという関係である。
「風が吹けば桶屋が儲かる」の例にみるように、条件関係を辿っていくと、条件の範囲が無意味に広がってしまう可能性がある。

因果関係論の通説として、相当因果関係説がある。
そうとう因果関係説とは、一般人の社会生活上の経験に照らして通常その行為からその結果が発生することが「相当」と認められる場合に、刑法上の因果関係を認めるという考え方である。
相当因果関係の行為には、不作為も含まれる。
つまり、「何かをしないこと」と結果発生との因果関係である。
JR西日本福知山線の事故の場合は、安全対策を実施しなかったことと、事故発生の因果関係が問われているわけである。

刑法の基本的な考えとして、「疑わしきは罰せず」という原則がある。
つまり、因果関係が疑わしい場合には、罰せられない。
しかし、公害等において、「未知の危険が具体化して被害が発生した」場合に因果関係を認めることが困難であることがある。
水俣病の場合、少なくとも初期の段階においては、以下のような因果関係について、完全に証明されたものとは言えない状況があった。
2_3 この場合、因果関係が証明されるとは、病理学的に病原体がが発見されるとか、動物実験によりその病気を作る等のことである。
http://d.hatena.ne.jp/ronnor/20070421/1177165887

もちろん、水俣病の場合においても、アセトアルデヒドの精留塔ドレーンを猫に投与して発病が確認されたし、水俣病患者の症状とメチル水銀中毒患者の症状が一致していることが分かった段階では、因果関係が特定された、と言うべきである。
しかし、「水俣奇病」と称されていた段階では、原因物質が特定されていたとはいえず、その意味では因果関係の証明が十分であったとは言えないだろう。

このように、因果関係について医学的照明を要求するのでは、公害などの場合、適切な処罰が難しいという問題があった。
そこで、疫学的因果関係という考え方が出てきた。
2_6 要するに、疾病等の異常現象が起こった場合において、気候、飲料水、習慣等の外部的事情を統計的に分析することで原因をつきとめる方法といえる。

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2009年7月18日 (土)

過失論と予見可能性

JR西日本福知山線の脱線事故で、神戸地検は、JR西日本の山崎正夫社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。
安全対策の最高責任者の鉄道本部長(常務)時代、事故が起きる可能性を予見できたのに、現場カーブに新型の自動列車停止装置(ATS)の設置を怠った過失があると判断したことによる。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090709AT1G0802Q08072009.html

刑法において、原則的に、罪を犯す意思がない行為は、罰しないと定められている。

第38条 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。

もちろん、福知山線の事故が故意に行われたはずはない。
しかし、結果の重大性をみても、何ら罪に問われなくていいのか、という疑念は社会的な感情論としてもあるだろう。

業務上過失致死傷罪については、刑法に特別の規定があり、第38条の既定の「この限りでない」の条件に該当する。

第211条 業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁固又は100万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。

問題は、JR西日本の幹部らが現場で事故を予測できたかという「予見可能性」の有無である。
神戸地検は、現場カーブにATSがあれば事故を防止できたと判断。その上で、平成8年12月に半径600メートルから304メートルに付け替えた際、緩いカーブから急カーブに付け替える工事は異例で、さらに完工の直前にJR函館線で、同様のカーブを速度超過で走行した貨物列車が脱線する事故が発生していたことを重視した。
山崎社長は社内会議で「ATSがあれば(函館線の)事故は防げた」との報告を受けており、危険性の認識があったと結論づけた。

業務上の過失は、一般の過失よりも重い。
それは、業務者には特に重い注意義務が課せられているから、という考え方と、業務者は注意能力が高いので、同一の注意義務に違反しても逸脱の程度が高いから、という考え方がある(前田雅英『刑法総論講義』東京大学出版会(第2版9402))。

もちろん、業務上の過失だけでなく、過失に罰が科せられることがある。
その場合、注意義務違反が存在することが前提といわれる。
注意義務違反とは、「意識を集中していれば結果が予見でき、それに基づいて結果の発生を回避し得たのに、集中を欠いたため結果予見義務を果たさず、結果を回避し得なかったこと」とされる。
結果予見義務が課されるためには、結果を予見することが可能であることが条件になる。

上掲・前田書では、下図のように説明されている。
2_2 つまり、違法であっても、予見不可能な事象であれば(図のbの部分)、責任は問われず、処罰すべきではない、という考え方である。

JR西日本の山崎社長側は、事故の発生は予見できないものであり、処罰に問われるものではない、と主張している。

水俣病の場合にも、チッソは、水俣病の発症は予見不可能であったと主張した。
予見可能であったか否かは、当該人の予見能力による要素もある。
業務者は、一般人よりも予見能力が高く、したがって責任の範囲も広い、と考えるべきであろう。

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2009年7月17日 (金)

反麻生勢力は、“一日天下”か?

明智光秀の“三日天下”という故事は知っているが、中川秀直元幹事長らは“一日天下”だったのだろうか?
もっとも、まだ天下をとった段階まで行ったわけではなかったので、未遂というべきかも知れないが。
中川氏らが提出した両院議員総会を求める133人の署名を執行部が精査した結果、128人に満たないと判断し、両院議員総会に代わる全議員出席の両院議員懇談会を、21日に開催することにしたという。
まったく傍目で見ていると理解しにくい動きである。
権謀術数が渦巻いている感じと言えようか。

もともと、なりふり構わないという感じで集められた署名のようなので、同床異夢の集合だった(図は、産経新聞7月17日)。
Photo表層と低層ではかなり温度差がある、というのは世の常である。
中層に位置しているとされる石波農林水産大臣などは、(首相退陣を求める趣旨ならば)署名しなかった、などとTVのマイクに向かって喋っている。
それなら、議員総会で退陣に反対だ、と発言すればいいだけの話ではないのか、と思う。

執行部の対応もよく分からない。
せっかく全議員が出席する会合を開くのであれば、時間の経済性ということを考えれば、より重みのある議員総会にすればいいのではないか、と思う。
中川氏らが、週内にも、としていた要求では、事実上17日(金)の1日しか候補日があり得なかった。
20日(月)は「海の日」で休日だから、21日(火)という日程は、実質的には17日の翌日ということになる。
この日程が微妙なのだろう。
既に麻生首相は、21日に解散するとしている。
解散は、抜き打ち的にやった方がドラマティックだと思うが、今回は根回しした末の解散日程である。
その当日に開催される会議に何ほどの意味があるのか、と素人は考える。

こうした動きは私などの理解を超えるものであるが、議員諸氏は、それが活動のエネルギー源になるらしい。
妙に生き生きとしているようにも見える。
それにしても、東国原宮崎県知事と古賀誠氏の動きも不可解であったと言わざるを得ないだろう。
古賀氏自身が、「私の浅知恵だった」と総括し、自民党選対委員長の座を降りてしまった。
地方選連敗の責任を負った、ということや、他の執行部の面々が、責任を感じている様子がないことに業を煮やしたということなどがあるのだろうが、総選挙が具体的日程となった途端に、自ら選対委員長という前線司令部を抜けようというのは、敵前逃亡的なように思うがいかがだろうか。

東国原氏も、茶番劇を見事に演じて、さすがに元お笑い芸人、と言いたい感じである。
「私を、次期総裁候補として、自民党さんは、選挙を、お戦いになる、お覚悟は、おありですか?」などと珍妙な敬語を駆使して、古賀氏に迫ったという。
多くの人が、最初は冗談だと思ったのではないだろうか。
それが、案に相違して、実は本気だったということが分かり、びっくりしたり、あきれたりした、という感じではなかろうか。

知事を任期途中で辞めて国政に転じるとは、どういう思考だろうか?
国と地方との関係のしくみを変えなければならない。そのためには、国政で発言した方が有効である、ということも理解できなくはない。
しかし、地方分権の重視と言いながら、実際の行動は軽視したものだった、とみる方が妥当なような気がする。
宮崎県民も愚弄されているとは感じないのだろうか?

