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2009年4月

2009年4月30日 (木)

M資金とCIA

安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)に、1994年10月10日の各紙に報道された記事が紹介されている。
要旨は、米ソ対立の冷戦下の1950~60年代にかけて、CIAから自民党に、数百万ドルの資金援助がなされていた、というものである。

上掲書では、主として朝日新聞の記事から、以下のような内容を取り上げている。
(1)1955年から58年まで、CIAの極東政策の担当者だったA.C.ウルマー・ジュニアが、自民党に資金援助をしていたことを認めた。
(2)1966年~69年に駐日アメリカ大使を務めたジョンソン大使が、69年まで援助が続いていたことを認めた。
(3)1958年7月29日、駐日アメリカ大使だったマッカーサー二世がアメリカ国務省宛に送った手紙に、「佐藤栄作蔵相(当時)が、共産主義と戦うために資金援助が必要だ」と書かれていた。
(4)アメリカの内部文書で、CIAの中に、1958年4月11日に、自民党の選挙資金工作担当の特別グループが作られていたことが発覚した。

上掲書では、この年の6月岸信介政権が発足していることに注意を喚起している。
岸は戦犯で巣鴨プリズンに収容されていたが、東条元首相らが絞首刑になった翌日、釈放されている。
同時に釈放されたのが、児玉誉士夫や笹川良一らである。
岸は、釈放後、親米一辺倒になるが、安田氏は、「弱みを握られたのではないかと疑いたくなるほど」と表現している。
児玉誉士夫が、ロッキード社の秘密代理人であったことを考えると、あながち当てずっぽうの推測ともいえないと思う。

マッカーサー大使が東アジア担当のパーソンズ国務次官補に出した手紙では、佐藤栄作は、1957年にも資金要請をしている、としている。
安田氏は、佐藤栄作が、日米安保条約改定交渉に入ろうとする時期に、このような要請をした背景に、東京湾から引揚げられた金塊の存在があったのではないか、と推測している。

マッカーサー大使は、安部正人という人物に、「水谷の言っていることは正しいが、それを通すと日本国は太平洋に沈んでしまう」と警告している。
マッカーサー大使は、ダグラス・マッカーサー元帥の子供で、忠実なフリーメーソンであり、この金塊がユダヤ機関であるCFR(外交評議会)に極秘に収まって運用されていることを知る立場にあった、としている。
金塊とCFR,ユダヤ機関との関係については、09年2月15日の項2月23日の項で触れた。
水谷とは、新日本党総裁だった水谷明のことで、「金塊返還同志会」を作って金塊返還運動に最も熱心だった人物である(09年1月16日の項等)。
安部正人とは、マッカーサー元帥に影響力があるとして水谷が紹介された人物で、安部仲麻呂38世として大分県に生まれたとされる人物である。
江戸城明け渡しの西郷・勝階段を斡旋した山岡鉄舟の身内で、インドのガンジーとも親しく、一緒に逮捕されたことがある。
マッカーサー元帥が武官として駐日大使館に勤務していた頃、鉄舟の家に書生として住み込んでいた安部はよく会っていた。
マッカーサー元帥の占領行政のコンサルタントとして活動し、天皇を処刑し、天皇制を廃止しようとしていたマッカーサーを翻意させた人物とされている。

上掲書では、CIAが自民党に資金を出したのは、日本の権力者の当然の要求で、アメリカ政府は答えざるを得なかったのだ、としている。
さらに、アイゼンハワーを大統領にしたのはユダヤ資金の力で、内閣の大半はCFRのメンバーか関係者であり、むしろアメリカ側から資金提供を言い出し、金塊奪取を隠して日本を懐柔するために支払った可能性も考えられる、ともしている。
毎年百万ドルずつ5年間渡したとすれば、当時のレートの360円/ドルで、物価上昇率を10倍とみれば、合計1800億円となり、引揚げた金塊の評価額は不定だが、2200~2300億円という説が妥当な線であり、とすれば反共政権を維持するために、東京湾から揚がった金銀塊をCIAの秘密ルートを使い返済した、という想定が成り立つことになる。

上掲書は、以下のような言葉で締めくくられている。

CIAからの秘密資金はケネディ、フォード政権に至るまで、日本の政権党に渡していたことが、、やがて秘密外交文書の公開やら米国側要人の証言で明るみに出てきた。にもかかわらず国会もマスコミも、間もなく取り上げなくなった。
社会党には旧ソ連共産党からカネが渡っていただけでなく、CIA要員が身分を隠して侵入していた。社会党だけでなく、米諜報機関はあらゆる分野に浸透していたから、下手に突つくと自分の身も危険になるということなのか。あと数十年も経てば、東京湾金塊事件の関係者は老いたり死去したりして、すべての歴史的事件と同様解明されずに消えていくことだろう。

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2009年4月29日 (水)

日本経済の復興に対する外国資本関与の可能性

国際情勢の見方に関して、国際的な陰謀組織が関与しているというような見方がある。
いわゆる陰謀論といわれるものである。
陰謀論にはいくつかの類型があるが、以下のようなものが代表的なものだろう。
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe600.html

◆ユダヤ陰謀論: 偽書『シオンの長老の議定書』などをふりまわし、何でもユダヤの陰謀にしてしまう説。この手の単純なデマゴギーを真に受ける日本人が多いのには、驚かされる。先日、日本で働いているイスラエル人と話したが、彼は「相当に知的レベルの高い日本人まで、この手の陰謀論を信じているのには参った」とうんざりしていた。全世界1500万人のユダヤ人が単一の陰謀をめぐらしているなどというのも信じられぬ話である。
◆ロスチャイルド陰謀論: ユダヤ系財閥の中でも、もっともエスタブリッシュメント的であるロスチャイルド財閥を陰謀の中枢とする説。たしかにロスチャイルド家の系図の広がりは膨大である。しかし、そのことが必ずしもロスチャイルド家の権力もしくは影響力を実証することにはならないのではないだろうか。血が拡散し、血縁が増えるということは、ファミリーの結束力が弱まり、その力が分散し、他のファミリーの影響力が侵入してくるということでもある。
◆ロックフェラー陰謀論: アメリカの、いわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)エスタブリッシュメントの中でも、もっとも名門のロックフェラー財閥を世界的陰謀の中心とする説。ロックフェラー家は厳密にいえば、南ドイツ出身のプロテスタント系のファミリーで、アングロサクソンではないが、広義におけるワスプ・エスタブリッシュメントの一員といえる。ロックフェラー財閥は、後述のように、時代の先行指標として注目すべきだが、決して単一の陰謀の中心になるほどの力はない。
◆日米欧委員会・CFR陰謀論: この2つは、いわゆるロックフェラー陰謀論のバリエーションである。

M資金についても、ロスチャイルドとの関係が語られていることについては既に触れた。
高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)は、富士製鉄事件の裏に、世界和平連合会という財団法人が関与している、という話を紹介している。
富士製鉄事件の主役とされる山崎勇が事務局長で、猪島リツという女性が会長をしている財団である。
住所は、港区三田3丁目4番20号三豊ビル403号。外務省認可の財団である。

高野氏は、登記簿謄本の旧役員欄の設立当初の理事をみて驚く。そこには、以下のようなメンバーが名を連ねていた。
牛場信彦:元駐米大使。福田赳夫内閣の対外経済相。
今井博:通産省局長から開銀理事を経て、日本曹達会長から同社相談役。
筒井密義:元PTA全国協議会副会長。日本医療器社長。
寺中作雄:文部省局長から国立競技場、国立劇場各理事長を経て、杏林大学常務理事。
門屋博:戦前に共産党員から転向して、南京政府顧問として上海の特務機関で活躍。戦後は、日本通商を拠点にキャノン機関n指揮した大陸との密輸工作に従事。有名な「飛騨3兆円事件」(09年4月17日の項)の舞台となった六本木のJIAという団体のメンバーでもある。
首藤信成:世界のウラン鉱の何割かを抑えている最大の鉱山会社であるリオ・ティント・ジンク・ジャパン会長。同社は、ロスチャイルド財閥の中核をなす多国籍企業である。

猪島は、富士製鉄からのリベートの受け皿を作ろうと、香港で社団法人を作ることを目論見るが、うまく行かず、日本で財団を作ろう、ということに転換した。
しかし、富士製鉄との間がこじれてしまい、この財団自体が外資特別枠から3兆円を30年間無利子で借りて、基金として運用しようという話になった。
イギリスのロスチャイルド、アメリカのロックフェラー、シンガポールの華僑共団体シャーから、各50億円の寄付をもらって発足するということで財団設立の申請をした。

しかし、外務省が、猪島らの事業計画書を認めるはずもなく、上記のような理事を揃えて、3億5千万円という常識的な資産でスタートした。
この財団の発会式は、芝の東京プリンスホテルで行われ、ロスチャイルド財閥の当主のエドムント・ロスチャイルド(前列右から2番目)が姿を現した。
2_2
今井博元開銀理事は、なぜ猪島リツのような怪しげな人物と行動を共にしているのか?
富士製鉄に5000億円が入ったのを見て、山崎から融資を引き出そうとした、と証言する関係者がいる。
今井は、知人を誘って山崎に工作資金を渡していた(今井自身は1000万円)。
しかし、山崎はその金を借金の返済と遊興に費消してしまう。
今井らは、それを知って、財団を作って富士製鉄からリベートを取って、山崎に渡した金を取り戻そうとした。

高野氏らのインタビューに応じた今井博は、「外国資本が蓄積円で興銀のワリコーを買い、その分の融資先を指定するというようなことがあるか?」という質問に、「あると思う。われわれだってその手のことはやっている」と答えている。

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2009年4月28日 (火)

ユダヤ資金と富士製鉄事件

高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)には、昭和42(1967)年、水田大蔵大臣の時代に、ロスチャイルドを中心としたユダヤ財閥の資金が日本に流入した、という「根強い噂」についての検討が加えられている。
原資は100億ドルであるが、100億ドルのキャッシュが持ち込まれた、というわけではない、といくつかの融資話に関与したとされる高級ブローカーは語る。
それは、在日外資銀行が管理している石油メジャーズの日本での売り上げを裏金で運用するとか、日本企業が東南アジアで投資するについて、シンガポールの華僑グループからの振り替え融資の形をとるとか、形態はいろいろあるが、100億ドルの融資枠が設定されたということだ、と説明する。

ユダヤ財閥は、昭和42年の時点でベトナムに見切りをつけて、アジアの冷戦は終わるとみた。
これからは、中国の資源と市場をどう抑えるか。
ニクソンがベトナムをあきらめて、グアム・ドクトリンを発表したのが昭和44年、キッシンジャーの対中国忍者外交が昭和46年だった。

有名なM資金話として、富士製鉄事件がある(09年4月17日の項)。
上掲書には、この事件の顛末が詳しく記述されている。
おおよそ、以下のような内容の事件である。

昭和45年9月13日付の『毎日新聞』は社会面の大半を費やして、富士製鉄をめぐる詐欺事件を報道した。
合併前の富士製鉄を舞台に、架空の「5000億円特別融資」話をデッチ上げ、その斡旋料として、125億円が入るともちかけて、一流企業の社員から2200万円を詐取したという事件が起きた。
警視庁は、一味の1人を8月下旬に逮捕し、中心人物を全国指名手配した。
捜査の過程で、富士製鉄だけでなく、日本興行銀行、大蔵省、日銀などの名前を勝手に使い、融資交渉があったかのような怪文書を作成し、「リベートを寄こせ」という趣旨の内容証明を郵送したり、自宅を訪問したりして嫌がらせを繰り返すなどの、壮大な詐欺事件を演じていたことが分かった。

指名手配された中心人物は、山本徹こと山崎勇という人物である。
山崎らは、昭和44ン1月、ユダヤの国際組織フリーメーソンの極東平和基金から、興銀を経由して富士製鉄に5000億円を融資した。
その証拠として、富士製鉄の藤木竹雄専務の署名・捺印入りの融資依頼書と念書、交渉経過を記した64ページの記録などを持ち歩いていた。

毎日新聞の論調は、「途方もないデッチ上げ」「大サギ劇」ということで終始していた。
しかし、この記事には、不可解な点がいくつかある。
第一に、根も葉もない話にしては、山崎のリベート要求への執着があまりに強い。
富士製鉄側も、山崎の半年間のおよぶ「いやがらせ」に断固たる態度をとらずに甘んじている様子が窺える。第二に、毎日の記事中に、山崎の持ち歩いていた「経過報告書」に、元農林中金N部長が登場しているが、当のN氏は、「たしかに富士製鉄を訪れ、藤木専務の念書を受取、山本(=山崎)に渡したと語る、という箇所がある。
N氏というのは、農林中金の業務部長を務め、昭和35年に退職した野崎正良という人で、信頼できる人物と考えられる。
彼が、藤木念書が本物であるとするならば、毎日の記事の論調が引っくりかえる可能性があるにも拘わらず、毎日は、この重大証言を黙殺してしまっている。
第三に、毎日の報道が出てから10日後の9月23日に山崎は逮捕されたが、3週間後に処分保留のまま釈放されている。
これだけの大サギ劇を演じているのだから、私文書偽造か恐喝未遂ぐらいには問えたはずで、2200万円を詐取された「一流会社の社員」からは被害届が出ていたはずである。

この事件を精力的に追及した『正論新聞』の三田一夫社長は、高野氏に次のように語っている。
「あの『毎日』の記事は、火消しの記事だ。つまり、山崎が捕まっていない段階で一方的に架空の大サギ劇と断定し、山崎だけを悪者に仕立て上げようとするものだ」。
三田一夫氏は、富士製鉄への融資は、実際に行われた、という見方に立つ。

実働部隊が、山崎勇、禰宜田貞雄、野崎正良、猪島リツらで、参謀格が、河野高徳というブローカー。
その上層に、興銀、大蔵省の次官・局長クラス、アメリカなどのユダヤ・グループがいて、融資が決定した。
ところが、山崎の動きが派手すぎたので、最後の詰めは、上層グループと永野重雄社長との間で行われ、交渉に当たった藤木専務も山崎グループもツンボ桟敷に置かれてしまった、というのが三田氏の推測だった。
富士製鉄事件は、全日空の大庭社長が辞任に追い込まれてからわずかに3カ月後に起きている。「

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2009年4月27日 (月)

旧M資金と新M資金

高野孟『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)に、社会福祉団体に務めている高野氏の学生時代の友人から、その財団の理事に、元代議士秘書がもってきた融資話が記載されている。
代議士秘書によれば、融資の方式には、AコースとBコースの2種類がある。

Aコースは、融資額1000億円~1兆円。資本金50億円以上の一部上場企業の社長もしくは会長個人が対象となる。
実際に入るのは、30~50%で、残りの50%程度が貸主に調整料として天引きされ、あとの50%は、30年~40年据え置きの定期預金にして、その利息で元金の倍近くの金額が戻る。
企業側の借りた分は、名義貸しの御苦労賃ということで返済不要ということになる。

Bコースは、一部二部上場もしくはそれに準ずる優良企業が対象で、100億円くらいから。調整料は10%程度で、年利3~4.5%程度で返済する。

さらに詳しい話を代議士秘書聞いた高野氏の友人は、高野氏に以下のような説明をする。
昨今のM資金の根っこはオイルダラーである。80兆円といわれるアラブの資金はいろいろな形で運用されているが、そのある部分が、アメリカの財務省の管理に委ねられていて、国防総省、国務省、CIAなどの協力で、日本、西ドイツその他で運用されている。
アメリカ政府としては、基幹産業、軍需産業を育成して、自由世界の安定をはかることが目的。
2アラブ諸国は、アメリカ政府のギャランティで運用できれば、それでいい。

高野氏の友人は、代議士秘書のいうBコースが、昔ながらのM資金で、73年のオイルショックの後にできたのが、新しい勘定で、Aコースではないだろうか、と説明する。
オイルダラーは、ジョン・マッセイ財団という石油メジャーズが持っている財団にプールしてあるのだという。

高野氏は自問する。
M資金の本体とは、単なる闇金融のことではないのか?
金主が、海外か国内か、あるいはいくつかのソースがまとめられているかは別として、自分の名前では出せないブラック・マネーの運用のカモフラージュではないのか?
しかし、これはと思われる話には、必ず、大蔵官僚や日銀幹部、首相・蔵相経験者の名前が出てくるのはなぜか?
佐藤栄作元首相が、心不全で急死したのは、M資金導入に絡んで、「必要以上の関心を持ちすぎたから、機関と在日CIA」にチェックされた、というのは業界の常識で、とすれば、はやり何らかの意味で「公的」なものなのか?

