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2009年6月

2009年6月30日 (火)

天皇の金塊(5)…「金の百合」と国際金融相関図

どうも関心があちこちに移ってまとまりがないが、6月4日の項の続きである。
高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)によれば、旧日本軍がフィリピン山中に隠した財宝を探り当てたロジャー・ロハスは、マルコス元大統領に、その財宝を奪われてしまう。

フィリピンの宗主国はスペインだったが、高橋氏の義父を自称するベラスコは、カトリックとスペイン語が支配する諸国を動き回った第二次大戦時のスパイだった。
マルコス元大統領に財宝を奪われたロハスは、1970年代末から80年代初頭にかけて、復活の日を待ち続けたが、その頃高橋氏は、マドリードのベラスコのアパートに入り浸っていた。
ベラスコは、日本が真珠湾を攻撃した2週間後から、日本政府の要請でスパイ活動に臨んだナチスの諜報機関員だった。

高橋氏が入り浸っていたマドリードのベラスコの家には、南米に逃亡したナチス・ドイツの高官のマルティン・ボルマンとアドルフ・アイヒマンが潜伏していた。
南米はベラスコのホーム・グラウンドだった。
カトリック教徒がスペイン語で暮らすアルゼンチンは、ベラスコが幅を利かした国で、ナチス亡命者が競って逃亡先に選んだ。
ボルマンとアイヒマンも、そのアルゼンチン・チャンネルで逃避したのだ。
アルゼンチンのファシスト独裁者ファン・ドミンゴ・ペロンは、ムッソリーニ崇拝者で、ベラスコのスパイ網に所属した1人だった。

ペロンは、ドイツの敗戦直前の1945年3月27日に連合国側に寝返った。
ベラスコがペロンに渡した秘密工作資金は、ナチスと日本政府が出所だった。
アルゼンチンは、ナチスが略奪した金塊財宝類や美術骨董品類の集荷先だった。
元ナチス党員が、旅客機、貨物船、潜水艦で運び込んだものである。
ベルリンから搬出した金塊財宝類をアルゼンチンで荷受管理したのがペロン夫妻だった。

ベラスコは、バチカンもホーム・グラウンドの1つだった。
上掲書によれば、バチカンとシチリア・マフィアは、正反対の行動を実践する組織だが、表裏一体の関係にある。
バチカンは、「物事には合法的に臨むべし、美徳を何よりも尊重すべし」を信念とし、シチリア・マフィアはその反対である。
表向きは、水と油であり、まじめで敬虔なカトリック信者にとっては、見たくも知りたくもないコインの裏面が、シチリア・マフィアだった。
社会にはダブル・スタンダードがある、というのがベラスコの説明である。

そのコインの表と裏を繋ぐのがマネーである。
イタリアの総統ムッソリーニの著書印税は、スイスのクレディスイス銀行のチューリッヒ支店に開設されたムッソリーニの個人口座に振り込まれている。
ヒトラーの印税も、スイスユニオン銀行のベルン支店に設けられたヒトラーの(代理人管理)の口座に支払われている。
昭和天皇は、真珠湾攻撃の直前に、バチカンの付属金融組合に4500万米ドルを寄贈して、終戦のための調停を依頼していた。
天皇の資金は、連合国が支配管理するスイスの銀行に振り込まれ、移動を繰り返していた。
つまり、資金の銀行移動は、戦争とは無関係だった。
地中に埋没されている「金の百合」も、銀行振り出しの小切手(預手)に換えて銀行実務の流通に乗れば、相当額の金額が流通する。
それが信用創造である。

上掲書には、国際金融の相関図が示されている。
何となく、高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)に示された「金融地下帝国」の関係図を思い出させる相関図である。
09年5月3日の項:金融地下帝国とM4の世界
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2009年6月29日 (月)

詐欺のケース・スタディ(2)-未公開株取引とマルチ商法

マルチ商法という仕組みがある。
もっとも、公式の法律用語ではない。
一般に、マルチレベル・マーケティングとかネットワーク・マーケティングなどと呼ばれる「連鎖販売取引」のことをマルチ商法と呼んでいる。
連鎖販売取引とは、具体的には以下のような取引である。

「この会に入会すると売値の3割引で商品を買えるので、他人を誘ってその人に売れば儲かります」とか「他の人を勧誘して入会させると1万円の紹介料がもらえます」などと言って勧誘し(このような利益を「特定利益」と言います。)、取引を行うための条件として1円以上の負担をさせる(この負担を「特定負担」と言います。)場合であればこれに該当します。
http://www.meti.go.jp/policy/consumer/tokushoho/gaiyou/rensa.htm

この商法自体が法律で禁止されているというわけではない。
「特定商取引に関する法律」の枠内であれば、別に問題はない。
私の知り合いにも、マルチとしか考えられない組織に参加している人がいる。
そして、善意で、健康にいい飲み物や、環境にやさしい洗剤などを勧めてくれる。
マルチ商法の問題点は、そこにある。
いいことだから、他人にもお勧めしよう、と本気で考えているのである。

静岡新聞(6月17日)に、「マルチ商法まがい」の手口で出資者を増やしていた投資事業会社の事件が掲載されていた。
2投資事業会社の名前は「JAM」という。
ネットで調べてみると、JAMは、ジャパン・アセット・マネージメントの略で、本社は千葉市にある。
上掲記事によると、高額配当や元本保証などをうたってベトナム未公開株取引などへの出資金を募っていた。
全国の1万人以上から、計約350億円を集めていたとみられる。

ベトナムは、急速な経済発展とともに、銀行など国有企業を2006年に株式会社化して民営企業にした結果、株式市場が拡大して、新たな投資先として海外からの人気を集め、未公開株w取得して上場後に高値で売却するというファンドが多数設立された。
しかし、株式市場が未成熟であるため、リスクも大きい。
静岡県内の出資者は全国最多規模の1000人余に上る見通しであるという。
静岡県人は、騙されやすいのか、慾が強いのか、それとも余裕資金があるというのだろうか?

未公開株取引は、詐欺の一つの典型である。
09年5月9日の項:詐欺の類型(2)未上場株の譲渡先日も、「イー・マーケティング」という会社の社長らが、「必ず上場する」とウソを言って未公開株の販売代金を詐取したという報道があった。
同社は、「ニュー・リッチ」という富裕層をターゲットにした市場調査等を行っている会社だという。
JAMの場合、ベトナムという経済発展中の国で、かつ実相がよく分らない国としたところが、ミソだろう。

手口は、以下のようである。
JAM(株)「匿名組合」を利用し、「日経225株価指数取引」等により出資金を運用することで高利回り(年24~36%)の配当が毎月得られると称し、会員を募った。
また「配当の他に、人に紹介すれば紹介料が得られる」という謳い文句により、次々と新規会員を増やすシステムを採っていた。
被害者は、知人の勧誘などで「匿名組合」に加入し、当初は配当も得られていたという。
しかし、サブプライムローン問題の影響等を口実に、2009年1月末頃から配当額が下がり、原告らへの配当支払いは2008年5月分を最後に停止された。
http://plaza.across.or.jp/~fujimori/multi.html

千葉県警は、2月下旬、JAM社が国の登録を受けずに出資金を募っていたとして、金融商品取引法違反容疑で、同社の本社などを家宅捜索した。
押収資料を分析したところ、静岡県内に出資者が多いことが分かった。

本件では、マルチ商法の手口と複合しているところが、被害者を増やしている要因となっている。
JAMの商品を勧誘した人は、最初の段階で配当を受け取っている人もいるらしく、それで知人にもおいしい話をお裾分けしようとしたのではなかろうか。
しかし、そうそううまい話があるわけではない。
大元は、もちろん意図的に騙しているに違いないと思うが、運用に失敗したと詐欺を否認しているという。

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2009年6月28日 (日)

重層する感動と影の立役者

バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんから受けた感動については既に記した。
09年6月11日の項:自動車会社の社会的貢献
辻井さんの快挙を伝えるTVで、辻井さんを指導している横山幸雄さんという人がいることを知った。
しかし、横山さんが、どういう人なのか、多くの人にとっては未知の人なのではないだろうか。

産経新聞(090628)に、横山さんのプロフィールが、やや詳しく紹介されていた。
横山さんは、もちろん「単なるピアノの先生」なのではない。
1990年にショパン国際ピアノコンクールで3位に入賞し、世界を舞台に活躍するピアニストである。
辻井さんが中学生のときに、東京都内の喫茶店で、辻井さんにレッスンをつけたのが初めての出会いだった。
そのときの辻井さんは、「高い能力はあったが、音楽家としての才能が突出しているという感じではなかった」という。

なんと、コンクールで通用すると感じたのは昨年になってから、らしい。
コンクール出場を決めた今年の4月からは、それまで週1回だったレッスンを、週2回に増やした。
それからの辻井さんは、どんどん上達した。
渡米の1週間前には、レッスンはほぼ毎日になった。

ファイナルを控えた6月上旬には、自分のリサイタルを間近に控えながら、24時間足らずの滞在時間の渡米を決行し、深夜と朝に十数時間のレッスンを行った。
TVで辻井さんが「炎のレッスン」と表現していたレッスンである。
電話では細かいことが言えないので、現地でレッスンする必要があったということである。
辻井さんの才能はもちろん素晴らしいものであるが、この師があってこその辻井さんだったのだろう。

辻井さんは点字楽譜を使わずに、右手だけの音、左手だけの音などを録音した“耳で聞く楽譜”を使っており、その楽譜は、横山さんと生徒2、3人のチームワークで制作する。
辻井さんの能力を信じ、惚れ込んだチームなのだろう。
辻井さんの快挙の陰に、こういう人たちのサポートがあったということは、また新たな感動をもたらす。

横山さんのオフィシャル・サイトを覗いてみた。
http://yokoyamayukio.net/index2.htm
1990年のショパン国際ピアノコンクールでは、1位は該当者なしだったらしい。

今までにウィーン室内管弦楽団、ベルリン交響楽団、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、ブダペスト祝祭管弦楽団、エーテボリ交響楽団を含む国内外のオーケストラと共演し、絶賛を博す。プラハの春音楽祭、ヤナーチェックの5月の音楽祭、クフモ室内楽音楽祭、トゥレーヌ音楽祭等の海外の音楽祭への出演、またニューヨーク/カーネギーのリサイタルホール・デビューをも果たしている。01年にはサンクトペテルブルグにて同フィルハーモニー交響楽団との共演、またリサイタルデビューを果たし、絶大な喝采を浴びる。 最近では作曲も手がけている。

また、執筆活動も続けており、「ワインの練習(エチュード)」他エッセイや自ら監修した楽譜なども発売されている。ワイン好きが高じて、日本ソムリエ協会認定のワイン・エキスパートのライセンス保持者でもある。

決して影の人ではない。
実に多彩な才能を持った人であることが伝わってくる。
こういう人が、辻井さんの才能を導き出した。
辻井さんの今後の活躍を期待すると共に、横山さんのさらなる活躍を祈念したい。

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2009年6月27日 (土)

津軽と南部

太宰の代表作として何を挙げるか?
もちろん、人によりそれぞれであろう。
『斜陽』とする人もいるだろうし、『人間失格』だという人もいるだろう。
亀井勝一郎は、『津軽 (新潮文庫)』(5108)の「解説」で、彼が生前書いた8つの長編小説の中で、『斜陽』『人間失格』が最も有名だが、彼の本質を一番よくあらわしているのは『津軽』である、と書いている。
そして、私(亀井)は全作品の中から何か一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい、としている。

太宰の本質とはどういうことか?
亀井は、旧家に生まれたものの宿命、という言葉を使っている。
旧家には、格式の高い潔癖な倫理性と、同時にそれに反撥するような淫蕩の血と、矛盾した2つのものが摩擦しあいながら流れている、というのである。
旧家に縁のない私は、そういうものか、と思うしかないが、その矛盾が、異形のものを形成する根源なのだ、と亀井は説く。
まあ、矛盾したものの存在が新しいものを生み出すというのは、そういうものだろうと思う。

『津軽』は、昭和19年の作品で、このとき太宰は36歳だった。
2亀井によれば、この作品を書くための旅行は、彼の生涯の中でも最も思い出多い旅であった。
太宰は、健康にめぐまれ、心のバランスがうまくとれていた。
それが、この作品の筆致を平明なものしている。
(図は、上掲書口絵から)

ところで、津軽とは、どこからどこまでを言うのだろうか?
私はほとんど青森県に縁がなかったが、たまたま十和田市に住む人と縁ができ、その人のお宅を訪れたときのことである。
十和田の人に、「ここは津軽に入るでしょうか?」と聞いた。
すると、とんでもない、という口調で、「ここは南部だ」と否定されてしまった。
私は、「南部」といえば、「南部鉄器」や「南部牛追歌」などが頭に浮かび、岩手県を中心としたイメージがある。

Photoしかし、南部地方とは、江戸時代に南部氏の所領だった地域で、陸奥国に位置し、現在の青森県東部と岩手県中部・北部、秋田県の一部にまたがる地域だということである。
つまり、青森県の東部は、「南部」に属するということだった。
(地図は、yahoo地図から)

