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2009年4月14日 (火)

文明の情報史観

梅棹忠夫さんが「情報産業論」(09年4月10日の項)に関連して、大学で講義を行ったのは、昭和46(1971)年に、九州芸術工科大学において行った集中講義だけだという(『梅棹忠夫著作集(第14巻)』中央公論社(9108))。
その時のメモをもとに、『中央公論』の1988年2月号に、「情報の文明学-人類史における価値の転換」と題する論考が掲載された。
超長期的な人類と情報との係わりに関する梅棹さんの考えを整理したものである。(『情報の文明学』中公文庫(9904)所収/元版は、中公叢書(8806)/『梅棹忠夫著作集(第14巻)』中央公論社(9108)所収)。

「情報の文明学」の論旨は、以下の通りである。

文明とは、人間と人間をとりまく装置群とでつくる、ひとつの系である。システムである。装置群とは、具体的な器物や構築物のほかに、諸制度あるいは組織をもふくめることができるであろう。つまり、人間が人工的につくりだしてきたすべてのものである。人間の歴史的なありかたとしては、このような、人工的につくられた環境にとりかこまれて存在するものといえる。
人類が発生した初期の段階では、人類は他の動物とおなじように、自然環境のなかで存在していた。その場合も、人間は自然環境とのあいだでシステムをくんでいた。そのような人間-自然系でつくりだしたシステムを生態系と名づけ、それに対して、その後の人類がつくりだした人間-装置系のことを、文明系とよぶことはゆるされるであろう。そして人類の歴史は、生態系から文明系への進化の歴史であった。このようなかんがえかたにもとづいて、わたしはまえに文明学という、あたらしい研究領域の樹立を提唱したのであった。
文明の歴史は、人間・装置系の自己発展の歴史である。人工的につくりだされた環境としての装置群に着目すれば、それは諸装置の開発と蓄積の歴史である。人間は自然につよく影響されながらも、そのなかで装置群の開発をすすめ、文明系を発展させてきたのであった。
……
人類史におけるひとつのおおきな飛躍は、農地という装置と制度をつくりだしたことであろう。農耕の発生は、人類の文明史における一大転換であった。農耕地と農業の確立によって、人間は、安定した食料生産を可能とする人工的環境をつくりだしたのであった。
人類の文明の歴史において、もうひとつの転機となったのは、工業の発展であった。工業によって、おびただしい装置群が開発され、蓄積された。人間をとりまく人工的環境は文字どおり一変し、人間-装置系としての文明系は、大変革をとげたのである。
わたしはまえに「情報産業論」という論文において、農業の時代、工業の時代を、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代としてとらえ、生物体としての人間の、機能充足の過程として理解できることをのべた。最後に、外肺葉産業の時代として、情報産業の時代の出現を位置づけたのである。この、生物的機能の充足という過程は、そのまま文明系の発展の過程としてとらえなおすことができる。文明系における装置群の発展と蓄積によって、人間はついに、この一連の過程における最後の段階に達しようとしているのである。

まことに壮大で巨視的な議論であり、検証のしようもないだろう。
しかし、きわめて説得力の高い認識だと思う。
梅棹さんの歴史認識に関する論文としては、「情報産業論」に先だって、1957年に発表された「文明の生態史観」が有名である。
この論文は、歴史の法則性について、梅棹さんの専門の比較民族学の研究を踏まえ、世界の諸文明の発展について、空間的・地理的観点を中心に展望したものである。
生態学の理論をモデルにしており、発表当時から論壇を中心として大きな反響を呼んだ。

生態学とうのは、生物の共同体における生物同士や環境との関係の法則性を対象とする学問である。
その中心概念の1つに、一定の条件のもとでは共同体の生活様式の発展が一定の法則にしたがって進行する、というサクセッション(遷移)の理論がある。
これを歴史に適用すると、地理的・風土的な条件の違いが、歴史の発展の仕方に影響するということになる。
一種の環境決定論と言えるかも知れない。

歴史の発展には、地理的・風土的要因を越えた共通の法則性があるのかどうか。
唯物史観のように、発展法則を単一だと考えれば、歴史的な状況の違いは発展段階の違いに過ぎないことになる。
最終的に行き着く姿は同じである。
これに対して生態学的史観は、発展の仕方自体の多様性を認めようという考え方である。
それが状況の違いを生み出していると見るのである。

第二次大戦後の歴史観を支配し続けてきたのは、戦前・戦中の皇国史観の裏返しとも言うべき西洋中心主義的な進歩史観であった。
その典型が、「原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒近代資本制⇒共産制」という発展図式をベースとするマルクス主義の唯物史観である。
この場合、発展の基準は、西欧的近代文明であり、文明化とはすなわち西欧化である。
だから、アジア的というのは、後進的の代名詞である。

もっとも、西欧的近代文明を先行モデルとするのは、明治維新以来の考え方でもある。
西欧に追いつき、追い越せ。
ところで、追いついた後、追い越した後の姿をどう構想するか?
現在の日本の混迷は、その構想力の欠如にあるといえるのではなかろうか。

梅棹さんの「生態史観」は、西欧中心的な発展史観を根本から覆すものであった。
梅棹さんは、世界を「近代文明」へ進化した地域と、それと異なる文化形成を行ってきた地域の2つに分けた。
両者は、異なる社会構造を持っているのであって、「発達-未発達」という関係にあるのではない。
その意味で、日本は,「近代文明」へ進化を遂げた地域であって、アジアの同族ではない。
つまり、文明の生態史観は、「脱亜入欧」という日本近代史のコンセプトを正面から否定するものであったと位置づけることができる。

「文明の生態史観」は、地理的・風土的な条件の違いによる歴史の発展の仕方の際を論じたものであり、歴史の発展法則の空間的・水平的な側面に関するものであった。
これに対して、「文明の情報史観」は、歴史を動かす原動力としての「情報」の重要性を説いたもので、歴史の発展法則の時間的・垂直的な側面を論じたものと言えよう。

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