東国原氏との対比で、存在感を高めたのが橋下大阪府知事ということになるだろう。
どの辺りにホンネがあるのか、いささか掴み難いところが、政治的には重要なポイントなのかもしれない。
それにしても、私の生きてきた時代は、細川政権で下野したときなどもあったが、55年体制以降、一貫して自民党が多数派であった。
その時代がついに終わろうとしているのだろう。
果たしてこれからの時代は、どのような様相になるのだろうか?
楽しみでもあり、不安でもあり、というのが正直な思いである。

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2009年7月16日 (木)

混迷深める自民党

自民党の党員でもシンパでもないので、やじ馬的な関心で眺めているのだが、都議選の惨敗によって自民党はいよいよ混迷の度を深めつつあるようだ。
麻生太郎首相の衆院解散方針に反対する自民党の中川秀直元幹事長らは、16日午前、細田博之幹事長を党本部に訪ね、両院議員総会の開催に必要な党所属国会議員の3分の1(128人)以上となる133人の書名を手渡し、週内に開くよう申し入れた、と報じられている。090716
http://news.mag2.com/politics/12046/detail

いわゆる麻生降ろしの動きであるが、議員総会に賛成の署名をした議員も、その心情はバラバラだろうと伝えられている。
注目すべきは、両院議員総会の開催に向けて積極的に動いているのが、加藤紘一、中川秀直、武部勤の元幹事長トリオ、ということだろう。

私の認識では、3氏は共に自民党歴の長い政治家であるから、政治的な同志だと言えばそうも言えるだろうが、それぞれの信念はかなり異なるように思える。
一致しているのは、麻生氏の下では総選挙を戦えない、という認識なのだろう。
麻生氏の代わりに誰が顔になろうとも、大勢に影響はないような気もするのだが。

3人についての記憶を辿ってみよう。
加藤紘一氏については、いわゆる「加藤の乱」の印象が強いのではないか。
2000年11月に、第2次森喜朗内閣の打倒を目指して、加藤氏や山崎拓氏らが倒閣運動を起こした。
野党が提出する森内閣不信任決議案に、加藤・山崎両派の議員が賛成票を投ずれば、不信任案が可決される情勢だった。
結果的には、野中広務氏ら執行部の切り崩しにあって、加藤氏の目論見はつぶされた。
その後総裁選にも出馬した谷垣禎一氏が、加藤氏の肩をつかみ「加藤先生、大将なんだから!  1人で突撃なんてダメですよ!」と必死で慰留した映像は、子供の頃みた東映時代劇を彷彿とさせるものだった。
この「加藤の乱」が失敗に終わったことが、翌年の総裁選で小泉純一郎氏を選出させることになったとも考えられることは、歴史の皮肉というべきかも知れない。

中川秀直氏といえば、スキャンダルの帝王という印象である。
Wikipediaの「中川秀直」の項(09年7月15日最終更新)でも、「2000年、写真週刊誌等に中川が愛人と一緒に撮影した写真やビデオが掲載され、内閣官房長官辞任に追い込まれた」とある。
さらに、寝室内で撮影した愛人とされる女性の写真があって、それについての中川氏側の説明が、中川氏の運転手に見知らぬ女性が中川邸を見たいとねだったため、運転手が女性の要求に従い寝室に案内したことがあり、雑誌に公開された写真はそのときに撮影したものではないか、というものであった。
よくもそこまで言うか、という感じだと思う。
私も、最近物忘れがひどいが、中川氏の「愛人スキャンダル」はまだ忘れてはいない。

武部勤氏は、小泉元首相の「偉大なるイエスマン」を自称してきた人である。
武部氏は、麻生氏に対して、「徳がない・・・」とか「恥を知らない・・・」などと批判しているらしい。
そのこと自体は的外れではないと思うが、武部さん、あなたの口から(だけ)は聞きたくないなぁ。
小泉チルドレンの1人、佐藤ゆかり氏の後援会で、「♪お手てつないで、佐藤がゆけば・・・」などと歌ったと報じられている。
どういう神経なんだろうか?
かのホリエモンの手を高々と差し上げ、「我が弟です。息子です」と応援していた映像の記憶も、そう簡単には消えないだろう。
衆議員議員の補選の際、斉藤健という候補者の応援で、「最初はグー、サイトーケン・・・」などと口走ったこともある。
聴衆から「武部はパー」とヤジられていたという話は、何回聞いてもオカシイ。

与党の幹事長といえば、政権の要である。
歴代の幹事長が集まって、現首相の足を引きずろうというのも珍妙な構図だと思うが、いずれも表舞台で発言するのは、もう少しの間控えていただきたいような面々である。
そして、麻生氏を支えるべき細田博之現幹事長も、気のせいだろうか、何だかメリハリに欠けている。
「自民党はこの際、大政奉還して・・・」と、分かったような分からないような意見を開陳していた人もいたが、まあ一度下野して、党の存立基盤をもう一度再考すべきときであることは間違いなさそうである。

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2009年7月15日 (水)

公害と因果関係の推論/因果関係論(2)

加藤邦興さんは、『日本公害論』青木書店(7704)において、公害問題は生産関係に起因する問題、環境問題は生産力の一般的性格に起因するものである、としている。
2009年7月12日 (日):公害問題と環境問題
いささか難しい表現なので、私なりに言い換えれば、公害問題は加害者と被害者が明確に異なるが、環境問題は加害者と被害者が同一の場合がある、ということだろう。

公害の加害者は、罰に問われるべきであろう。
しかし、罰の基準をどう考えるべきか?
それは行為者の責任に帰すことができるものでなければならないだろう。
「責任なければ刑罰なし」という責任主義である。

責任の有無をどう捉えるかについてはさまざまなケース・論点が考えられるであろうが、重要な問題として、予見可能性の問題がある。
つまり、被害の発生が予見されたにもかかわらず、適切な対策を講じなかったばあいには、責任を問われると考えていいだろう。

例えば、JR西日本福知山線の事故の場合、当該箇所のカーブの程度からすれば、一定の速度以下に減速しなければ脱線する可能性があった。
とすれば、自動減速装置を設置するなどの安全対策を講じなければならなかった、というのが検察側の主張である。
これに対し、JR西日本の社長らは、事故が起きたのはいくつかの条件が複合した結果であって、それを事前に予見することは不可能だった。
したがって、罰に問われるものではない、と主張する。

水俣病のような公害問題についても、予見可能性の問題は重要な争点である。
予見可能であるとは、どういう場合か?
Aという状態であれば、Bという状態が発生するということが推測できれば、予見可能ということができる。
水俣病の場合には、排出されたメチル水銀が食物連鎖を通じて濃縮された、といわれる。
その食物連鎖の結果は、果たして予見可能だといえるのだろうか?

チッソの主張は、いまだどこにもそのような事例は報告されていない。
したがって、水俣病の発症は予見不能だった、というものである。

公害問題における因果関係の論議を要約すると、以下のようになろう。

公害裁判における因果関係論とは、被告工場の廃出物である原因物質(カドミウム・有機水銀・硫黄酸化物)と原告被害者の結果としての被害発生(イタイイタイ病・水俣病・慢性気管支炎)との“事実としての”因果関係をいう.この関係の解釈として被告側は,“自然的因果関係”を主張する.その内容は,廃出物質の到達経路と原因物質の特定と発症の機序(メカニズム)をいう.これに対して,原告側の解釈は“法的因果関係”という.
それは,民事訴訟では現実の損害の発生に対して賠償責任の帰属者を決定するための法的価値判断であり厳密な科学的な因果関係とは異なると主張する.

http://211.1.212.79/jalop/japanese/ronbun/2003/okubo.pdf

チッソの主張は、上記における“自然的因果関係”が確定していない、ということである。
確かに、厳密に因果関係のメカニズムが特定されていたかといえば、未知の要素があったことは事実であろうから、チッソに責任を負わせるのは過大な要求ということになりかねない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉がある。
Wikipedia(09年7月4日最終更新)では、以下のような因果の連鎖として説明されている。

1.大風で土ぼこりが立つ
2.土ぼこりが目に入って、盲人が増える
3.盲人は三味線を買う(当時、三味線は盲人が弾いた)
4.三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
5.ネコが減ればネスミが増える
6.ネズミは箱を囓る
7.箱の需要が増え箱屋が儲かる

「あり得なくはない因果関係」であるが、必ずしも必然の因果関係とは言えない。
このような因果関係の推論で、「風が吹いた」ことが桶屋が儲かったことの原因であることは、拡大解釈というものだろう。
しかし、現実に水俣では悲惨な被害が発生しているのであり、その原因がチッソ水俣工場の廃水にあることは、ほとんど疑い得ないところであった。

水俣病の発症過程をどのように必然性の論理として構築するか?
それが原告弁護団に課せられた課題であった。
このアポリアを突破する論理が「汚悪水論」だった。

水俣病については、水俣湾産の魚介類を食べた人が発病していること、その魚介類を汚染している原因はチッソ水俣工場排水しかありえないことは、自明ともいうべき事項であった。
しかし、これに関し、国は、魚介類については、湾内の魚介類が全て有毒化していると認める根拠がない、チッソ排水については、排水中に含まれている何が原因物質か、物質が特定されない限り原因とは認められない、として、チッソ排水と水俣病の因果関係を認めなかったのである。

http://www.h5.dion.ne.jp/~n-ariake/siryo/iken-10/manaki.htm

これに対し、汚悪水論は、以下のように論理構成したのであった。

総体としての排水が被害を発生させている事実が証明されれば、それで充分であり、さらに排水中の個々の原因物質まで特定する必要など全く存しないこと、従って加害行為は個々の原因物質を排出する行為ではなく、総体としての排水を排出する行為である。

事前防止が重要であるとの観点からすれば、汚悪水論は大きなマイルストーンだったということになるだろう。

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2009年7月14日 (火)

「脳死は人の死」と判断していいのだろうか?