とかく隣接している地域はもめ事が起きやすいが、津軽と南部も仲が良くないらしい。
津軽と南部の関係について、次のような解説があった。

もともと津軽は南部家の領地でしたが南部家の家臣である大浦為信が謀反を起こし、津軽領を奪って独立したという歴史があります(その後、大浦為信は、津軽為信と名前を変えています)。
津軽為信は、その後小田原攻めの最中の豊臣秀吉と通じ、先手を打ってその領土を安堵してもらうことに成功します。よって、南部家から見れば謀反人の津軽為信ですが、これを討つことは豊臣秀吉に弓を引くことと見なされ、結局、南部家は為信による津軽支配を認めるしかなくなりました。その後為信は関ヶ原では東軍(徳川方)に鞍替えするなど巧みな処世術で生き残り、幕末まで津軽藩を残す礎となります。
この時の怨恨を、現在も引きずっているのではないでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1476172.html

上記の解説が的確なものかどうか判断材料を持たないが、現在も津軽と南部は余り仲がよくないのだということは、十和田の人の反応からも首肯できそうである。
400年以上の歴史を持つ怨恨だとすれば、一朝一夕には解消しないだろうという気がする。

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2009年6月26日 (金)

太宰治と三島・沼津(4)

「作家太宰治は沼津で生まれた」というと、そんなことはないと思うだろう。
太宰といえば津軽の生まれだ、というのが条件反射である。
しかし、今年第4回を迎える沼津文学祭は、「生誕百年 作家『太宰治』は沼津で生まれた~処女作「思ひ出」と『斜陽』執筆の地~」と題されている。
つまり、現在の沼津市志下で、作家としての出発点となった処女作「思ひ出」を執筆したのだ。
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/sisei/kouhou/interview/200905/200905-2.htm

Photo_2太宰と沼津の係わりはこれだけではなく、三津の安田屋旅館に滞在し、ここで代表作「斜陽」の1、2章を執筆した。
平成元年から安田屋旅館では太宰を偲んで『沼津桜桃忌』が行われており、平成13年には「斜陽」文学碑が建立された。
写真の2Fの部屋が太宰ゆかりの部屋で、入口脇の白い石が、「斜陽」文学碑である。

太宰が『斜陽』を執筆した部屋の様子である。
Photo_3   
http://www.geocities.jp/seppa06/meisaku07/0829_mitohama_.htm

太宰は、戦後の昭和22年2月、下曽我に疎開していた太田静子を訪ねる。
そしてこのとき、静子の日記を預かるが、その日記を携えて、沼津市三津の安田屋旅館に向かった。
田中英光(太宰に師事。『オリンポスの果実』などの作品で知られる)の疎開宅が、安田屋の前だったためである。

静子は、太宰と下曽我で再会したとき太宰の子供を身籠る。
後の作家・太田治子である。
太宰は、静子の日記をもとに、『斜陽』の執筆を開始する。
当時太宰には妻子がいたが、生まれてきた娘に、「治」の一字を与えて認知したのだった。

しかし、翌年、太宰は玉川上水に入水する。
静子の日記は、太宰の死後、井伏鱒二と伊馬春部によって静子の許に返される。
Photo_3井伏と伊馬は、「これはすぐに公表せずに、十年もしたら公表すればいい」と助言したが、静子は幼子をかかえて生活に困り、昭和23年10月に、『斜陽日記』を出版する。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-oota-shizuko1.htm

それにしても、太田治子には太宰治の記憶はまったくないだろうが、治のDNAは治子に受け継がれているわけで、ここにも「血脈」ということの実例をみる思いがする。
07年12月7日の項:血脈…①江国滋-香織

07年12月8日の項:血脈…②水上勉-窪島誠一郎

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2009年6月25日 (木)

大仏開眼供養

2_9当初の予定では、大仏は紫香楽宮に作られ、すべてが完成した段階で、開眼供養が行われる予定だった。
しかし、平城京に遷都したことなどにより、計画は遅延し、聖武天皇は病に倒れてしまった。
そこで、大仏殿は未完成の状態だったが、752年に唐から迎えた菩提法師によって開眼供養が行われることになった。 
(図は、榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良―仏教伝来とともに日本が独自の道を歩みだした時代』新星出版社(0812))。

栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109)により、盧舎那仏完成の様子をみてみよう。

七五二年(天平勝宝四年)四月九日、大仏開眼会がおこなわれた。僧一万人に読経の声がなりひびき、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、皇族・貴族・官人たちが居並ぶなか、波羅門僧の菩提僊那のもつ筆(開眼筆)で、盧舎那大仏に目が点じられた。その筆に結びつけられた綱(開眼縷の先は、枝分かれして多くの列席者の手に握られ、開眼の感激をともにした。この筆と綱そのものが、開眼会で用いられた他の多くの品々とともに、いまも正倉院宝物として保存されているのは、まさに奇跡的なことだ。

この大仏開眼の法要の様子は、昭和27年度芸術祭参加作品として、大映で映画化された。
残念ながら作品は目にしていないが、大スペクタクル映画だったようだ。
折しも、平成22(2010)年は、平城遷都1300年ということで、多くのイベントが企画されているが、その一環として、NHK古代史スペシャルとして「大仏開眼」が放映されるという。

NHK大阪放送局は、「聖徳太子」「大化改新」に続く古代史ドラマ第3弾「大仏開眼」の制作を決めた。平城京遷都1300年にあたる2010年春、全2回各90分で放送する。
奈良の大仏が建立された8世紀は、遣唐使が伝えた仏教思想や価値観に影響を受けた天平文化が花開いた時期。ドラマでは、唐から帰国して理想の国づくりを目指した吉備真備、大仏建立を命じた聖武天皇の背中を見つめ続けた阿倍内親王(後の孝謙天皇)、時の権力者・藤原仲麻呂の3人を軸に、愛や憎しみ、野望と挫折の人間模様を描く。
脚本を手がける池端俊策さんは「歴史をドラマ化する時、その時代が持つ現代性にしばしば驚かされる。大仏がどんな思いで、その時代の人々を見つめたのか、大いに想像してみたい」と話している。
(2008年11月26日  読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20081126et05.htm

なお、大橋一章『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み』グラフ社(0604)には、「Ⅳ 東大寺盧舎那大仏・大仏殿造立への道」と題する章があり、ドキュメンタリー風に、開眼会の様子を描いている。
復習を兼ねて、そのサワリの一部を引用してみよう。

聖武が盧舎那仏を河内の知識寺で拝した天平十二年に、太宰小弐藤原広嗣が反乱を起し、翌年鎮圧されたが、天平十二年から聖武政権は平城京を離れ、恭仁京・紫香楽宮・難波宮と転々と遷都を繰り返していた。政権の実力者は左大臣橘諸兄と藤原仲麻呂。光明皇后と仲麻呂は叔母・甥の関係、諸兄とは異父兄弟、こうした政治状況の中で、天平十三年(七四一)二月十四日に国分寺国分尼寺建立の詔が発せられ、二年後には大仏造立の詔が発せられたのである。
こうした激動の十二年間に聖武地震精神的に疲れ、肉体的にも限界に達しようとしていた。そして開眼縷を持ったまま自分の一番望んでいたのは盧舎那大仏の造立であったと思いつつ、最後は大仏開眼を目のあたりにすることができた幸運に感謝するのであった。

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2009年6月24日 (水)

盧舎那大仏の鋳造

聖武天皇の鎮護国家の思想の象徴が、東大寺の大仏と言っていいだろう。
奈良の大仏で知られる東大寺は、数多い奈良の古寺の中でもなじみの深いものである。
平成10年には世界遺産にも登録され、常に多くの人が参拝している。
天平の昔、平城京の東山の地で、盧舎那大仏を本尊とする大伽藍の造営が行われた。

聖武天皇は、740(天平12)年2月、平城京から難波宮に行幸した。
その途中で、河内国大県郡の智識寺の本尊を礼拝して深く感動した(栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109))。
このとき以来、聖武天皇は、盧舎那仏造営の地を探し求め、最初は紫香楽に盧舎那仏をつくる決意を固めた。
743(天平15)年10月に、「大仏造顕の詔」を出す。
09年6月21日の項:聖武天皇と鎮護国家の思想

詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存■濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。

紫香楽宮では、盧舎那仏を本尊とする甲賀寺の造営工事が始められたが、745(天平17)年5月、都が平城京に戻ることになり、盧舎那大仏も平城京の近くに新たに作られることになった。
現在の東大寺の基礎工事がはじめられたのは、745年8月からであった。
大仏の総重量は、約380トンに達すると推定され、頑丈な基礎をつくることが必要である(上掲書)。

高さ16mにおよぶ盧舎那仏の鋳造プロセスは、以下のように考えられている(上掲書)。

まず、粘土で鋳造しようと思うものとまったく同じ大きさの像をつくる。巨大なものであるから、よほどしっかりした骨組みがひつようだ。つぎに、できあがった粘土像の表面にふたたび粘土を塗る。乾いたら、上から塗った粘土層を適当な大きさに切り分けてこれをとりはずす。その後、せっかくつくったもとの粘土像の表面を、約五~六センチずつおしげもなく削ってしまう。削り取った分が銅像の厚みとなる。
ついで、さきにとりはずした粘土板を焼き固めたあと、まわりにならべて組み立てる。あいだに銅の型持ちを入れて、管格が一定になるようにする。この隙間に溶けた銅をいっきに流し込むのだ。しかし、あまりの巨像のために、いっぺんに全体を鋳造することはできず、八段に分けて鋳込まれたらしい。溶けた銅から出るガスを抜くための工夫が必要で、その圧力をささえるために、一段ごとに周囲に多量の土砂を積んでいった。この土の山の上には、銅を溶かす炉がズラッとならぶ。2 最終段が鋳込まれるときには、本体は小高い山のなかに隠れていたことになる。この山を崩して大仏が姿をあらわしたとき、それは金色に輝いていたはずである。

書き写しているだけでも、いかに大変な工事だったかが偲ばれる。
2_5盧舎那仏の完成までに、鋳造に2年、整形・補鋳に5年、メッキに5年、計12年以上の歳月を要した。
当時は日本では金は産出しないものと考えられていたが、749年に陸奥国で黄金が発見され、年号を天平から天平感宝に改めた。
天平産金遺跡は、宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社付近で、「天平」の文字瓦が出土している。

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2009年6月23日 (火)

日本郵政社長人事の決着

佐藤勉総務相が、日本郵政の西川善文社長の再任を認可する方針を決めた。
西川氏が、「かんぽの宿」譲渡問題などをめぐる業務改善命令を受けた是正措置報告を説明、報酬を3カ月間、30%返上する意向を伝えたことを了承したものだという。
また、ガバナンスの強化のために、取締役会会長を社外取締役から選任するとしている。
これによって混乱していた日本郵政の人事は、ひとまず落着することになるが、果たして国民にとって納得的な解決策だと言えるだろうか?

私は、まったく納得的ではないと思う。
まず、報酬を3カ月間、30%カットする根拠は何か?
西川社長の報酬がいくらなのかが明示されなければ、30%の意味も判断できない。
日本郵政の社長の報酬は、その負担に比べて安すぎて、西川氏以外に引き受け手がいない、というような説明もされているが、本当にそんなことがあるのだろうか?
この際、いくらの報酬を、30%×3カ月間カットするので、カット額は○○円になる、という程度の開示は必要なのではないだろうか?

会長職を設けたことの意味は?
これもオフィシャルな情報ということではないようであるが、一時、西川氏を会長とする妥協案があったらしい。
当面は空席の職位を設けたのは、将来的に、西川氏が社長を退任する際の受け皿を用意したとも解説されている。
しかし、日本郵政問題の本質はそんなところにあるのだろうか?