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2009年4月26日 (日)

巨額詐欺事件が発生する背景

M資金詐欺のような場合、被害者側も余り名誉なことではないと考えるため、真相は藪の中に覆われたままになりがちである。
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)は、越中島海底から引揚げられた金塊類について、当初米軍は、引揚げを後藤幸正を中心とした日本側に決めていた、とする。
ところが、日本側に争いがあり、後藤が嫌気がさして、「米軍に一任します」としたことによって、急遽全面的に米軍一任に変更になった。

上掲書で、安田氏は、米軍の当初の案で進んでいたら、この財宝が原資になったはずの「M資金」「ペンタゴン資金」「グリーン資金」「ユダヤ財閥資金」「新M資金」「極東資金」「オイルダラー資金」などをかたる詐欺師が暗躍することはなかっただろう、と述べている。
そして、その被害者として、以下のような下記の名前を上げている。
・全日空大庭哲夫元社長
・俳優田宮二郎
・富士製鉄
・神戸製鋼
・東急建設
・明電舎
・丸善石油
・TBS
・日本高周波鋼業
・日本農産工業
・特種製紙

これらの事件によって、多くの一流会社の社長、役員が失脚しているのである。
戦後史における大きなミステリーということができるだろう。
M資金が実在するとは、一般的には信じられないが、「存在しない」ことを証明することは極めて難しいことである。
詐欺師たちが、、「一定の条件を満たす人格者(社会的信用、資金管理及び経営能力、地域社会における指導力、人心掌握力等に優れる者)であることが求められる」といって被害者にアプローチし、秘密を厳守することが、資金提供の絶対条件だとすることによって、当初は疑心暗鬼の被害者も、次第に引き込まれて行ってしまうのではなかろうか。

大企業といえども、ダブルスタンダードがあることが明るみに出ることがある。
つまり、公表されている決算書とは別の資金操作の存在である。
たとえば、1997年に自主廃業に追い込まれた山一證券は、巨額の「飛ばし」と称される簿外処理を行っていた。
「飛ばし」とは、同證券の「社内調査報告書」によれば、含み損の生じた有価証券を保有する企業がその損失を表面化させないために、決算期前等に企業間の市場外での直取引により、その有価証券を時価と乖離した価額(簿価等)で売却する取引で、その仲介を証券会社が行うものをいう。
http://www.kunihiro-law.com/jimusho/yamaiti.pdf

あるいは、高杉良『金融腐蝕列島 』角川文庫(9712)のモデルとなった第一勧業銀行では、総会屋の小池隆一に、巨額の資金を提供していた。
迂回融資のスキームを考案し、実行に移したのが、融資の審査を担当する役員だった副頭取の金沢彰という人物で、金沢の主導のもとに、小池隆一が第一勧銀から融資を受けた金額は、総計117億円に上った。
あるサイトに以下のような記述がある。

ところが驚愕すべきことに、金沢彰は、この総会屋事件が発覚して逮捕される前に、すでに第一勧銀から、別の職場に移っていた。国民の怒りを買ったもうひとつの金融界の不祥事、不良債権処理の最も重要な機関として設立された「共同債権買取機構」の社長として君臨していたのである。
この組織は、バブル経済のなか、銀行などの金融機関が不良の不動産担保をもとに貸し付けたために発生した不良債権を、担保つきで買取り、それを売却して、不動産を有効に生かす目的で、93年1月に162の金融機関が共同出資して設立した株式会社であった。ところが実際には、不良債権を買い取るだけで、それを売却したのは、わずか数パーセントという実績が示すように、まるで目的を果たしていなかった。
それでも金融機関は、この会社に売却すれば、無税で不良債権を償却できるので、これを隠れみのにして、世間体をとりつくろうことができる。事実上これは、銀行の倒産を防ぐための一時的なトリックであった。
http://members.at.infoseek.co.jp/saitatochi/jo.html

ダブルスタンダードがあり、問題解決の先送りをしている限り、常識外れと思われる融資話にも、乗らざるを得ない状況が生まれるといえるのではなかろうか。

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2009年4月25日 (土)

東急電鉄事件と日本会

TVの討論番組のコメンテーターとして活躍している高野孟氏の『M資金-知られざる地下金融の世界』日本経済新聞社(8003)が刊行されてから、既に30年近くが経過している。
M資金詐欺に関する情報は、コトの性質からして、公開されるものは少なく、噂として、あるいは秘密のベールに包まれた形で流通しているものが多い。
上掲書は、古書市場でも未だに高額で取引されている文字通り洛陽の紙価を高からしめている書といえよう。

M資金詐欺の被害にあったという案件も、その内容の詳細が明らかにされているものは少ない。
渡辺良智「M資金伝説」(9812)で取り上げられている代表的なケースについては、09年4月17日の項で紹介した。
高野氏の上掲書では、渡辺教授の取り上げている事件以外の著名なM資金詐欺事件として、「東急電鉄事件」が紹介されている。

東急電鉄の巨額融資事件は、昭和50(1975)年5月に表面化した。
東急グループは、環太平洋戦略の中核プロジェクトとして、オーストラリアのヤンチェップ地区で、大規模宅地開発を行っていた。
約260万平米の宅地を開発・分譲し、レジャーランドや工業都市建設に拡大していこうという壮大なプロジェクトだった。
その担当が、東急グループの総帥・五島昇社長の側近の酒井辛一常務だった。

これだけのプロジェクトを実施していくためには、当然巨額の資金需要が発生する。
五島昇の密命を受けた酒井は、ホテルに滞在して資金工作を行ったが、その話がたちまちブローカーの間に広まり、さまざまな人が接触してくるようになった。
その中の何人かのブローカーに、酒井は3000億円の融資を依頼した。

そのうちの1件の話がまとまって、昭和50(1975)年2月12日に、日本長期信用銀行の行内で契約する段取りになった。
ところが、その場に酒井常務が現れなかったのだ。
仲介者の佐藤竜三という人物が、面目をつぶされたとして、酒井に詫び状を書かせた。
その詫び状がコピーされてブローカー間に出回った。

さらに、酒井の筆跡の「2兆円融資依頼書」のコピーも流れ始めた。
これは、金額と日付が偽造されたものだという。
これらのコピー類を手にした総会屋やブラック金融筋が東急本社に押し寄せた。
マスコミの取材も始り、対策に窮した東急本社は、酒井の個人的な責任として、この年5月の株主総会で、酒井を退任させてしまう。

五島昇の父の慶太が、東急を戦前のままに維持できた裏には、資金工作があったのではないか、という説がある。
ESSのマーカット少将の私設顧問的立場にあったといわれており、M資金につながるというのである。

酒井常務のもとへ融資話を持ち込んだグループの中に、「日本会」という団体があった。
古田重二良日大会頭の提唱で、昭和34(1959)年に設立された社団法人で、初代会長が古田、総裁が佐藤栄作、二代目会長が山岡荘八、総裁が福田赳夫である。
古田重二良は、われわれの世代には、全共闘運動の発火点となった日大のボスとして懐かしい名前である。

この佐藤栄作と古田重二良の2人で作られた「日本会」が、得体の良く分からない資金を動かしていた、という風評があった。
上掲書の執筆された当時、古田も二代目会長の山岡荘八も既に故人で、村田五郎という人物が会長となっていた。
村田は、戦前の内務官僚で、「国民政治協会」の顧問として、自民党の資金作りに貢献したとされる。

つまり、「日本会」は、日大コンツェルン、自民党=国民政治協会、旧内務省人脈という脈絡の中に存在しており、表の世界から裏の世界に入っていくマンホールの1つという見方もある、ということである。

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2009年4月24日 (金)

水の都・三島と地球環境大賞

三島市は、「水と緑と人が輝く夢あるまち・三島」を標榜している。
三嶋大社という由緒ある神社があるためだろうが、歴史的な資産も少なくない。
その1つの「三島暦」については既に触れたことがある(07年11月12日の項)。
三嶋暦は、印刷(木版)の暦としては最も古い物であるが、同時に印刷の仕上がりがきれいで、印刷暦の代名詞になっていた。また、連歌師として名高い飯尾宗祇が、東常縁から「古今伝授」を受けたとされている(08年8月9日の項)。

水と緑については、楽寿園という緑豊かな公園が、JR三島駅のすぐ近くにある。
明治維新で活躍された小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営されたもので、昭和27年より市立公園として三島市が管理運営している。
その楽寿園から流れ出ている源兵衛川は、平成20年に、環境省の認定する「平成の名水百選」に選ばれている。
源兵衛川に隣接する蓮沼川にも、天智天皇が使用したとされる漏剋のレプリカや、地元出身の彫刻家の作品などが設置されていて、訪れる人を楽しませてくれている。

そしてこの度、これらの水空間の保全活動を推進する市民グループが、フジサンケイグループが主催する「地球環境大賞」の「環境地域貢献賞」を受賞した。
「地球環境大賞」は、1992年に、「産業の発展と地球環境との共生」をめざし、産業界を対象とする顕彰制度として、財団法人世界自然保護基金(WWF)ジャパン(名誉総裁・秋篠宮殿下)の特別協力を得て、創設された。
持続可能な循環型社会の実現に寄与する製品・商品・サービス・技術などの開発、環境保全活動・事業の推進と21世紀の社会システムの探究、地球環境問題に対する意識の一段の向上などの面で顕著な成果を上げ、社会の模範となる功績を収めた企業、自治体、学校、市民グループなどを表彰するとするものである。
http://www.fbi-award.jp/eco/about/index.html

その第18回授賞式が、4月21日に行われた。
今年の大賞の受賞者は、大和ハウス工業で、埼玉県越谷市の「越谷レイクタウン」における自然と調和した街づくりの取り組みが評価されたものである。
Photo JR武蔵野線の「越谷レイクタウン」駅から徒歩で3分の場所にある同タウンでは、炭酸ガスの排出量削減に向け、太陽や風など自然の力を利用することに注力している。

太陽光発電の積極的利用などは当然のことだろうが、面白いのは「風」への着目である。
街全体の風の流れを解析し、道路形状や住宅の窓の位置などを調整したという。
Photo_2 また、街中に高垣と呼ばれる木の壁を巡らせ、冬の北風を防ぐ工夫が凝らされている。
住んでみたい街という感じがするが、実際の住み心地はどうなのだろうか?
このような街全体としての省エネ・省資源の試みは、今後とも拡大していくことと思われる。

環境地域貢献賞を受賞した市民グループは、三島市を中心に活動する「特定非営利活動法人グラウンドワーク三島」である。
活動内容は以下のように紹介されている。

市民・NPO・企業・行政とのパートナーシップによる実践的、持続的なグラウンドワーク活動を通して、「水の都・三島」の原風景を劇的に再生・復活させ、環境の再生が地域の再生へと発展する先進的な地域づくりを推進。源兵衛川の水辺再生、三島梅花藻の再生保護活動など、これまでに40カ所以上のプロジェクトを実践し、生活者の視点に立った現場主義的なきめの細かい多面的な「市民公協事業」に挑戦している。

源兵衛川は、写真に見るように、子供たちが水遊びするのに格好の空間となっている。
Photo_3 しかし、かつては茶碗のかけらなどが散乱する汚い川だったらしい。
三島市は、富士山の伏流水の湧き出るところで、かつては豊富な水量を誇る池や河川が多かった。
高度成長期に、上流域での工業立地や人口増大のために取水量が増えて、三島市内に湧出する水量が減ってしまった。
楽寿園内の小浜池などは、かつては常時湛水の池だったが、現在は、枯山水のようになってしまっている。
それでも、グランウンドワーク三島などの活動によって、「水のある景観」が維持されている。
三島市民は、経済活動が優先されていた時代に、全国の多くの地域が、誘致活動に積極的だった石油コンビナートの進出を阻止した実績を持っている。
その伝統が現在も続いているということだと思う。
(図はすべて上掲「地球環境大賞」サイトから引用)

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2009年4月23日 (木)

LEDの技術開発への期待

4月21日、小学6年と中学3年を対象とした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施された。
私たちが小中学生の頃にもあったのだが、日教組の反対などで取りやめになっていたものが、平成19年度に、43年ぶりに復活した。
今回は、復活後3回目ということになる。
結果の利用(市町村別公表等)については論議があるが、大人も含めて学力低下が問題になっている現況を考えれば、学力の把握自体は必要なことだろう。
もっとも、学力を左右する要因は複雑だろうから、データがあるからといって安易な判断はできないと考えた方がいいだろう。

パラパラと問題を眺めていたら、中学3年の「国語B」に、「発光ダイオード」の説明文に関する出題があった。
問題は、次のような文章から始まる。

最近、新しい信号機が増えてきたことに気付いているだろうか。これまでの信号機と違い、新しい信号機には小さな粒のようなものがたくさん付いている(写真参照)。この小さな粒は、発光ダイオードというもので、省エネルギーという点などから、近年様々な分野で使われるようになってきた。発光ダイオードは「ろうそくやランプなどの炎」、「白熱電球」、「蛍光灯」に続く、次世代の明かりとして注目されている。

発光ダイオードとは、いわゆるLED(Light Emitting Diode)のことで、電気を流すと光を発する半導体である。
2 上記の問題文にあるように、「第四世代のあかり」として位置づけられている。
LEDは、1907年に固体物質に電気を流すことで発光する現象が報告されてから、表示用途で実用化されてきた。
1993年に青色LEDが開発されて光の3原色である赤、緑、青の光源が揃い、1996年に青色LEDと黄色の蛍光体による白色LEDが実現した。
青色LEDの発明(いわゆる「職務発明」)の対価をめぐって、日亜化学と発明者の中村修二氏の間で、争いがあり、技術立国という観点からも、多くの論議を呼んだことは記憶に新しい(07年12月11日の項)。

産業革命以降、石炭や石油などの化石燃料の利用が飛躍的に増大し、炭酸ガスなどのいわゆる温室効果ガスの排出量が増えて、地球温暖化が進んでいるといわれている。
果たして本当に、地球は温暖化しているのか?
温暖化しているとして、それは大気中の炭酸ガスなどの濃度の上昇が原因なのか?
これらの問題に関しては、未だよく分かっていないことも多い。

しかしながら、環境問題は別として、化石燃料の有限性を考えれば、省エネ・省資源が好ましいことは当然であろう。
サステナブル社会とは、低炭素社会である。
日本でも、グリーン・ニューディールということが言われ始めている。
「100年に1度の経済危機」と言われている中で、省エネ・省資源も、経済を活性化させる方向で考えられなければならないだろう。
LEDが広く照明用途に使われるようになれば、新たな需要創造に結びつく。
学力テストの問題文を契機に、LEDの技術革新がさらに推進されていけば幸いだと思う。

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2009年4月22日 (水)

証拠判断と裁判員制度

和歌山市園部で、平成10(1998)年7月に起きたいわゆる「毒入りカレー事件」の最高裁判決が下りた。
1審、2審の死刑判決を支持し、林真須美被告の上告を棄却したものである。
この事件は、発生当初から、さまざまな問題性を含んでいた。

被害は、自治会の夏祭りが行われたときに、地域住民に振舞われたカレーにヒ素が混入していて、カレーを食べた4人が死亡し、63人がヒ素中毒に罹患したというものだった。
事件の第一報は、以下のようなものだった。
病院の話では、住民の手作りのカレーを食べた人が発症し、いずれも命に別状はないが、激しい嘔吐を続け、手がしびれたり、不整脈が出るなどの症状が見られ、35人が入院した。
また、和歌山市保健所は、集団食中毒とみて、症状の確認や原因食材の特定を急いでいる。

翌日になると、報道内容がガラリと変わった。
新聞の見出しは、以下のようなものとなった。
「カレーに青酸、4人が死亡」「42人入院、無差別殺人か」「和歌山市内夏祭り」
集団食中毒という判断が、青酸入りカレーに変化し、命に別状はないとされていたものが、既に4人亡くなっている。

事件発生時に中学3年生だった三好万季さんという少女は、最初の報道に接したときに違和感を持った。
はたしてカレーで食中毒が起きるのか?
食中毒で、短時間で手が痺れたり、不整脈が出るなどということがあるだろうか?