麻生首相が、衆院を21日にも解散し、8月18日公示、8月30日投開票の日程で行うことを決断し、自公両党執行部も合意した、という。
首相は、14日解散、8月8日投開票を想定していたが、与党内の反発が強く、先送りしたということである。
衆議院の任期は9月には満期になるのだから、いずれにしろ直近で総選挙を行わざるを得ない。20日ほど先送りすることの意味がどれほどのものか良く分からないが、自公両党としては、いま直面している逆風をなるべくおさめる期間が欲しいということだろう。
この20日余りの時間がどう作用するか、現時点では神のみぞ知る、である。

あたかも総選挙日程と引き換えかのように、改正臓器移植法が参院本会議で可決、成立した。
いわゆるA案である。
改正法と現行法とはどこが異なるのか?
2

改正法のポイントは、以下の通りである。
1.脳死は一律に人の死と位置づける
2.本人が拒否していない場合は家族の同意で提供できる
3.提供は15歳以上に限定するという現行の年齢制限を廃止する
4.親族へ優先的に提供しておくと意思表示しておくことができる

臓器移植法の改正を朗報と考える多くの人がいることは承知している。
国内には、移植を待つ患者が1万人以上いるという。
中でも、海外渡航移植に頼らざるを得なかった子供を持つ親にとっては、重要な朗報といえるだろう。

しかし、である。
本当に、「脳死は人の死である」と一律に、法定してしまっていいのだろうか?
「脳死を人の死」と法定することに対する疑義については既に記した。
2009年7月 3日 (金):臓器移植法案について

法改正によって、現行法の10倍近い移植例が想定されているという。
「脳死は一律に人の死」と規定するのは、臓器提供への家族の心理的負担を軽減する効果があるという。

しかし、である。
本当に、家族の心理的負担は軽減されるのだろうか?
そもそも「脳死」とはいかなる状態か?
要は、もはや脳の機能が回復しないであろうと「判断」した状態である。
「脳死」の状態でも、人工呼吸器による呼吸があり、心臓も鼓動しているという。

脳が回復しない、ということを、どうして決定できるのだろうか?
例えば、0歳児に対して脳死状態である、などということが決め付けられるのであろうか?
脳の回復力というものを否定してしまっていいのだろうか?
脳死と判定されても、身長も体重も増え続けている例も知られている。
改めて、人の尊厳とは何かを考えされられる問題である。

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2009年7月13日 (月)

東京都議選の結果と麻生政権の命運

7月12日に投・開票が行われた東京都議選は、事前の予想通り、地滑り的な自民党の敗退、民主党の躍進という結果だった。
各党の最終的な獲得議席数は、表の通りである。0907122_2
http://www3.nhk.or.jp/togisen/
表に見るように、民主党が第一党となり、自公合わせて、過半数割れとなった。

また、同じく12日投・開票の奈良市長選では、33歳の無名といっていい民主党推薦の新人・仲川元庸氏が、自民党・公明党推薦の前衆議院議員鍵田忠兵衛氏(51歳)を破った。
仲川氏は、子育て支援のNPO法人の活動をしていたそうであるが、地元でも知る人は少なかったらしい。
力量未知の若い新人が、実績のある自公推薦候補を破るというのは、千葉市長選と同じ構図である。
2009年6月16日 (火):日本郵便不正事件と西川社長の進退問題

前週の静岡県知事選挙も同様であるが、これらの選挙は、いずれも総選挙の前哨戦という位置づけがなされ、、与野党対決ムードの中で行われた。
2009年7月 6日 (月):静岡県知事選挙の結果と自民党の迷走
そして、これらの選挙で示された“民意”は、いずれも自公政権no moreということである。
もちろん、“民意”が移ろい易いことは承知している。
しかし、自公政権no moreという流れは、もはや音立てる奔流になっているとみるべきだろう。

そういう状況であるにもかかわらず、自民党の内部は、「総裁選前倒し」だとか、「可能な限り総選挙先送り」だとか、「麻生降ろし」などというような意見が交錯しているらしい。
あたかも、氷山が間近に迫っているタイタニック号の船上で、ああだこうだと議論しているかの如くである。
国民の問題意識は、端的にいえば、政権交代か否か、という一点にある。
つまり二者択一の問題なのであって、程度の問題だとか、やり方の問題ではないのだ。
その辺りの認識が、自民党内には欠けているような気がする。

もちろん、民主党に不安要素は多い。
しかし、とにかく一度は交代してみたら、というのが大勢だろう。
振り返ってみれば、麻生内閣は、発足時において既に命運が決まっていたのではなかろうか。
総裁選の1週間前に、いわゆるリーマン・ショックが起きて、五里霧中という状況になった。
総裁候補者たちが、総裁の座を争う位置にいることが嬉しいのか、妙に浮かれた感じの争いをしていたように記憶している。

麻生政権の迷走がはっきりしたのは、定額給付金の問題辺りからだろうか?
2008年12月10日 (水):「定額給付金」をめぐって
自民党の内部からも、見放したような声が早くから上がっていた。
2009年2月13日 (金):麻生内閣の命運は尽きたのか? 小泉元首相の激烈批判
また、首相を支えるべき閣僚が、支持率の足を引っ張る事態も起きた。
2009年2月16日 (月):中川財務相の醜態と歴史的に低い内閣支持率

さて、麻生首相は、都議選の結果を受けてどう判断するだろうか?
いかに、KY×KY(空気読めない、漢字読めない)の首相といえども、もはや、「地方選と国政は関係ない」では済まされないことは、十分に認識していることだろう。
野党から内閣不信任案が提出されたら、自民党議員はどう判断するだろうか?
自分たちが支持した首相だから、否認するだろうか?
不信任案の否認=信任だから、その場合は、基本的に「麻生降ろし」は矛盾した行動になる。

とすると、麻生首相が自ら退陣(内閣総辞職)しない限り、続投ということになる。
TV報道によれば、麻生首相は、7月21日解散、8月30日投票ということで、与党の合意を取り付けたということである。
暑い夏になりそうである。
もちろん予断は許されないが、麻生氏は、自民党最後の総理大臣として名を留めることになるのではないだろうか。
どうやら2009年は、戦後史を画する年となりそうである。
というよりも、戦後という時代の終わりと考えるべきかも知れない。

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2009年7月12日 (日)

公害問題と環境問題

イタリアで開催された主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)で、地球温暖化対策にかかわる首脳宣言が発表された。
宣言では、2050年までに、世界全体で、温室効果ガス排出を50%削減するという昨年の洞爺湖サミットでの合意を再確認し、先進国全体が80%以上削減する、という長期目標を明記した。
どういうことか?
産業革命による工業化以前の水準から、世界全体の平均気温の上昇が、2℃を超えないようにすべきだ、という認識である。
地球温暖化については論議が多いが、もし温暖化が確実に進行しているとすれば、それはまさに環境問題というべきだろう。

環境問題は、人間の活動量が増大すると共に発生してきた問題であるといえる。
ローマクラブによって発表された「成長の限界」や「宇宙船地球号」という言葉に代表される。
1970年前後から、広く関心を集めるようになった問題である。

水俣病や足尾鉱毒問題に代表されるような公害問題と環境問題は、どう区別されるべきだろうか?
人間の活動が、広範な災害をもたらすという面では共通性がある。
この両者を明確に区別して捉えることの重要性を教えてくれたのが、『日本公害論』青木書店(7704)に収録されている「公害論と技術論」と題する加藤邦興さんの論文だった。
上掲書の「あとがき」によれば、『現代と思想』という雑誌の1973年6月号に掲載されたものである。

加藤さんは次のように書いている。

公害を環境問題と言いかえ、社会と自然の関係であるかのように公害を議論するやり方は、政府と資本によって強力に推進されてきたところである。すでに庄司・宮本両氏いよる公害の定義が、「都市化工業化を一般的原因とする考え方を否定している」のであるが、この考え方は実にねばりづよく繰り返されている。わが国の行政上の公害対策の理論的中核となっている中央公害対策審議会は、1972年12月13日に「環境保全長期ビジョン中間報告」を発表したが、そこでは「最近の環境問題の激化は、経済活動の大規模化に伴って、環境の汚染が急速に進んだことが最も太きな原因」とされるにとどまらず、「国民が環境問題に深い関心を寄せるようになり、より豊かで、清浄な環境を望むようになったことも大きく影響している」とまで述べられている。すなわち、裏返せば、最近まで「より豊かで、清浄な環境を望」まなかった国民の側にも大きな責任があるというわけである。

いまの時点で、この中央公害対策審議会の中間報告の文章を読むと、加藤さんの説くように、国民に責任を転嫁したものと読める。
しかし、当時の住民運動の有名なスローガンとして、「スモッグの下のビフテキより青空の下の梅干しを」というものがあったことを思い出す。
このスローガンは、一昔前には、逆に「青空の下の梅干しよりもスモッグの下のビフテキ」を求めた国民感情があったことを下敷きにしている。
国民的な価値観は、時代と共に変化するのであるから、中公審の報告書も、まるっきり的外れということではなかったと思う。
「煤煙は繁栄の象徴だ」などと言えば、今ならとんでもない、と叱られるだろう。
しかし、実際に産業革命を達成した17年代後半には、ロンドンは「煙の都」と言われ、煤煙が繁栄・工業化のシンボルとして、イギリス国民はそれを誇りとしていたというし、京浜工業地帯などにおいても、煤煙が経済活動が活性であることの象徴とみられていたことは、私自身の記憶にある。

加藤さんは、1970年代のはじめ頃から、環境論が流行しはじめたことに関し、環境論の論議自体は必要であるが、公害論と環境論の区別を明確にしないまま環境論へ流れこむことはきわめて問題が多いとしなければならない、と指摘している。
加藤さんは、公害問題は生産関係に起因する問題、環境問題は生産力の一般的性格に起因するものである、としている。
そして、人間の労働過程は動物の本能的な自然的物質代謝過程と区別される社会的物質代謝過程であり、社会的人間の生産活動は、狭い意味での自然環境を破壊するものであるとし、人間も自然の一部であるから、人間による自然の破壊も、地球の全自然史的発展の一部である、とする。
そして、環境問題は、資本主義の生産様式のもとでは公害問題としてのみ現れるのであって、公害問題と区別される環境問題が資本主義の生産様式のもとでも存在しうるとするのは誤りである、としている。