静岡新聞の論壇というコラムに、佐藤隆三ニューヨーク大学名誉教授が書いている。
その要旨を抜粋してみよう。

小泉元首相の郵政選挙以来、わが国の政治も経済も郵政問題にもみくちゃにされた観がある。

同感である。
私は、この選挙は“詐欺”に近いものだったと考えている。
09年6月14日の項:郵政民営化総選挙という“詐欺”

中総務相は、小泉改革によって広がった格差問題、地方の疲弊、否、日本経済の脆弱化は「改革が不十分のため」と弁明をし続けている。

フーバー大統領が…米経済を事実上破綻させたのと同じロジックである。ここで両者に共通なのは「官から民へ」の市場万能主義である。

実際に、小泉改革と呼ばれるものによって、日本の経済力が落ち込んだことはデータでも示されていることが、南堂氏のサイトで指摘されている。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/main.htm
日本のGDPの推移(小泉時代の日本の経済力低下の数字)

佐藤氏は、麻生首相と鳩山前総務相の見解の相違を、次のように要約している。

首相側の「日本郵政は民間企業だから人事に干渉できない」に対して、鳩山氏側は「日本政府(財務省)が100%の株主だから人事権行使は当然」と主張した。

この問題に関し、佐藤氏は、日本政府が100%の株主だから、日本政府がこの企業のトップの進退問題に口を出すのは当然だ、としている。
また、政府が100%の株を持つ企業は、日本以外では民間企業として定義づけていない、とし、それはパブリック・エンタープライズ(公的企業体)であって、鳩山氏に軍配があがる、としている。

そして、佐藤氏は、次のように言う。

国民が鳩山氏の主張を支持したのは、こうした企業形態論の立場に基づいている訳ではなく、政府の改革路線の旗振り役を務めた財界人の会社に、不当な廉価で国民の財産「かんぽの宿」を売却しようとした点に納得していないからだ。

無用の箱物を造った罪は万死に値するが、過去の罪よりも今後どうするかの対策の方が独り立ちする真の民間企業になるために、日本郵政にとって不可欠な決断である。

全く同感である。
西川氏が続投しなければ、改革が後退すると言われている。
しかし、多くの国民の目には、今や西川氏はアンシャンレジームの象徴のように見えるのではないだろうか?
国民が何を問題視しているかについて、麻生首相も、その周辺も、本質的な理解を欠いていると言わざるを得ない。
そもそも佐藤総務相の結論が最初からミエミエだったことは、誰の目にも明らかであろう。

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2009年6月22日 (月)

伊豆国分寺跡

栄原永遠男『日本の歴史―集英社版 (4)』集英社(9109)によれば、国分寺(含む国分尼寺)にように、全国の行政区画ごとに寺院を設けることは、中国に先例があった。
則天武后のときの大雲寺や中宗のときの中興寺であり、日本の国分寺はこれら中国の例にならったもので、これらを実際にみてきた留学僧の玄昉や道慈たちが、光明皇后や聖武天皇に熱心に勧めて実行に移された。

『続日本紀』に収録されている「国分寺建立詔」は、以下のようである。

詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主皆能先業。國泰人樂。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以廣爲蒼生遍求景福。故前年馳驛増飾天下神宮。去歳普令天下造釋迦牟尼佛尊像高一丈六尺者各一鋪。并寫大般若經各一部。自今春已來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃徴誠啓願。靈■如荅。載惶載懼無以自寧。案經云。若有國土講宣讀誦。恭敬供養。流通此經王者。我等四王。常來擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歡喜者。宜令天下諸國各敬造七重塔一區。并寫金光明最勝王經。妙法蓮華經各一部。朕又別擬寫金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒滿。其造塔之寺。■爲國華。必擇好處。實可長久。近人則不欲薫■所及。遠人則不欲勞衆歸集。國司等各宜務存嚴飾。■盡潔濂。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎國僧寺。施封五十戸。水田十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名爲金光明四天王護國之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺。兩寺相共宜受教戒。若有闕者。即須補滿。其僧尼。毎月八日。必應轉讀最勝王經。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六齋日。公私不得漁獵殺生。國司等宜恒加■■
http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/

つまり、国分寺は国の華であるから、国内の適地を選んで建立すること、国ごとに七重塔をつくり、金泥で書いた「金光明最勝王経」を塔に安置すること、僧寺は「金光明四天王護国之寺」とし、僧20人・封戸50戸・水田10町をおき、尼寺は「法華滅罪之寺」とし、尼10人・水田10町をおくこと、などとされた。

すべての国に大きな寺院を2つずつ建立することは大変な事業だった。
造営費用の捻出が大問題で、上記の封戸や水田などではとても足りなかった。
744(天平16)年には、国ごとに毎年4万束を出挙し、その利息2万束を費用にあてることにしたが、これでも不足し工事はなかなか進まなかった。
郡司の経済力を利用するなどの方策が講じられ、奈良時代の終わりごろには、だいたいの国で国分二寺ができあがった。

伊豆国分寺が設置された現在の三島市は、古くから国府として、また東海道の宿場町として絶えることなく栄えてきた。
そのため、国分寺建立の「好処」は町の中心部となり、却って発掘調査が難しくなってしまった。
昭和31年に調査が行われ、南門から中門・金堂・講堂の配置が確認された。 2_3       Photo 

http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/izu.htm

上掲図に見られるように、現在は伊豆箱根鉄道がかつての寺域の中を斜めに横切っていることになるらしい。
この図の通りだとすれば、すでに民家などが密集しているので、全域の発掘調査などはとても不可能ということだろう。

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2009年6月21日 (日)

聖武天皇と鎮護国家の思想

聖武天皇は、藤原広嗣の乱のさなか、平城京を離れ伊勢に向かった。
08年6月26日の項:藤原広嗣の乱

いわゆる「彷徨五年」の始まりで、天皇と都が転々と移動した。(図は、榎本秋『徹底図解 飛鳥・奈良―仏教伝来とともに日本が独自の道を歩みだした時代』新星出版社(0812))。

2_2この彷徨にはどのような意味があったのだろうか?
笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)は、次のように解説している。

広嗣の乱は、朝廷内部の貴族層の対立を直接の原因としていたが、その背景には飢饉や疫病による人心の動揺が存在しており、政府に与えた影響は深刻であった。
乱が勃発すると聖武天皇は動揺し、都を離れて伊勢(三重県)に行幸し、乱が鎮圧されても平城京には帰らず、山背国(京都府)の恭仁に都を遷した。天皇は翌七四一(天平一三)年、護国経の功徳による政治・社会の安定を祈念して国分寺造立の詔を発し、さらに七四三(天平一五)年には、華厳経の説く蓮華蔵世界の実現を祈念して大仏造立の詔を発し、離宮のあった近江(滋賀県)の紫香楽においてその造立を開始した。天皇は七四四年(天平一六)年には難波へ、さらに同年末から翌年にかけては紫香楽へと都を転々としたが、紫香楽における大仏造立は官人や僧侶の強い反対にあって結局実現せず、七四五(天平一七年)、天皇は紫香楽を去って五年ぶりに平城京に帰還した。

つまり、聖武天皇は、鎮護国家という考え方によって、この危難に対処しようとしたのだった。
仏の加護でこの世を護ってもらい、人々のこころを鎮めようという狙いである。

国分寺には「金光明最勝王経」「法華経」が奉納された。
前者は、この経典を信じる王のもとには、仏教の守護神である四天王が現れて、国を護る、という教えであり、まさに鎮護国家思想を象徴するものといえる。
2_3これらの事業は莫大な出費を伴うものだったが、国家事業として実行された。

聖武天皇が造立しようとした大仏は、高さ16mを越える大きさだった。
そのため、材料の調達が大きな問題となった。
本体を鋳造するための銅や錫なども勿論であるが、表面を覆うための金が大量に必要だった。
749(天平21)年、廬舎那仏造顕にとって重要な金が陸奥国から産出した。
07年9月29日の項:多賀城炎上
08年7月5日の項:仲麻呂体制の確立
08年8月5日の項:馬頭御前と藤原百川
08月11日の項:大伴家持の生涯
聖武天皇これを大変に喜び、年号を「天平感宝と改めたほどだった。

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2009年6月20日 (土)

太宰治と三島・沼津(3)

坂部酒店や松根印刷所の近くに、伊豆国分寺跡がある。
2 (地図は、http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-mishima.htmから引用)
『ロマネスク』という作品にこの国分寺跡が登場する。

むかし東海道三島の宿に、鹿間屋逸平という男がいた。曾祖父の代より酒の醸造をもって業としていた。酒はその醸造主のひとがらを映すものと言われている。鹿間屋の酒はあくまでも澄み、しかもなかなかに辛口であった。

喧嘩は度胸である。次郎兵衛は度胸を酒でこしらえた。次郎兵衛の酒はいよいよ量がふえて、眼はだんだんと死魚の眼のように冷くかすみ、額には三本の油ぎった横皺が生じ、どうやらふてぶてしい面貌になってしまった。

つぎの一年は家の裏手にあたる国分寺跡の松林の中で修行をした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/316_19983.html

聖武天皇は、天平12(741)年に、「国分寺造立の詔」を発し、全国に国分寺の創建を命じた。
聖武天皇は、奈良時代を代表する天皇だというように教わった記憶があるが、その実像は謎に包まれている部分が多い。
08年7月8日の項:聖武天皇をめぐる謎

伊豆国分寺も、その詔によって建立されたものだった。
22
現在は塔跡だけが残っている。
また、『ロマネスク』に書かれているような松林も見当たらない。
12_2
 
 

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2009年6月19日 (金)

太宰治と三島・沼津(2)

『老ハイデルベルヒ』の続きである。

佐吉さんは家中の愛を独占して居るくせに、それでも何かと不平が多い様で、家を飛出し、東京の私の下宿へ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。

三島の町はずれに小ぢんまりした家を持ち、兄さんの家の酒樽を店に並べ、酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んで居ました。私は、其の家へ行くつもりであったのです。
佐吉さんから、手紙で様子を聞いているだけで、まだ其の家を見た事も無かったので、行ってみて具合が悪いようだったらすぐ帰ろう、具合がいいようだったら一夏置いて貰って、小説を一篇書こう、そう思って居たのでありましたが、

三島駅に降りて改札口を出ると、構内はがらんとして誰も居りませぬ。ああ、やはり駄目だ。私は泣きべそかきました。駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/238_20005.html

年譜によると、太宰が旧制の弘前高校から東京帝国大学文学部に入学したのは1930年である。
昭和15(1940)年発表とすると、「8年前」というのは1932年になる。
「天下の険」とうたわれた箱根山を掘削して丹那トンネルが開通したのは1934年12月のことで、それまでは国府津と沼津を結ぶ現在の御殿場線が東海道本線だった。

つまり、この作品で「三島駅」と書かれているのは、現在の御殿場線の下土狩駅である。
ちなみに、御殿場線はかつては複線だったが、戦争中にレールを供出されてしまい、単線になったまま現在に至っている。
下土狩駅は、駿東郡長泉町にある。

平成の大合併によって、郡部のかなりの部分が市に統合されてしまった。
静岡県内には、既に村は1つもない。
だから、今や行政の人の言い方は、市町村(シチョウソン)ではなく、市町(シマチ)である。
平成の大合併によって、由緒ある名前が消えてしまった。
もちろん、地名には多くの情報が含まれており、単なるノスタルジーということだけではない。

伊豆半島でも、修善寺町・中伊豆町・天城湯ヶ島町・土肥町が合併して「伊豆市」に、韮山町・伊豆長岡町・大仁町が合併して、「伊豆の国市」になった。
これによって、修善寺や韮山など、歴史的なイメージを喚起する力を帯びた地名が、消えてしまったのは残念である。
伊豆市が先行して誕生してしまったので、後発は伊豆の国市としたわけだろうが、伊豆市と伊豆の国市が併存しているのも如何だろうかという気がする。

『老ハイデルベルヒ』の頃の三島駅(下土狩駅)も、今では駅前が再開発されて大型商業施設等も出店している。
しかし、1932年頃は、駅が田畑の中に真中にあったという記述の通りだっただろう。
現在の三島駅は、東海道新幹線、東海道線、伊豆箱根鉄道の3路線が通っている。
Photo_2 伊豆半島への入口であると同時に、東京への通勤・通学圏という性格も持っている。
三島駅舎は、緩やかな曲線を描く、美しい切妻タイプの大屋根が特徴的。
神保忠良により設計されたこの駅舎は、富士山と三嶋大社の社の姿がデザインに採り入れられているという。
名駅舎コレクションというサイトに取り上げられている。
http://www.toretabi.jp/facilities/vol04/01.html

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2009年6月18日 (木)

太宰治と三島・沼津

太宰治は、1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれた。
つまり、今年の6月19日は、生誕100年にあたるわけで、ゆかりのある各地でさまざまなイベントが行われ、太宰ブームらしい。
太宰が山崎富栄と玉川上水で入水心中したのは、1948年6月13日のことだったが、遺体が発見されたのが奇しくも6月19日だった。
太宰を偲ぶ「桜桃忌」は死の翌年に第1回が行われ、今年は61回目になる。
もちろん、一部にはよく知られていることであるが、太宰は三島や沼津と縁の深い作家だった。

三島市内を流れる桜川という川があり、その川沿いに、三島にゆかりのある文学者の作品を碑にした「水辺の文学碑」というものがある。
三島市が、「水と緑と人が輝く夢あるまち・三島」を標榜していて、「グラウンドワーク三島」というNPO法人を中心とする市民グループの活動が、フジサンケイグループ主催の「地球環境大賞」の「環境地域貢献賞」を受賞したことについては既に触れた。
09年4月24日の項:水の都・三島と地球環境大賞

「水辺の文学碑」も、水と緑の活動の一環だろうが、その1つに、太宰の文学碑がある。
P1010010_22 『老(アルト)ハイデルベルヒ』という作品の一節である。
確かに、この碑に記されているように、昔は街の中を水量豊かな水が流れていた。
富士山の地下水が、溶岩の下を伏流して三島で湧き出ているのである。
上流域での水の利用量が増えたこと等によって、湧出量が減ってしまったが、それでも昔の面影は残っている。

『老ハイデルベルヒ』の書き出し部分から引用する。

八年前のことでありました。当時、私は極めて懈惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。

私は、三島に行って小説を書こうと思って居たのでした。三島には高部佐吉さんという、私より二つ年下の青年が酒屋を開いて居たのです。佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉は其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/238_20005.html