三好さんは、それから、まだ当時はさほど一般的ではなかったインターネットを駆使し、さらに専門書を購読して、食中毒の可能性を検証し、青酸の可能性を検証した。
その過程と判断を、夏休み理科の宿題として「毒カレー事件の四人は医療事故死である」というレポートにまとめた。
そのレポートを再整理したものが、「毒入りカレー殺人 犯人は他にもいる」というタイトルで、『文藝春秋9811号』に掲載された。

このタイトルは、文春の編集部によるものと思われるが、「毒入りカレー『殺人犯人』は他にもいる」と誤読するような仕掛けになっており、三好さんが、「殺人犯人」と呼んでいるように短絡する読者がいた。
その場合、三好さんが指し示しているのは、病院関係者や保健所関係者と受け止められるような文脈でもあったことから、懸命に救助活動を行っている者を、「殺人犯人」扱いするとはケシカラン、というような見解もあた。
原題を確認すれば、殺人と犯人の間にスペースがあるのであるが、一見するとそれには気づかないようにさせたところが、文春側のポイントだったとも言えるだろう。
この論文は、読者に大きな反響を呼び、第60回文藝春秋読者賞を受賞した。

私も、文春掲載論文を一読し、そのレベルに驚倒し、知人たちに薦めた記憶がある。
また、三好さんが開設していたサイトの掲示板では、三好さんの説の適否をめぐって、激しい論議が展開された。
私自身は、中学生という要素を除いても、卓越した思考力の持ち主だという判断だった。
三好さんの文章は、その後『四人はなぜ死んだのか』文藝春秋(9907)という単行本に収録された。

ところで、折りしも裁判員制度が導入される直前のタイミングである。
林真須美被告は、容疑を一貫して否認しており、被告と犯行を直接的に結びつける証拠はない。
状況証拠による事実認定をどう考えるべきか、格好のケースでもある。

一般国民である裁判員は、証拠に対してどう判断すべきか?
たまたまではあるが、いわゆる「足利事件」のDNA鑑定結果によって、科学的と思われる証拠も、必ずしも万全ではないことが示された。
以下のような内容である。

栃木県足利市で1990年、4歳女児が殺害された「足利事件」で殺人などの罪に問われ、無期懲役が確定した元幼稚園バス運転手菅家利和受刑者(62)の再審請求即時抗告審で、東京高裁が専門家に委嘱したDNA型の再鑑定の結果、菅家受刑者と女児の下着に付着した体液の型が一致しない可能性が濃厚であることが21日、関係者への取材で分かった。
田中康郎裁判長(現札幌高裁長官)が昨年12月、再鑑定の実施を決定した。今月末をめどに鑑定結果が書面で高裁に提出される。
確定判決は、捜査段階で行われた導入間もないDNA型鑑定で、女児の半袖下着に残された体液が菅家受刑者のものと一致したとされたことを有罪認定の柱の一つとしていた。今回の鑑定で明確に不一致と判断されれば、再審が開始される可能性が大きくなる。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009042100368

個人的な心証として、林真須美被告は、クロだと思う。
しかし、万が一にも冤罪の可能性はないだろうか?
私は以前に「裁判員制度に関する素朴な疑問」を記したことがある(09年1月24日の項)。
「毒入りカレー事件」の最高裁判決に接し、改めて、一般国民に冤罪判断を担わせることになる可能性を秘めた裁判員制度に疑問を感じざるを得ない。

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2009年4月21日 (火)

東京湾金塊引揚げ事件をめぐる怪死者(2)

ポツダム宣言では、日本軍が戦争中に各国から略奪した財宝類は、無条件で没収することになっていた。
東京湾の金塊類が、外国からの略奪物資だったとすれば、確実に没収されたはずである。
私たちは、ともすれば、日本はアメリカに占領されたと思いがちであるが、米英中ソの代表で構成される対日理事会が占領政策を決定していた。
金塊類は極秘でアメリカに運ばれたとされているが、オープンになっていれば、ソ連も分け前を求めたことは必定だった。

米軍は秘秘を保つのにもっとも問題になるのは、下村勘太だと考えた。
下村は、愛宕山のアメリカ検事局や中野刑務所で拷問され、伊山から聞いたことを白状し、伊山も自供した。
下村は、正確な日時のデータは残っていないが(発行日時不明の新聞記事の切り抜きが残っている)、敗戦数年後の冬、東京湾で釣りをしている時に、タンカーに衝突され、海中に投げ出されて行方不明になった。死体は発見されなかった。
下村も不審な死を遂げた1人であるということになる。

国会の場で、隠退蔵物資処理委員会の副委員長だった世耕弘一代議士(世耕弘成現参議院議員の祖父)は、近畿大学の初代学長兼理事長だった。
上掲書によれば、日本銀行の地下金庫に、国民が供出したダイヤの一部が保管されていることを民間人でつきとめた青野進という人物がいた。
金塊類については、日米政府共に存在を否定していたが、国民がダイヤを供出したのは公知の事実だった。
世耕の世話で近畿大学理事長になったのだが、世耕弘一から水谷明に会うことを勧められ、青野は1953年の暮れあたりから、水谷宅に現れるようになった。

青野は、1954年5月14日に、自宅に警官が来て逮捕され、大阪へ護送された。
逮捕の理由は、近畿大学から出されていた恐喝の被害届によるものだった。
青野の友人によれば被害届はCIAの謀略だった。世耕の知らないうちに、理事を脅して被害届を書かせた。
青野は、16日に警察医と称する男に注射を打たれ、18日に急性肺炎を発病したということで留置場の近くの回生病院に入院し、逮捕の5日後の19日に死んだ。
顔にブツブツが一杯でき、皮膚が黒ずんでおり、息を引き取る前に、「毒を飲まされた」と洩らしたという。

東京湾に沈めた金塊類は、ベトナムの旧王朝のバオ・ダイ帝の秘宝だという説もある。
1942年に、同盟通信社の社員だった加納音弥という人間が、アジア海運という会社がチャーターしたギリシャ船籍の貨物船を利用して、大陸や南方諸島から金塊や宝石類を日本に運んだ。
アジア海運の本社事務所は上海にあったが、同社の柳社長は、ギリシャ船籍に船が財宝類を積んで日本に向かった約3か月後の43年1月上旬に、アポイントなしに現れた男に、事務所で銃撃され即死した。

水谷明に近づいてきた男の中に、島了介という元憲兵がいた。
青野進が怪死してから1か月半ほど経った1954年の7月上旬に、鉱山会社元社長に連れられて、水谷明の自宅に現れた。
米軍に勤めていて、ヘンリー中王子という名前で通っていると自己紹介した。
島は、水谷とGHQの仲介をしていたが、水谷の詐欺容疑の裁判の際に、商人として出廷し、米軍情報部の雇員だったことを認めた後、「この金塊が極秘に米国に渡った後、吉田政権を維持するため、CIAから二千五百万ドルが渡っております」と供述した。
水谷が2年の実刑判決を受け、社会に戻った時には、島は既に死んでいた。
水谷の周辺の女性が島を見舞ったときの様子を、「別人のように顔が変わり、皮膚がどす黒くなり斑点が出ていた」と語っている。

上記のように、東京湾から引揚げられた金塊類をめぐって、何人もの怪死者が出た。
しかし、今となっては、それらが相互に関連性があったのか、死因が何であったのかなどは、解明すべくもない。

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2009年4月20日 (月)

東京湾金塊引揚げ事件をめぐる怪死者

GHQによる占領時代、東京湾の月島の近く、越中島で海底から引揚げられた金塊類は、アメリカに持ち去られた(09年1月17日の項)。
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)によれば、この金塊類は、後藤幸正らの紹介・案内によるもので、1946年4月6日、GHQの調査担当将校ニールセン中尉などによって、引揚げられた
1月16日の項)。
金塊類引揚げのニュースは、4月19日(金)の朝刊で報じられている。
引揚げから13日間もかかったのは、その間に、日米両政府や米軍などで、所有権等の問題について話し合いが行われていたためと推測される。

上掲書には、この金塊類に関係した少なからぬ人間が、不審な死を遂げていることが記されている。
後藤が月島に金塊類が沈められていることを知ったのは、宅見秀峰という鍼灸師からの情報によるものだった。
宅見の鍼灸の腕がよく、宅見の治療室は、エリート指導層、支配階級のサロンとして機能していた。
そこでの利権話の1つとして、金塊類のことが話題になった。
金塊類を実際に沈めたのは、旧日本軍の下級兵士30人ほどで、表に出てきたのは伊山定吉二等兵だけだった。

伊山はもともと大工だったが、終戦直後は木材やセメント等の資材もなく、注文もなかったので、失業状態となり、やむなく日本鋼管製鋼部に就職した。
そこで、溶鉱炉に勤務していた下村勘太と知り合い、下村に越中島で金塊類を沈めた話をした。
下村は、いわゆる遊び人だったが、この話を兄貴分の三上才次という男に報告した。
三上は酒と不節制がたたって、しばらくして死亡するが、体調不良の時に、宅見鍼灸師のところで治療を受けていた。
その際に、金塊類のことを宅見に漏らしたのだった。

下村が伊山に埋没箇所の地図を描かせると、三上が下村を説き伏せてその地図を入手し、宅見に5万円で売りつけた。
当時の物価は、米1升が53銭で、4~5人の家族が月額200~300円で暮らせた。
安田雅企氏は、上掲書において、今(1995年)の5千万円を超える金額と換算している。
後藤邸には、日夜高級将校が、美酒、肴、利権話を求めて集まっていた。
後藤は、戦闘用品だけでなく、食料や軍服も納入していたが、宅見から聞いた話を信憑性のあるものとして捉え、大金を投じると共に、最初の引揚げの際の潜水夫の日当、船頭やランチの借用代などを支払っていた。

政府も軍部も、東京湾から引揚げられた金塊類の存在を否定していたので、実際にカネを出した後藤に所有権が移るかと思われたが、下村勘太が、自分が伊山から聞いたのだから自分に権利がある、と言い出した。
宅見が三上に渡した5万円の大半を三上が独り占めしたことから、仲間割れが始まった。
後藤がニールセン中尉と会う時に、通訳をしたのが、榎三郎という小さな商事会社の経営者だった。
後藤は、カネが入ったら、日本縦貫道路を建設するという構想を持っていた。
物流に資することは当然だが、失業者が減ることによって、左翼勢力の退潮を期待したのだった。

ニールセン中尉に紹介した後藤幸正は、縁側で急死した。
後藤と同居していた娘のカズ子は、安田氏に次のように語っている。

榎さんは愛宕山にあったアメリカの検事局で厳しい尋問にあい、中野刑務所にも連れて行かれ拷問されました。父が怯えていたのは本当で、伊山定吉も中野刑務所でCIAだかの機関員に殴られて傷だらけで、ほかにも何人も脅かされたり拷問されたり、変死者もいるんです。いりいろあって首吊った人もいます。
父はもう年ですし、来るなら来い、受けてやると強気でしたけど、アメリカ兵が訪ねてきた時は注意してました。タバコやチョコレートを勧められても断っていましたね。
突然口から血を吐いて死んだのは事実です。アメリカの秘密機関員に毒を盛られたのではないかと、榎さんなんて葬式に駆けつけた時まっ青になっていましたけど、どうですかね。

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2009年4月19日 (日)

東京湾から引揚げた金塊と詐欺事件

M資金の原資になったとされる秘密資金は多々あった。
しかし、その多くは、存否が曖昧である。
その中で、日本の旧軍が、降伏直前に東京湾の越中島海底に隠匿していた金塊類は、現物が確認されているものである(09年1月16日の項)。
この金塊類については、その種類と量について、当初の関係者の発言と後になって政府等の答弁とが食い違うなどの疑問が残されているが、大量の貴金属類が引揚げられたことは間違いない。

この金塊類は、水谷明などにより熱心な返還運動が続けられたが、結局は返還されずじまいに終わった(09年1月16日の項2月10日の項2月15日の項2月23日の項2月24日の項)。
その過程で、運動資金が不足し、その資金確保のために、投資希望者に対する説得資料が作られた。
その資料が複写されて、詐欺師などに渡ることは不可避だった。
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)には、次のような事例が紹介されている。

自称木曽の山林地主の掛巣という四十代の男が、返還同志会とそっくりの規約を作り、多くの人からカネを詐取したのだ。掛巣は出資金を集めるため、粗末なジャンパー、ヒザの出たズボンを売り物に東京のクラブ、料亭を舞台に精力的に会員を募り歩いた。衣服はボロでも時計、ライターは高価なものを持っているちうアンバランスを、売りものにしてだ。無教養を装っていたが、演技力には長けていたのだ。
……
自民党から次の参院選挙に出馬するとかゴルフ場、ホテル業に乗り出すと公言していたが、人目を引いたのが金遣いの荒さだった。半信半疑で寄って来る欲ボケに一件書類を見せて出資させ、長野県を中心に似百人以上の人たちから計十五億円を集め、長野県警に逮捕された。
材料は水谷が巨額のカネを使って集めた資料だった。まず掛巣は相手に世耕弘一が国会で池田勇人蔵相や大蔵省の伊原理財局長に質問した議事録を見せた。不審に思った者が国会図書館で調べたり知り合いの代議士にコピーしてもらって確かめると、本物だった。
……
掛巣が持っていた資料は、
①金塊引揚げ作業を現場で指揮したE.V.ニールセン中尉の手記と誓約書
②同作業にかかわった伊山定吉、下村勘太、後藤幸正、三上才次、榎三郎らの証言、及び彼らが水谷明に差し出した取得報奨金配分に関する委任状。水谷があとからかかわったのに正当な取得権利者となったことを証明する文書一式
③引揚げを行った米海軍掃海中隊の引揚げ作業現場のスナップ写真
④日銀地下室でのGI立ち合いのもと、引揚げインゴットを分析している写真
⑤水谷がアイゼンハワーやケネディ大統領に出した手紙。幣原首相、田中角栄蔵相、楢橋渡内閣書記官長ら政府首脳に出した多数の陳情書や請求書のコピー
⑥アイゼンハワー大統領秘書官ロバート.L.シュリィから「書面は確かに受け取った」というホワイトハウスの便せんを使った正式な返事--などであった。
主だったものだけでもこれだけの書類があれば、田舎の山林地主や地方政治家などを引きずり込むのは容易だった。
「こんなに資料があったのでは、誰でも騙される」と取調官が感心したほどだった。