果たして、今の時点で、加藤さんのこの指摘は有効であろうか?
私自身は、資本主義の生産様式の現代日本にも、公害問題と区別される環境問題は存在すると考えるし、一応、資本主義の生産様式ではないと考えられるロシアや中国や北朝鮮にも、公害問題と環境問題が存在しているのではないか、と考える。

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2009年7月11日 (土)

公害を事前防止する論理としての「汚悪水論」/因果関係論(1)

水俣病の救済の特措法が成立したが、救済への道のりは余りに遠かったというべきだろう。
しかも、現時点でも全面的な解決というわけではない。
その間、因果関係の筋道をめぐって、あるいは責任の所在をめぐって、さまざまな議論が行われてきた。
重要なことは、二度とこのような悲劇を起こさないことであり、そのためには結果として発生してしまったとしても、それを事前に防ぐ方策が無かったのかどうかを考える、ということだろう。

水俣病の裁判で、チッソは、水俣病の発生は事前に予見できるものではなかったと主張した。
加藤邦興『日本公害論』青木書店(7704)は、このチッソの主張が成り立たないこと、言い換えれば、「水俣病の発生以前に、水俣病発生の条件を取り除くことが合法則的に可能であった」ことの検証を行った書である。
加藤さんは、技術史・技術論を専門とする研究者で、東京工業大学の出身である。
大阪市立大学の教授を務めていたが、2004年に60歳の若さで亡くなられた。
加藤さんが東京工大の助手の頃、直接話をさせて頂いたことがある。
もう40年近くも前のことで、加藤さんもまだ20代だったと思うが、技術論における労働手段体系説(=日本共産党系)の人らしからぬ(?)実に柔軟な思考をする人だという印象が残っている。

上掲書により、チッソの主張を概観してみよう。

(化学企業が)高度の注意義務を尽くしてもなお、排水中に、海水で希釈拡散されるにかかわらず人の生命、身体を害する如き原因物質の存在することを予測できない場合には、これを一般に化学工業界で行われている相当な処理を行った上で、海水中に放出することはやむをえないものである。

この主張自体は、化学企業に籍を置いたことのある人間としては、同感できるものがあることは否定できない。
まさか、こんなことになるとは、全く想定していなかったことである……。

チッソの言い分を表現を変えれば、患者が発生しない限り、危険性を予知できないということである。
しかし、それを乗り越えなければ、同じような公害が繰り返されることになりかねない。

それでは、事前防止のために、どういう視点を持つことが可能だろうか?
加藤さんは、水俣病訴訟における原告弁護団の主張にそれをみる。

水俣病は被告チッソ水俣工場によって引きおこされた巨大な環境汚染による自然および人間社会破壊の問題としてとらえなければならないものであり、被告チッソが地域を支配することによって不知火海一円、地域社会ぐるみ破壊されてしまったことが、その本質なのである。

この主張の意味することは何か?
人体被害としての水俣病は、被害の頂点であり、頂点を支える底辺として、多様な地域ぐるみの人間と環境の収奪があった、ということである。
つまり、頂点の前兆として、底辺があったという認識である。
ある日突然に、人体被害が発生したというわけではない。
その前に、ネコが発症し、さらにその前に、鳥が異常を来たし、魚が死に、貝類が死滅しているという事実があるのである。

加藤さんは、水俣病事前防止の論理として、原告弁護団による「汚悪水論」を示す。
「汚悪水論」とは何か?
私たちは、「水俣病の原因物質は?」という質問に対して、メチル水銀と答える知識を持っている。
しかし、そういう認識が本当に正しいのか?

水俣病の中心的な症状は、メチル水銀によって引きおこされた、というのは間違いではない。
しかし、チッソによってもたらされた被害は、メチル水銀によるものと限定してしまうと、不十分なものとなる可能性がある。
チッソの工場廃液は多様な有害物質を含んだものであり、被害の総体は、メチル水銀に限定することなく、総体としての汚悪水を原因物質として理解することにより把握できる。

それは、人体被害がなければ被害を認識できない、ということではない。
人体被害は、環境全体への破壊的影響の頂点に位置しているということである。
そういう目で、環境の異変を、人体被害の前兆としてとらえるという見方によって、少なくとも人体被害の発生を局限することが可能になるという理路である。

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2009年7月10日 (金)

平岡正明さんを悼む/追悼(7)

7月9日、評論家の平岡正明さんが亡くなった。
68歳だった。
長寿化が進む中で、一般論としていえば、早い死だということになるだろう。
しかし、処女作の『韃靼人宣言』現代思潮社の出版が1964年だから、それから数えれば45年ということになる。
その間に100冊以上の著書を書いているのだから、評論家人生としては、決して短いということではないのかも知れない。

早稲田大学露文科中退。
つまり、五木寛之さんと同じ学歴ということになる。
60年安保には、ブントの活動家として参加。
Wikipedia(09年7月10日最終更新)によれば、大学中退後の略歴は以下のようである。

ブントから脱退して宮原安春らと政治結社犯罪者同盟を結成。1963年、同盟機関誌の単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』を刊行したところ、同書に収録した吉岡康弘撮影の無修正ヌード写真が問題となり、猥褻図画頒布の容疑で警視庁から指名手配を受けたが、不起訴となる。なお、この書籍に赤瀬川原平の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、「千円札裁判」が起きるきっかけになった。
1964年、現代思潮社から『韃靼人宣言』を刊行して評論家デビュー。1967年の著書『ジャズ宣言』からジャズ評論の分野にも進出。1969年、渋澤龍彦の後任者として天声出版刊『血と薔薇』第4号を編集。
また、谷川雁・吉本隆明の「自立学校」事務局、谷川雁のラボ教育センターなどを転々とする。一方、「犯罪者同盟」以来のアナーキーな行動や著作で、新左翼系文化のカリスマ的存在となる。
1970年には、松田政男、足立正生、佐々木守、相倉久人と「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。
また、1970年代に入ると「水滸伝」をヒントにして、太田竜、竹中労らと窮民革命論を唱え、“新左翼三バカトリオ”と呼ばれたこともある。

私も平岡さんの著書のうち何冊かは買い求めているはずであるが、整理が下手なせいもあって、手許には、『石原莞爾試論』白川書院(7705)しかない。
36歳のときの著書であるが、この頃の平岡さんは、その過激な発言によって、重信房子などのアラブ赤軍と連続ビル爆破事件の東アジア半日武装戦線の仲介者と目されたこともあったらしい。
上掲書の「あとがき」にそういうことが書いてある。

平岡さんと石原莞爾とは、かなり異質の組み合わせという感じである。
かたや左翼過激派、かたや右翼過激派(?)である。
しかし、往々にして、左翼と右翼はメダルの裏表のような関係だったりする。
平岡流の規定によれば、石原莞爾は、日本近代史上稀な「武装せる右翼革命家」ということになる。
平岡さんは、学生時代から、「革命」が関心の中心に位置していた。
そういう観点からすれば、石原莞爾は大いなる関心の的だったのだろう。

平岡さんの作風について、Wikipediaでは以下のように評されている。

ただし、評論自体が「ジャズ的なノリ」で書かれることが多く、あまり論理的な文章ではない。平岡の感性でとらえた、「辺境的なもの、マイナーなもの」を、ことさらに称揚しているだけとも受け取れる。

確かに、論理による批評というよりも、連想の赴くままにアドリブで軽快なリズムを刻んでいく、といった感じの文章である。
私は、たまたまの中国訪問(09年6月5日:天安門の“AFTER TWENTY YEARS”)後、にわかに付け焼刃的な中国学習の徒になった。
しかし、ウイグルでの衝突などについて、自分の見解といえるようなものを持てるまでには至っていない。
中国は、古代においても近代においても、日本史にとって大きな存在である。

私たちの世代にとっては、石原莞爾のイメージは、満州事変の立役者ということだろう。
それは、ネガティブなイメージが強いが、しかし、世の中には石原讃歌とでもいうべき著書も少なくない。
石原莞爾をどう評価するかは、日本近代史の認識を分光するプリズムなのかも知れない。

平岡さんの著書の中に、『中国 水滸伝・任侠の夢』日本放送出版協会(9604)がある。
『水滸伝』は、子どもの頃、もちろん子供向けに翻案したものであるが、こんなに面白い本があるのか、と繰り返し読んだ記憶がある。
平岡さんは、窮民革命論などをみても、『水滸伝』にはかなりの思い入れがあったことが窺われる。
平岡さんの訃報を聞いて、すっかり忘却の彼方になってしまっていた『水滸伝』をもう一度読み返してみたくなった。

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2009年7月 9日 (木)

水俣病の原因物質

7月8日、救済を求める水俣病未認定患者に、一時金や療養手当などを支給することを規定した特別措置法が、参院本会議で可決、成立した。
Photo_2 その救済の枠組みは、図の通りである(静岡新聞7月8日夕刊)。
約1万1000人を対象にした1995年以来の救済拡大で、今月中にも施行される見通しだという。
今回の特措法での救済希望者は約3万人いると推測され、そのうちの約2万人が対象になる見込みとされている。

