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2009年6月25日 (木)

大仏開眼供養

2_9当初の予定では、大仏は紫香楽宮に作られ、すべてが完成した段階で、開眼供養が行われる予定だった。
しかし、平城京に遷都したことなどにより、計画は遅延し、聖武天皇は病に倒れてしまった。
そこで、大仏殿は未完成の状態だったが、752年に唐から迎えた菩提法師によって開眼供養が行われることになった。 
(図は、榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良―仏教伝来とともに日本が独自の道を歩みだした時代』新星出版社(0812))。

栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109)により、盧舎那仏完成の様子をみてみよう。

七五二年(天平勝宝四年)四月九日、大仏開眼会がおこなわれた。僧一万人に読経の声がなりひびき、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、皇族・貴族・官人たちが居並ぶなか、波羅門僧の菩提僊那のもつ筆(開眼筆)で、盧舎那大仏に目が点じられた。その筆に結びつけられた綱(開眼縷の先は、枝分かれして多くの列席者の手に握られ、開眼の感激をともにした。この筆と綱そのものが、開眼会で用いられた他の多くの品々とともに、いまも正倉院宝物として保存されているのは、まさに奇跡的なことだ。

この大仏開眼の法要の様子は、昭和27年度芸術祭参加作品として、大映で映画化された。
残念ながら作品は目にしていないが、大スペクタクル映画だったようだ。
折しも、平成22(2010)年は、平城遷都1300年ということで、多くのイベントが企画されているが、その一環として、NHK古代史スペシャルとして「大仏開眼」が放映されるという。

NHK大阪放送局は、「聖徳太子」「大化改新」に続く古代史ドラマ第3弾「大仏開眼」の制作を決めた。平城京遷都1300年にあたる2010年春、全2回各90分で放送する。
奈良の大仏が建立された8世紀は、遣唐使が伝えた仏教思想や価値観に影響を受けた天平文化が花開いた時期。ドラマでは、唐から帰国して理想の国づくりを目指した吉備真備、大仏建立を命じた聖武天皇の背中を見つめ続けた阿倍内親王(後の孝謙天皇)、時の権力者・藤原仲麻呂の3人を軸に、愛や憎しみ、野望と挫折の人間模様を描く。
脚本を手がける池端俊策さんは「歴史をドラマ化する時、その時代が持つ現代性にしばしば驚かされる。大仏がどんな思いで、その時代の人々を見つめたのか、大いに想像してみたい」と話している。
(2008年11月26日  読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20081126et05.htm

なお、大橋一章『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み』グラフ社(0604)には、「Ⅳ 東大寺盧舎那大仏・大仏殿造立への道」と題する章があり、ドキュメンタリー風に、開眼会の様子を描いている。
復習を兼ねて、そのサワリの一部を引用してみよう。

聖武が盧舎那仏を河内の知識寺で拝した天平十二年に、太宰小弐藤原広嗣が反乱を起し、翌年鎮圧されたが、天平十二年から聖武政権は平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波宮と転々と遷都を繰り返していた。政権の実力者は左大臣橘諸兄と藤原仲麻呂。光明皇后と仲麻呂は叔母・甥の関係、諸兄とは異父兄弟、こうした政治状況の中で、天平十三年(七四一)二月十四日に国分寺国分尼寺建立の詔が発せられ、二年後には大仏造立の詔が発せられたのである。
こうした激動の十二年間に聖武地震精神的に疲れ、肉体的にも限界に達しようとしていた。そして開眼縷を持ったまま自分の一番望んでいたのは盧舎那大仏の造立であったと思いつつ、最後は大仏開眼を目のあたりにすることができた幸運に感謝するのであった。

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