高部佐吉は、坂部武郎という実在の人物をモデルにしているとされる。
三島に滞在中、太宰は、この坂部武郎酒店に居候していた。
武郎に妹がいたので、遠慮して夜は近くの松根印刷所の2階に泊まるようにしていたらしい。
坂部酒店は既にないが、松根印刷所は、現在も昔のたたずまいを感じさせる姿で残っている。
2_3 

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2009年6月17日 (水)

温暖化ガス削減の中期目標

麻生首相は、10日、日本の2020年時点の温暖化ガスの排出量を、2005年比15%削減(1990年比8%減)にすると表明した。
地球温暖化については、本当にCO2等の温暖化ガスの影響なのか、あるいは、そもそも地球が温暖化しているというのは事実か、などの論議があるが、いずれにせよ、化石燃料が有限の資源であることは間違いなく、その消費を抑制することは重要な課題と言っていいだろう。

Photo_3現在の温暖化ガスの排出量規制については、2012年まで有効な京都議定書が基本的な基準である。
しかし、もちろん地球環境問題が、さらに長期的な視点で取り組まなければならない課題である。
2050年という今世紀半ばが長期目標とされている。
Photo_4中期目標は、長期目標への道標であると共に、ポスト京都議定書のフレームワークとしての意義を持つものであり、2020年頃をターゲットにするものである。

中期目標策定にあたっては、専門家による政府の委員会で経済モデルなどを踏まえた討議が重ねられてきた。
委員会では6つのの選択肢が示された。
2005年の排出量を基準とした場合、4%減~30%減の幅である。

麻生首相は、記者会見で3つの原則を示した。
第一は、主要排出国、いわゆる大量に排出している国々の全員参加を求めると共に、日本がリーダーシップをとるということである。
第二は、環境と経済の両立である。
「100年に1度」といわれる経済危機の中で、地球温暖化対策を息の長いものにするためには、経済と環境を両立できるものとすることが不可欠である。
第三は、長期目標の実現である。
日本は、2050年までに60~80%の削減を目指すという長期目標を掲げている。
当然のことながら、中期目標は長期目標に繋がるものでなければならないだろう。

中期目標の設定に関しては、それぞれの立場からの主張があった。
たとえば、日本経団連は「05年比4%減」の緩い目標を求めた。
一方、斉藤鉄夫環境相は「21~30%減」を主張していた。
政府は「14%減」辺りを落としどころとして調整を進めていた。
それに1%上乗せしたもので、首相自身は、「極めて野心的なもの」と自賛している。
その上乗せ分は太陽光発電の導入促進で賄うとのことである。
いずれにしろ、理科離れがいわれている中で、技術革新を促進していかなければならないと思われる。

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2009年6月16日 (火)

日本郵便不正事件と西川社長の進退問題

“やはり”というべきであろう。
鳩山総務相の事実上の更迭という事態に対して、麻生内閣の支持率が急落していると報じられている。
また、千葉市長選挙では、民主党推薦候補が、自民・公明推薦候補を大差で破った。
31歳という全国最年少市長が、95万人の市民を擁する政令指定都市で誕生したのだ。
政令指定都市では、名古屋市、さいたま市に続いて、民主党の3連勝ということになる。
もちろん、これらの結果は、政権交代を求める民意を反映したものと考えていいだろう。

既に自民・公明政権は末期を迎えているが、ここにきての麻生内閣支持率の急落は、日本郵政の西川社長の再任問題の影響が大きいに違いない。
鳩山氏と西川氏のどちらを更迭すべきか、ということに関する世論調査では、西川氏を更迭すべし(続投を認めるべきではない)とする意見が多数意見のようだ。
世論の動向ばかり気にする必要はない、とも言えるが、現実に総選挙は目の前である。
それで、麻生降ろしという動きが顕在化してくるのではないか、という観測もあるらしい。
しかし、そういう目先の対応でどうこうなるものでもあるまい。

一方では、日本郵便の不正事件に関連して、厚労省の現職の局長が逮捕されるという事態が起きている。
それでも、西川社長は、続投するという気持ちは変わらないのであろうか?
一般の私企業ならば、これだけの不祥事が起これば、当然責任を問われることになるだろう。
自他共に産業界のリーダーとして認めているはずの日本郵政の取締役の指名委員会の面々(委員長の牛尾治朗ウシオ電機会長のほか、奥田碩トヨタ自動車相談役、丹羽宇一郎伊藤忠商事会長など-09年6月9日の項)は、果たして見解を変えないのであろうか?

日本郵便の不正事件に関して、報道されている内容は以下の通りである。

自称・障害者団体「凛(りん)の会」(現・白山会)を郵便割引制度の適用団体と認めた証明書を不正に発行したとして、大阪地検特捜部は14日、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長の村木厚子容疑者(53)を虚偽有印公文書作成・同行使の疑いで逮捕した。厚労省によると、同省局長が逮捕されるのは初めて。村木局長は容疑を否認し、「凛の会や証明書のことは知らない。私はこの件に関与していない」と述べているという。
障害者団体向けの郵便割引制度が企業のダイレクトメール(DM)発送に悪用された一連の郵便不正事件は、制度適用を審査する立場にある厚労省幹部の逮捕にまで発展した。特捜部は15日午前、厚労省の局長室や埼玉県和光市の自宅を家宅捜索した。
Photo_7また特捜部は14日、証明書発行のための決裁文書を偽造した同容疑で逮捕していた元部下で障害保健福祉部企画課係長の上村勉容疑者(39)らも共犯容疑で再逮捕した。係長は「村木局長から証明書を早く発行するよう催促された」と供述しているといい、特捜部は局長を追及する。
障害者団体向け郵便制度悪用事件で、障害者団体の証明書を偽造、発行したとして、大阪地検特捜部は、14日、虚偽公文書作成・同行使の疑いで、当時の担当課長だった厚生労働省雇用均等・児童家庭局長村木厚子容疑者(53)=埼玉県和光市=を逮捕。同省係長上村勉容疑者(39)=同容疑で逮捕=ら3人を再逮捕した。……
事件は、障害者福祉の根幹を担う厚労省の組織的な関与を問う局面に発展。凛の会の証明書は省内で「政治案件」として扱われていたとの供述もあり、特捜部は政界からの口利きも含めて全容解明を進める。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200906150065.html

厚労省という役所は、よこぞこれほどまで、と感心してしまうくらい不祥事が多い。
国民の福祉に直接関係する役所だけに、暗澹たる気持ちになってしまう。
上図の国会議員というのは民主党の大物だという。
与党は、それを時限爆弾にするつもりなのだろう。
セットされている時間は何時なのだろうか?
小沢代表代行の秘書の公判に連動させて、という見方もあるらしい。
それにしても、日本郵政グループも不祥事続きと言っていいだろう。

鳩山氏更迭に関して、日本経済新聞の社説(6月13日)は、「郵政民営化路線を後退させないために」「西川氏の続投」を求めてきた、と書いている。
つまり、「西川氏の続投=民営化の推進」という論理である。
しかし、問題は日本郵政をめぐる不祥事の責任問題であって、民営化の推進論とは切り離して考えるべきだろう。

この件に関しては、南堂久史氏が分かりやすい比喩で説明している。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/main.htm

鳩山 「日本郵政の社長が国民の財産をタダみたいに投げ売りしたのは、けしからん」
与党 「日本郵政の社長は、郵政民営化の指導者であり象徴だ。それをクビにするわけには行かない」
簡単に言えば、次の比喩が成立する。
前首相の子分は、構造改革に賛同して、郵政民営化を実行した。そのあとで、泥棒を犯した。では、この泥棒を、どう処罰するか? 鳩山は「泥棒ゆえに有罪」と主張した。一方、前首相の支持派は、「前首相の子分あるがゆえに無罪」と主張した。
つまり、泥棒事件に対して、一方は泥棒事件として論じているのだが、他方は政治事件として論じている。「あいつの親分に政治的功績があれば、親分に免じて、子分のどんな犯罪も許される。さもないと、親分が批判されるからな」という理屈。

さて、鳩山邦夫氏の後任の佐藤総務相は、西川氏の続投問題に関して、どういう姿勢だろうか?

日本郵政の西川善文社長の人事問題で、新たに就任した佐藤総務相は13日、地元の栃木県壬生町で講演し、「一つの会社の社長を、株主である国があくまでも追及して代えるというのは、民営化の趣旨に若干反するのではないかと思う」と述べ、続投を容認する考えを示した。
http://www.asahi.com/politics/update/0613/TKY200906130253.html

ところが、初登庁後の記者会見では、「今後じっくりと考えていきたい」と発言を軌道修正した。
おそらくは、出来レースではないか、という批判を考慮した結果であろう。
しかし、最初の発言がホンネということはミエミエで、西川氏の続投は既定のことと考えていいだろう。
障害者団体向け割引制度悪用事件では、日本郵便の新大阪支店長と新東京支店総務主任が逮捕されたが、大阪地検特捜部は、組織的な問題が背景にあり、両容疑者が個人的な利得もないことなどを考慮し、略式起訴処分とした。
この両容疑者は、まあトカゲの尻尾というものだろう。

「組織的な問題が背景にある」としたら、それこそが明らかにされるべきではないだろうか?
日本郵便の社内には、利益を得た人間はいないのか?
素人考えでは、何の見返りもないのに悪事に加担するとは考えにくい。
誰かが不当な利得を得ているのではないか?
西川氏が続投するならば、その辺りを是非解明していただきたいと考えるものである。

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2009年6月15日 (月)

茶臼山古墳の巨大な丸太垣

奈良県立橿原考古学研究所は、12日、桜井市の桜井茶臼山古墳で、巨大な丸太をすき間なく建ち並べた跡を発見したと発表した。
茶臼山古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、墳丘長207メートル、前方部が柄鏡形をしている柄鏡式古墳である。
6_22_20古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓に続いて造営された巨大な前方後円墳である。
初期大和政権の大王級の墓とされている。
先日、箸墓の築造年代が、卑弥呼の死亡年代と重なることが発表され、大きな反響を呼んだばかりであるが(09年5月29日の項)、古墳時代前期の実態について、論議が活発化しそうである。
写真は、http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090612/acd0906122049004-n2.htm
図は、http://www.asahi.com/culture/update/0612/OSK200906120102.html

2_172_15 橿考研によれば、丸太の本数は約150本で、被葬者を安置した石室の真上部分である。
古墳から木造構造物跡が出土したのは初めて。
石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。
方形壇の周囲4カ所から幅約1mの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30cm)が計10個あった。
柱が埋め込まれた深さは1.3mで、通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。
つまり、地上高2.6mの柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたと推測される。
橿考研の寺沢薫・総務企画部長は「初期大和政権の大王墓級の古墳の実態はまだよく分らないが、神聖な場所である埋葬施設を外部と遮断して結界し、邪気が入ってこないようにしたのだろう」と語っている。
図は、http://www.asahi.com/culture/update/0612/OSK200906120102.html

また、調査を担当した岡林孝作・同研究所付属博物館総括学芸員は、「王の偉大さに対する恐れがあったのだろう。何が何でも死者の魂を封じ込めたい、という強い思いが伝わってくる」と話し、石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)は柱列が垣の痕跡ではなく、屋根のある建物の壁だったのではないかと考える。「垣根ならこんなに深く柱を埋める必要はない。古代中国には『死者の魂は建物に宿る』とする思想がある。ホケノ山古墳(桜井市)の木槨(もっかく)には屋根があった可能性を示す柱があるし、勝山古墳(同)でも周濠(しゅうごう)から建築部材が出ている」と指摘する。
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/06/12/20090613k0000m040091000c.html

同古墳は1949~50年に発掘調査されたが、竪穴式石室の構築法などの解明を目指し約60年ぶりに今年1~3月に再調査されたもの。
当時調査にかかわった森浩一さん(同志社大学名誉教授)は、1949年8月11日、三重県に向かう列車の車窓から外を眺めていたら、巨大な古墳が目に飛び込んできた、という。
翌日、古墳に向かい、長く伸びた前方部の上を歩きながら、「こんなに大きな古墳がまだ奈良にもあったんやと思うと、頭がジーンとした」と、思い出を語っている。
後円部で、地中にあるはずの石室の天井石が露出しており、保存のため急いで調査する必要があると考え、後に、橿原考古学研究所長になる故末永雅雄博士に報告し、2カ月後の10月から発掘調査が始ったという。
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090613ddlk29040464000c.html 

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2009年6月14日 (日)

郵政民営化総選挙という“詐欺”

2005年9月11日に投票が行われた第44回衆議院議員総選挙は、郵政民営化総選挙と呼ばれている。
解散に至る経緯は、Wikipedia(09年6月9日最終更新)によれば、以下のようであった。

小泉純一郎元首相の悲願だった郵政民営化法案は、与党・自由民主党の了承なしの閣議決定(2004年)、党総務会(党の常設最高意思決定機関)の採決方法を慣例の全員一致から、直前に多数決に変更した上での決定、「郵政民営化に関する特別委員会」の採決で反対派委員の賛成派議員差し替え、などの経過を経て、衆議院本会議では可決(賛成233・反対228・欠席棄権14・病欠2)されたが、2005年8月8日参議院本会議では否決(賛成108・反対125・欠席棄権8)されたため、即日日本国憲法7条3号に基いて衆議院解散。

