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2009年6月 6日 (土)

冤罪と裁判員制度

栃木県足利市で起きた幼児殺害事件(足利事件)で、殺人罪などに問われ、無期懲役が確定した菅谷利和受刑者が、釈放された。
有罪の有力な証拠とされていたDNA鑑定が、再鑑定によって別人のものと判断されたため、裁判所の再審決定が出る前に刑の執行が停止され、釈放されるに至ったものである。
これは、きわめて異例のことであるという。

検察側は、再審で無罪の論告を行う方針を固めているとされ、菅谷さんの無罪が確定する日も遠くない、と報じられている。
菅谷さんは、平成3年12月に逮捕されてから17年余りを刑務所で過ごした。
まあ、20年近くと言ってもいいだろう。
昨日、O・ヘンリーの「Twenty years is a long time」という言葉を引用したが、長い時間だったことは間違いない。

20年前といえば、バブル経済の華やかだった頃だ。
日経平均株価は、1989年の大納会につけた高値の1/4程度に留まっている。
あの時代を体験した人の多くが、「今は昔」という気がしているのではなかろうか。
その時間を刑務所で過ごさざるを得なかったのだから、裁判所の判断は、どう考えるべきだろうか。

裁判員制度が始まったばかりである。
裁判員制度については、何回か疑念を呈してきた(09年1月24日の項4月22日の項5月16日の項)が、既に制度が施行されている以上、自分が選任された場合の心構えを考えておくことなども必要だと思う。
菅谷さんの場合、取調べに対して、一旦は犯行を認めている。
DNA鑑定がクロ、本人が犯行を認めているという状況において、私が裁判員だったとしたら、恐らくは有罪に加担することになっただろうが、それがもし、17年後に、冤罪だったことが証明されたとしたら?

そんな仮定の条件を積み重ねても余り意味があるとは言えないのかも知れないが、自分のこととして考えてみると、とても平静で居られるとは思えない。

実験をやったことがある人間ならば、測定に誤差がつき物であることはよく承知しているだろう。
また、統計的な推測の場合にも、必ず誤差の見積もりを行う。
DNA鑑定といえども、100%ということはないと考えるべきである。
1つの有力な証拠と位置づけれるのは当然としても、絶対に、ということはないのである。

私たちの学生の頃は、工学系では、計算尺と対数表が必須だった。
一種の近似演算であるが、そのことによって、有効桁数などについては、それなりに敏感になったのではないかと思う。
友人の工学系の教授が、最近の学生は、実験データについての有効桁数の概念が欠如していると言っていたのを思い出す。
計算機などで結果を出せば、いくらでも桁数が増える。
そのどこまでが有意であるのか、実務的にはその判断が重要なのである。

捜査の担当者としては、DNA鑑定が被疑者をクロとする結果であれば、これをもっとも有効に使おうとするだろう。
だから、DNA鑑定結果を突きつけて、自白を迫るということは当然の行為だと思う。
問題は、菅谷さんが自白してしまった状況である。
拷問的な取調べがあったのだろうか?
人間の精神というのは、追い詰められると弱いものなのだろうか?
取調べの可視化ということが言われているが、万全の体制などはあり得ない。

裁判員制度が、冤罪の発生を少なくする(ゼロにはならないと考えるべきである)方向に働くためには、どうしたらいいだろうか?
職業法曹よりも判断力において勝るとすれば、それは社会経験しかない。
前にも触れたことがあるが、飲酒運転の経験のない裁判官よりも、経験のある裁判員の方が、実際の飲酒運転の状況については良く理解できるはずである。

しかし、裁判員は無差別で選ばれることになっているので、うまい具合に、当該ケースの体験的理解者が裁判員になるなどというケースは、殆どあり得ないだろう。
とすれば、自分が裁判員になった場合を含め、職業法曹に対する優位性をどこに求めたらいいのだろうか?
取り越し苦労というものかも知れないが、冤罪が報じられると、気になることは確かである。

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