この図を見れば、今まで、水俣病として認定されている患者が氷山の一角に過ぎなかったこと、1995年の政治解決がいかに不十分な形で行われたかが分かる。
救済の原資は、チッソを親会社と子会社に分割し、親会社が持つ子会社の株の配当金や売却益などを充当することになっているが、株式の譲渡は、救済の終了と市況の好転まで凍結する、とされているので、事実上は国からの金融支援に頼らざるを得ない。
速やかな救済の実現を優先すべきであり、国が支援を行いつつ、質と量の両面から十分な補償が行われることを期待する。

しかし、もちろんチッソの責任が棚上げされるようなことになってはならないだろう。
企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)ということが言われているが、水俣病はCSRなどという以前の問題であろう。
JR西日本の福知山線で起きた脱線事故では、結果として山崎正夫社長(だけ)が起訴された。
企業のあり方を考える上でも、水俣病への対応の経緯を認識しておくことは重要だろう。

現在、水俣病の原因物質といえば、メチル水銀であることが広く知られている。
しかし、水俣病の歴史の中で、メチル水銀が公認されるまでにはさまざまな紆余曲折があった。
以下、西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社(0106)による。
水俣病の最初の急性激症型患者が発生したのは、1953(昭和28年)末のことだった。
それが全く新しい奇怪な病気「水俣奇病」として認知されたは、1956(昭和31)年4月である。
それまでに発病患者は29名を数えていた。
狭い地域で集中的に患者が発生したわけであるが、「奇病」であることの認識に2年半かかったことになる。

発見された「奇病」は、当初は伝染病ではないかと疑われ、患者の一部は水俣市伝染病隔離病舎に収容された。
患者が発生した地域がパニック的状況に陥ったであろうことは、容易に想像できる。
しかし、熊本大学の研究班の努力によって、1956年11月には、伝染性疾患ではなく、重金属中毒であって、人体への侵入が水俣湾の魚介類によることが確認された。

その重金属類の汚染源はどこだろうか?
常識的に考えれば、新日本窒素肥料(チッソ)の工場以外にあり得ないだろう。
しかし、チッソ水俣工場は、秘密保持を理由に外部者の立入りを禁止しており、熊本大学の研究班も工場の中に入ることができなかった。
どんな重金属が工場から排出されているか、何も分からない状況だった。
熊本大学研究班は、成書の記載から類似の中毒症状を呈する毒物を探索し、工場廃水や水俣湾の海水・底泥などを分析して、その毒物が含まれているかどうかを調べるという方法をとらざるを得なかった。

結果はどうだったか?
海水や底泥からは、疑わしい毒物が次々と検出された。
つまり、水俣湾は多重に汚染されていたのである。
その結果、原因物質として、マンガン説、セレン説、タリウム説などが提唱された。
チッソは、これらの物質について、内外の事例から、原因物質ではあり得ないことを主張し、提唱された説を否定することに注力した。

さまざまな可能性の検討の末に、熊本大学研究班は、メチル水銀中毒患者に関する症状や病理所見と水俣病患者が合致することを見出し、1959年7月に公表した。
しかし、研究班内部で意見の差異があり、メチル水銀という特定を避け、有機水銀と表現した。

有機水銀説に対し、チッソは、水俣工場のアセトアルデヒド合成工程で硫酸水銀を触媒として使用していること、塩化ビニルの合成の触媒に塩化第二水銀を使用していることを認め、かつその水銀の損失の一部が排水溝から海に流入していることも認めた。
しかし、チッソで承知している水銀の形態はあくまで無機水銀であり、有毒な有機水銀が生成するということについては否認した。

一方で、1959年10月には、チッソ水俣工場の付属病院長の細川一院長が、アセトアルデヒド工場の精留塔のドレーン(塔底液)を猫に直接投与する実験を行い、水俣病の発症を確認した。
チッソは、アセトアルデヒド工場が、水俣病の原因であることを認識したわけであるが、その後もメチル水銀が工場内で生成することについて、強硬に否定を続けた。
そして、、1959年12月、「水俣病が工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という条件のもとに、水俣病患者に見舞金を支払うことで、幕引きを図った。

チッソの水俣工場の技術部では、1961年末から62年初頃、アセトアルデヒド精留塔ドレーンから塩化メチル水銀を抽出したが、極秘にされ、一切発表されなかった。
工場内でメチル水銀が生成し、それが排出されることを知らなかった熊本大学研究班は、工場から排出された無機水銀が、どの段階でメチル水銀となるかということを研究対象とした。
しかし、1962年夏頃に、研究班は、アセトアルデヒド製造工程スラッジ(排出汚泥)から、塩化メチル水銀を抽出することに成功し、1963年2月、水俣病は水俣湾産魚介類を摂食することにより発症し、その原因毒物はメチル水銀化合物と正式に発表した。

政府が水俣病についての正式見解として、チッソ水俣工場アセトアルデヒド設備内で生成されたメチル水銀化合物と断定したのは、1968年9月26日で、熊本大学の正式発表から、実に5年半後のことだった。
熊本大学に同期して政府が対策を講じていれば、あるいは1965年頃に発生した新潟水俣病を防ぐことができたのかも知れない。
また、熊本大学が有機水銀説を公表した1959年7月から数えると、およそ9年になるが、この間に、水俣病患者はさらに多数発生しているのである。

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2009年7月 8日 (水)

『海の牙』と水上勉の直観力

水上勉は、水俣市での取材を終え、『海の牙』双葉文庫(9511)の執筆にとりかかった。
その際、「水俣病」と名づけることを控えて、「水潟病」とした。
熊本県に、小説の舞台として、架空の水潟市という都市をつくったのである。

水上勉は、なぜ「水潟」という名前にしたか?
チッソ(新日本窒素肥料)と似たようなビニールの可塑剤を製造している工場が、新潟県の阿賀野川上流にあることを知っていたからである。
それは昭和電工の工場であった。

その時点では、単なる思いつきだと、水上勉は言っている。
しかし、思いつきかも知れないが、それは大きな示唆を内包した直観力の産物だった。
『海の牙』が発表されてから約8年後、第二水俣病とも呼ばれる新潟水俣病の発症が確認されたのである。
チッソの関係者が、工場廃液説を認めていたら、あるいは厚生省などが本腰を入れて調査をしていたら、新潟水俣病は、たとえ発生を防げなかったとしても、実際に起きたほどの悲惨な事態は避けられたのではないだろうか。
Wikipedia(09年2月15日最終更新)で、新潟水俣病の経緯をみてみよう。

患者が起こした損害賠償請求訴訟において昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張していた。1964年に発生した新潟地震により、水銀農薬を保管していた新潟港埠頭倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したのではないかと疑われた。しかし当時、新潟県当局は被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたことを確認している。また、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また、農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、より上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになり、全くその主張の根拠を失った。
死亡患者の遺族の一人の法廷証言に「父は悶え、苦しみ……犬のように、猛獣のように狂い死にしました」とある。
第二水俣病は、熊本水俣病に対しての政府の責任回避ともいうべき対応によって引き起こされたといえる。政府は熊本水俣病が発生した時点で原因の究明を怠り、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしなかったからである。熊本水俣病に対して的確な対応をしていたならば新潟水俣病は避けられたはずであるといわれる。また昭和電工は証拠隠滅のため都合の悪い資料をすべて破棄したと見られ、事件の全容解明はほぼ不可能とみられる。
国は、熊本の水俣病と同様、患者の認定基準に厳格さを貫き続けている。
新潟県は国の基準では認定されない患者も救済する方向で条例制定を目指している。

水上勉は、自ら化学知識がほとんどない、と言っている。
厚生省などの公衆衛生の専門家は、水上勉よりはるかに化学知識を備えていたはずである。
にもかかわらず、熊本水俣病において、不作為ともいうべき対応をし、間接的に新潟水俣病の加害者になっている。
チッソや昭和電工の社内技術者は、自社の工程がメチル水銀を排出することを認識していたであろう。
あるいは、明確なメカニズムは不明だったとしても、工場廃液が原因物質である可能性を想定していたはずである。
昭和電工が証拠隠滅を図っていることがそれを示している。

かつて「日経ビジネス」誌が、明治以来の日本の会社のランキングの変遷を調べ、その記事を再編集して単行本化した。
後に、『会社の寿命-盛者必衰の理』新潮文庫(8908)として文庫化されるほどのベストセラーとなった。
産業構造の変化が、個別企業の盛衰に大きな影響を与えることは当然である。
09年6月8日の項:GMの破綻と「盛者必衰の理」
会社ランキングの変遷はそのことを雄弁に物語るデータだった。

昭和の初めの金融恐慌や昭和大恐慌を経た昭和8(1933)年のランキングをみてみよう。
日本窒素(野口遵)、日本産業(傘下に、日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日本油脂など/鮎川義介)、昭和電工(森矗昶)などのいわゆる新興財閥が新たにランキング入りしているのが興味を惹く。
後に日本の公害史を代表することになる企業が同時に台頭しているのは、果たして偶然の一致なのだろうか。

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2009年7月 7日 (火)