掛巣の言い分は次のようだった。
自分は水谷主催の返還同志会の会員で金も出しており、水谷と同様にアメリカから必ず返還されると確信して募集した。
だから、自分が詐欺犯ならば、水谷やその周辺にいる者も詐欺犯でなければおかしい。

全日空事件では3000億円、東急の常務が巻き込まれた事件では、2兆円の融資という話だった。
これらの事件の騙しの小道具は、掛巣の用意していたほど豊富なものではなかった。
水谷自身は、掛巣との関係について、記憶はないと語っている。
しかし、水谷の周辺には詐欺師やブローカーがゴロゴロ出入りしていたので、水谷と掛巣も何らかの関係があったのかも知れない。

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2009年4月18日 (土)

M資金話の発生・流布・変容・受容

青山学院女子短大の紀要に、「M資金伝説」を掲載している渡辺良智教授は、噂や流言の発生・伝播・受容等の研究者である。
渡辺教授は、「M資金」は、消失したのか肥大したのか、いずれの言説が正しいかは未確認であり、その曖昧な状況が、噂を生み出す重要な条件の1つであるとしている。
しかも、お金に対して人々の関心は高い。
流言・噂の流布量は、その話題の重要さとその話題についての曖昧さの積に比例するとする説がある。

R(うわさの流布量)=i(うわさの重要度)×a(うわさの曖昧さ)
(オールポートとポストマンによる定式化)

M資金話は、この公式をあてはめれば、流布量の大きな噂になる要件を備えている、ということになる。

M資金話が噂されるようになったのは、すなわち噂の発生時期は、、講和条約締結以後、1951年夏頃から52年末頃までだといわれる。
1954年2月の衆議院法務委員会で、「世評によると、マーカット資金が約800億円あると伝えられている。これが鉄道会館、造船界に流れているのではないか」という質問が出た。
法務大臣は、これに対して「報告を受けていない」と答弁している。

M資金の原資については、先に紹介したようにさまざまな説があるが、日本経済の急激な高度成長を裏で支えた巨額の秘密資金があったのではないか、という憶測が、M資金の存在を信じさせる1つの要因となっている。
M資金話によく出てくるのは、水田三喜男氏である。
水田氏の略歴は、Wikipedia(09年4月9日最終更新)によれば、以下のようである。

1905年4月13日 -1976年12月22日。
城西大学創立者。大蔵大臣を数度に渡って務め、戦後日本の代表的な財政家である。
1953年、第4次吉田茂内閣で経済審議庁長官として初入閣、保守合同直後の1955年に自由民主党政務調査会長に就任。義理人情の党人派が多い大野伴睦派にあって政策通として活躍。1956年石橋湛山内閣通称産業大臣、産業計画会議委員(議長・松永安左衛門ヱ門)就任。
1960年、第1次池田勇人内閣で大蔵大臣に就任。積極財政論者として池田の所得倍増政策に共鳴し、推進役となる。
第2次池田内閣で引き続き留任し、続く佐藤栄作政権では第1次~第3次内閣に渡って蔵相を務め、言わば日本の高度成長期期を象徴する財政家の一人であった。
特に佐藤栄作政権末期に起こった、いわゆるニクソン・ショックでは為替相場安定に腐心し、変動相場制へと動く過渡期の国際金融情勢下で日本の財政を舵取りした人物として知られる。

水田は吉田首相の要請で「産業投資会計特別資金」制度を創設した。
原資200億円で、一部の基幹産業だけ超低利で融資されたといわれるが、実態は不明である。
これが巨額にふくらんで、M資金になったという説があり、水田蔵相時代の大蔵省高官の名前が、M資金話に登場している。

渡辺教授は、M資金の噂がいつ発生したかは不明であるが、GHQの秘密資金がどうなったか、日本に残されているのではないか、といった曖昧な状況があり、他方に日本経済の高度成長があったので、この高度成長を支えた秘密資金があったのではないか、という噂を生んだのではないか、としている。

そして、M資金話が時間をおいて間欠的に広まるのは、詐欺グループが逮捕されるとしばらくは警戒心が高まり、詐欺師たちも活動しにくくなるが、そのうちに新しい架空融資話を持ちかけるようになる、ということである。
M資金話の基本は、「実は巨額の秘密資金があり、それを特別に(長期、低利、無担保)で融資する」というものであり、それが時間の経過ともに、さまざまに変容していったものである。

一流企業の経営者が、荒唐無稽ともいうべき架空の融資話になぜ引っかかるのか?
それは、以下のような要因が存在するからである。
・経営者側に、秘密の巨額資金が実在するのではないか、という期待感。
・詐欺師らの巧妙な語り口。
・権威の利用(社団法人、宗教法人、財界の有力者や有名人の名前など)
・場所の演出(都心の一流ホテル、大蔵省や政党本部の一角など)

M資金話を持ち歩く金融ブローカーは、3万人とも5万人ともいわれる。
それだけの人が、融資斡旋を、いわば職業にしているのである。
M資金の融資を受けたと公表している企業はないが、M資金詐欺に引っかかり辞任した経営者は、少なからずいる。
われわれが知ることのできるのは、マスコミが報道した詐欺の被害届が出された事件だけである。

つまり、以下のようなケースが存在したとしても、関係者以外は知りようがないのである。
1)M資金の融資が成立した場合
2)詐欺未遂事件
3)詐欺事件が起きても、被害届が出されない場合
渡辺教授は、M資金が実在するとしたら、大蔵省理財局が管理する「資金運用部資金」がそれに近いかも知れない、としている。

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2009年4月17日 (金)

代表的な「M資金」事件

渡辺良智「M資金伝説」(9812)(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468139/)に、代表的なM資金事件の事例が取り上げられ、巨額融資話に用いられた言説と手口が検討されている。

(1)飛騨3兆円事件
1968年秋、飛騨の古川町に開発案件が持ち込まれた。
世界の11財閥が世界平和祈念のための自然公園の候補地を物色していたが、飛騨地方に白羽の矢が立てられ、古川町が中心になる。
単なる観光開発だけでなく、産業開発も行うもので、岐阜県の中津川を起点に、富山県高岡市に至る6車線の高速道路を通す。
この話に引っかかった地元の名士4人が、協力金として約1億円を出したといわれる。
この事件の主犯ら4人が、1970年10月詐欺の疑いで逮捕された。

(2)富士製鉄5000億円融資事件
金融ブローカーによれば、富士製鉄は八幡製鉄と合併する前、資産内容が悪く、対等合併できない状態にあった。
1969年1月、富士製鉄は、日本銀行、日本興業銀行を通じての融資を受けた。
金額5000億円、期間10年切替え30年、金利3.5%という融資依頼書と、2.5%のリベート支払い念書、経過記録が存在している。
この念書に基づき、金融ブローカーは、富士製鉄に融資斡旋料125億円を要求したが、富士製鉄側は念書はデッチ上げだとして特別融資を否定し、支払いを拒否した。
富士製鉄の専務は、金融ブローカーと会ったことを否定せず、念書を仲介した人物も渡したことを認めていた。
金融ブローカーによれば、リベートが支払われなかったのは、1969年5月に、富士製鉄社長、大蔵省高官、興銀関係者が、融資を興銀からの正規の融資だったことに切替えたためであるという。

(3)全日空3000億円融資事件
この案件については既に09年2月18日の項19日の項20日の項21日の項で触れた。
この事件で、大庭社長は辞任せざるを得なくなるが、同社長が書いた念書が、ロッキード社の秘密エージェントだった児玉誉士夫に渡っていたことから、ロッキード社のトライスター導入工作の一環だったという見方がある。
1972年11月、日本輸出入銀行法が改正され、輸銀輸入金融の対象が、原料から重要物資に変わった。
73年1月、輸銀資金が全日空に貸し付けられ、トライスターが導入された。
輸銀の金がM資金だったのかもしれない、と渡辺教授は書いている。

(4)グリーン資金事件
1979年9月、特種製紙社長が、M資金話に引っかかり、11億円の手形を詐取された責任をとって辞任した。
詐欺師グループの言説は以下のようなものだった。
戦後の復興のために、米国やヨーロッパの政府や金融機関が出資したグリーン資金がスイスの銀行にある。
大蔵省や日銀の高官のOBが管理し、優良企業に無利子で融資している。
返済期限40年で1000億円を融資する。スイスと日本の金利差から、800億円を定期預金しておけば、40年後には返済金額に相当するから、200億円は自由に使える。
このグループは、丸善石油の社長にも1兆5000億円の融資話を持ちかけ、融資を受けたら10億円を振り込むという念書を騙し取っていた。

(5)国際還付金詐欺事件
1979年夏、富士銀行や三菱銀行の「別段預金証書」、大平前首相や保利元衆議院議長などの連名の「還付金支払保証書」、大蔵省理財局からの国債還付送付の「通知書」などを持ち歩くグループが出現した。
これらの証書類は、いずれも偽造書類で、国債還付の制度もなかった。

(6)皇室M資金事件
皇室の莫大な資金を融資すると持ちかけて、経営者らから融資依頼書や手数料などを騙し取る事件がある。
M資金話のバリエーションと考えられる。
1980年に大手商社の課長が不動産ブローカーの話に騙されたほか、1988年10月に福島県の建築会社社長が、御上の融資話として、仮契約の経費として100万円、本契約の経費として400万円を詐取された。
1990年頃から、昭和天皇のご落胤で白仁王と呼ばれる白嶌誠哉殿下と称する人物を担ぐグループが、「産業振興対策特別中小企業育成資金」を融資するとして、手数料を詐取される事件が起きた。
全国27都道府県の約250人が被害にあい、被害総額は15億円以上になるといわれる。

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2009年4月16日 (木)

戦後の日本に実在したとされる秘密資金

渡辺良智「M資金伝説」(9812)(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468139/)により、戦後日本に実在したと噂されてきた秘密資金を概観してみよう。

(1)マーカット資金
GHQの経済科学局(ESS)長だったマーカット少将が管理していたといわれる秘密資金。
「M資金」の「M」は、マーカットに由来するというのが定説的である。
占領当時のESSは、金融、財政、産業、貿易、労働などに対して、絶対的な権限を持っていた。
関係業者からの献金や管理貿易の利潤が集まっていたといわれるが、それ以外に大きな資金源となったとされているのが、戦時中に日本軍がかき集め、敗戦後に隠退蔵したとみられる貴金属やダイヤモンドなどの軍需物資である。
旧マニラ派遣軍の将校が持ち帰った大量のダイヤモンドが存在したとされ、それがマーカット資金の最大の原資になったといわれる。
また、戦時中に国民から強制的に供出させた大量のダイヤモンドも、日本銀行地下金庫などから接収されており、のちに日本に返還されているが、強奪品としてオランダや中国などに返還された分や、一部米軍人が持ち出したといわれている分を除いても、50万カラットのダイヤモンドが消失している。

(2)四谷資金(W資金)
GHQのGⅡ(参謀第二部)のウイロビー少将系の資金。
四谷のイエズス会の教会を拠点にしていた神父が、輸出入取扱い権限などGHQから与えられた特権と秘密の闇ドル取引によって莫大な収入を上げたといわれており、それが四谷資金の原資になったとされる。
神父は1953年12月に外為法違反容疑で逮捕された。
四谷資金は、アメリカ資金(メリケン・ファンド、略してM資金)といわれるようになったとされる。
GⅡ系のキャノン機関などにより、反共工作に使われたといわれている。

(3)キーナン資金
GHQの法務局系統で管理されていたといわれる資金。
キーナン検事とカーペンター法務局長が管理者といわれ、東京裁判の戦犯容疑者からの押収物や贈賄金品が原資とされる。

(4)G資金
ガリオア・エロア資金から派生したといわれる資金。
日本は、被占領中、アメリカからガリオア(占領地救済政府会計)とエロア(占領地経済復興資金)による援助を受けた。
当初、日本側は無償援助と考えていたが、アメリカから債務返済を迫られ、その交渉過程で、アメリカ側の記録が19億5400万ドルであるのに対し、日本側の記録が17億9500万ドルであることが発覚した。
アメリカからの援助物資が、日本政府に引き渡される前に一部が消えていたと考えられ、ESSの高官がヤミ市場に売り捌いたのではないかとされる。
それがM資金の原資となったといわれている。
1962年に結ばれた協定では、日本が支払うことになった債務は、4億9000万ドルとされたが、アメリカの債権放棄した分が、そのまま日本に円として残され、アメリカ軍のヒモツキ資金として運用されているのではないか、とされる。

(5)X資金
1946年4月、旧陸軍越中島糧秣廠付近の海底から、大量の貴金属塊がGHQの手によって引き揚げられた(09年1月16日の項)。
日本人の情報提供者は、プラチナ1200本と純金300本のインゴットだったとして報償金を要求していたが、大蔵省の説明では引き揚げられたのは銀塊で、占領地から略奪されたものは返還し、旧陸軍の銀は国庫に帰属したとされる。
一説には、ガリオア・エロア債務の未返還分と相殺されてアメリカに引き渡されたのではないか、と憶測された。
ESS局長のマーカットが管理してマーカット資金となった、とか、保守党にプールされて政権の資金源になった、などの噂もある。

(6)蓄積円
戦後、日本に進出したアメリカの映画資本や石油メジャーは、莫大な売上を上げたが、日本に手持ちのドルがなかったので、本国への送金が制限され、その大半が、円のまま「非居住者預金勘定」として日本に蓄積された。
これらの蓄積円の9割方は闇に消えたといわれる。
1955年に、蓄積円を日本の信託銀行に託し、重要産業に投資する取り決めができたが、それ以前にヤミで融資されていたとされる。

上記のような実在したといわれる秘密資金は、いずれもGHQによる占領時代に発生したものである。
もちろん、「秘密」といわれる以上、実在した明証があるわけではない。
当初は、占領軍の対日工作などに使われていたが、講和条約後は、米国の合意のもとに、日本の保守本流グループのリーダーが管理し、基幹産業育成や保守本流体制維持のために用いられたらしい、と渡辺教授は書いている。
そして、これらの秘密資金がかつて本当に実在したとして、それが消尽されてしまったか、公的勘定に組み込まれて消失してしまったと考えるか、あるいは利子が利子を生んで膨大な秘密資金として存在し続けているか、いずれと考えるかによって、M資金話は、幻想か事実か分かれることになる、としている。

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2009年4月15日 (水)

研究対象としての「M資金」

ミニ統一地方選といわれる選挙が各地で行われている。
秋田県知事選では、民主党県連が支持していた候補者・川口博氏が、自民党県連と社民党が支持していた佐竹敬久氏に敗れた。
千葉県に続き、民主党は知事選で2連敗ということになる。