ちなみに憲法7条は、天皇の国事行為について規定しており、その1つとして「衆議院を解散すること」がある。
この天皇の行為は、「内閣の助言と承認」により行われるのであるが、上記Wikipediaには、この時の閣議決定文書への閣僚の署名に関して、次のような悶着があったことが記されている。

臨時閣議は中断を挟みながら、二時間超に及んだ。反対閣僚のうち総務大臣麻生太郎と行政改革担当大臣村上誠一郎は最終的に首相の説得に応じて署名したものの、農林水産大臣島村宜伸は最後まで署名を拒んだため、首相は農水相を罷免した上で自ら農水相を兼務(8月11日まで。後任は岩永峯一)という形式で閣議決定文書を完成させ、解散に踏み切った。

つまり、閣内にも反対意見がある中での、かなり異例の状態での解散だった。
解散後、自民党執行部は郵政民営化法案に反対する議員を公認候補者とせず、対立候補を擁立した。
これが「刺客」として、メディアの話題になり、政策論争は小泉が主張する郵政民営化一色になった。
民主党は岡田克也代表だったが、年金など他にも話題があるとして、自民党の土俵には乗らない戦略をとろうとした。
郵政については「自民党の郵政民営化法案には反対だが、民営化そのものには反対していない」という抽象的なスタンスだった。
キャッチフレーズも、自民党の「改革を止めるな。」に対し、「日本を、あきらめない。」といういささか意味不明なものだった。

選挙の結果は与党の圧勝だった。国民は、郵政民営化を圧倒的に支持したということである。
民主党の主張がいささか明快さを欠いたということだろうが、与党は衆議院で2/3以上の議席を占めることになった。
つまり、「衆議院を通過し、参議院で否決又は修正議決された法律案について、当初の衆議院可決案を法律として成立させることができる」権利を獲得した。

その議席が現在まで継続しているわけである。
その間、首相は、小泉純一郎から安倍晋三、福田康夫、麻生太郎とめまぐるしく変わった。
たとえ国民は郵政民営化を支持したとしても、果たしてその後の自民党政権の状態まで容認したといえるだろうか?
私には、任期途中で政権を放擲し、たらい回しにすることまで含めて与党が支持されたのだとはとても思えない。

しかし、いずれにしろ衆議院の任期は4年だから、今年の9月11日には満期を迎える。
麻生首相は、就任前には直ぐに総選挙を行いたいという意向を示していたが、リーマンショック等の事態もあって、解散権を行使しないままである。
私は、上記の郵政民営化を、「小泉マジック」と考えていた。
09年1月20日の項:張作霖爆殺事件と芥川龍之介の予感
しかし、現在までの結果を考えれば、“詐欺”に近いのではなかろうか。

山崎和邦『詐欺師と虚業家の華麗な稼ぎ方 人はこうして騙される』中経出版(0511)では、詐欺のプロセスを次の三段階で説明している。
第一段階は、サギろうとする相手(これを「カモ」と称する)を、ごく自然に錯覚に導くことである。(09年5月4日の項
第二段階は、カモが誘導された錯覚に基づいて意思決定するように仕向けることであり、これを「瑕疵ある意思決定」という。(09年5月5日の項
第三段階は、相手(カモ)に財物を提供させることである。(09年5月6日の項

郵政民営化総選挙において、国民(カモ)は、郵政民営化が「改革の本丸」であり、それが争点の焦点であるかのように錯覚した。
その判断を選挙で示した。
これが結果的には、「瑕疵ある意思決定」だったことは、現在に至る内閣支持率の推移が示している。
そして、「かんぽの宿」譲渡に象徴されるように、「財物の提供」にまで持ち込んだ。
構造的には、“詐欺”と同一ではなかろうか。

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2009年6月13日 (土)

鳩山総務相の更迭について

膠着状態にあった日本郵政の西川善文社長の再任問題が、鳩山総務相の更迭(形としては辞表の提出)ということになった。
これで一件落着ということになるか?
そんなことはあるまいと思う。

鳩山総務相の西川氏に対する辞任要求は、「かんぽの宿」譲渡問題に係わる疑惑に端を発している。
これは、私などには大変分かりやすい理路で、果たしてどういう事情があったのか、もっと詳しく知りたいと思う。
今回の結果は、「鳩山氏が主張してきたことは間違いである」ということを意味している。
鳩山氏は、いかにも悪代官のような風貌であるし、放言や失言が多いことでも知られるが、少なくとも「かんぽの宿」の問題に関しては、正論を唱えていたのではないだろうか?

麻生首相自身の説明は、「政府と郵政会社の間に混乱が生じたような印象を与えたのははなはだ遺憾だ。早急に解決されてしかるべきだった」というもので、何だか他人事のような感じである。
混乱が生じていたとしたら、その混乱とは何か、その原因は何か、その解決はどうあるべきか、などに踏み込まなければ説明にならないのではないか。

麻生首相の判断に対し、自民党の多数派は、(混乱を長引かせたことは別として)少なくとも結論は正しいという評価のようである。
これについては、正直なところ、分かりにくいのではないだろうか?

そもそも、西川氏の続投の是非が郵政民営化の推進との関連で論議されている文脈が分からない。
中川秀直元幹事長などの民営化推進派は、西川氏の再任が否認されれば、「蜂起」する構えだったといわれる。
しかし、西川氏でなければ、郵政民営化は推進できないのか?
西川氏という個性に依存しなければならないような民営化だとしたら、果たしてそのまま推進すべきものなのかどうか、ということにならないか?

あるいは、日本郵政の指名委員会で判断したことに、政治家が介入すべきではない、という意見がある。
しかし、日本郵政はそういう仕組みになっているところが一般の私企業と異なるところではないか。
介入する権限があるのだから、介入自体が悪だという論理は通らない。

そもそも、鳩山氏が問題にしてきた「かんぽの宿」問題は、郵政民営化の問題とは別の問題ではないのか?
鳩山氏自身が、民営化見直しを主張しているということではないだろう。
それは、「かんぽの宿」譲渡自体の是非ということですらない。
その譲渡先および譲渡価格決定の手続きが公正ではなかったのではないか、という疑惑である。

ということを勘案すると、西川氏を護ることに、何かウラがあるのではないか、という邪推をしたくなる。
たとえば、以下のような情報もある。
http://outlaws.air-nifty.com/news/2009/02/post-6413.html

2002年12月11日、都内でゴールドマンサックスのCEOであるヘンリー・ポールソンとCOOのジョン・セインは、竹中平蔵金融担当大臣(=当時)、西川との間で四者会談を持った。その席上でGS側は、三井住友銀行は国有化しない、との言質を竹中からとり、03年1月に1500億円の資本注入が実行された。そして同年2月、GSの仲介で3500億円の優先株が注入された
これは、明確なインサイダー取引であり、竹中のGS及び三井住友銀行に対する一種の利益供与であった。西川は、三井住友銀行の国有化を免れた最大の功労者であると同時に、GSに対する最大の利益供与者でもあった。
竹中は現職の金融担当大臣でありながら、外資であるGSに利益供与することは許されざる〝犯罪行為〟である。ちなみに、GSの真のオーナーは、
ロックフェラーⅣ世である。つまり、アメリカ帝国主義を代表するロックフェラー家の日本における代弁人が竹中平蔵であり、その下手人が西川善文であった。

さて、今後の展開はどうなるだろうか?
何だか、「負けるが勝ち」というコトワザを思い起こさせるような展開になるのではないか、という予感がする。
西川氏は続投を認められたわけだが、イバラの道を歩むようなことになるだろう。
総務相でないからといって、鳩山氏の口が封じられるとは思えない。
彼は、「正義」だと言っているので、これからも西川氏の追求を止めるということはないだろう。
自民党の内部矛盾の顕在化である。
いよいよ自民党のメルトダウンが始まったということではなかろうか。

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2009年6月12日 (金)

詐欺のケーススタディ-脱税容疑を入口に

詐欺のニュースが後を絶たない。
山崎和邦『詐欺師と虚業家の華麗な稼ぎ方 人はこうして騙される』中経出版(0511)によれば、詐欺には次の三段階がある。
第一段階は、サギろうとする相手(これを「カモ」と称する)を、ごく自然に錯覚に導くことである。(09年5月4日の項
第二段階は、カモが誘導された錯覚に基づいて意思決定するように仕向けることであり、これを「瑕疵ある意思決定」という。(09年5月5日の項
第三段階は、相手(カモ)に財物を提供させることである。(09年5月6日の項

この定義による詐欺の格好の事例が、産経MSNの「衝撃事件の核心」というシリーズに紹介されている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090607/crm0906070800001-n1.htm

「あなたは脱税で捜査されている」。国税人脈を誇示する人物にこう言われ、「捜査を止められる」と金を要求されたら…。こんな事件が寿司店「びっくり寿司」を運営していた「びっくり本舗」(東京、民事再生手続き中)を舞台に起きた。同社元社長(51)への詐欺未遂事件で逮捕、起訴された男は、舞台回しとして知人の韓国人を「前国税庁長官」に仕立てていたという。実際の国税人脈は皆無だったが、共犯として逮捕された男の義理の息子ですら「義父は国税にパイプがある」と信じ切っていた。
……
元社長が18年2月、「びっくり本舗」を第三者に事業譲渡した際、第三者は「貸付金」の形で譲渡金を経理処理。この処理は不正で脱税に当たるため、東京地検や国税当局が元社長の捜査を進めている-。

冷静に考えれば、第三者の経理処理が不正であったとしても、元社長が脱税で疑われるはずがない。
元社長も、身に覚えがないと思いつつ、不安になった。
それは、元社長の在任当時、びっくり本舗の経営が悪化して、税金を滞納しており、その支払いを督促されて、今回の事件の被告(原田豊実)に連れられて、国税局や社会保険事務所に相談に行ったことがあったからである。

その時、原田被告が、分納手続きを手配した。
会社の責任者がいれば、分納は通常の手続きで済むという。
本件でも、現役の役員が同行していたのでスムーズに手続きを済ませることができた。
それを、元社長は、原田被告が国税当局に“口利き”できる人物だと誤信した。

原田被告は、リクルートの元会長が実刑にならなかったのも、自分が裏で手をまわしたからだ、と元社長に吹聴していたという。
原田被告は、元社長に電話をしてきて、前国税庁長官に代わるといって、ある人物を電話に出させた。

「原田君から事情を聞いたけど、本来はできないことですが、頼みがあったから今回はなんとかしましょう。今後、こういうことはありませんから」

電話に出た男はそう話した。
ところが、この男は、原田被告の韓国籍の男で、事情はよく分らなかったが、原田被告に言われるままに話したのだという。
この男の供述が決め手になって原田被告が逮捕され、この案件は未遂に終わった。

前国税庁長官が韓国籍の男性だったというのはいささかお手軽な感じもするが、税務相談への対応など事前の根回しをうまくやっていたことから、錯覚への誘導と瑕疵ある意思決定までは、順調に(?)進んだ。
しかし、財物の受け渡しを完了する前にバレてしまったというわけである。
しかし、同様の手口で、約8000万円を詐取された会社社長もいるという。

ちなみに、原田被告は、目黒区の自宅マンション、品川区のコンサルタント会社事務所、世田谷区の娘夫婦のマンションの計3部屋の家賃を、月額約300万円支払っており、一度も延滞していないという。
原田被告が経営していたというコンサルタント会社は、事業実体がなく、詐欺で得た資金で家賃を支払っていたというから、詐欺もばかにならないと言うべきだろう。

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2009年6月11日 (木)

自動車会社の社会的貢献

自分の中に感動する心があることを思い出した人も多いのではなかろうか。
バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんの話である。
生まれつき目が見えず、歩き始めるのも言葉を発するのも遅かったという。
しかし、家にあったおもちゃのピアノを弾きこなしたのは、2歳3カ月の時だったという。
どのような才能の仕組みなのか、本人すら理解不能かもしれないが、TVで聞いただけでもその演奏の質が分かるような気がする。
これから多くの人に感動を与え続けることになるだろう。

「感動した!」というのは、その音楽的才能についてだけではない。
今朝のTVを見ていた妻が、大粒の涙を流しながら、別の部屋にいた私のところに来た。
「1日だけ目が見えるとしたら、先ず何を見てみたいか?」
という質問に対して、彼は、
「両親の顔」
と答えたというのである。
確かに、聞いている私ですら、涙が出てくるような話ではないか。

ところで、この辻井さんを、余りタレント扱いして欲しくないという思いを多くの人が持っているだろうが、次のような提案は如何だろうか?
南堂久史さんのサイトに載っている提案である。

ふと思ったのだが、辻井伸行のCMをやる企業はないのかな? 「感動」という絶賛が世間に渦巻いているので、CMに起用すれば、高級イメージが湧くのだが。
というのも、スポーツマンのCMばかりで、うんざりしているから。
……
と私が提案しても、どうせ日本の馬鹿企業は、提案に乗るつもりはあるまい。そこで、アウディとかBMWとかが、辻井伸行を起用するといい。そのことで、日本のレクサスやインフィニティが辻井伸行を起用するのを、阻止することができる。こうして、馬鹿なトヨタや日産の馬鹿さ加減を、明白にする。

