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2009年5月20日 (水)

実業の思想(1)享保商人

虚業を、実業に非ざるもの、として規定するとすれば、実業とはどういうものかを明確にしないと虚業を規定したことにならない。
山崎和邦『詐欺師と虚業家の華麗な稼ぎ方 人はこうして騙される』中経出版(0511)は、わが国における実業思想は、享保商人から始まったとする。
つまり、戦国時代の海賊まがいの豪商や政商、元禄時代の紀伊国屋文左衛門のような投機家的商法から脱却して、「実業」がその姿を現したが享保の次代であるとする。

享保とはどのような時代か?
享保といえば、思い浮かぶのは徳川吉宗の「享保の改革」であるが、江戸時代全体の中での享保の位置を見てみよう。
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徳川将軍家は15代続いたことからしても、まさに江戸時代の真ん中の時期ということになる。
「享保の改革」について、Wikipedia(09年4月7日最終更新)を見てみよう。

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に行われた幕政改革。8代将軍徳川吉宗が主導した諸改革で、在任期間の1716年から1745年の年号に由来する。宗家以外の御三家紀州徳川家から将軍に就任した吉宗は先例格式に捉われない改革を行い、寛政の改革天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つと呼ばれる。財政安定策が主眼であった。

享保に先立つ元禄は、いわばバブル経済の時代であった。
高度成長末期は、「昭和元禄」などと称されたが、江戸時代の元禄は、紀伊国屋文左衛門に象徴される一発屋的請負業と政治権力との結託、特定少数を相手にした交渉や駆け引きによる値決めによって、大幅な利益を得ようとする一回勝負の商いであった。
因みに、紀伊国屋文左衛門は、生没年がはっきりせず、人物伝には不明な点が多くて、半ば伝説上の人物であるが、その伝説の中心は、和歌山のみかんの投機的なビジネスだった。
次のように解説されている(Wikipedia(08年11月29日最終更新))。

文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。
収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。
江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格が暴落した。
紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。
文左衛門は、大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで船出した。
大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。
ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。
大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って、先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」とデマを流し上方に戻った。
デマを信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。
紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開き、明暦大火の時には材木を買占めて一気におよそ百万両を手にした。
こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。

享保に入ると、ゼロ成長時代となる。
一回限りの大儲けを意図するよりも、顧客との間に継続的な関係を築き上げることに主眼が置かれた。
いわば、固定客・リピーターの重視である。

1673年に江戸で呉服屋を開業した越後屋三井の三井高利が、享保型商人の始祖とされる。
三井高利は、掛売り・掛値が当たり前だった商慣習の中で、現金・定価販売方式を導入し、一反単位ではなく、買い手の必要な量に応じて販売する「切り売り」方式を導入した。
商業における大きなイノベーションだった。

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