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2009年4月 7日 (火)

マスメディアの社会的影響力

このところ、西松建設献金問題や北朝鮮の人工衛星(ミサイル)発射問題など、マスメディアから流れる情報が、とりわけ大きな社会的影響力を持っているように感じる。
マスメディアの代表は、新聞とテレビだろうが、テレビ放送の持つ文明史的意義をいち早く指摘したのは、梅棹忠夫さんだった。
梅棹さんが、『放送朝日』という雑誌に掲載した「放送人の誕生と成長」(6110)(『梅棹忠夫著作集(第14巻)』所収)という論文である。
また、同論文で、今では普通に使われている「情報産業」という言葉が、初めて使われたことも記憶に留めておく価値があるだろう。

日本の放送事業は、戦前においてはNHKラジオしかなかった。
昭和26(1951)年に、民間放送会社がラジオ放送を開始し、昭和28(1953)年にNHKがTV放送を開始する。
同じ年に、民間放送もTV放送をはじめた。

大阪にも民間放送会社が誕生し、昭和31(1956)年2月に大阪テレビ(OTV)が本放送を開始した。
OTVは、のちに朝日放送(ABC)と毎日放送(MBS)とに分かれて現在に至っている。
朝日放送は、『月刊・朝日放送』という広報誌を発行していた。
上掲書の「月報」で、元『放送朝日』編集者の五十嵐道子さんは、同誌は昭和29(1954)年から『放送朝日』と名称を改め、内容も友の会的広報誌から、オピニオンリーダー向けに変えたと回顧している。

五十嵐さんによれば、梅棹論文は次のような反響を生んだ。

この論文は、民放発足後十年、トライアル・アンド・エラーを繰り返していた、民放人や広告業界に働く人々にとって、自らを知るための名文として好評を博し、編集部にも問い合わせが殺到した。

梅棹さんは、この放送人という新しく誕生した職業集団に関して、文明史的な考察を意図して論文を執筆したと自ら書いている。
とはいえ、まだ誕生して十年という段階での考察である。
文明史的といっても、予見を含めての見解である。
梅棹さんの見るところ、放送人たちの仕事は、創造的でエネルギッシュである。
しかし、放送してしまえば何も残らない放送という仕事は、果たしてそのような激しい創造的エネルギーの消耗に値するものなのか?
彼らのエネルギー放出を正当化する論理的回路は何か?

梅棹さんは、放送という仕事の本質を追求する。
民放は商売ではあるが、いったい何を作って、何を売っているのか?
商売として放送を考えた場合、最大の問題点は、「効果がわからない」ということである。
視聴率の調査はあるが、視聴率が高かったからといって、スポンサーの売っている商品が売れるとは限らない。
つまり、商業放送の「効果」の商業的側面は、どこまでも間接的で、直接検証できるものではない。

それでは、放送人は、何に生きがいを求めてあれだけのエネルギーを注入するのか?
梅棹さんは、番組の商業的効果が不明だとしたら、その文化的効果ではないのだろうか、という仮説を立てる。

ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。そして、放送の「効果」が直接に検証できないという性質を、否定的ではなしに、積極的に評価したときに、放送人は誕生したのである。もし、放送の商業的効果をあげるだけならば、それは広告宣伝業である。放送人の内的論理は、広告業のそれとはあきらかにちがっている。

梅棹さんは、このような放送人の社会的存立の論理に、従来の職業のなかで最も良く似ているのは、学校の先生ではないか、という。
教育という仕事も、非常に創造的エネルギーを要するものではあるが、その社会的効果の検証ははなはだ困難である。
上級学校への進学率などはテレビの視聴率のようなもので、効果の内容とは本質的には無関係である。
教師の社会的存立を支えている論理回路は、教育内容の文化性に対する確信以外にはないだろう。
とすれば、放送人も一種の教育者ということになる。
つまり、放送事業は、聖職の産業化である。

ここで、文化的価値というのは、倫理的・道徳的価値とは尺度がまるで異なっている。
それは、もっともひろい意味での「情報」の提供である。
新聞と放送を対比するとどうか?

情報の提供には、報道的要素と評論的要素とがある。
新聞は、そもそも政治評論としてスタートしているが、次第に報道的要素が強くなってきた。
しかし、まだまだ評論的要素が少なくない。社会の木鐸という言葉は、新聞に対して使われる。
これに比べると、放送は、単に情報の伝達者である。
社会の教化者としての意識はなく、音と映像のセットを提供する産業人である。

報道という面に関して、新聞と放送の異同は何か?
新聞は、速報性をラジオ、テレビに譲らざるを得ないが、それでも報道中心に編集するほかはない。
これに対して放送は、速報性は持つものの、むしろ娯楽番組、教養番組などが圧倒的な分量を占めざるを得ない。

放送業は、現代日本のフロンティア産業である。
彼らが対象としているのは、肥沃な新しい開拓地である。
放送人は、その開拓地に独特の文化を樹立しつつあるパイオニアである。
放送業は、戦後日本の経済成長とともに成長してきた産業である。
しかし、いずれは開拓地も熟地化する。
熟地化とともに矛盾があらわれてくるだろう。そのときに、初期の開拓者たちの真価が問われる。

さて、現在の放送人は、初期の開拓者の遺産をどう活用しているであろうか?
新聞も含め、マスメディアの報道に批判的な精神が薄いような気がするが如何だろうか。
梅棹さんの論文は、半世紀近く前に書かれたものであるが、現在でも多くの示唆を与えてくれるように思う。
梅棹さんの視野の広がりと遠望を改めて感じさせられる。

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