川口氏の敗北については、知名度において、秋田市長を務めた佐竹氏の方が高かったこと、野党側が分裂したことなどの要素があった。
しかし、小沢民主党代表の政治資金問題の影響も与ったとせざるを得ないだろう。
民主党は、選挙対策の見直しをせざるを得ないのではないかと思う。

政治資金問題の影響ということは、検察の捜査の影響ということでもある。
検察の判断は、結果として政権交代ムードに水を差すことになった。
検察の判断が的確なものであったのか否か、後世に問われることになろう。
ロッキード事件においても、今日の時点で振り返れば、田中角栄無罪論はかなりの説得性を持っているように感じられる。

ところで、ロッキード事件の裏には、「M資金」問題があった。
全日空では、ダグラス社のエアバス導入を目論む大庭社長派と、ロッキード社のトライスターを導入したい若狭副社長派の間で、激しいつば競り合いが繰り広げられていた。
資金面で優位に立ちたいと考えた大庭が焦って、3000億円とされる「M資金」融資話に乗ってしまい、墓穴を掘ったことになる。
その背景には、ロッキード社の秘密エージェントだった児玉誉士夫の策謀があった(09年2月24日の項)。

青山学院女子短大の渡辺良智教授が、同大学の紀要に「M資金伝説」(9812)という論考を掲載している。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000468139/
おそらく、「M資金」が学術的な対象となっている唯一の例ではなかろうか。
渡辺教授は、噂や流言の発生・伝播・受容等に関して研究している社会学者である。
「M資金伝説」は、戦後の日本社会における流言の1つとして捉えられている。

渡辺教授は、以下のように問題意識を説明している。

「M資金」は、連合国軍総司令部(GHQ)の科学経済局(ESS)長、マーカット少将の頭文字を取って名付けられた、日本の戦後経済復興に秘密裏に使われた巨額資金といわれているが、マッカーサー資金ともいわれる。さらに、ユダヤ資金、オイルダラーなどを資金の出所とするM資金話が登場している。
このM資金については、実体はなく、世界経済史上「奇跡」といわれる戦後日本経済の復興がこうした資金の存在を信じさせている背景となっており、この心理につけこみ、詐欺をするM資金ブローカーが続出しているので、M資金は幻の巨大融資話の代名詞であるというのが、新聞や週刊誌の解説である。
この説によれば、M資金は、虚偽の情報を流布するデマということになり、詐欺事件にひっかかって経営者らが辞任したと報じられる。だが、戦後半世紀を経た現在でも、「デマ」であるM資金話が繰り返し広まっているのは何故なのか。M資金話に中小企業だけでなく大手企業の経営者らが引っかかっているのは何故なのか。やはりM資金話は全くの「デマ」ではなく、経営者らにM資金の実在を信じさせる何かがあるのではないかとも考えられる。

渡辺教授は、噂・流言を「真偽が確認できない情報」と定義する。
そして、特別に寿命の長い流言・噂という意味で、「伝説」という用語を使っている。

渡辺教授は、M資金伝説の誕生の背景要因として、日本の戦後の歴史を指摘する。
M敷金実在論者は、アメリカの日本占領に伴って発生したと考えられる各種の秘密資金が実在しており、この秘密資金が、M資金話になったと一部の人に信じられている、としている。

渡辺教授の挙げている秘密資金は以下のようなものである。
(1)マーカット資金
(2)四谷資金
(3)キーナン資金
(4)G資金
(5)X資金
(6)蓄積円

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2009年4月14日 (火)

文明の情報史観

梅棹忠夫さんが「情報産業論」(09年4月10日の項)に関連して、大学で講義を行ったのは、昭和46(1971)年に、九州芸術工科大学において行った集中講義だけだという(『梅棹忠夫著作集(第14巻)』中央公論社(9108))。
その時のメモをもとに、『中央公論』の1988年2月号に、「情報の文明学-人類史における価値の転換」と題する論考が掲載された。
超長期的な人類と情報との係わりに関する梅棹さんの考えを整理したものである。(『情報の文明学』中公文庫(9904)所収/元版は、中公叢書(8806)/『梅棹忠夫著作集(第14巻)』中央公論社(9108)所収)。

「情報の文明学」の論旨は、以下の通りである。

文明とは、人間と人間をとりまく装置群とでつくる、ひとつの系である。システムである。装置群とは、具体的な器物や構築物のほかに、諸制度あるいは組織をもふくめることができるであろう。つまり、人間が人工的につくりだしてきたすべてのものである。人間の歴史的なありかたとしては、このような、人工的につくられた環境にとりかこまれて存在するものといえる。
人類が発生した初期の段階では、人類は他の動物とおなじように、自然環境のなかで存在していた。その場合も、人間は自然環境とのあいだでシステムをくんでいた。そのような人間-自然系でつくりだしたシステムを生態系と名づけ、それに対して、その後の人類がつくりだした人間-装置系のことを、文明系とよぶことはゆるされるであろう。そして人類の歴史は、生態系から文明系への進化の歴史であった。このようなかんがえかたにもとづいて、わたしはまえに文明学という、あたらしい研究領域の樹立を提唱したのであった。
文明の歴史は、人間・装置系の自己発展の歴史である。人工的につくりだされた環境としての装置群に着目すれば、それは諸装置の開発と蓄積の歴史である。人間は自然につよく影響されながらも、そのなかで装置群の開発をすすめ、文明系を発展させてきたのであった。
……
人類史におけるひとつのおおきな飛躍は、農地という装置と制度をつくりだしたことであろう。農耕の発生は、人類の文明史における一大転換であった。農耕地と農業の確立によって、人間は、安定した食料生産を可能とする人工的環境をつくりだしたのであった。
人類の文明の歴史において、もうひとつの転機となったのは、工業の発展であった。工業によって、おびただしい装置群が開発され、蓄積された。人間をとりまく人工的環境は文字どおり一変し、人間-装置系としての文明系は、大変革をとげたのである。
わたしはまえに「情報産業論」という論文において、農業の時代、工業の時代を、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代としてとらえ、生物体としての人間の、機能充足の過程として理解できることをのべた。最後に、外肺葉産業の時代として、情報産業の時代の出現を位置づけたのである。この、生物的機能の充足という過程は、そのまま文明系の発展の過程としてとらえなおすことができる。文明系における装置群の発展と蓄積によって、人間はついに、この一連の過程における最後の段階に達しようとしているのである。

まことに壮大で巨視的な議論であり、検証のしようもないだろう。
しかし、きわめて説得力の高い認識だと思う。
梅棹さんの歴史認識に関する論文としては、「情報産業論」に先だって、1957年に発表された「文明の生態史観」が有名である。
この論文は、歴史の法則性について、梅棹さんの専門の比較民族学の研究を踏まえ、世界の諸文明の発展について、空間的・地理的観点を中心に展望したものである。
生態学の理論をモデルにしており、発表当時から論壇を中心として大きな反響を呼んだ。

生態学とうのは、生物の共同体における生物同士や環境との関係の法則性を対象とする学問である。
その中心概念の1つに、一定の条件のもとでは共同体の生活様式の発展が一定の法則にしたがって進行する、というサクセッション(遷移)の理論がある。
これを歴史に適用すると、地理的・風土的な条件の違いが、歴史の発展の仕方に影響するということになる。
一種の環境決定論と言えるかも知れない。

歴史の発展には、地理的・風土的要因を越えた共通の法則性があるのかどうか。
唯物史観のように、発展法則を単一だと考えれば、歴史的な状況の違いは発展段階の違いに過ぎないことになる。
最終的に行き着く姿は同じである。
これに対して生態学的史観は、発展の仕方自体の多様性を認めようという考え方である。
それが状況の違いを生み出していると見るのである。

第二次大戦後の歴史観を支配し続けてきたのは、戦前・戦中の皇国史観の裏返しとも言うべき西洋中心主義的な進歩史観であった。
その典型が、「原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒近代資本制⇒共産制」という発展図式をベースとするマルクス主義の唯物史観である。
この場合、発展の基準は、西欧的近代文明であり、文明化とはすなわち西欧化である。
だから、アジア的というのは、後進的の代名詞である。

もっとも、西欧的近代文明を先行モデルとするのは、明治維新以来の考え方でもある。
西欧に追いつき、追い越せ。
ところで、追いついた後、追い越した後の姿をどう構想するか?
現在の日本の混迷は、その構想力の欠如にあるといえるのではなかろうか。

梅棹さんの「生態史観」は、西欧中心的な発展史観を根本から覆すものであった。
梅棹さんは、世界を「近代文明」へ進化した地域と、それと異なる文化形成を行ってきた地域の2つに分けた。
両者は、異なる社会構造を持っているのであって、「発達-未発達」という関係にあるのではない。
その意味で、日本は,「近代文明」へ進化を遂げた地域であって、アジアの同族ではない。
つまり、文明の生態史観は、「脱亜入欧」という日本近代史のコンセプトを正面から否定するものであったと位置づけることができる。

「文明の生態史観」は、地理的・風土的な条件の違いによる歴史の発展の仕方の際を論じたものであり、歴史の発展法則の空間的・水平的な側面に関するものであった。
これに対して、「文明の情報史観」は、歴史を動かす原動力としての「情報」の重要性を説いたもので、歴史の発展法則の時間的・垂直的な側面を論じたものと言えよう。

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2009年4月13日 (月)

情報革命における不易と流行

松尾芭蕉の俳論の概念の1つに、「不易流行」という言葉がある。
以下のように説明されている。

「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神。「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するもの。相反するようにみえる流行と不易も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとする考え。
http://www.sanabo.com/words/archives/2000/08/post_403.html

この言葉の含意を深く追究していけば、かなり難しい議論になるのだろうけれど、時代と共に変化する要素と変化しない要素というように考えていいだろう。
現象と本質、表層と深層などという言葉も類似した意味だと思う。
「情報」というものが言語と密接に関係しており、言語の獲得こそが、人類と他の動物とを分ける最も基本的な要素だとすれば、「情報」をどう扱い、「情報」を扱う道具や装置をどう工夫してきたかが、人類史を根底で規定する要因だったということができるだろう。
そこには、時代と共に移り変わる流行の側面と、時代を超えて普遍的な不易の側面とがあるのではないだろうか。

20世紀から21世紀への変わり目の頃、インターネットの大衆的な普及に関連して、「IT革命」という言葉が喧伝された。
代表的な論議として、平成12年(2000年)11月、有識者からなるIT戦略会議が「IT基本戦略」を取りまとめことがあげられる。
「IT基本戦略」に基づいて、平成13(2001)年11月には、IT国家戦略として「e-Japan戦略」が策定され、日本は「5年以内(平成17年まで)に世界最先端のIT国家となることを目指す」とされた。
何だか遠い過去のような気もするし、only yesterdayという気もする。

その頃、「IT革命」という言葉と並行して、IT企業と称される会社が、東証マザーズなどの新興株式市場でもてはやされる現象が起きた。
新たに上場したIT企業の株価は、将来への期待値を含め、実力以上に高く評価された。
IT企業は、、それを武器に、M&A、株式交換などの「流行」の手法を用いて、さらに成長を志向した。
その代表格がライブドアである。今ではITバブルと総括され、一時の徒花とみなされている。

確かに、ITバブルは、株式市場における「流行」現象の1つだっただろう。
しかし、長期的な情報との係わりの歴史からすると、どう捉えられるだろうか?

2005年11月11日に多くの人に惜しまれつつ亡くなったP.F.ドラッカーは、「IT革命」について、次のように言っている(上田惇生訳『明日を支配するもの-21世紀のマネジメント革命』ダイヤモンド社(9903))。
IT(情報技術)の急速な発展は、人類史上4度目の情報革命である。
1度目は、メソポタミアで5000~6000年前に起こった文字の発明による変革。
2度目は、中国で紀元前1300年頃に起こった書物の発明による変革。
3度目は、西暦1450年から1455年にかけてのグーテンベルグによる活版印刷の発明とそれを時を同じくして発明された彫版による変革。

コンピュータがもたらしている社会的インパクトに対するドラッカーの見方は、以下のようなものである(上掲書)。
約半世紀前にコンピュータが登場したとき、多くの人は、その主要な市場を科学技術計算であると考えた。
企業経営に大きな影響を及ぼすことになると考えた人は、ごくわずかであった。
そのごくわすかの人の1人が、ドラッカーその人だった。

コンピュータの発明が、弾道の計算を実行するために行われたものであるから、科学技術計算が中心になると考えるのは、当然ともいえる。
そもそも、computeという語は、計算するという意味だし、日本語の電子計算機も、コンピュータを計算する機械であるという認識の表現といえるだろう。
しかし、私を含めて、一般的なパソコンユーザーが、パソコンを計算に利用するウェイトはどの程度のものか?
おそらくは、メールを含めた文書の作成や、インターネットを用いた情報の検索などの利用が圧倒的に多いだろう。

企業経営に大きな影響を及ぼすと考えた人の多くも、その影響を及ぼす分野について、想定を誤ったとドラッカーはいう。
企業経営において、経営戦略や意思決定、言い換えれば経営者の仕事を一新することになるだろうと予測した人が多かった。
しかし、現実には、現在の情報技術は、そのように用いられていない。

経営者の仕事を一新すると考えた例の代表が、MIS論議だろう。
1960年代の終わり頃から1970年代の初めにかけて、未来学ブームと軌を一にして、MIS(Management Information System:経営情報システム)によって、経営のあり方が大きく変わるであろうことが論じられた。

しかし、現実はどうか?
経営者に提供されるのは、データに過ぎず、新しい問題意識や新しい経営戦略を提供しているわけではない。
それは、経営者が必要とする情報が、現在の経営管理のしくみに組み込まれていないからである。
経営管理のしくみの中心に位置しているのは、会計情報である。
それは基本的には、コストに関する情報である。
しかし、ドラッカーは、事業を成功させるのは、コストの管理ではなく、価値の創造である、という。

旧来の会計システムに基づく企業のコンピュータシステムは、現場の仕事には大きな影響を与えてきた。
しかし、経営者の仕事にはほとんど影響をもたらしていない。
新しい情報革命に求められるのは、情報のコンセプトにかかわる革命である。
従来、「IT革命」において、ITのT(technology)が中心的な関心事だったが、真に重要なことは、ITのI(information)である。
「T」における流行現象に目を奪われるよりも、「I」における不易の要素を探究することが課題と言えるのではなかろうか。

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2009年4月12日 (日)

「情報」の「情」的側面と「報」的側面

「情報」には、判断の材料として用いられるもの以外に、特に判断と結びつかないものもある。
例えば、ベストセラーの書物やヒット曲なども情報の一種であることは間違いない。
判断の材料としての情報は、他人が持っていないものを持つことが優位であるが、ベストセラーの書物やヒット曲などは、大勢の人が共有する情報である。
これらの情報は、判断の材料としての情報が、一般に保有する人が少ないほうが価値が高い(その極限は自分だけが知っている)のに対し、それとは逆に、保有する人が多い方が価値が高いとみることができる。

社会学者の高田公理さんは、この2種の情報を、「メッセージ型情報」と「マッサージ型情報」と呼んでいる。
「メッセージ型情報」は、「文明の装置・制度系に作用してその効率と機能を高める情報」である。
たとえば、コンピュータを導入して生産性を向上させたり、事務処理効率を上げたりする場合が典型である。
明確な意味を持ち、産業や社会の効率化の役に立つ。