私たちの生きている社会は、歴史的な転換期のように思える。
09年1月2日の項:人口減少社会の到来とグローバル市場主義モデルの終焉
09年5月21日の項:実質GDPの大幅減と文明史の転換

クルマ社会は、現代文明の到達点を示すものであり、その文明が曲がり角に来ているということのように思われる。
GMの破綻は、その象徴ではなかろうか。
09年6月8日の項:GMの破綻と「盛者必衰の理」
もちろん、文明史の転換などということは、私の生きている間には検証不能だろうから、無責任な発言ではある。
しかし、団塊の世代がほとんどいなくなるであろう30年後くらいには、社会の姿が大分変っているだろうということは言えるのではないか。

私は、南堂さんのように、「馬鹿なトヨタや日産の馬鹿さ加減」と言ってしまう勇気はないが、自動車文明に影の部分があることは事実である。
化石燃料を消費し、CO2を排出する大きな要因である。
交通戦争と呼ばれていたころに比べれば、交通事故死者数は相当に減ってきており、2007年は実に1953年以来となる6000人を割った。
とはいえ、決して小さな数ではない。
交通事故死者数は、クルマ保有台数と明白な相関があるといわれている。
09年5月16日の項:裁判員制度と量刑判断
自動車会社が、その影の部分を補うことは意義のあることだと思えるのだが。

偶然ではあるが、自動車会社の社会貢献活動に対して面白い提言をしているのを目にした。
いささか古いが、古田武彦『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房(9311)という書の中の記述である。
著者の古田武彦さんについては、異端の古代史家として何回か触れている。
07年9月22日の項:倭国のラストプリンセス?
08年6月3日の項:「君が代」と九州王朝
08年11月18日の項:「古田史学」VS「安本史学」
08年11月24日の項:「壹・臺」論争の帰結
2009年1月9日の項:珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑤「博多湾沿岸周辺」説(古田武彦) 他

上掲書の中で、古田さんは、足摺岬の巨石文明について解説しているのだが、その中で、次のように書いている。

この二、三○年、自家用車が普及して、巨石文明は、日常「破壊の危機」に瀕している。庭石などにするため、割って、車に積んで、持ち帰るのだ。これを「止める」力は、現今の文化行政にはない。
確かなこと、それは未来の人びとから恨まれることだ。「野蛮な車社会」をやみくもに発達させた現代に対して、嘆きと恨みの矢が突きささってくること、まちがいなし。
現代日本工業文明の誇りとする、各自動車会社、「巨石文明保護」のキャンペーン、やってくれませんかねえ。
社会への奉仕、むしろ義務だと思うけど。
それとも、社会への奉仕を企業の義務と考えてきた、外国の会社の方が「先駆け」してくれるかな。

南堂さんも古田さんも、外国の会社の方が頼りになるような言い方である。
日本の自動車会社が、それなりの社会貢献活動をしていることは承知しているが、目先の経営が苦しいなどと言わずに、もっともっと社会貢献活動に注力したら如何だろうか。

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2009年6月10日 (水)

刑事責任能力の判断と裁判員裁判

足利事件では、DNA鑑定がクローズアップされた。
裁判員が参加する裁判では、精神障害に関する鑑定も論議を招きそうである。
刑法に関する学説はさまざまなようであるが、「責任なければ刑罰なし」という基本原則は共通である。
つまり、刑罰の対象とするためには、責任能力があることが前提となる。

責任能力とは、行為の違法性を認識し、それに従って自己の行為を制御する能力である。
ある種の精神障害の場合、上記の能力が欠如していると判断される。
被疑者にこのような精神障害があるのか否か、言い換えれば責任能力が備わっているか否かを判断するのが精神鑑定である。

この問題に関して、6月9日の静岡新聞に、関連記事が掲載されていた。
同記事によれば、最高裁は鑑定尊重を打ち出した昨年4月の判決で、無罪を示す鑑定結果を採用しない根拠が誤りだとして、東京高裁の控訴審判決を破棄した。
これに対し、5月の差し戻し控訴審判決で、東京高裁は、差し戻し前と同じ実刑を言い渡した。
つまり、精神鑑定結果をどの程度尊重するかについて、最高裁と東京高裁の判断が異なっているということになる。

東京高裁の裁判長の意見は次の通りである。

(最高裁判決は)一般論としては正鵠を射ているが、責任能力は秩序維持という観点から社会や一般人の納得性を考え、規範的にとらえるべきものである。

この判決を、精神科医の多くが評価しているという。
鑑定結果を軽視したかのような高裁判決を、精神科医はどうして評価するのか?
それは、自分たちの鑑定が判決に直結すると、「負担が重すぎる」と感じた精神科医が多かったためだという。

鑑定といっても、対象によって精度はさまざまであろう。
DNA鑑定のように、ある程度客観的なデータがある場合に比べ、精神鑑定の場合はより鑑定者の判断に依存する部分が多いと思われる。
その鑑定結果が、判決に直結的に影響するとすれば、精神科医の負担は確かに非常に重いものとなるだろう。
その意味で、東京高裁裁判長の判断は、妥当なものだと考える。

しかし、無罪と実刑判決とでは、余りにも大きな違いである。
裁判員は、精神鑑定結果をどう判断するだろうか?

上掲記事には、裁判員の模擬裁判の事例が紹介されている。
母を殺害したとして起訴された被告が、うつ病と診断された。
その責任能力をどう考えるか、という設定である。
つまり、うつ病がどの程度被告の行動に影響を及ぼしたか、を問題にしたケースである。

ところが、裁判員役となった市民は、鑑定結果を信用せず、「うつ病の人が人を殺せるだろうか」と自分の判断をベースに議論を始めてしまったという。
精神鑑定のような問題は、高度に専門的な判断を必要とする問題である。
しかし、誰もが、自分独自の判断を持ち得る問題でもある。
このような場合、素人は、往々にして自分が精神科医になってしまう可能性があるのではなかろうか。

あるいは、別の模擬裁判では、「責任能力がなければ、人を殺しても無罪になるというのは納得できない」と主張した裁判員役がいたという。
正直なところ、この人の意見も分らなくはない。
しかし、裁判はあくまで現行の刑法の規定を前提とせざるを得ないだろう。
責任能力の判断の問題は、量刑判断の基礎であるが、裁判員裁判で的確な判断が行われるのかどうか、はなはだ不安である。

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2009年6月 9日 (火)

日本郵政社長の進退問題

日本郵政の西川善文社長の進退問題が、膠着している。
取締役を選任する株主総会は、6月末に開催されるが、日本郵政の場合、取締役の人事は総務相の認可事項となっている。
鳩山邦夫総務相は、かねてから「かんぽの宿」の譲渡に係る疑惑等を理由に、西川氏の続投を認めない旨の発言をしてきた。

ところが、日本郵政の取締役会の「指名委員会」の方は、西川氏の続投を支持する方針を決めている。
指名委員会のメンバーは、委員長の牛尾治朗ウシオ電機会長のほか、奥田碩トヨタ自動車相談役、丹羽宇一郎伊藤忠商事会長ら社外役員が過半を占める。
今後の完全民営化に向けた経営強化に「金融に精通した西川氏の存在は欠かせない」と指名委は判断した。 http://www.asahi.com/business/update/0518/TKY200905180099.html

はたして、社内の機関である指名委員会の判断を、認可権限者が否認することができるだろうか?

答えは明瞭のように思われる。
鳩山総務相の発言はいかにも横車のようではあるが、認可権限者が否認できないとすれば、認可権限自体の意味がないだろう。
つまり、鳩山氏が「NO」という限り、西川氏の続投はあり得ないはずである。
それが、日本郵政の社内的判断と齟齬を来すとしても、そういう制度になっているのだと考える。

本件に関して、鳩山総務相の真意がどこにあるのかは、知るよしもない。
しかしながら、「かんぽの宿」に関する疑惑が大きな問題になったことについては、鳩山総務相の貢献は大であったと言える。
本件に関しては、私も大きな関心を抱いて何回か私見を披歴させて頂いてきたが、鳩山氏が取り上げなければ、私の関心の外に放置されていたかも知れない。

09年1月9日の項:郵政民営化の一帰結…「かんぽの宿」をオリックスに譲渡?
09年1月21日の項:「かんぽの宿」一括売却に関する竹中平蔵氏の宮内氏擁護論

09年2月1日の項:疑念深まる「かんぽの宿」譲渡問題
09年2月9日の項:「かんぽの宿」売却は、競争入札だったといえるのか?
09年2月14日の項:かんぽの宿売却は、偽装入札ではないのか?
09年3月9日の項:郵政民営化利権の行方
09年3月10日の項:郵政民営化に関する疑惑の一側面

09年3月13日の項:日本を徘徊する「仲間主義」という妖怪

麻生首相は、西川氏の続投容認というのが本心のようであるが、河村官房長官らに調整を委ねており、自らの判断を積極的に示そうとしていない。
「しかるべき時に指示する」としているが、時期をみて判断するような問題でもあるまいと考える。

麻生首相は、何故に、認可権限を有する自分の内閣の大臣の見解を認めないのか?
おそらくは、総選挙を前に、郵政民営化の是非論にまで論議が発展していくことは好ましくない、と考えているのだろう。
しかし、これは閣内不一致という事態である。
麻生首相が自分の考えと鳩山総務相の考えに齟齬があると判断するならば、鳩山氏の罷免も考慮しなければならないのではないか?

余人を以て替え難いほど、わが国の経済界は人材が払底しているのであろうか?
それにしても、バンカーとして高い評価を得ているとされる西川氏は、何故に日本郵政の社長のイスに執着するのであろうか?
西川氏は、1938年生まれとある。既に70歳を超えている。
もちろん、人間の能力には個人差があるが、大方の同年齢者は、既に前線からは引退しているだろう。
一説には、ここで鳩山総務相に更迭された形となると、狙っている経団連の要職のポストを失うからだという。
もしそういう思惑で社長のイスに座り続けようとしているのだとすると、晩節を汚したことになりはしないか。

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2009年6月 8日 (月)

GMの破綻と「盛者必衰の理」

GMが、アメリカの連邦破産法の申請を終えた。
これからは、政府主導で再建計画が実施に移されていく。
21世紀に入ったばかりの2001年、「9・11」同時多発テロの衝撃も覚めやらぬ頃、エンロンやワールドコムなどが破綻し、いかにも1つの時代が終わって、新しい時代が始まったことを印象づけられた。
しかし、その時点でも、少なくとも私は、GMが破綻する時期がこんなに早く到来するとは考えていなかった。

もちろん、「アメリカの時代」が終焉するときが来るであろうことは、かなり前から予感されていたことであった。
1985年に行われた「つくば科学博覧会」のあるパビリオンの展示のコンセプトを考えるため、1982年頃だったと記憶しているが、アメリカ各地の科学博物館・自然史博物館などを、約1ヶ月間にわたってリサーチしたことがある。
その折だったと思う。
馬野周二さんという人の『アメリカ没落の論理』ダイヤモンド社(8112)という著書を旅行カバンの中に入れておいた。
アメリカ滞在中に、じっくりとこの国の来し方行く末を考えてみようと思ったのである。

馬野氏の議論に100%同意したということではないが、その時点で、「アメリカの没落」はほぼ必然のように思われた。
その当時はパソコンもなく、出張報告書も手書きの時代だったから、残念ながら記録は散逸してしまっている。
しかし、旅行中のメモとして、上掲書の書評を書いていた覚えがある。

エンロンやワールドコムが破綻したとき、それは「ビジネスモデル」をどう考えるかという問題とセットだったと思う。
エネルギー産業であったはずのエンロンが、斬新なビジネスモデルで、短期間に成長していくさまは、ある種の憧憬の念を抱かせるものであった。
言ってみれば、営利企業もしくは株式会社はかくあるべし、ということである。
それが突然に破綻し、その裏側には、監査法人やビジネスコンサルタントの、社会正義にもとるような行為が横行していたのだった。

それを知って、会社のあり方について、いささか考えることになった。
もちろん、平家物語の昔から、「盛者必衰の理」ということが言われていた。
「企業の寿命は30年」というのも、人口に膾炙したテーゼである。
しかし、エンロンやワールドコムの破綻は、いわば虚業部分の破綻ではないのか?
実業や「ものづくり」のジャンルは、もっと堅固な基盤の上で活動していたはずである。

そういう意味で、GMの破綻は、もっと大きな時代の転換を感じさせるものがある。
もちろん、GMも、「ものづくり」企業というよりも、自動車ローンなど「金融機関」としての性格を強めていたことが破綻の根本要因ではあるだろう。
仮にGMが自動車という「ものづくり」という基軸から離れない経営スタンスをとっていたとしたらどうか?
私は、それにしても、早晩GMの命運が尽きる時代がやってきたことは避けられなかったように感じる。

そもそも、「ものづくり」の限界が見えてきたから、「金融」等に転じたのではないか?
金融というのはあくまで手段であって、目的にはなりえないように思う。
言い換えれば、手段が目的を凌駕してきているといことだろう。
しかし、手段は目的のためにあるのではないか?
私たちは、何を目的としているのか?

ブータンの国王だったか、GDPよりもGDH(国内総幸福)が大事だと言ったという。
しかし、それを何を尺度として計測するのか?

