津軽と南部
太宰の代表作として何を挙げるか?
もちろん、人によりそれぞれであろう。
『斜陽』とする人もいるだろうし、『人間失格』だという人もいるだろう。
亀井勝一郎は、『津軽 (新潮文庫)』(5108)の「解説」で、彼が生前書いた8つの長編小説の中で、『斜陽』『人間失格』が最も有名だが、彼の本質を一番よくあらわしているのは『津軽』である、と書いている。
そして、私(亀井)は全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい、としている。
太宰の本質とはどういうことか?
亀井は、旧家に生まれたものの宿命、という言葉を使っている。
旧家には、格式の高い潔癖な倫理性と、同時にそれに反撥するような淫蕩の血と、矛盾した2つのものが摩擦しあいながら流れている、というのである。
旧家に縁のない私は、そういうものか、と思うしかないが、その矛盾が、異形のものを形成する根源なのだ、と亀井は説く。
まあ、矛盾したものの存在が新しいものを生み出すというのは、そういうものだろうと思う。
『津軽』は、昭和19年の作品で、このとき太宰は36歳だった。亀井によれば、この作品を書くための旅行は、彼の生涯の中でも最も思い出多い旅であった。
太宰は、健康にめぐまれ、心のバランスがうまくとれていた。
それが、この作品の筆致を平明なものしている。
(図は、上掲書口絵から)
ところで、津軽とは、どこからどこまでを言うのだろうか?
私はほとんど青森県に縁がなかったが、たまたま十和田市に住む人と縁ができ、その人のお宅を訪れたときのことである。
十和田の人に、「ここは津軽に入るでしょうか?」と聞いた。
すると、とんでもない、という口調で、「ここは南部だ」と否定されてしまった。
私は、「南部」といえば、「南部鉄器」や「南部牛追歌」などが頭に浮かび、岩手県を中心としたイメージがある。
しかし、南部地方とは、江戸時代に南部氏の所領だった地域で、陸奥国に位置し、現在の青森県東部と岩手県中部・北部、秋田県の一部にまたがる地域だということである。
つまり、青森県の東部は、「南部」に属するということだった。
(地図は、yahoo地図から)
とかく隣接している地域はもめ事が起きやすいが、津軽と南部も仲が良くないらしい。
津軽と南部の関係について、次のような解説があった。
もともと津軽は南部家の領地でしたが南部家の家臣である大浦為信が謀反を起こし、津軽領を奪って独立したという歴史があります(その後、大浦為信は、津軽為信と名前を変えています)。
津軽為信は、その後小田原攻めの最中の豊臣秀吉と通じ、先手を打ってその領土を安堵してもらうことに成功します。よって、南部家から見れば謀反人の津軽為信ですが、これを討つことは豊臣秀吉に弓を引くことと見なされ、結局、南部家は為信による津軽支配を認めるしかなくなりました。その後為信は関ヶ原では東軍(徳川方)に鞍替えするなど巧みな処世術で生き残り、幕末まで津軽藩を残す礎となります。
この時の怨恨を、現在も引きずっているのではないでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1476172.html
上記の解説が的確なものかどうか判断材料を持たないが、現在も津軽と南部は余り仲がよくないのだということは、十和田の人の反応からも首肯できそうである。
400年以上の歴史を持つ怨恨だとすれば、一朝一夕には解消しないだろうという気がする。
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