これに対し、「マッサージ型情報」は、「人間の心とからだに働きかけ、快や不快をもたらす情報」である。
音楽や絵画や映画、ファッションや飲食物など、明確な意味は持たないながらも人びとを楽しませ、喜ばせ、珍しがらせ、そして面白がらせ、人間の心身にマッサージのような役割を果たす。

この情報の持つ2つの性格は、「情報」という言葉とうまく結びついている。
「情報」を「情」+「報」に分解して考えてみよう。

「情」という文字は、“事情”や“実情”などの語に用いられる。
これらの言葉は、ある事柄を周囲の状況や個人の主観を加味しながら伝達するときに用いられる。
これに対し、「報」は、“報道”や“報告”などの語に用いられる。
これらの言葉は、ある事柄を正確に客観として伝達する場合を表現するときに用いられる。
前者の場合は、曖昧さが許容されるが、後者の場合には曖昧さがない方が価値がある。

このように考えれば、「情」は、「マッサージ型情報」としての側面を示し、「報」は、「メッセージ型情報」の側面を示していると言えよう。
「情」あるいは「マッサージ型情報」は、それ自身が目的となるのに対し、「報」あるいは「メッセージ型情報」は、何かの目的のために使用される手段として位置づけることができる。
しかし、ある情報が、必ずどちらかに区分されるというわけではない。

例えば、ヒット曲を快く聴けばマッサージ型情報であるが、そこから大衆心理の動向を読み取るとすれば、メッセージ型情報である。
あるいは、ある書物が、Aさんにとっては娯楽の対象であるかも知れないし、Bさんにとっては学習の材料であるかも知れない。

あるいは、携帯メールなど絵文字が用いられている。
文字の一部を1文字で表現する絵(例えば自動車や電車などのアイコン、フォント)に割当て、表示できるようにしたものである。
自動車のアイコンが表示されれば、直ぐに自動車についての情報だということが了解できる。
同時に、文字だけだと硬い印象が和らぐという効果もあるだろう。
つまり、絵文字は、メッセージとマッサージの両方の機能を兼ねていると考えられる。

電話などの使い方についても、この両側面があるだろう。
例えば、私などは、用件を連絡するだけである。
つまり、「報」的であり、メッセージ型である。
妻や娘からは、愛想がない、と批判される。

これに対し、妻や娘などの電話はどうだろうか。
ほとんど意味のないことをダラダラしゃべっている。
不経済だと思うが、それは「情」的なものであり、マッサージ型情報ということになるのだろう。

梅棹忠夫さんが、放送という事業が、速報性において新聞に勝るものの、むしろ娯楽番組、教養番組などが圧倒的な分量を占めざるを得ない、と書いたのは、放送において、メッセージ性よりもマッサージ性が占めるウェイトが高いだろうということを指している(09年4月7日の項)。
現在のテレビ番組を見ていると、肯かざるを得ないだろう。

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2009年4月11日 (土)

「情報」という言葉

「情報」という言葉はいつから使われるようになたのだろうか?
諸説があるが、有力なのは、明治の文豪・森鴎外が、クラウゼヴィッツの『戦争論』を訳した時に、Nachrichtの訳語として用いたときから、という説である。
「情報」という概念が、社会一般にとって重要であることをいち早く指摘したのが、梅棹忠夫さんの「情報産業論」などの論考だった。
それまでは、情報将校とか内閣情報局というような言葉が示すように、「情報」という用語は、軍事的あるいは政治的な範疇に限定されていたようである。

この言葉の用例を見てみよう。
『ブリタニカ』(1973年版)では、「情報intelligence」の項は次のような説明されている。

国家、団体、または個人が、敵対、対立、競合関係にある国家、団体、個人についての状況を知るために獲得する知識をいう。
  …中略…
これらに関する資料が情報資料informationであって、一般には混同されて使用されている。

明らかに、軍事的もしくは政治的な用語として説明されている。
また,『広辞苑』の第2版(1969)では、次のように説明されている。

information:或ることがらについてのしらせ

より一般的になっているが、そのぶん曖昧で漠然としている。
『広辞苑』の第4版(1991)では、上記に加えて以下が追加されている。

②判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識

コンピュータが広く使われるようになってきた社会背景を反映したものといえよう。
経営情報システム(MIS:Management Information Systems)が喧伝されたのが、1960年代の終わりから1970年代の初頭にかけてだった。
従来の経験に頼っていた経営をコンピュータ利用によって効率化することを目的としていたが、当初の期待通りの成果は得られないまま、ブームは終焉した。

ところで、鴎外が組み合わせた「情」と「報」は、本来次のような意味を持つという。

「情」:青は、清く澄み切ったエキスの意を含む。情は、「心+音符青」の会意兼形声文字で、心の動きをもたらすエキスのこと。

「報」:「手かせの形+ひざまずいた人+手」の会意文字で、罪人を手でつかまえてすわらせ、手かせをはめて、罪に相当する仕返しを与える意味をあらわす。転じて広く、し返す、お返しの意となる。

つまり、「情報」とは、「心の動きをもたらすエキスとそのフィードバック」ということになる。
現在、「情報」という語は、情報社会、情報産業、情報経済、情報科学、情報技術などというように、極めて幅広い内容を含むものとして使われるようになっている。
また、その幅広い内容によって、「情報」が、現代という時代を特徴づけているということができるだろう。

もとより鴎外は、現在のような社会状況を予見していたわけではないはずである。
しかしながら、さすがにその造語力は、遠い将来にまで届いていたということになるだろう。

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2009年4月10日 (金)

「情報産業論」の先駆性

梅棹忠夫さんが、、『放送朝日』に、「放送人の誕生と成長」(09年4月7日の項)に続いて発表したのが、有名な「情報産業論」である(『梅棹忠夫著作集(第14巻)』中央公論社(9108)所収)。
上掲書の「解説」によれば、執筆が昭和37(1962)年晩秋、『放送朝日』への掲載が、昭和38(1963)年の1月号である。
その後、若干手を入れて、『中央公論』の同年3月号に転載された。
上掲書に収録されているのは、『中央公論』版が底本になっている。

「情報産業論」については、同趣旨の「精神産業時代への予察」が、『朝日新聞』の昭和38(1963)年1月1日に掲載され、さらに上掲書に、「情報産業論への補論」が収録されている。
この補論は、『朝日放送』への発表から二十数年後に、著者が論じたりなかったと思う部分を、具体的に論じた一種の注釈である。

「情報産業論」の論旨は、著者自身の要約(『メディアとしての博物館』(8711))によれば以下の通りである。

人類史において,文明の初期には,まず農業の時代があり,そこでは,食糧の生産が産業の主流をしめた。やがて工業の時代がおとずれ,物質とエネルギーの生産が産業の主流をしめるようになった。つぎに産業の主流をしめるようになるのが,情報産業である。経済的にも,情報の価値が,経済のもっともおおきい部分をしめるようになるであろう。

このような考え方は、現在では当たり前のように感じられる。
しかし、梅棹さんが「放送朝日」あるいは「中央公論」に掲載した昭和38(1963)年当時は、必ずしもそうではなかった。
梅棹忠夫著作集(第14巻)』に、「四半世紀のながれのなかで」と題する論文が収録されている。
「情報産業論」をめぐって書かれた紹介、批評、言及のたぐいの中から、梅棹さんがピックアップして紹介したものである。
その中に、「発表直後の反応」と題する項がある。

『放送朝日』のシリーズ「情報産業論」の展開のために」では、ほとんど毎号、わたしの論文「情報産業論」は話題になり、引用されている。
しかし、論文がすぐに『中央公論』に転載されたにもかかわらず、「情報産業論」は発表以来、かならずしもおおきな反響をよんだとはいいがたい。
その後、情報論ないしは情報化社会論はたいへんさかんになり、おびただしい論文が発表されている。そのうちのかなりのものに、わたしの「情報産業論」は、引用ないし紹介はされている。しかし、いずれもわたしの論文の部分的な批評あるいは紹介であって、全面的な論評や、反論のたぐいはほとんどあらわれなかった。

「情報産業論」という論文の意義を、的確に評価したものとして梅棹さん自身が紹介しているのが、白根禮吉『日本型情報化社会-未来シナリオを語る』財団法人電気通信協会(8607)である。

この論文(「情報産業論」)で基本的にいっておられることは、、その後のヨーロッパ、アメリカのさあざまな分野の著名な学者の未来論おほとんど変わりません。例えば、ダニエル・ベルの「脱工業化社会」(Post Industrial Society)という有名な未来論、あるいはイギリスのデニス・ガボール(ホログラフィーの発明でノーベル物理学賞を受賞)の「Matured Society」という未来論も大変有名です。更にごく最近のものでは、アルビン・トフラーが「第三の波」(The Third Wave)という未来論を発表して、日本でもたくさんの方が影響を受けていると思います。ですからこれらの未来論の基本的な考え方は、今から二十年前に梅棹先生が鋭く喝破されておられたわけです。先生は情報産業論おいう名前をつけておられますけれども、先生の専門からいって中味は明らかに情報化社会論、あるいは情報文明論といった内容であり、産業論という名前はややふさわしくないかもしれません。いずれにしても、この論文が私は世界で初めて、いわゆる今日いうところの情報化社会というものをきわめてはっきりと世界に先駆けて予測された論文だったと思います。つまり情報化社会という考え方は日本生まれの考え方であると、はっきり言えると思います。

「情報産業論」が初めて世に出たときには、先駆的過ぎて、世の中の方に受け入れる条件が整っていなかったということであろう。
その後、社会は梅棹さんの予見に沿う形で発展してきている。
いまや、「情報化社会」という言葉は、いささか手あかにまみれているような気もするくらいである。

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2009年4月 9日 (木)

差異の認識としての情報

交通信号は、「情報」の一種と言っていいだろう。
青ならば進め、赤ならば止まれ、である。
つまり、交通信号の色は、私たちに判断の根拠を与える情報である。
この場合、赤と青の区別がつくことが重要である。
赤と青が識別できなければ、交通信号は情報として機能しない。
つまり、赤と青の差異を認識することが情報であることの要件である。

しかし、赤と青ならば識別できても、例えば、サルの顔を見て、このサルはAでBではない、と識別できるだろうか?
少なくとも私には、サルはサルの顔であって、サルの個体識別は難しい。
しかし、京都大学の今西錦司博士をリーダーとする霊長類研究グループは、サルの個体識別をして、その社会構造や行動様式を研究した。
もちろん、私も、サルの研究のフィールドで一定期間過ごせば、サルの個体識別をできるようになるだろう。
差異を認識できるかどうかは、関心の大きさと馴染みの程度によるものと考えられる。

複数のものが、「同じ」ものであるか「違う」ものであるかは、必ずしも一義的には決まらない。
ある文書のコピーは、オリジナルの文書と「同じ」ものであるか、「違う」ものであるか?
物質として見れば、2枚の紙は別のものということができる。
しかし、そこに書かれている内容は、同じものである。

私のキーホルダーを見てみよう。
いくつかのキーが束になっている。
クルマのキー、自宅の玄関のキー、会社のキー、子どもの家のキー等である。
これらを私は“同じ”キーとして認識しているから、キーホルダーに束にしている。
しかし、私は、それらのキーがそれぞれ異なるものであることを知っていて、使い分けている。
つまり、クルマのキーで家の玄関は開けられないことを知っている。

つまり、キーホルダーに束ねるということは、個々のキーが、キーであってキー以外のもの(非キー)ではないという認識に基づいている。
キーという「同じものとしてまとめる」ことは、キー以外のものとは異なるものとして、その他のものと区別している、ということになる。
森羅万象の中で、キーという区分に相当するものだけを取り出して、キーホルダーに束ねているわけである。

差異を認識する上で重要なのは、言葉の働きである。
あるいは、言葉があるから差異を認識できる、とも言える。
だから、ボキャブラリーの多寡は、認識力に影響する。
例えば、私たちは、「7色の虹」というふうに言う。
虹は、空中の水滴に光が透過するときに屈折し、その屈折率が波長によって違うため、プリズムのような効果が生まれ、それが水滴の反対側で反射して、分光して見える。

私たちには、虹は、「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」の7色の帯に見える。
しかし、実際に、この7色に分かれているかといえば、そうではない。
光の波長は連続的に変化しているのであって(アナログ的)、デジタルに離散しているわけではない。
7色と認識するのは、赤~紫の言葉を知っているからである。

もしもっと細分して認識しようと思えば、区分できるはずである。
例えば、黄色と緑色の中間に、黄緑色を認識することは比較的容易だろう。
空中の虹については余り細かく区分できないだろうけれど、色見本をみれば、例えば黄色と黄緑色の間に黄黄緑色を、黄色と黄黄緑色の間に、黄黄黄緑色を認識することができるだろう。

色の名前は実に微妙な差異を表現している。
植物にちなんだ色として、柳葉色、松葉色、青竹色、木賊色などがあるが、私たちには識別が難しい。
しかし、染色家などは、これらの色を識別しているということである。
言葉と差異の認識(分節化)とは、一体的である。

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2009年4月 8日 (水)

判断の材料としての情報

「情報」とは、どのような性質を持ち、どのような働きをするものか?
「情報」という言葉で先ず頭に浮かぶのは、判断の材料としての役割である。
今度の土曜日にゴルフをしないかという誘いがある。
天気が良ければ行きたいが、雨ならば止めにしたい。果たして天気予報はどうだろうか?

あるいは、どうも最近肥満気味である。
いわゆるメタボリックシンドロームに該当するだろうか?
クリニックに行って診断して貰おう。

これらはいずれも、判断の材料としての情報ということになる。
最も典型的なものは、ビジネスの取引や投資に関する情報であろう。
この取引先は信用できるのか?
あるいは、提示されている価格は、相場に比べて安いのか高いのか?
この銘柄は、売りか買いか?