水俣病と水上勉『海の牙』

水俣病をテーマにした小説に、水上勉『海の牙』双葉文庫(9511)がある。
昭和34(1959)年12月の「別冊文藝春秋」に発表した「不知火海沿岸」をベースに大幅に加筆し、昭和35(1960)年に、河出書房新社から刊行された。
松本清張によって開拓された社会派ミステリーに分類される作品である。

昭和34年はまだ水俣病という病名が確立していたわけではない。
「水俣奇病」と呼ばれていたし、チッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)は、工場廃液が原因ではないと頑なに主張していた。
原因については、学者の間でも、風土病説、火薬爆発説などを唱える人もいた。
そういう状況の中で、水上勉は、病気の原因を工場廃液であると断定する形で小説を構成している。

水上勉自身の「「海の牙」について」という文章によれば、水上勉が小説化しようと思い立ったのは、NHKのTV番組がきっかけだった。
プロの作家になりかけていた水上は、当時はまだ原稿注文もない境遇だった。
TVでアナウンサーが、水俣市で発生している奇病を紹介しながら、その原因はいまだにわからず、工場廃液の水銀の影響だという説も、確定的とはいえないと説明している。
その時点で、既に49人の死者が出ていたというのに、原因は不明とされ、患者たちは工場廃液説に基づいて日夜陳情を続けているが、工場は関知しないことだとつっぱねて見舞金すら出していない。
政府も、手をこまねいて眺めているという状態だった。

水上勉は、これは白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないのか、と考えた。
そして、1ヵ月くらいの宿泊賃をもって現地に出かけた。
もちろん、取材費を提供してくれる出版社があるような作家になる前のことである。
そして、現地で約15日間、関係者にあって取材を続けた。
その結果、工場廃液説を確信したのだった。

帰京後直ちに執筆に着手し、工場都市の財政を支える唯一の大工場の排水に混じっている水銀が、魚介類を経て人間に摂取され、脳障害を起こすという南九州大学の説を冒頭に紹介している。
そして、それを否定する工場側と、補償を求める漁民との抗争を、軸にして小説を構成した。
その筆力によって、「水俣奇病」の恐ろしさが、リアリティをもって迫ってくる。

水上勉は、この『海の牙』で、昭和36(1961)年、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞した。
また、同年上半期第45回直木賞を『雁の寺』で受賞し、いちやく流行作家の仲間入りを果たした。
1日平均30枚、月産1200枚を書いたと伝えられている。

水上勉と無言館館主窪島誠一郎氏との血脈関係の不思議さについて書いたことがある。
07年12月8日:血脈…②水上勉-窪島誠一郎
そして、太宰治と太田治子の間にも、同じような関係があった。
09年6月26日:太宰治と三島・沼津(4)

そういえば、太宰治と水上勉には、少なからぬ類似点があるのではないだろうか。
第一に、いま風にいえば、美系男子であった。
第二に、無頼の徒であった、もしくは無頼の徒を気取っていた。
第三に、第一と第二の結果として、大変女性にもてた(らしい)。
ちなみに、水上勉は、大正8(1919)年3月8日の生まれである。
太宰とちょうど10歳違ったことになる。

太宰の没した昭和23(1948)年の時点では、水上勉は、処女作『フライパンの歌』を上梓したばかりで、無名というに近い存在だった。
『海の牙』(双葉文庫版)の山村正夫氏の「解説」に、水上勉自身が、『フライパンの歌』は「僕は愛着のある作品ではないんです。……それまで僕は文学青年でしたけど、そういう生活が嫌になったんです。」と語っていることが引用されている。
つまり、太宰が入水した頃、水上勉は小説を捨てる生活を始めていたわけで、実人生において、太宰治と水上勉が交差したという可能性はほとんどないだろう。

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2009年7月 6日 (月)

静岡県知事選挙の結果と自民党の迷走

「想定の範囲内」と言うべきだろうか?
7月5日投・開票の静岡県知事選挙で、川勝平太氏が接戦を制した。
川勝氏は、『文明の海洋史観』中央公論社(9711)などの著作で知られる経済史学者であるが、2007年より、浜松市の静岡文化芸術大学の学長に就任した。
静岡県の総合計画に織り込まれている「富国有徳」の言葉などに影響力を持ったと推測されるが、静岡県の特に東部地域では知名度は余り高くなかったといっていいだろう。

自民・公明が推薦した坂本由紀子氏は、沼津東高から東大法学部を経て労働省(現厚生労働省)のキャリア官僚の道を歩み、1996年には、石川前知事の下で副知事に就任。
厚生労働省に局長として戻り、2004年の参院選挙で静岡選挙区から立候補して当選した。
現在はその任期の途中ということになる。

人脈や地盤という点からすれば、坂本氏が有利であったことは疑いえない。
そして、従来、静岡県は「保守王国」とも言われていたように、伝統的に保守勢力の強い風土だった。
しかも、今回の選挙に関していえば、もう1人の候補者の海野徹氏は、元民主党所属の参議院議員であり、選挙を担当する小沢民主党副代表が、川勝氏と海野氏の一本化を図ったものの、調整に失敗して両者が立候補するという状況だった。
今までの静岡県における選挙の常識からすれば、坂本氏の楽勝のパターンだったはずである。

海野氏が早くから立候補を表明していたのに対し、川勝氏も坂本氏も、諸般の事情で立候補の意思表示が直近になった。
共に短期決戦を余儀なくされたわけである。
そのことが、いわゆる「風」の影響を受けたことになるのだろうか?

結果は、以下の通りである。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2009070602000120.html

当 728,706 川勝平太 無新 =民社国
   713,654
 坂本由紀子 無新 =自公
      332,952  海野徹 無新

        65,669 平野定義 共新

川勝氏と坂本氏の票差は、15052票。
得票率の差は、0.8ポイントだから、接戦と言っていいだろう。

川勝氏が勝利したことによって、政局はどう動くか?
与党側は、国政選挙と地方選挙は別と強調しているが、静岡知事選が、総選挙の前哨戦的位置づけで戦われたことは間違いない。
次は都議選であるが、民主党が第一党にでもなれば(その可能性は高いと思われる)、影響は大きいだろう。

自民党は既に末期的な迷走ぶりを示している。
古賀選対委員長が、東国原宮崎県知事に自民党からの出馬を要請したという。
それに対して、東国原氏がつけたとされる注文がマスコミを賑わしているが、もはや茶番というべきだろう。
確かに宮崎県知事として、宮崎県のPRに大きな貢献をしたことは認めるべきだろう。
しかし、その実績が、国会議員に求められる資質や能力なのか?
私は、東国原氏の知事活動は、タレント稼業すなわち、そのまんま東の延長線上のものに過ぎなかったと考える。
つまり、自民党は、風の影響を受けて、行方定めず迷走しているように見える。

自民党の中では、本気で「麻生降ろし」を主張する向きもあるようだが、それでは次期総裁候補に誰を担ごうというのだろうか。
順当に考えれば、麻生首相と総裁の座を争ったメンバーが有力候補ということになるだろう。
2008結果は、表(Wikipedia09年7月1日最終更新)のようだった。
議員票は、総裁選で注目度を集めようとするイベント効果を狙ったものだろうから、自民党という組織のホンネは、地方票により明確に現れていると考えていいだろう。
麻生氏の圧勝というのが、当時の自民党という組織の意思だった。

選挙日は08年9月22日だったから、まだ1年も経過していない。
郵政民営化総選挙と比べれば、only yesterdayである。
この経過時間からして、他の候補者が、麻生氏を抜き去る力量を備えたというのはいささか難しいだろう。
とすれば、この中から総裁を選ぶとすると、前回総裁選の有権者は、総裁候補を評価し損なったということになる。

これら以外に有力候補者はいるのか?
総裁選には、山本一太氏と棚橋泰文氏が出馬意向を示していたが、推薦人が集まらなく断念している。
この2人とても、推薦人すら集まらない状況から、一挙に総裁へ、というのは難しいだろう。
中川昭一氏は、酩酊会見の記憶も鮮明だから、担ぐ人もいないだろう。
郵政問題で知名度を上げた鳩山邦夫氏も、党内には反発者も多そうである。
党内事情もさることながら、兄由紀夫氏が民主党代表で、兄弟で首相の座を争うという事態では、日本という国の器の大きさが問われかねない。
舛添厚生労働大臣?
せっかく担当しているのだから、先ずは年金問題等に注力するのが優先課題というものだろう。
と考えてくると、自民党の総裁候補者は払底しているというべきではないだろうか。
もっとも、私は、森喜朗氏の後、自民党は下野すべきだったのであり、政権交代が遅すぎたと考えるものであるが。

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2009年7月 5日 (日)

水俣病患者の救済について

水俣病未認定患者救済の特別措置法案が、衆議院で可決され、早ければ8日にも参院で成立の見込みだという。
救済の対象を、現在の「四肢末梢の感覚障害」に加え、民主党が主張していた①全身性の感覚障害、②口の周囲の感覚障害、③舌先2カ所の感覚障害、④視野狭窄の4つの障害を加えて、救済範囲を広げる。

しかし、現在救済を求めている人は約3万人いて、約2万人はこの範囲に入るが、それでもなお約1万人は対象外ということになる。
救済の方法は、一時金を支給することなどで、金額は与党が150万円、民主党が300万円を主張している。
斉藤環境相は3日の閣議後記者会見で、一時金の額や救済対象となる症状の診断方法などについて「関係議員や被害者団体と相談していく」と述べ、法案成立後に、救済策の具体化を急ぐ考えを示した。