GMの国有化が事実上決定すると、ガイトナー財務長官は、胡錦濤国家主席に、米国債購入の継続を頼んだという。
金融危機対策の原資として、アメリカは多額の国債の発行を迫られているのである。
米国債の需給はどう推移していくのか?
米国債が暴落すると、マネーはどこに向かうのか?

昨年の原油価格の高騰が示唆するように、原油などの商品市場に向かうと考えられる。
原油が高くなれば、自動車産業にとって、アゲインストの風が強まることになる。
やはり、「石油と自動車」のアメリカの時代は、既に過去のものになりつつあるのではなかろうか?

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2009年6月 7日 (日)

冤罪を局限するために

足利事件は、改めて冤罪に陥ることの恐ろしさを示してみせた。
私たちの誰もが、濡れ衣を被せられる可能性がある。
特に、痴漢行為などのように、当事者のみの主張が衝突し、第三者の証言が得られにくい事件が増えていることを考えれば、いつ痴漢だと訴えられないとも限らない。
女性が、「この人、痴漢です!」と叫べば、ほとんどの人が、そうかと思うだろう。
また、裁判員制度が始まったことにより、誰もが他人を冤罪に陥れる可能性もある、と言っていいだろう。

冤罪の可能性があるからと言って、当然のことながら、罰すべきものは罰しないと、善良な社会秩序が保てないだろう。
そういう意味で、既に起きてしまった冤罪事件は、不幸なことではあるが、そのプロセスを検証して、今後の糧として生かすことを考えるべきだろう。
足利事件の関連年表を抜粋してみよう。

1990年
5月
12日 栃木県足利市のパチンコ店から、女児が行方不明
13日 渡良瀬川河川敷で女児の遺体発見
1991年
8月 科警研にDNA鑑定依頼
11月 DNA鑑定、一致との結果報告
12月
1日 早朝、菅谷さん足利警察署へ連行、取調べ。夜半自白
2日 菅谷さん逮捕
1992年
2月 宇都宮地裁で初公判。菅谷さん起訴状の内容を認める
12月 第6回公判で否認に転じる
1993年
1月 第7回公判で再び犯行を認める
7月 第11回公判で、無期懲役の判決
1996年
5月 二審判決(控訴棄却)
1997年
10月 弁護団がDNA再鑑定請求(上告趣意書の「補充書1」)
2000年
7月
7日 弁護団「補充書6」を提出し、DNA鑑定の問題点等を指摘
18日 最高裁、上告棄却
2002年
12月 菅谷さん、宇都宮地裁に再審請求
2008年
2月 宇都宮地裁再審請求を棄却、弁護側東京高裁に即時抗告
12月 高裁がDNA鑑定の再実施を決定
2009年
1月 再鑑定始まる
5月 再鑑定結果
6月 菅谷さんの釈放を決定

第三者的にみれば、2000年7月の弁護団の上告趣意書の「補充書6」の時点で、裁判所は、DNA鑑定に関して、
もう一度検証してみる態度が必要だったのではなかろうか。
それを、10日ばかり後に、最高裁として上告棄却の決定を下している。
この10日間で、何を判断したのだろうか?

それに留まらず、宇都宮地裁に提起された再審請求は、かなりの頻度で協議が行われたうえ、ほぼ5年後に棄却されている。
宇都宮地裁は、DNA鑑定の再実施は必要なしという判断を下したわけである。

高裁の判断でDNA鑑定の再実施が行われ、その後は、それまでの経緯が何だったのかと思わせるスピード解決である。
要は、DNA鑑定の再実施を行う判断をするか否かにあった、ということになる。

鑑定技術の進歩という背景要因を考慮すれば、私などは、速やかに再鑑定を実施すれば良かったのに、と思わざるを得ない。
測定に誤差はつき物である。
何回測定するかは、測定のための費用と、それによって得られる効果との対比で決められるべきだろう。
今回の事件では、DNA鑑定が決定的に重要な判断要素だったのだから、最高裁や再審における宇都宮地裁の判断は、理解に苦しむと言わざるを得ないだろう。

足利事件については、捜査ミスという報道がなされているように思う。
しかし、ミスは必ず発生するものであり、絶対に防ぐということは不可能である。
捜査にミスがあったとしても、裁判でそれを容認しない工夫が求められているわけで、裁判員もその辺りを認識して臨むべきだと思う。

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2009年6月 6日 (土)

冤罪と裁判員制度

栃木県足利市で起きた幼児殺害事件(足利事件)で、殺人罪などに問われ、無期懲役が確定した菅谷利和受刑者が、釈放された。
有罪の有力な証拠とされていたDNA鑑定が、再鑑定によって別人のものと判断されたため、裁判所の再審決定が出る前に刑の執行が停止され、釈放されるに至ったものである。
これは、きわめて異例のことであるという。

検察側は、再審で無罪の論告を行う方針を固めているとされ、菅谷さんの無罪が確定する日も遠くない、と報じられている。
菅谷さんは、平成3年12月に逮捕されてから17年余りを刑務所で過ごした。
まあ、20年近くと言ってもいいだろう。
昨日、O・ヘンリーの「Twenty years is a long time」という言葉を引用したが、長い時間だったことは間違いない。

20年前といえば、バブル経済の華やかだった頃だ。
日経平均株価は、1989年の大納会につけた高値の1/4程度に留まっている。
あの時代を体験した人の多くが、「今は昔」という気がしているのではなかろうか。
その時間を刑務所で過ごさざるを得なかったのだから、裁判所の判断は、どう考えるべきだろうか。

裁判員制度が始まったばかりである。
裁判員制度については、何回か疑念を呈してきた(09年1月24日の項4月22日の項5月16日の項)が、既に制度が施行されている以上、自分が選任された場合の心構えを考えておくことなども必要だと思う。
菅谷さんの場合、取調べに対して、一旦は犯行を認めている。
DNA鑑定がクロ、本人が犯行を認めているという状況において、私が裁判員だったとしたら、恐らくは有罪に加担することになっただろうが、それがもし、17年後に、冤罪だったことが証明されたとしたら?

そんな仮定の条件を積み重ねても余り意味があるとは言えないのかも知れないが、自分のこととして考えてみると、とても平静で居られるとは思えない。

実験をやったことがある人間ならば、測定に誤差がつき物であることはよく承知しているだろう。
また、統計的な推測の場合にも、必ず誤差の見積もりを行う。
DNA鑑定といえども、100%ということはないと考えるべきである。
1つの有力な証拠と位置づけれるのは当然としても、絶対に、ということはないのである。

私たちの学生の頃は、工学系では、計算尺と対数表が必須だった。
一種の近似演算であるが、そのことによって、有効桁数などについては、それなりに敏感になったのではないかと思う。
友人の工学系の教授が、最近の学生は、実験データについての有効桁数の概念が欠如していると言っていたのを思い出す。
計算機などで結果を出せば、いくらでも桁数が増える。
そのどこまでが有意であるのか、実務的にはその判断が重要なのである。

捜査の担当者としては、DNA鑑定が被疑者をクロとする結果であれば、これをもっとも有効に使おうとするだろう。
だから、DNA鑑定結果を突きつけて、自白を迫るということは当然の行為だと思う。
問題は、菅谷さんが自白してしまった状況である。
拷問的な取調べがあったのだろうか?
人間の精神というのは、追い詰められると弱いものなのだろうか?
取調べの可視化ということが言われているが、万全の体制などはあり得ない。

裁判員制度が、冤罪の発生を少なくする(ゼロにはならないと考えるべきである)方向に働くためには、どうしたらいいだろうか?
職業法曹よりも判断力において勝るとすれば、それは社会経験しかない。
前にも触れたことがあるが、飲酒運転の経験のない裁判官よりも、経験のある裁判員の方が、実際の飲酒運転の状況については良く理解できるはずである。

しかし、裁判員は無差別で選ばれることになっているので、うまい具合に、当該ケースの体験的理解者が裁判員になるなどというケースは、殆どあり得ないだろう。
とすれば、自分が裁判員になった場合を含め、職業法曹に対する優位性をどこに求めたらいいのだろうか?
取り越し苦労というものかも知れないが、冤罪が報じられると、気になることは確かである。

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2009年6月 5日 (金)

天安門の“AFTER TWENTY YEARS”

たまたま関係しているプロジェクトの用件で北京に行く機会を得た。
折角だからと、6月3日に、天安門広場や故宮(紫禁城)の見学に誘ってもらった。
Photo_9 20年前、北京では民主化運動が盛り上がりを見せ、天安門広場が群衆で埋め尽くされる事態となった。
Photo_5 写真は、http://www.afpbb.com/article/politics/2608634/4224372 

その大群衆を軍が戦車で蹂躙し、無差別に発砲して多数の死傷者が出た。
6月3日の夜中から、4日の未明にかけてのことである。
その状況が世界に発信され、東西冷戦の終結に大きな役割を果たしたとされる。
つまり、東欧の民主化を求める国民に対して、中国のようにはできないという判断が勝ったということである。
中国では、未だこの事件に公然と触れることはタブーになっているようである。

20周年を迎える日、天安門広場には、ピストルを帯びた軍人(右側)、公安警察(左側)の他に、多数の私服の警備員(警官の後ろの黒い日傘の2人)が配置され、いかにも、ものものしい雰囲気だった。
Photo_6 広場に入るにも、X線による厳重な手荷物チェックを受けた。
私のパスポートとメモ帳の入っただけのウェスト・ポーチも開けて中をチェックする。
通路でバッグを広げさせられている人などもいた。
Photo_7 それだけ当局がナーバスになっているということだろう。
しかし、国民を信頼し切れない政府が長続きするとも思えない。

O・ヘンリーの『20年後(AFTER TWENTY YEARS)』の中のフレーズである。
20年ぶりに再会した親友のボブとジミー。
ライトに照らされた相手の顔を見て、ボブは、相手が鷲鼻(Roman)だったジミーではなく、獅子鼻(pug)の男であることに気づく。

“Twenty years is a long time, but not long enough to change a man's nose from a Roman to a pug.”

天安門事件に引きつけていえば、以下のようなアナロジーになるだろうか。

20年間という時間は、個人史にとっては長い時間である。
しかし、国の形を変えるためには十分な長さではなかった。

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2009年6月 4日 (木)

天皇の金塊(4)トレジャーハンターとマルコス裁判

フィリピンのマルコス元大統領は、弁護士から大統領になった人物だが、大統領の座を「金の百合」資金で買い取ったのだという。
マルコスが大統領時代に、地中から回収して換金して懐に入れたカネは、1兆6300億米ドルにのぼると、高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)に記されている。
実感の湧かない数字である。

そのように巨額の金塊の換金は容易ではない。
国際金融世界の監視対象になるからだ。
闇雲に市場に放出すると、金本位制の構造を揺るがしかねない。
高橋氏は、ロンドンで金やダイヤモンドの価格相場を決定するのは、オッペンハイマー一族やロスチャイルド家などの金融ファミリーで、一介の大統領にすぎないマルコスが自在に換金できる世界ではないという。
逆にいえば、これらのファミリーの支援があれば、巨大な量の換金が可能になるということである。

マルコスが、民間人が掘り起こした「金の百合」の一部を強奪したとして争われた民事訴訟は、ハワイ州の最高裁判所で最終結審した。
430億米ドルの賠償金支払い命令が結論だった。
その法廷証拠資料に次のような資料が含まれていた。
欧米の巨大銀行とマルコス(イメルダ夫人)との間で交わされた金塊交渉書簡/日米欧三極委員会のレターヘッドに書かれた金塊取引指示書/連邦準備銀行(FRB)やメンバー銀行発行の金塊預かり証券類/マネーロンダリングの実務記録のコピー/日本政府発行の銀行証券や信用手形類/金塊の船荷証券……

マルコス裁判の原告は、ロジャー・ロハスというフィリピンの山岳地帯バギオで錠前屋を営む“山師”である。
ロハスは、フィリピン各地の地下に眠る財宝類を狙うトレジャー・ハンターズ・クラブの会調職を務めていた。
ロハスは、3人の男から、「お宝情報」を入手し、その信憑性を信じていた。

1人は、オオクボと名乗る日本人で、山下大将の通訳を務めていた。
終戦間際にバギオ総合病院近くのトンネル内に、金銀のインゴットを入れた木箱を積み上げた体験があるという。
2人目は、元日本兵の父親が残した財宝地図を持っていた日比混血児のアルバートで、父の死後、地図を頼りに財宝の探索を始めたが発見できなかったという。
その地図は、鏡で逆に写して見るものだったのだ。
アルバート情報も、オオクボ情報と同じバギオ総合病院付近を示していた。
3人目は、ジョン・バリンジャーと名乗る元米兵で、ルソン島で戦闘を体験している。
バリンジャーも、バギオの病院近くに、日本兵が重そうな木箱を運び込んだのを目撃したという。
バリンジャーは、スービック湾で日本の偽装病院船から青銅の箱を積み降ろしているのを目撃し、その箱を載せたトラックを追跡して、山中の洞窟に隠すのを見たのだった。

