伊豆国分寺跡
栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109)によれば、国分寺(含む国分尼寺)にように、全国の行政区画ごとに寺院を設けることは、中国に先例があった。
則天武后のときの大雲寺や中宗のときの中興寺であり、日本の国分寺はこれら中国の例にならったもので、これらを実際にみてきた留学僧の玄昉や道慈たちが、光明皇后や聖武天皇に熱心に勧めて実行に移された。
『続日本紀』に収録されている「国分寺建立詔」は、以下のようである。
詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主皆能先業。國泰人樂。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以廣爲蒼生遍求景福。故前年馳驛増飾天下神宮。去歳普令天下造釋迦牟尼佛尊像高一丈六尺者各一鋪。并寫大般若經各一部。自今春已來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃徴誠啓願。靈■如荅。載惶載懼無以自寧。案經云。若有國土講宣讀誦。恭敬供養。流通此經王者。我等四王。常來擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歡喜者。宜令天下諸國各敬造七重塔一區。并寫金光明最勝王經。妙法蓮華經各一部。朕又別擬寫金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒滿。其造塔之寺。■爲國華。必擇好處。實可長久。近人則不欲薫■所及。遠人則不欲勞衆歸集。國司等各宜務存嚴飾。■盡潔濂。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎國僧寺。施封五十戸。水田十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名爲金光明四天王護國之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺。兩寺相共宜受教戒。若有闕者。即須補滿。其僧尼。毎月八日。必應轉讀最勝王經。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六齋日。公私不得漁獵殺生。國司等宜恒加■■
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つまり、国分寺は国の華であるから、国内の適地を選んで建立すること、国ごとに七重塔をつくり、金泥で書いた「金光明最勝王経」を塔に安置すること、僧寺は「金光明四天王護国之寺」とし、僧20人・封戸50戸・水田10町をおき、尼寺は「法華滅罪之寺」とし、尼10人・水田10町をおくこと、などとされた。
すべての国に大きな寺院を2つずつ建立することは大変な事業だった。
造営費用の捻出が大問題で、上記の封戸や水田などではとても足りなかった。
744(天平16)年には、国ごとに毎年4万束を出挙し、その利息2万束を費用にあてることにしたが、これでも不足し工事はなかなか進まなかった。
郡司の経済力を利用するなどの方策が講じられ、奈良時代の終わりごろには、だいたいの国で国分二寺ができあがった。
伊豆国分寺が設置された現在の三島市は、古くから国府として、また東海道の宿場町として絶えることなく栄えてきた。
そのため、国分寺建立の「好処」は町の中心部となり、却って発掘調査が難しくなってしまった。
昭和31年に調査が行われ、南門から中門・金堂・講堂の配置が確認された。
http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/izu.htm
上掲図に見られるように、現在は伊豆箱根鉄道がかつての寺域の中を斜めに横切っていることになるらしい。
この図の通りだとすれば、すでに民家などが密集しているので、全域の発掘調査などはとても不可能ということだろう。
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