水俣病は、1956(昭和31)年に熊本県水俣市で発生が確認されたことから、その名前が付けられた。
発生の確認から既に50年以上の時間が過ぎている。
当然のことながら、症状に苦しみながら亡くなられた人も少なくないし、被害者の高齢化も進んでいる。
早期救済を図るべきことは当然で、その道が開けたことについては一定の評価をすべきだろう。

水俣病の病像をどう捉えるかについては論議があるが、Wikipedia(09年6月13日最終更新)では次のように記されている。

水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。

従来、救済の対象は、重篤な患者に焦点があてられ、したがって限定的なものとならざるを得なかった。
今回はより軽症的・慢性的な患者も対象になるわけで、一歩前進であることは間違いない。
しかし、全面解決とするにはほど遠いというべきだろう。

今回の法案のポイントの1つは、原因企業であるチッソを持ち株会社(親会社)と事業会社(子会社)に分け、親会社が得る株式の配当や売却益を補償費用に充てることになっている。
問題は、補償支払いが完了した後に、子会社を存続、親会社は清算されて解散することになるという。
補償支払いが、完全に被害を償うものであるならば、責任会社を解散してしまってもいいかも知れない。
しかし、完全に被害を償うことなどあり得ない。
過去の時間は取り戻せないし、一時金の額も十分なものなどとは言えないからだ。

被害が拡大したことについて、チッソの責任が大きいことは当然である。
私も化学会社に在籍したことがあるから、他人事ではないのだが、明らかにチッソからの廃液が原因物質であることが明確だと推論される段階になっても、それを認めようとしなかったことの責任を、化学会社は教訓とすべきであろう。
現に、後に新潟県で昭和電工からの廃液によって、新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれる被害が発生している。

チッソの責任に加えて、国の不作為が、被害拡大をもたらしたことも改めて指摘するまでもない。
今回の法案では、「水俣病被害の拡大を防止できなかったことについて、政府の責任をみとめ、おわびする」ことが盛り込まれている。
この「おわび」をどう具体化するのか?

患者の中には、今回の法案は、患者の救済ではなく、(分社化による)チッソの救済ではないか、という怒りの声もあるという。
また、加害者の一部でもある国が決めた、という反発もある。
水俣病患者は、自身の身体に被った被害だけでなく、偏見や差別という被害も受けてきた。
そういう事情から、患者認定を申請してこなかった潜在患者もいる。
今回の法案成立で、最終決着などではない。
あくまで一時的な対策と位置づけるべきだと考える。
政府の「おわび」は、恒久的な対策を講じる「しくみ」を整備する形で具体化していくべきではないだろうか。

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2009年7月 4日 (土)

天皇の金塊(7)…ロッキード事件とゴールド・カルテル

田中角栄元首相を排除に導いた「ロッキード事件」には、未だ明るみに出ていない謎が残されている。
09年3月1日の項:ロッキード事件④…背後にある闇
09年3月14日の項:ロッキード事件⑨…日米司法取決と証拠の偽造
09年3月29日の項:ロッキード事件⑱…残されている謎 他

その謎のある部分が、高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)に記されている。
日本のマスコミの報じた「ロッキード事件」の構図は、首相および政府高官の絡んだ贈収賄事件というものだった。
上掲書によれば、「ロッキード事件」に登場する児玉誉士夫、シグ片山らは、CIAに連なる秘密ビジネスファミリー「ザ・カンパニー」の仲間である。
児玉誉士夫は、「金の百合」を強奪した張本人の1人であるが、終戦を境にCIAの職員に転進した秘密諜報員だった。
児玉は、CIAの給与台帳に登録され、ロッキード社の秘密代理人も兼ねていた。
シグ片山は、CIAが秘密金融作戦に活用するオフショア銀行の資本を握る偽装会社の代表者だった。

上掲書によれば、田中角栄元首相は、フィリピンのマルコス元大統領と同じように、「金の百合」に過剰に介入しようとして破滅させられた、ということになる。
ワシントン政府は、「ロッキード事件」によって、田中角栄を追い落とし、同時に、「金の百合」の秘密を知りすぎたメンバーを排除した。
サンティやシグ片山は、航空機の不正取引とは無縁だったが、田中追い落としに連動して葬られた。

「金の百合」の収益金は、第二次世界大戦終結の前年に創設された黒鷲信託基金(ブラック・イーグル・トラスト)に追加プールされた。
この基金は、反共産主義体制の確立とアメリカ式民主主義の導入を求めたイタリア、ギリシア、ドイツ、韓国、日本などの諸国に拠出された。
たとえば、日本の自由民主党は、岸信介が首相在任中の1957年から60年までに、年間1000万米ドル(当時の為替レートで36億円)を受け取った。
上記以外にも、ベトナム、インドネシア、イラン、アフリカ、南米チリなどの国々が、この基金から共産主義対策費用を受け取った。

この信託基金は、第二次世界大戦の終結する1年前、ブレトンウッズ条約会議の別室で、連合軍が押収したヒトラー財宝の扱いを研究してきたスチムソン長官らによって創設された。
ブラック・イーグルのイーグルはナチスのシンボルである。
この資金は、内戦時の中国毛沢東共産党と蒋介石国民党の双方に投じられた。
言い換えれば、中共軍も国民党軍も、ブラック・イーグルの資金で対日戦費を賄ったということになる。

日本が敗戦を迎えた1945年秋に、スチムソンらは、マッカーサーの日本占領軍が接収した金塊財宝の一部と、フィリピン山中の「金の百合」を、ブラック・イーグルに合体させた。
1970年代に中国を訪問したニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は、680億米ドル相当の純金のインゴットを中国にプレゼントした。
ニクソンらの狙いは、台湾への核攻撃を断念させることにあった。

マルコス元大統領は、サンティを、戒厳令法違反の容疑で逮捕し、サンティの資産を合法的に強奪した。
マルコスは、サンティに、その遺産を遅滞なく引き出せるように遺書を書かせた。
一方で、サンティは、1972年に戒厳令が布告された時点で、自分の資産を隠し始めていた。
その一部は、のちに三和銀行に買収された香港の小銀行に預けられたという。

マルコス元大統領は、「金の百合」を巡る金銭訴訟問題によって、ゴールド・カルテルの取引実態が炙り出されそうになることによって、末路を迎えることになった。
CIA長官らは、フィリピンで反マルコス・クーデターを仕掛けた。
1989年、マラカニアン宮殿から米軍のヘリコプターで脱出したマルコス夫妻は、実際はワシントン政府によって身柄を拘束されたのだった。

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2009年7月 3日 (金)

臓器移植法案について

柄にも無く「神の摂理」というような言葉が頭を駆け巡る。
臓器移植の問題である。
衆議院で、「脳死を人の死」とするいわゆるA案が、あっけなく(?)可決され、参議院で審議中である。

制度上の問題で、海外での移植手術に頼らざるを得ず、その結果手術をする前に亡くなった子供の例などをみると、国内で手術が可能になるように制度を変更するのは当然のようにも考えられる。
しかし、脳死の時点でも、細胞がすべて活動を停止してしまっている、というわけではない。
本当に「脳死は人の死」などと、法律で決めてしまっていいのだろうか?

自分自身のことについていえば、もし、私の臓器がどなたかの役に立つならば、脳死の時点で摘出して移植してもらうのは、大変結構なことだと考える。
しかし、果たしてそれを一般化してしまっていいのだろうか?

そもそも、脳死の判定は、誰が判定しても動かないものなのか?
臓器移植を受けた側の人(レシピエント)に対する影響はないのか?
免疫性の問題などを考慮すれば、それで必要かつ十分なのだろうか?
臓器を提供した人(ドナー)の遺族が、肉親の臓器を切り取ったことで、精神的にダメージを受けるような例もあるという。

吉本隆明『老いの流儀』日本放送出版協会(0206)に、興味深いことが書いてある。
吉本氏は、「宗教的な死を含んだ死というのは、科学と融合した理解が届かないと、本当の「死」といえないが、今の科学のレベルはそれ以前の段階で、そういう科学の段階で、脳死は人の死か否かといったことを国会で決議したり、脳死の判定基準をつくったりするのはもってのほか」とした上で、以下のように書いている。

では、何をもって人の死とするのか。フランスの哲学者で医学者でもあるミシェル・フーコー(1926~84)が、『臨床医学の誕生』という著書の中で、「疑問の余地のない死」について明確に言及しています。フーコーがいう「疑問の余地のない死」とは、全細胞が死滅した状態です。つまり、心臓死でもなければ、脳死でもない。全細胞が死滅したときが死だ、とフーコーは言っているわけです

死は点としては表わせないし、徐々に進行するプロセスなんですね。

「死」にいちばん最初に侵されやすい弱いところは粘膜質の部分で、そこから死がはじまると言います。それから徐々に内臓が死んでいって、次第に死んでいる部分が多くなり、生きている部分が少なくなっていく。