バリンジャーは、退役後ニューメキシコでトレジャー・ハンティング愛好家向けのミニ機関紙を発刊しながら、自分も息子と一緒にアメリカ国内で宝探しを楽しんでいた。
時折ロハスと情報交換をしていた。
ロハスが絞り込んだ場所は、国有地だった。
ロハスは、回収した財宝の30%を受け取るという約束で、政府から採掘許可を得た。

ロハスの発掘申請を許可した判事が、マルコス元大統領の伯父にあたる人物だった。
ロハスの発掘申請情報が、マルコス一族の間に広まった。
ロハスは、政府が許可したエリアで、地下トンネルを発見し、その奥に純金の仏像や金の延べ棒を確認した。
トンネル内の仏像や重い木箱を持ち出すためには、鋼鉄製のチェーンブロックが必要で、それを購入するために、金の一部を換金した。
ロハスが換金した噂はたちまり周辺に広がった。
ロハスは、トンネルから仏像を引き上げることに成功したが、機関銃で武装した男たちが自宅に押しかけてきた。
フィリピン国家捜査局の刑事犯罪捜査班で、家宅捜査令状を持っていた。

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2009年6月 3日 (水)

天皇の金塊(3)金塊秘匿の地下サイト

ベンは、サン・フェルナンドの前線本部で、数多くの民間人が働いているのを見た。
民間人は、天然の洞窟や地面を掘削したトンネルを繋いで、地下構造物を拡大新設する作業を行っていたのだった。
その地下構造物は、略奪した金塊類を退蔵する施設だった。
ベンは、8号サイトの地下空間の規模は、大型のフットボール球場ほどだと聞いた。
8号サイトは、周辺の自然洞窟とトンネルで結ばれており、8号サイトの出入口を爆破してしまうと、ほかの空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。
シーグレーブ夫妻が、『黄金侍たち』に記していることは、山下財宝神話として伝えられていた話が、事実だったことを示したものだった。

満州事変以降、日本軍兵士たちは、アジア全域で乱暴狼藉を繰り返した。
シーグレーブ夫妻は、その強奪ぶりを、「まるで巨大な真空掃除機が通り過ぎたように」と表現している。
つまり、根こそぎ収奪したということである。
日本陸軍の高級官僚は、日本将兵と黒龍会、玄洋社などの配下の荒くれ者たち、さらには中国の地下組織の構成員たちを総動員して略奪行為を行った。
集められた金塊類は、商戦半島から船と飛行機で日本に運び込まれた。
戦利接収品と呼ばれたそれらの金塊類は、日本銀行の本店、地方支店や、横浜正金銀行、第一銀行、三和銀行、博物館などに保管された。

金塊の一部は、金銀貨幣やインゴットに鋳造され、流通させた。
それ以外の金塊類は、陸海軍の糧秣廠倉庫に保管された。
月島の糧秣廠倉庫に保管された金塊類がアメリカ兵に押収された件については、安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)に詳述されていることは既に記した通りである(09年4月30日の項他)。

高橋五郎氏は、『天皇の金塊』学習研究社(0805)の中で、日本海軍が地下壕に隠した物品を追跡した自分の体験を記している。
北海道の網走の地続きの美幌の丘陵地帯にある自衛隊の駐屯地は、かつての海軍航空隊基地の跡地である。
その地下に、巨大地下壕が存在するという情報があった。
高橋氏の目的は、その地下壕内のゼロ戦発見にあった。
防衛庁の協力を得て、高橋氏は、巨大地下壕の出入口を、地下4メートルの地中で突き止めることに成功した。
その出入口を発見するまでに、10年間を費やしたという。
つまり、それくらい日本の軍人たちは、隠し上手だったというわけである。

1943年頃には、フィリピンと日本を結ぶ航路は、連合軍の潜水艦に封鎖されるに至っており、海上輸送が困難になっていた。
そのため、アジア諸国から強奪してきた金塊類は、フィリピンの地下に退蔵することになった。
敗色が濃厚になると、日本軍は、フィリピン国内に175カ所のトンネルサイトを構築し、それらのサイトに分散退蔵して、終戦直前にすべてのサイトの出入口を爆破した。
トンネルサイトの所在を示す地図は、キムスこと竹田宮が潜水艦で日本に持ち帰った。
金塊類は、天皇家所有の財産という意味で、1937年に「金の百合」と名づけられた。
宮中の歌会始の御題が「ゆり」だったのだという。

シーグレーブ夫妻は、自分たちは、次のような秘密の情報をもとにしていると言っている。
第一は、裁判資料とマルコス元大統領がマラカニアン宮殿から持ち出し忘れた資料とを照合して浮かび上がった情報である。
第二は、「金の百合」を国家予算の裏資金として活用した日本の大蔵省(政治家田中角栄)発行の債券を巡って、シティバンクほかの銀行と争ったアメリカの元司法省次官で弁護士のノーバート・シュレイたちの法廷闘争資料である。
第三は、終戦直前にフィリピンで山下大将の運転手から「金の百合」の在処を知った元アメリカ陸軍情報部軍人のサンティなる人物とワシントン政府関係者との間で交わされた資料である。

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2009年6月 2日 (火)

天皇の金塊(2)ゴールデン・リリーと霞ヶ関埋蔵金

高橋五郎氏は、『天皇の金塊』学習研究社(0805)の中で、フィリピンと日本の金塊の関係を題材にした2冊の著書を紹介している。
『失われた金塊の略奪者たち』(“Marcos Legacy Revisited:Raiders of the Lost Gold”)と『黄金侍たち』(“GOLD WARRIORS”)である。
前者は、死亡直前のマルコス大統領とイメルダ夫人をハワイで直撃取材したもので、著者は、エリック・サン・ファンというフィリピンの若手ジャーナリストである。
後者は、「天皇の金塊」が「ゴールデン・リリー(金の百合)と名付けられていたことや、昭和天皇の従兄弟たちが強奪金塊の回収管理に従事した事実の一部を明かしている、と紹介されている。著者はシーグレーブというアメリカ人である。
これらの著書が邦訳されていないのは、日本の出版界が天皇タブーに遠慮しているからだろう、と高橋氏は言う。

高橋氏は、自民党の元幹事長・中川秀直氏が、「予算が足りなければ“霞ヶ関埋蔵金”を使えばいいじゃないか」と発言したことに触れている。
特別会計と霞ヶ関埋蔵金については既に触れたことがある(09年2月8日の項)。
しかし、高橋氏は、新聞や政府実力者たちすら本当のことをまったく知っていなかったようだ、と書いている。
本当のこととはどういうことか? 
高橋氏は、この資金こそ、「天皇の金塊」を砕いた一部分から生まれた果実、つまり利息のことだ、と説明している。

中川発言に対して、与謝野馨氏が、「どこの特別会計を調べても、そんなお金は眠っていない」と批判した。
高橋氏は、それこそが、自民党が財政赤字を何で穴埋めしてかを隠そうとする余り、本音を語ったものとしている。
つまり、与謝野発言は、「そんなお金は実在する」という意味だというのである。

日本は、敗戦を認める2カ月前に、アジア12カ国から奪った巨万の富を、フィリピン各地の175カ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
1945年6月1日深夜、日本陸軍がフィリピン全域に設けた175カ所の地下貯蔵サイトの1つである「8号サイト」と呼ばれる地下倉庫の出入口が爆破され、崩壊した。
その中には175名の将官が別れの宴を催していたが、全員が生き埋めにさをれて死んだ。
彼らは、175ヵ所の地下サイトの責任者で、自分の持ち場を爆破処理して、8号サイトに集結していたのだが、騙まし討ちにあったのだ。

爆発直前に地下倉庫からエレベーターで地上に戻り、地鳴りを感じながら足早に立ち去る3人の男がいた。
その中の1人が、ベン・バルモス・ハーミンというフィリピン人で、深夜の現場で目撃したことを、アメリカの報道作家シーグレーブ夫妻に語り、夫妻がそれを上掲の『黄金侍たち』という著書にして公開した。
副題は、「山下財宝のアメリカ秘密回収」(“AMEICA'S SECRET RECOVERY OF YAMASHITA'S GOLD”)となっている。
ベンの証言によれば、ベンと連れ立って8号サイトから立ち去った2人の軍人の1人は、陸軍中佐・竹田宮恒徳(昭和天皇の従兄弟)で、もう1人は、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将山下奉文だった。

8号サイトを爆破した日からおよそ3カ月後、山下陸軍大将は米軍に投降し、竹田宮は6月に潜水艦で帰国した。
竹田宮は、戦後臣籍降下して、竹田恒徳となった。
竹田宮を、ベンはキムス・ムラクシと呼んでいた。
ベンは、シーグレーブ夫妻が持参した皇室アルバム写真を見て、直ぐにキムスを識別した。
さらに、秩父宮雍人陸軍少将、三笠宮崇仁陸軍参謀、朝香宮鳩彦陸軍中佐などの顔について、見覚えがあることをシーグレーブ夫妻に告げた。
これらの皇族たちは、1943年にマニラで開かれた会議の参加者だった。
会議の内容は、天皇の名のもとに、陸軍と組織化された日本のヤクザ集団たちが、中国の地下組織と組んで、アジア12カ国の政府の金庫などから略奪した「金の百合」をフィリピン全域の地下施設に隠す手順と進捗状況を確認するためのものだった。

チャコと呼ばれていた秩父宮は、アジアでの金塊と財宝の秘匿作戦の総司令官であり、マニラ郊外の地下サイトの監督責任者だった。
キムスこと竹田宮は、秩父宮を補佐する立場だった。

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2009年6月 1日 (月)

天皇の金塊(1)世界大戦の戦費は日本が賄った?

「M資金」の原資というのか、あるいは似たような話というべきか、「天皇の金塊」と呼ばれる資金があるという。
高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社(0805)は、その由来と顛末を描いた作品である。
奥付の著者略歴により、高橋氏の人物像をみてみよう。

1940年、焼津生まれ。1960年代初期、コンピューター・チップや太陽電池を日本産業界に初紹介。1990年、人工血液の開発プロジェクトをプロモート。バイオ・タイム社と南カリフォルニア大バークレイ校による産学協同実験を成功させ、記録映画を全世界に配信。著書に『ゼロ戦黙示録』(光人社)、『ミカドの国を愛した超スパイベラスコ』(徳間書店)などがあり、近著には『スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体』(学習研究社)がある。

情報通というのか、先端情報や裏情報に通暁した人のような感じの人のようである。
高橋氏の情報源の1つが、元ナチス・ドイツのスパイであるスペイン人・ベラスコという人物である。
高橋氏によれば、ベラスコは、南欧系・熱血漢で、戦時中、戦費の調達目的で、参戦国の戦費融資に協力する国際決済銀行BISによく出向いた。
ベラスコは、南米スペイン語圏の諸国と太平洋の島嶼を活動範囲に含んでいた。

高橋氏は、1988年に、日本人の国際金融ブローカーから、昭和天皇(日本皇室)所有で知られた金塊が、現在もフィリピン山中に隠匿されているという話を聞く。
高橋氏は、その当時、地下壕に隠されたゼロ戦探しを行っていて、国際金融ブローカーから、地下壕探査の知識と経験を、フィリピンでの金塊回収に役立ててくれないか、という依頼を受けた。
国際金融のプロたちは、フィリピンの密林から回収した金塊を、現金で買い上げたり、港に近い場所に確保していた。
フィリピンの新興財閥というのは、この「天皇の金塊」を掘り当てた山師のことだとも言われている、という。

土中から引揚げれた金塊は、鋳造して純度を高め、香港で取引される。
フィリピンにある精錬所の株主の大半は、チェース・マンハッタン銀行はじめ欧米の銀行で、しかるべき精錬所の手を経ないと、国際市場で流通する金塊は生まれない。
フィリピンの有力な精錬所は、マッカーサー家が経営するベンケット精錬所で、クラーク航空基地やスービック軍港が、金塊輸送に使われている。

高橋氏は、1980年の初頭に、ベラスコから、「昭和天皇の名義とされる秘密マネーが、バチカン系の銀行で運用されていた」という話を聞く。
それを、高橋氏は、ベラスコが真相を隠すために語ったのだと思うようになる。
ベラスコが隠したかった真相とは、「世界大戦に参戦した諸国の全戦費を、結果的に日本が賄った」ということだ。
高橋氏は、次のように書いている。

だが、私は80年代後半から現在までに北海道の地下壕に隠された金塊と、フィリピンの密林に隠された金塊の氏素姓を知り、それらの回収状況も知るようになった。特に「天皇の金塊」の回収事実が社会的な話題にならなかったのは国際金融ブローカーたちが回収を内密で進めてきたことにある。私は次々に回収される「天皇の金塊」が金融債券に化け、「M資金」だの「償還金」だのといった名目で政財界に黒いカネとして極秘に流通しつづける様子を国内で眺めつづけた。「天皇の金塊」は天文学的なデリバティブ取引の担保として市場を支えたのだ。

どういうことか?
高橋氏は、満州や中国アジア全域の諸国に、天皇の名において日本軍を侵攻させ、金銀財宝強奪を代行させ、その全責任を日本に被せながら、奪った金塊類は勝利国がすべて手中にする、というシナリオを示している。
余りにも通説的な理解とかけ離れた話である。

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