『孫子』の有名な言葉に、「彼ヲ知リ己レヲ知レバ、百戦シテ危ウカラズ」がある。
知るというのは情報の働きであり、判断の材料としての情報の重要性を示した言葉として知られる。
「知る」ということにもレベルがある。
的確な判断をするためには深く知ることが必要で、深く知るためにはなるべく量が豊富で質が優れていることが必要だろう。
例えば、投資対象の企業の情報は、なるべく詳しく知っている方が有利である。
来期の見通しを知っているのと知らないのとでは、投資の判断は当然異なってくる。

このような場合、できれば、他人が未だ知り得ていない極秘情報等が入手できれば、それに越したことはない。
例えば、ずっと黒字を続けていた会社が、来期は一転して赤字に陥るという情報があったとする。
世の中の人が知らない状態で、自分だけがその情報を知っていたら、絶対的に有利である。

ワーテルローの戦いにおけるロスチャイルド商会の行動は、投資と情報の関係を示す有名な事例である。
以下は、ロスチャイルド商会のネイサンに関する逸話である。

ナポレオン・ボナパルトの最後の戦いとなった1815年の「ワーテルローの戦い」。ヨーロッパを支配しようと侵略戦争を続けた皇帝ナポレオン率いるフランス軍と、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍(ホーエンツォレルン家が支配する王国の軍隊)が対峙した天下分け目のこの戦争の戦況を入手しながら、ロンドン・ロスチャイルド商会のネイサンは「その時期」を狙っていました。
ワーテルローでナポレオンが勝てば、イギリスの国債は暴落して紙くずとなります。反対にウェリントン将軍が勝てばイギリス国債は暴騰します。つまり「どちらが勝ったか」という情報をいち早く入手できる者が有利なのです。
ロスチャイルド家は「ワーテルローの戦い」の勝敗を見届ける者を手配していたので、イギリス軍の使者よりも早くイギリスのネイサンのもとに「イギリス軍勝利」の連絡が届きました。伝書鳩を使ったのか、伝達用の馬と船を配置しておいたからできたのか不明ですが、当時のロスチャイルド家はドーバー海峡に自家用の快速船を何隻も運航させていたという記録が残っています。また、ドーバーとロンドンの間にロスチャイルド家専用の早馬を常備していたともいわれています。そんな情報網によってネイサンはイギリスでただ一人、「イギリス軍勝利」の事実を知っていました。
ネイサンは、ただちにロンドン金融街シティの証券取引所に向かい、イギリス国債を売って出ました。ネイサンが売りに出たのを見て、「イギリス軍敗北」という情報が流れ、相場は大暴落しました。「大英帝国破滅の日が近い」と周囲はパニックに陥ったようです。そんな混乱の最中、紙くず同然となった国債をひそかに買い集めているグループがいました。ネイサンの使用人です。そして「その時期」を見計らってネイサンも国債の買いに転じました。
翌日、ウェリントン将軍の使いが「イギリス軍勝利」のニュースをイギリスに届けた時に、イギリス国債が破格の値上がりを示したことは言うまでもないでしょう。底値で買い、高値で売ったことで、当時の金で「100万ポンドの利益」を上げたという伝説が残っています。市場の小さな時代のことですから、この利益はまさに天文学的数字といえるでしょう。こうして金融王ロスチャイルド財閥が誕生し、このファミリーがヨーロッパ全土を支配するようになっていくのです。

http://fxthegate.com/2007/10/6.html

しかし、特定の人だけが極秘情報を知って投資を行うことは公平ではない。
公平さが失われると、市場全体の信用が無くなり、市場が成立しなくなる。
そのため、投資に関する情報に接する機会は、可能な限り均等になるように制度化されている。
例えば、インサイダー情報に基づく取引が厳しく罰せられるのは、極秘情報に接することのできる立場の人が、それによって有利に行動することを防止するためである。

今日(4月8日)の日本経済新聞には、東証二部に上場しているジェイ・ブリッジの元会長が、証券取引法(現金融商品取引法)違反の容疑で出頭を要請されたことを報じている。
ジェイ・ブリッジが業績悪化を公表する前に、海外の取引口座で自社株式を売却した疑いである。
報道によれば、元会長は、所有する同社株を売り抜けて、数千万円の損失を回避したとされる。

あるいは、風説の流布が禁じられているのも同様の事情だろう。
風説というのは、確かな根拠に基づかない報道である。
しかし、風説か否かは、情報が流れた段階では必ずしも明確ではない。
イタリア中部で6日起きた地震について、以下のようなことが報道されている。

震源に近いラクイラを拠点に研究する物理学者ジャンパウロ・ジュリアーニ氏は、数年前から、地中から排出されるラドンの量を測定すれば、地震の発生をある程度まで予知できると主張。
先週初め、ラクイラと約60キロ東南のスルモーナを大規模な地震が襲うとする研究結果をインターネット上で公表した。
瞬く間に地元に地震のうわさが広まり、拡声機を使って周辺住民に家から逃げ出すよう触れ回る人や、恐怖のあまり道路に飛び出す人が出るなど大騒ぎになったという。
http://www.asahi.com/international/update/0407/TKY200904070102.html

これに対し、政府当局は「パニックを起こす」として警告を削除させていたという。
果たして、この地震予知情報は、風説に該当するものか否か。

判断の材料としての情報は、なるべく豊富で良質であることが重要だから、組織において重要な判断を担当する上位の階層には、それなりのキャリアを積んだ人間が求められる。
キャリアを積んできた過程は、情報に接し、情報の良否を判断する過程でもあるからである。

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2009年4月 7日 (火)

マスメディアの社会的影響力

このところ、西松建設献金問題や北朝鮮の人工衛星(ミサイル)発射問題など、マスメディアから流れる情報が、とりわけ大きな社会的影響力を持っているように感じる。
マスメディアの代表は、新聞とテレビだろうが、テレビ放送の持つ文明史的意義をいち早く指摘したのは、梅棹忠夫さんだった。
梅棹さんが、『放送朝日』という雑誌に掲載した「放送人の誕生と成長」(6110)(『梅棹忠夫著作集(第14巻)』所収)という論文である。
また、同論文で、今では普通に使われている「情報産業」という言葉が、初めて使われたことも記憶に留めておく価値があるだろう。

日本の放送事業は、戦前においてはNHKラジオしかなかった。
昭和26(1951)年に、民間放送会社がラジオ放送を開始し、昭和28(1953)年にNHKがTV放送を開始する。
同じ年に、民間放送もTV放送をはじめた。

大阪にも民間放送会社が誕生し、昭和31(1956)年2月に大阪テレビ(OTV)が本放送を開始した。
OTVは、のちに朝日放送(ABC)と毎日放送(MBS)とに分かれて現在に至っている。
朝日放送は、『月刊・朝日放送』という広報誌を発行していた。
上掲書の「月報」で、元『放送朝日』編集者の五十嵐道子さんは、同誌は昭和29(1954)年から『放送朝日』と名称を改め、内容も友の会的広報誌から、オピニオンリーダー向けに変えたと回顧している。

五十嵐さんによれば、梅棹論文は次のような反響を生んだ。

この論文は、民放発足後十年、トライアル・アンド・エラーを繰り返していた、民放人や広告業界に働く人々にとって、自らを知るための名文として好評を博し、編集部にも問い合わせが殺到した。

梅棹さんは、この放送人という新しく誕生した職業集団に関して、文明史的な考察を意図して論文を執筆したと自ら書いている。
とはいえ、まだ誕生して十年という段階での考察である。
文明史的といっても、予見を含めての見解である。
梅棹さんの見るところ、放送人たちの仕事は、創造的でエネルギッシュである。
しかし、放送してしまえば何も残らない放送という仕事は、果たしてそのような激しい創造的エネルギーの消耗に値するものなのか?
彼らのエネルギー放出を正当化する論理的回路は何か?

梅棹さんは、放送という仕事の本質を追求する。
民放は商売ではあるが、いったい何を作って、何を売っているのか?
商売として放送を考えた場合、最大の問題点は、「効果がわからない」ということである。
視聴率の調査はあるが、視聴率が高かったからといって、スポンサーの売っている商品が売れるとは限らない。
つまり、商業放送の「効果」の商業的側面は、どこまでも間接的で、直接検証できるものではない。

それでは、放送人は、何に生きがいを求めてあれだけのエネルギーを注入するのか?
梅棹さんは、番組の商業的効果が不明だとしたら、その文化的効果ではないのだろうか、という仮説を立てる。

ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。そして、放送の「効果」が直接に検証できないという性質を、否定的ではなしに、積極的に評価したときに、放送人は誕生したのである。もし、放送の商業的効果をあげるだけならば、それは広告宣伝業である。放送人の内的論理は、広告業のそれとはあきらかにちがっている。

梅棹さんは、このような放送人の社会的存立の論理に、従来の職業のなかで最も良く似ているのは、学校の先生ではないか、という。
教育という仕事も、非常に創造的エネルギーを要するものではあるが、その社会的効果の検証ははなはだ困難である。
上級学校への進学率などはテレビの視聴率のようなもので、効果の内容とは本質的には無関係である。
教師の社会的存立を支えている論理回路は、教育内容の文化性に対する確信以外にはないだろう。
とすれば、放送人も一種の教育者ということになる。
つまり、放送事業は、聖職の産業化である。

ここで、文化的価値というのは、倫理的・道徳的価値とは尺度がまるで異なっている。
それは、もっともひろい意味での「情報」の提供である。
新聞と放送を対比するとどうか?

情報の提供には、報道的要素と評論的要素とがある。
新聞は、そもそも政治評論としてスタートしているが、次第に報道的要素が強くなってきた。
しかし、まだまだ評論的要素が少なくない。社会の木鐸という言葉は、新聞に対して使われる。
これに比べると、放送は、単に情報の伝達者である。
社会の教化者としての意識はなく、音と映像のセットを提供する産業人である。

報道という面に関して、新聞と放送の異同は何か?
新聞は、速報性をラジオ、テレビに譲らざるを得ないが、それでも報道中心に編集するほかはない。
これに対して放送は、速報性は持つものの、むしろ娯楽番組、教養番組などが圧倒的な分量を占めざるを得ない。

放送業は、現代日本のフロンティア産業である。
彼らが対象としているのは、肥沃な新しい開拓地である。
放送人は、その開拓地に独特の文化を樹立しつつあるパイオニアである。
放送業は、戦後日本の経済成長とともに成長してきた産業である。
しかし、いずれは開拓地も熟地化する。
熟地化とともに矛盾があらわれてくるだろう。そのときに、初期の開拓者たちの真価が問われる。

さて、現在の放送人は、初期の開拓者の遺産をどう活用しているであろうか?
新聞も含め、マスメディアの報道に批判的な精神が薄いような気がするが如何だろうか。
梅棹さんの論文は、半世紀近く前に書かれたものであるが、現在でも多くの示唆を与えてくれるように思う。
梅棹さんの視野の広がりと遠望を改めて感じさせられる。

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2009年4月 6日 (月)

テボドン発射情報と科学技術リテラシー

北朝鮮の人工衛星(ミサイル)に関して、情報が錯綜している。
北朝鮮は衛星軌道に乗ったと報道し、ロシアもこれを追認したが、アメリカは否定している。
国連の安全保障理事会でも、2006年の安保理決議1718に違反しているのかどうか、見解が分かれている。
この決議は、北朝鮮が2006年10月9日に行った核実験を受けて、同月14日に、全会一致で決議したもので、北朝鮮に追加的な核実験や弾道ミサイルを発射しないよう求めたものだ。

日本やアメリカは、「明確な違反」と断定しているが、中国やロシアは、精査が必要との慎重意見である。
北朝鮮の報道するように、人工衛星打ち上げならば、必ずしも決議違反にあたらないともいえるからである。
もちろん、頭上を核兵器を搭載できるような飛翔体が飛んでいくのは決して気持ちのいいものではない。
しかし、情報が錯綜している段階で、逐一反応するのもどうかな、と思っていた。

日経ビジネスオンライン4月6日号に、伊東乾という人が、『なぜ日本はテボドンで右往左往するのか?』という論考を寄せている。
伊東乾氏の略歴は以下のように紹介されている。

1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学講師、慶応義塾大学などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。

要するに、芸術家の感性と物理学者の論理性を兼ね備えた人ということになるのだろう。
その伊東氏は、上掲論文で、大阪府吹田市の万博記念公園内に建設構想があった「国立産業技術史博物館」のために、大阪府などが作った協議会が蒐集した歴史的な産業資料2万数千点が、一度も公開されないまま廃棄処分されることが決まったというニュースから話を始める。
「国立産業技術史博物館」の構想はバブル期に暖められたものであるが、バブル崩壊後に計画は頓挫していた。
同博物館に展示するべく集められた、膨大な「産業資料」は、日の目を見ることなく万博公園内の旧万博パビリオン「鉄鋼館」の中に保存されていが、その「鉄鋼館」が万博資料館「EXPO'70パビリオン」として改修されることとなり、資料の保管場所がなくなったので廃棄処分にすることになった。
つまり、わざわざ集めた貴重なものを、塩漬けの果てに丸ごと「産業廃棄物」にしてしまうというのである。

大阪商工会議所によれば、今まで万博記念機構の厚意で無償保管してもらっていたが、「倉庫を借りれば年額1000万以上かかり、保管を続けることはできない」という。
確かに諸般経済事情が厳しい世の中ではあるが、年額1000万円程度の保管料なら、それほどの金額ともいえない。
国として対応することも可能だったのではないだろうか。
伊東氏は、「貴重な産業史の1次資料を、定見がなく、モノの価値を知らない指導層が、短期的な損得勘定でドブに捨てる。「モノづくり」で20世紀の繁栄を作った日本が、21世紀は緩やかにその役割を終え、これから衰亡してゆくことを象徴するような、なんとも心寒いニュース」と慨嘆しているが、同感である。

私は、1985年につくばで開催された「科学万博」の出展に関連して、アメリカとカナダの科学博物館を見て回ったことがある。
有名なスミソニアン博物館などは当然のことであるが、地方都市の科学博物館(自然史博物館)でも、見学者が参加できるよう展示に工夫が凝らされ、貴重な一次資料が収集されているのを体験した。
日本の地方都市でも、このような博物館があれば、理科離れといわれている中・高生なども、理科志向に回帰するのではないか、という気がする。

伊東氏の祖父の藤田香苗氏は、草創期の自動車エンジニアで、GMと川崎重工業の二重社籍だったそうである。
ミシガン大学の工学部出身であるが、当時は工学部工学科しかなかったという。
その祖父の遺したノートを見た時に、その余りの美しさに衝撃を受けたと、伊東氏は記している。
私も、日本のコンピュータの黎明期に活躍した池田敏雄氏を記念する富士通の池田記念室で、池田氏のノートを見たときのことを思い出した。
優れた先人の遺品は、強い刺激を与えるものである。

伊東氏は、科学技術教育において本物に触れることの重要性を説きつつ、テボドン情報に右往左往するのは、日本人が「定見」を失っているからだ、と指摘する。
吉田ドクトリン以来、「定見」のないフリを続けた結果、本当に「定見」を失ってしまったのではないのか、と。
そして、伊東氏は、技術とは結局「人」の能力の問題であるとし、テボドンで右往左往しているような状況では、大阪の産業技術史博物館の収集資料が廃棄されるのは必然だった、とする。
テボドンに右往左往するのも、貴重な産業史の資料が廃棄されるのも、ともに指導者層に(ということは国民一般にということにもなるのだが)、「科学技術リテラシー」「戦略リテラシー」が欠如している結果だというのである。

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2009年4月 5日 (日)

ミサイル発射の誤情報

北朝鮮が計画している「人工衛星」の発射に関して、朝鮮中央通信は、4日午前、人工衛星を間もなく打ち上げると発表していたが、午後4時を過ぎても発射はなかった。
しかし、日本政府は、一度「発射した模様」とする誤った情報を公表し、一時的に混乱する事態が起きた。

午後0時16分、政府は「さきほど、北朝鮮から飛翔体が発射された模様」とする緊急連絡「北朝鮮飛翔体情報」の第1報を、緊急情報ネットワークシステム「Em-Net(エムネット)」で、自治体や報道機関に出した。
2 しかし、午後0時21分に「先ほどの情報は誤りです。飛翔体の発射は確認されておりません」とする第2報を出して、それまでに出ていた首相指示などをすべて撤回した。

発射情報の誤報は、午後4時半ごろ、自衛隊の航空総体(東京都府中市)の担当者が自衛隊レーダーの情報と同時に米早期警戒衛星が発射を探知した、との誤った情報を、防衛省中央指揮所に伝達し、首相官邸でモニターしていた担当者が公表したのが原因であるとされている。
航空自衛隊の地上レーダーが探知したミサイルとは無関係の航跡が、即座に首相官邸まで伝達された。
その過程で、自衛隊員が発射の根拠を肉付けするような情報を思い込みで付加したり、衛星情報との照合が不十分だったりした。