「脳死が人の死」というのは、脳死が折り返し不能だろうという判断ポイントである、ということである。
しかし、フーコー流に言えば、それは疑問の余地なき死に向かって進行中のプロセスでもある。
折り返し不能という判断も、現在の医学の水準での判断である。
医学が進歩すれば、脳死よりももっと手前の判断ポイントが提示されるかも知れないし、脳死からの帰還の可能性も論議されることになるのかも知れない。

もちろん、脳死状態の人が自ら意思表示できるわけではない。
だから、実際のところ、脳死の状態で臓器を摘出された人のことは誰にも理解できない。
次のような事例もある。

「A案が成立すると、うちの子どものような生き方が認められなくなるのではないか」。長男みづほ君(9)が「長期脳死」の女性=関東在住=は、A案の大差での可決を知り、肩を落とした。
みづほ君は00年、1歳のとき、原因不明のけいれんをきっかけに自発呼吸が止まり、脳内の血流も確認できなくなった。旧厚生省研究班がまとめた小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たした。それから8年、人工呼吸器をつけて自宅で過ごし、身長は伸び体重も増えた。
「今後も移植が必要な人は、どんどん増えるだろう。さらに臓器が足りなくなれば、死の線引きが変わり、私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」と不安を口にする。
http://mainichi.jp/select/science/news/20090619k0000m040100000c.html

脳死であっても、痛覚はある、という人もいる。
結論的にいえば、私は今の時点で、「脳死を人の死」と法律で決めてしまうことには賛成できない。
いつやら、臓器移植法案を審議中の国会の様子がTVで放映されたことがあった。
驚くべきことに、少なからぬ議員が、明らかに居眠りをしていた。
何人かは私にも見覚えがあり、中には女性議員もいた。
もし、自分の選挙区だったら、絶対に投票したくないと思った。

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2009年7月 2日 (木)

人口減少社会の現実

現代が文明史的な転換期なのではないだろうか、ということを書いた。
09年5月21日の項:実質GDPの大幅減と文明史の転換
そして、その大きな要因として、わが国が減少人口社会に突入したことを挙げた。
09年1月2日の項:人口減少社会の到来とグローバル市場主義モデルの終焉
衆院選をめぐってさまざまな動きがあるが、小泉政権の「改革なくして成長なし」というスローガンをどう評価するかは、大きな争点と言っていいだろう。
私たちは、果たして成長を目指し続けていいのだろうか?
09年1月3日の項:モデルなき人口減少社会に向かって

今朝の産経新聞に、このことを痛感させられる記事が掲載されていた。
「静かな有事」という連載記事で、見出しは「抜け出せぬ成長期の呪縛」とされている。
「成長期の呪縛」とはどういうことか?
財務省の勉強会で財務官僚が口にした言葉。
「公的支出のあり方は経済成長期のモデルを引きずっている。頭ではなんとなく分かっていても体がついていかない…」

確かに、私たちの生きてきた時代は、人口が増え、経済が成長していくのが常態だった。
道路、港湾、鉄道、ダム、空港などのインフラが次々と整備されてきた。
静岡県でも、6月4日に、富士山静岡空港が開港した。
国内で96番目だという。
静岡県には、東海道新幹線の駅が6つある。
全国最多である。
だから、空港もあってしかるべきか?
私は、むしろ新幹線へのアクセスがいいのだから、空港は無くてもいいのではないか、と思う。

難産の末の開港だったが、黒字化するのは至難のことではないだろうか。
7月5日の知事選に向けて、各陣営が最後の注力をしている。
衆院選の前哨戦的位置づけがされているので、全国的な注目度も高いだろう。
民主党系候補が2人立候補しているが、それでも自民・公明推薦候補は苦戦を余儀なくされているようである。
この知事選自体が、空港開港をめぐって前知事が辞任せざるを得なかった結果だ。
本来的には、新空港開港はめでたいこととして、与党側に有利に働かなければならないところだろうが、そういう雰囲気は余り感じられない。

産経新聞記事には、水道の使用量予測のグラフが載っている。
私がリサーチャーの頃には、水需要をいかに抑制するかが大きな課題だった。
ダム建設が難しくなるにしたがい、ダムによって生み出される水のコスト(原水単価)の高騰が避けられず、水の供給能力が、成長の足かせになるとされていた時代である。
そのため、水需要を抑制するような水道料金(例えば逓増型料金体系)を提言したこともある。

しかし、今や需要が減ってきているために、水道料金を上げざるを得ない自治体が増えている。
Photo2040年度の水道料金は、2004年度の平均2.7倍になるという試算もあるという。
水道施設の耐用年数は約40年であるが、40年前の需要推計をもとに敷設された水道を、そのままの規模で更新しようとしている。
もちろん、上水道は最も基本的な生活必需財であり、その安定的な供給は、シビルミニマムと言えよう。
しかし、そのレベルを維持しようとしたら、大幅な料金値上げが不可避だということである。

もちろん、水道だけの問題ではない。
公的年金の制度設計の根本に、将来人口とその年齢構成がある。
それは、出生率の予測をどう考えるかという問題であるが、2025年の出生率を、1985年の時点では2.09と想定していた。
その後、出生率予測は下方修正されてきたが、それでも1.61程度である。
しかし、実際の出生率は減少を続け、2008年の出生率は、1.37だった。
経済全体への影響もあるが、年金制度の基礎が、いかに非現実的な予測に基づいているか、ということである。
人口減少社会の現実を見据えた制度設計が必須であり、衆院選のマニフェストの注目ポイントの1つとしていいだろう。

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2009年7月 1日 (水)

天皇の金塊(6)…「金の百合」とゴールド・カルテル

フィリピンのトレジャー・ハンターのロジャー・ロハスという男が、マルコス元大統領に対して、「金の百合」の一部を強奪したとして争われた民事訴訟は、ハワイ州の最高裁で結審し、430億米ドルの支払命令が下ったことについては既に触れた。
09年6月4日の項:天皇の金塊(4)トレジャーハンターとマルコス裁判
だが、ロハスはその最終結審日の直前に、何者かに毒を盛られて急死した。
ロハスの死体は、検死も解剖もされず、即材に焼却されてしまったが、病院の死因の欄に書かれていたのは、結核という文字で、ロハスの妻にはまったく心当たりのないものだった。

ホノルルの最高裁が確定した事実は以下のようなものだった。

旧日本軍の戦時略奪品は間違いなくフィリピンに隠されていた。ロジャー・ロハスはそれらの隠し場所を発見した。黄金ぶつぞうは金塊を鋳造して作られていた。
マルコスは本物の仏像と金塊財宝をロハスから盗んだ。マルコスは入手した仏像と金塊財宝を売却換金して数十億米ドルを手にした--。

マルコスは、ロハスが金塊を回収する以前から、「金の百合」の存在を知っていた。
マルコスに日本軍の財宝の存在を教えた“山師”は、アメリカ軍人の通称サンティと呼ばれる男だった。
サンティは、マッカーサー麾下の太平洋連合軍陸軍情報部G-2に所属するフィリピン系アメリカ人で、セルビノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーノという。
サンティは、1945年9月に投降した山下奉文将軍の専属運転手を務めていた小島香椎中佐の尋問担当官だった。
小島を拷問して、「金の百合」お隠し場所の一部を知り得たのだった。

サンティは、上官のランスディール中尉、マッカーサー将軍、OSS(後のCIA)のビル・ドオバン将軍、スチムソン陸軍長官、トルーマン大統領に、「金の百合」の発見とその規模を報告した。
米軍のクラーク基地とスービック基地は、非合法で金塊を海外に移転させる格好の基地だった。
サンティは、マルコスに代わって換金し、弁護士マルコスに大統領の座を買い取らせた。

サンティたちが回収した「金の百合」は、ゴールド・カルテルの手で世界市場を徘徊することになるが、金相場を崩さないように慎重に取引された。
サンティの上官のランスデールは変人として知られていたが、サンティが病死した後、サンティの銀行口座に残されていたカネを、自分の名義に変更した。
そのカネを使って、ワシントン政府、OSS、ペンタゴンの著名な上官の個人口座に入金した。
ランスデールは、中尉から陸軍大将へ破格の昇進を遂げ、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、フォード、カーター、レーガン、ブッシュに至る歴代大統領に仕える地位に座り続けた。
高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)の表現によれば、「金の百合」が、ワシントン政府高官の“へそくり”を支え続けた。

サンティとランスデールに「金の百合」の管理を命じたのは、OSSのウイーン支局長アレン・ダレス(初代CIA長官)、OSSの創設者ビル・ドノバン将軍、広島・長崎への原爆投下を指揮したヘンリー・スチムソン陸軍長官、トルーマン大統領らだった。
「金の百合」は、世界の金市場で通用する高純度の純金インゴットに改鋳された。
鋳造をやり直すことによって、金地金の本来の持ち主の痕跡は消え、戦後処理につきまとう返還訴訟や賠償請求を、記録不明を盾にして排除できる。
改鋳されたインゴットは、預託先のゴールド・カルテルの手で運用・売買された。

「金の百合」の運用益と売買利ザヤの大半は、ワシントン政府とOSS(CIA)の秘密の信託基金としてプールされた。
つまり、議会報告が不要で、使途も無制限で、会計監査も受けないカネである。
この基金の総額は、最低50兆米ドルを超えると想定される。
原爆の開発費は、22億米ドルで、第二次世界大戦で消費された通常兵器の総額に近いという。

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