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2009年6月21日 (日)

聖武天皇と鎮護国家の思想

聖武天皇は、藤原広嗣の乱のさなか、平城京を離れ伊勢に向かった。
08年6月26日の項:藤原広嗣の乱

いわゆる「彷徨五年」の始まりで、天皇と都が転々と移動した。(図は、榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良―仏教伝来とともに日本が独自の道を歩みだした時代』新星出版社(0812))。

2_2この彷徨にはどのような意味があったのだろうか?
笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)は、次のように解説している。

広嗣の乱は、朝廷内部の貴族層の対立を直接の原因としていたが、その背景には飢饉や疫病による人心の動揺が存在しており、政府に与えた影響は深刻であった。
乱が勃発すると聖武天皇は動揺し、都を離れて伊勢(三重県)に行幸し、乱が鎮圧されても平城京には帰らず、山背国(京都府)の恭仁に都を遷した。天皇は翌七四一(天平一三)年、護国経の功徳による政治・社会の安定を祈念して国分寺造立の詔を発し、さらに七四三(天平一五)年には、華厳経の説く蓮華蔵世界の実現を祈念して大仏造立の詔を発し、離宮のあった近江(滋賀県)の紫香楽においてその造立を開始した。天皇は七四四年(天平一六)年には難波へ、さらに同年末から翌年にかけては紫香楽へと都を転々としたが、紫香楽における大仏造立は官人や僧侶の強い反対にあって結局実現せず、七四五(天平一七年)、天皇は紫香楽を去って五年ぶりに平城京に帰還した。

つまり、聖武天皇は、鎮護国家という考え方によって、この危難に対処しようとしたのだった。
仏の加護でこの世を護ってもらい、人々のこころを鎮めようという狙いである。

国分寺には「金光明最勝王経」「法華経」が奉納された。
前者は、この経典を信じる王のもとには、仏教の守護神である四天王が現れて、国を護る、という教えであり、まさに鎮護国家思想を象徴するものといえる。
2_3これらの事業は莫大な出費を伴うものだったが、国家事業として実行された。

聖武天皇が造立しようとした大仏は、高さ16mを越える大きさだった。
そのため、材料の調達が大きな問題となった。
本体を鋳造するための銅や錫なども勿論であるが、表面を覆うための金が大量に必要だった。
749(天平21)年、廬舎那仏造顕にとって重要な金が陸奥国から産出した。
07年9月29日の項:多賀城炎上
08年7月5日の項:仲麻呂体制の確立
08年8月5日の項:馬頭御前と藤原百川
08月11日の項:大伴家持の生涯
聖武天皇これを大変に喜び、年号を「天平感宝と改めたほどだった。

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