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2009年6月26日 (金)

太宰治と三島・沼津(4)

「作家太宰治は沼津で生まれた」というと、そんなことはないと思うだろう。
太宰といえば津軽の生まれだ、というのが条件反射である。
しかし、今年第4回を迎える沼津文学祭は、「生誕百年 作家『太宰治』は沼津で生まれた~処女作「思ひ出」と『斜陽』執筆の地~」と題されている。
つまり、現在の沼津市志下で、作家としての出発点となった処女作「思ひ出」を執筆したのだ。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisei/kouhou/interview/200905/200905-2.htm

Photo_2太宰と沼津の係わりはこれだけではなく、三津の安田屋旅館に滞在し、ここで代表作「斜陽」の1、2章を執筆した。
平成元年から安田屋旅館では太宰を偲んで『沼津桜桃忌』が行われており、平成13年には「斜陽」文学碑が建立された。
写真の2Fの部屋が太宰ゆかりの部屋で、入口脇の白い石が、「斜陽」文学碑である。

太宰が『斜陽』を執筆した部屋の様子である。
Photo_3   
http://www.geocities.jp/seppa06/meisaku07/0829_mitohama_.htm

太宰は、戦後の昭和22年2月、下曽我に疎開していた太田静子を訪ねる。
そしてこのとき、静子の日記を預かるが、その日記を携えて、沼津市三津の安田屋旅館に向かった。
田中英光(太宰に師事。『オリンポスの果実』などの作品で知られる)の疎開宅が、安田屋の前だったためである。

静子は、太宰と下曽我で再会したとき太宰の子供を身籠る。
後の作家・太田治子である。
太宰は、静子の日記をもとに、『斜陽』の執筆を開始する。
当時太宰には妻子がいたが、生まれてきた娘に、「治」の一字を与えて認知したのだった。

しかし、翌年、太宰は玉川上水に入水する。
静子の日記は、太宰の死後、井伏鱒二と伊馬春部によって静子の許に返される。
Photo_3井伏と伊馬は、「これはすぐに公表せずに、十年もしたら公表すればいい」と助言したが、静子は幼子をかかえて生活に困り、昭和23年10月に、『斜陽日記』を出版する。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-oota-shizuko1.htm

それにしても、太田治子には太宰治の記憶はまったくないだろうが、治のDNAは治子に受け継がれているわけで、ここにも「血脈」ということの実例をみる思いがする。
07年12月7日の項:血脈…①江国滋-香織

07年12月8日の項:血脈…②水上勉-窪島誠一郎

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