情報の伝達には、迅速さと正確さが要求されるが、往々にして、両立は難しい。
弾道ミサイルの探知は、次のような手順で行われる。
(1)ミサイルの発射時に放出される赤外線を米軍の早期警戒衛星が探知する。
(2)その情報をもとに、自衛隊の地上レーダーとイージス艦のレーダーが探知・追尾する。

今回は、米軍の早期警戒衛星から何も情報がなかったが、航空自衛隊が防衛省技術研究本部飯岡支所(千葉県旭市)で運用しているレーダーが、航跡を探知したことが誤情報のもととなった。
速報を重視したことが、結果として裏目に出たということになる。
落下の可能性もあるとされていた東北各県の自治体は、政府の誤情報に振り回された1日だった。

秋田県危機管理対策本部には、4日午前11時すぎ、防衛省から「10時48分にミサイルが発射された」との連絡が届いた。
これを受けて、秋田県は、携帯メールで県内各市町村に警戒を促した。
自衛隊関係者が確認を取ると、発射の事実はないことが分かった。
システムの不具合によるものとされているが、県の担当者は、国の情報収集体制に不安を募らせてた。

どうして肝心なときに誤情報となるのか?
もちろん、人間の行うことだから、失敗の可能性は常にある。
しかし、ここ一番での失敗は許されるものではないだろう。
内閣のタガが緩んでいることの1つの表れではないだろうか。

1日後れて、北朝鮮の国営朝鮮中央通信は5日午後、「我々の科学者、技術者は、国家宇宙開発展望計画に従って、運搬ロケット『銀河2号』で人工衛星『光明星2号』を軌道に進入させることに成功した」と、初めて公式に報道した。
同通信は「衛星は軌道で正常に回っている」とし、「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」の旋律と測定資料が地球上に送信され、衛星を利用した中継通信が進められていると伝えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090405-00000026-mai-int

北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は5日、北朝鮮が人工衛星を軌道に乗せたとの主張について、「何も軌道に乗らなかった」と否定し、打ち上げが失敗したとの見方を示した。
同司令部は「北朝鮮が発射したミサイル一弾目は日本海に落下し、残りの搭載物は太平洋に着水した」と指摘した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090405-00000090-jij-int 

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2009年4月 4日 (土)

同級生の死/追悼(6)

年度が改まったばかりの4月1日、小学校・中学校を共に過ごした旧友(女性)が亡くなった。
一昨日の通夜、昨日の告別式に、何人かの同級生と共に出席した。
すでに若いとは言えないわれわれではあるが、まだまだ早い、早すぎると思う。

田舎のことであるから、小学校区と中学校区が全く同一で、9年間にわたって一緒だった。
その頃は、1年制の幼稚園が始まったばかりの頃だった。
今のように、全員が幼稚園に通っていたのかどうか?
私たちの世代は、もちろん「七歳にして男女席を同じうせず」という時代ではなかったが、かと言って現在のように性差を意識的に排除するという雰囲気でもなかった。
中学生くらいになると、異性に対する関心も高くなってくるが、好意を持っていても、心に秘めているというケースが多かったように思う。

そんなことだったから、亡くなった彼女と親しく話をするようになったのも、ずっと後年になって、同窓会を重ねるようになってからである。
特に、彼女の家への帰り道の途中に我が家が位置していたから、何回か帰りの車に同乗させてもらったことがある。
こちらは当然のことながら飲酒しており、お酒を飲まない彼女に運転をお願いできるのは有り難かった。
去年の夏、暑気払いと称して集まったときもそうだった。

その帰りの車の中で、話題が家族の話になった。
殆どの母親がそうであるが、息子のことになると途端に手放しで自慢話になる。
その自慢の息子が、告別式を終えようとする遺族の挨拶の途中、「母は……」と言いかけて、突然絶句し、嗚咽した。
ただでさえ涙もろい性質なので、涙が溢れてくるのを抑えきれなかった。
周りの女性は、ハンカチでしきりに目を拭っていてる。
会場を出ると、同級生の目も真っ赤だった。

私たちが小学校に入学した頃は、まだ戦後の傷跡が残っているような時代だった。
もちろん貧しい時代だったが、それが当たり前だと思っていたから、余り不満もなかった。
朝鮮戦争が勃発し特需が発生した恩恵を受け、小学生時代に世の中は急速に変わっていく。
小学校を卒業する頃には、経済白書に、「もはや戦後ではない」という名文句が登場するようになっていた。
そして、その言葉を裏付けるかのように高度経済成長の時代が始まる。
私たちに、青春と呼べるような時代があるとすれば、それはまさに高度成長と共にあったと言っていいだろう。

そして、社会人になって時代のあり方が大きく転換していくなかで、私は、学生時代に想定していた人生行路から逸脱してしまうことになる。
石油化学の技術者として新製品開発の仕事に従事していたのだが、藤原肇『石油危機と日本の運命-地球史的・人類史的展望』サイマル出版会(1973)という著書に触発されて、シンクタンク的な職業への転職を決意した。
幸いにして希望に沿う形で転職できたのだが、新しい職場に馴染む間もない半月ばかりの後、第一次石油危機が発生した。
世の中は狂乱状態に陥ったが、私は、上掲書の分析の的確さを再確認した次第だった。

時代は、重厚長大から軽薄短小へ。
マイクロエレクトロニクスが驚異的に発展していく。
学生時代の終わりごろ、計算が多かった研究室にようやく入った電子式卓上計算機(電卓)が、瞬く間に名刺サイズまでダウンサイズし、価格も劇的に低下して、貧乏サラリーマンでも買えるようになった。
女性の専門職の1つであった邦文タイプは、ワープロに駆逐されてしまう。
今ではワープロ専用機を使う人もレアである。

桜の花が盛りである。
その中を黄泉路に旅立っていった人。
同級生は増えることがない。減っていくばかりである。
同級生の死は、自分の人生を振り返ってみる契機になる。
偶々ではあるが、私自身も、3月に1つの区切りをつけた。
それが句点なのか読点なのかは現時点では分からない。
友人からは「朽ち果てるには未だ早い」と叱咤された。
もちろん、朽ち果てる積もりはなく、新しい可能性にチャレンジする意欲はあるのだが。

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2009年4月 3日 (金)

田中角栄元総理の功罪再考

私たちの世代にとっては、田中角栄元総理=金権政治家であって、余り「功」に関するイメージはない。
しかし、田中角栄元総理の金権イメージを決定づけたロッキード事件の、有罪判決の根拠が、かなり疑わしいものであるとしたら、もう一度、先入観を取り除いて考えてみることが必要だろう。
小林吉弥監修『知識ゼロからの田中角栄入門』幻冬社(0903)によって、田中角栄という政治家の功罪について再考してみよう。

上掲書では、田中角栄の「功」として、「戦後の日本の保守政治の主導権を官僚から政治家・政党に取り戻したことを挙げている。
角栄以前の自民党は、岸(商工省)、池田(大蔵省)、佐藤(鉄道省)といった顔ぶれをみれば、官僚主導の政治だったと見ざるを得ないだろう。
その官僚主導の政治を打ち破ったのが角栄だった。

上掲書によれば、田中角栄が手がけた議員立法は33件に及び、それは未だに破られていないという。
国会議員が議員立法するのはある意味では当然のことではあるが、日本の政治tの現実は、必ずしもそうではない。
角栄は、「都会と地方の格差をなくす」ことを目標に、多くの法律を成立させた。
必然的に、道路、住宅、国土開発に関する法律が多く、それが結果的に利益誘導や利権の温床になったことは事実であろう。
また、自然環境の破壊に繋がったという面も否定できない。

しかし、過密・過疎の同時解決というわが国の国土政策の一貫した課題は、未だに解決されていない。
都会と地方の格差はむしろ拡大していると言わざるを得ないだろう。
角栄の主張した『日本列島改造論』の骨子は、以下のようなものであった。
・工場を過密な都市から過疎の農村に移動させ、労働力を過疎地帯に呼び戻す
・日本列島全体を高速道路や新幹線などの交通ネットワークで結び、地方の工業を興す
・人口25万人規模の中核都市を全国に作り、その都市を中心として公害のない住み良い空間を作る
小泉改革によって格差の拡大が問題視されていることを考えれば、角栄の目指した方向性を再評価することも必要なのかも知れない。
また、外交に関しても、日中国交回復や日米繊維交渉などに功績をあげたことに目をつぶるべきではないだろう。

一方、「罪」として、上掲書は政治手法を挙げている。
金脈問題で政権の座を降りたあとも、自民党を支配して、キングメーカーとして君臨し続けた。
それが可能だったのは、数の力であり、究極的には集金能力に帰着する。

また、国土改造を目指す公共事業が、財政を圧迫したことに加え、ゼネコンが談合の代名詞的になってしまっている現実があるように、公共事業の意思決定に不透明な部分がつきまとう。
しかし、談合の問題は、単純に「悪」として排除してしまうと、現実的な解を見失う可能性がある。

談合が行われる対象となる公共事業の多くは、市場メカニズムに馴染まない。
一回性のプロジェクトであることが多いからである。
例えば、巨大なダムなどは、個別に事情が異なることは明らかであろう。
一回性の問題に関しては、必ずしも市場メカニズムは有効ではない。

公共事業などで行われる談合は、ある意味で、このような業界の事情を反映したものともいえよう。
そして、すべてが競争入札で価格競争になってしまったら、「質」の問題が発生してくることは避けられない。
談合が結構だということではないが、「談合=悪」という図式では、割り切れない問題があるように思う。

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2009年4月 2日 (木)

過去最悪という景況感と国家改造のあり方

日銀が1日発表した3月の企業短期経済観測調査(短観)によれば、景況が、同調査が開始された74年5月以来最悪であることが示された。
Photo_2 大企業製造業の景況感を示す業況判断指数(DI)は、マイナス58で、第一次石油危機後の1975年5月(マイナス57)を下回るものだった。
DIの悪化は、6四半期連続であり、昨年12月の前回調査からの落ち込み幅は34ポイントで、過去最大だった昭和49年8月の26ポイントを大幅に上回った(図は、日本経済新聞4月1日夕刊)。

DIというのは、業況が「良い」と答えた企業から「悪い」と答えた企業の割合を引いた指数である。
大企業では、全業種で景況感が悪化しており、これは7年ぶりのことだという。
2009年度計画は、売上高が前期比6.5%減、経常利益が19.7%減で、3月調査では初のマイナスとなった。
大企業非製造業のDIはマイナス31で、1999年3月以来の水準だった。
もちろん、大企業が悪ければ中小企業もいいはずがなく、DIは、製造業がマイナス57、非製造業がマイナス42だった。

3月31日の東京株式市場は、日経平均終値が、8109円53銭と、昨年3月期末に比べ35.3%も値下がりした。
東証一部上場企業の株式時価総額は、1年間で137兆円目減りした。
大手銀行6グループの保有株に3400億円の含み損が発生し、一般企業の保有株の含み益が80%以上減少した。
3月10日に付けたバブル崩壊後の最安値(09年3月10日の項)からは、1000円以上回復しているが、3月期決算が発表される5月の状況が心配されている。

含み損の発生した銀行が、貸し渋りを強めれば、企業の資金繰りはさらに悪化する。
倒産の危機も増大することになるだろう。
世界的な景気後退に伴って、戦後最悪の景況ということになる。
企業心理がこのような状態では、今後もリストラなどが進むことが懸念される。
消費がさらに悪化して、景気悪化が増進するという悪循環に陥ることになるだろう。

直近の景況の悪化は、在庫調整による部分が大きいのではないかと考えられるが、調整が一巡するのは何時頃で、その後の見通しはどうか?
短観によれば、大企業製造業の3ヵ月後の先行き見通しは、改善の方向にある。約3年ぶりである。
トヨタ自動車やパナソニックなど、ドラスティックに生産調整をした企業は、在庫調整がほぼ完了したとみられる。

日本経済を支えてきた外需は、今後とも多くを期待できないだろう。
とすれば、内需振興を図ることに政策的資源を集中させるしかない。
しかし、日本という国は、宿命的に資源に恵まれない国だという現実がある。
そのため、技術力をベースにした加工貿易という立国路線をとらざるを得ない。
2 中長期の産業構造の変化については、09年2月17日の項で触れた。経済変動と産業構造の転換の様相を示した図を再掲する。

日本という国の構造のあり方が問われているわけであるが、構造改革と言っても、言うは易く、ではどうしたらいいかということになると、なかなか明快な解は見つからないだろう。
単に経済政策の問題として考えるのでは不十分だろう。
日本株式会社と呼ばれるような官民一体的な政治経済のあり方をどう変えていくのか、国家改造というテーマに結びついてくるように思われる。

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2009年4月 1日 (水)

ロッキード事件の幻影?

産経新聞特集部編『検察の疲労』角川書店(0006)に、「ロッキード事件の幻影」という章がある。
どういうことか?
上掲書執筆の時点で、既にロッキード事件から20年以上経過しているが、まだロッキード事件が検察に影響を与えており、その中には幻影に踊らされている部分がある、と検察幹部が語っていることが紹介されている。

幻影とは、例えば、「特捜部にある奇妙な気負い」である。
特捜検事の頭にはロッキード事件が常にあって、夢をもう一度と、ロッキード事件のような大型の疑獄事件を摘発しなければ、という幻影に脅かされたような過剰な使命感があるという。
そして、その過剰な使命感は、摘発の対象は、何が何でも大物政治家、マスコミに登場する有名政治家でなければならない、という方向に向かう。
上掲書には以下のように表現されている。

その結果どうなるか。
うまく狙いと捜査がかみ合えばいいが、過剰な幻影が現実との間にギャップを生むと、これに気づかないまま無理に捜査を押し通してしまうことになる。
例えば、ターゲットの大物政治家の容疑が、実際の捜査ではなかなか固まらないとする。
そこで勇気をもって撤退する、あるいは方向転換すればいいのに、「幻影」を追い求めてそのまま突っ走ってしまう。
それが強引な取り調べや違法を承知の捜索、調書の作成となって現れ、やがて公判で「無罪」となる。

ロッキード事件の幻影は、今も生きているのだろうか?
政権交代必至という状況の中での野党第一党の党首は、「マスコミに登場する有名政治家」の条件を満たすに十分であろう。
西松建設献金問題が、ロッキード事件の幻影の結果のように感じるのは、思い過ごしだろうか?

上掲書には、次のような記述もある。

また、マスコミ操縦術も巧みに駆使されるようになった。ロッキード事件を引き金に新聞、テレビ、週刊誌などの各メディアは、積極的に検察取材を展開するようになった。ロッキード事件以降、検察の動向が政界、財界に大きな影響力を与えるようになったためだが、スクープ競争のなかで、捜査情報の入手ばかりに目を奪われていくうちに、検察に対するチェック機能を失った。
そうしたマスコミ側の事情を知ってか、「検察側も捜査ネタを巧みにあやつり、マスコミを抱きかかえるようになった」(特捜部検事)という。検察幹部は「マスコミとの関係を良好にしておけば、不可侵な組織として際限なく権限を振るうことができるからだ」と明かす。

マスコミが大本営発表をそのまま垂れ流す状況下では、批判的な雰囲気は生まれにくい。
大日本帝国陸海軍が、不可侵な組織として際限なく権限を振るった歴史がある。
メディアの影響力は、情報技術の発展の結果として、きわめて大きなものになっている。
西松建設献金問題に関する検察とマスコミの関係については、既に何回か疑問を呈してきた。
マスコミを批判的に理解するカルチャーが生まれてくる可能性はあるのだろうか?

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