裁判員制度と量刑判断
福岡市で平成18年8月に起きた飲酒運転事故事故に対して、福岡高裁は、危険運転致死傷罪の成立を認め、懲役20年の判決を言い渡した。
同罪を認めなかった福岡地裁の懲役7年6月という判決に比べ、3倍の量刑ということになる。
地裁と高裁の判断の分かれ目はどこにあったか?
飲酒の程度、運転の状況と事故の状況などに関して、事実認定は、地裁と高裁との間に差異はないと考えていいだろう。
要は、飲酒していた被告が「正常な運転が困難な状態」だったかどうかの判断の違いである。
地裁は、事故を起こすまで、狭い道を無事故で運転した点や、事故直後、ハザードランプをつけて降車したり、携帯電話で友人に身代わりを頼んでいることなどをもって、相応の判断能力を失っていなかった、と判示している(08年1月9日の項)。
しかし、である。
狭い道だって、飲酒を自覚していれば、普段より慎重に運転するだろう。
身代わりを頼むことが相応の判断能力の証拠になるのか?
それでは、隠蔽の奨励のようなものである。
むしろ友人を巻き込もうとすること自身が、相応の判断能力を失っていると考えるべきではないのか?
高裁は、同じ運転状況に対して、「前方の注視が困難な状態で、先行車が間近に迫るまで認識できず、アルコールの影響で正常な運転が困難だったとしか考えられない。脇見が事故原因とした一審判決の事実認定は誤りだ」と判断した。
運転状況に関する認識では、高裁の見方を支持したいと考える。
本件に関して、危険運転致死傷罪の適用を認めなかった地裁判断を、「非常識な判決」と批判したことがある(08年1月9日の項、4月23日の項)。
今回の高裁の判断は、危険運転致死傷罪を認定したことにおいて、より妥当なものであると考える。
しかし、である。
いよいよ導入が始まる裁判員制度との関連で考えるとどうだろうか?
もし、私が裁判員に選定され、この事件に係わったとしたらどうだろうか?
地裁の場で、裁判官の意見に反対して、危険運転致死傷罪を主張できただろうか?
おそらくは大いに迷ったことだろう。
判断に迷ったら、被告の利益を重視すべきか?
しかし、本件を危険運転致死傷罪に問わないとすれば、同罪を定めた意義はどこにあるのだろう?
迷いに迷った末に、それでも危険運転致死傷罪を主張しただろうとは思う。
次の問題は、危険運転致死傷罪を認定した上で、量刑をどう判断するか、である。
本件に関しては、いわゆる市民感情として、今回の高裁判断を支持したいという気持ちになりがちである。
しかし、である。
量刑は、この事件のみで考えていいのか?
つまり、他の事件とのバランスである。
専門家は、以下のようなコメントを寄せている。
メディアコメントも多い日大大学院法務研究科の板倉宏教授(刑法)は、判決について、「25年いっぱいの懲役刑はありえないことですが、それでも、かなり厳しい判断だと思います」と感想を話す。
この事件は、結果的にひき逃げしたとしても、殺すために故意に追突したという殺人案件ではない。板倉教授は、「殺人でも、こんなに重くなりません。懲役10数年になることが多いです。傷害致死3人でも、懲役20年はなかなかありません。遺族や市民の処罰感情を反映したものでしょうが、自動車の事件に限って重い感じがします。(高裁は)危険運転致死傷罪を適用する前提で事実認定したとしか思えませんね」と言う。
http://www.j-cast.com/2009/05/15041250.html
裁判員となった一般国民の多くは、職業法曹に比べ、より強く「遺族や市民の処罰感情を反映」することになるのではないだろうか?
少なくとも、私はそうなりがちだと、自分で思う。
裁判員制度の趣旨が、「遺族や市民の処罰感情を反映」するためのものであるならば問題はないが、そうではないだろう。
裁判員制度によって、量刑判断の公平性が損なわれるのではないかというのは、杞憂に過ぎないのだろうか?
また、次のような意見もある。
交通事故死者数は、自動車保有台数に比例する物理的な問題である。
交通事故の防止を、「被害者対加害者」「当事者同士の注意」という関係で捉えているかぎり、どんな対策も、本質的な交通事故対策とはならない。
公共交通や、徒歩・自転車で暮らせるまちづくりを促進し、自動車に依存しない交通体系を作ることが、真の交通事故防止である。厳罰化を強調するのは、交通行政に対する本質的な論点が提起されることを避けるための世論操作であり、マスコミは注意して対処すべきである。
http://www.news.janjan.jp/living/0801/0801098680/1.php
(図は、http://www.news.janjan.jp/living/0703/0703041018/1.php)
国民皆ドライバーともいうべき状況において、厳罰化という世論の方向だけでは問題は解決しない。
交通事故という身近な問題に関しても、量刑判断に迷うことになるだろう。
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