盧舎那大仏の鋳造
聖武天皇の鎮護国家の思想の象徴が、東大寺の大仏と言っていいだろう。
奈良の大仏で知られる東大寺は、数多い奈良の古寺の中でもなじみの深いものである。
平成10年には世界遺産にも登録され、常に多くの人が参拝している。
天平の昔、平城京の東山の地で、盧舎那大仏を本尊とする大伽藍の造営が行われた。
聖武天皇は、740(天平12)年2月、平城京から難波宮に行幸した。
その途中で、河内国大県郡の智識寺の本尊を礼拝して深く感動した(栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109))。
このとき以来、聖武天皇は、盧舎那仏造営の地を探し求め、最初は紫香楽に盧舎那仏をつくる決意を固めた。
743(天平15)年10月に、「大仏造顕の詔」を出す。
09年6月21日の項:聖武天皇と鎮護国家の思想
詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存■濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。
紫香楽宮では、盧舎那仏を本尊とする甲賀寺の造営工事が始められたが、745(天平17)年5月、都が平城京に戻ることになり、盧舎那大仏も平城京の近くに新たに作られることになった。
現在の東大寺の基礎工事がはじめられたのは、745年8月からであった。
大仏の総重量は、約380トンに達すると推定され、頑丈な基礎をつくることが必要である(上掲書)。
高さ16mにおよぶ盧舎那仏の鋳造プロセスは、以下のように考えられている(上掲書)。
まず、粘土で鋳造しようと思うものとまったく同じ大きさの像をつくる。巨大なものであるから、よほどしっかりした骨組みがひつようだ。つぎに、できあがった粘土像の表面にふたたび粘土を塗る。乾いたら、上から塗った粘土層を適当な大きさに切り分けてこれをとりはずす。その後、せっかくつくったもとの粘土像の表面を、約五~六センチずつおしげもなく削ってしまう。削り取った分が銅像の厚みとなる。
ついで、さきにとりはずした粘土板を焼き固めたあと、まわりにならべて組み立てる。あいだに銅の型持ちを入れて、管格が一定になるようにする。この隙間に溶けた銅をいっきに流し込むのだ。しかし、あまりの巨像のために、いっぺんに全体を鋳造することはできず、八段に分けて鋳込まれたらしい。溶けた銅から出るガスを抜くための工夫が必要で、その圧力をささえるために、一段ごとに周囲に多量の土砂を積んでいった。この土の山の上には、銅を溶かす炉がズラッとならぶ。最終段が鋳込まれるときには、本体は小高い山のなかに隠れていたことになる。この山を崩して大仏が姿をあらわしたとき、それは金色に輝いていたはずである。
書き写しているだけでも、いかに大変な工事だったかが偲ばれる。
盧舎那仏の完成までに、鋳造に2年、整形・補鋳に5年、メッキに5年、計12年以上の歳月を要した。
当時は日本では金は産出しないものと考えられていたが、749年に陸奥国で黄金が発見され、年号を天平から天平感宝に改めた。
天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。
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最終段が鋳込まれるときには、本体は小高い山のなかに隠れていたことになる。この山を崩して大仏が姿をあらわしたとき、それは金色に輝いていたはずである。

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