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2009年3月21日 (土)

ロッキード事件⑬…昭和天皇の極秘指令と田中角栄逮捕の関係

平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)は、ロッキード国会の最大の謎は、前尾繁三郎衆院議長の「核防条約」承認への異常な執念だったという。
前尾は、昭和56(1981)年7月7日、亡くなる約2週間前に、平野氏に神田の割烹で、核防条約に突っ走った理由を説明する。

前尾議長によれば、両院議長裁定までやって国会を正常化したのは、核防条約のためだった。
前尾は、国会報告の内奏で天皇陛下に面談するたびに、核防条約のことを聞かれていた。
昭和天皇は、外国の元首と会うとかならずといっていいほど、核防条約のことが話題になり、気にしていたのだった。
唯一の被爆国として、署名しないまま放置している核防条約について、心を痛めていたのだ。

この昭和天皇の想いに報いるため、前尾議長は核防条約を成立させるため、衆院を解散させないと腹を括った。
4月20日までに審議を正常化させ、会期終了日の5月24日までに30日間の余裕を与えて自然成立を狙ったのだ。
そのために最大の懸案事項は、ロッキード事件だった。
前尾議長は、直接あるいは間接に、田中角栄にいったん政界から身を退くように伝えた。
しかし、田中角栄はそれを了承しなかった。

前尾議長の国会正常化への執念が、両院議長裁定となって、解散風を止めてしまった。
それは結果的に、ロッキード事件の方向性を、田中逮捕に転じさせることになった。
平野氏によれば、核防条約の成立は、田中角栄の逮捕の上に成り立っていたということになる。
つまり、核防条約承認を求める昭和天皇の「極秘指令」が、結果として田中角栄を逮捕する道筋をつけた、というわけである。

前尾繁三郎は、平野氏にこのことを伝えた約2週間後の昭和56年7月23日に心筋梗塞で急逝する。
つまり、昭和天皇の極秘指令があったという話は、前尾の平野氏に対する遺言だったということになる。
前尾の葬儀は、京都嵯峨野の清涼寺で、7月25日に行われた。
田中角栄は、葬儀に参列したいという意向を持っていたが、鈴木善幸首相と宮沢喜一官房長官が参列できないことになり、角栄だけが参列すると誤解を招く可能性がある。
官邸からの意向で、角栄の参列を断るべく、平野氏は早坂茂三秘書に頼んで、角栄に新潟の用事を作ってもらった。
しかし、後日、東京の増上寺で告別式を行ったとき、平野氏は、焼香に来た角栄から、「どうしても顔を見てから別れたかったんだよ」と言われた。

ロッキード裁判の1つのポイントとして、田中角栄首相の榎本秘書官のアリバイ問題があった。
検察側は、昭和48年8月9日午後1時から1時20分に、榎本秘書が1億円を受領した、としていた。
しかし、その時間帯は、前尾議長が会期延長の強行採決を正常化させるため、与野党国対委員長会談を主催していた。
内閣官房副長官だった後藤田正晴は、東京地裁で、「議長が国会正常化工作をしているときに、首相秘書官は国会の外に出られない」として、榎本秘書官のアリバイを主張した。
前尾議長が、与野党の国対委員長を招致していた時間帯を田中弁護団に証明したのは、他ならぬ平野氏だった。

榎本秘書官に関しては、夫人の三恵子氏の「ハチの一刺し」の流行語を生んだ証言が有名である。
10月28日、三恵子氏は、「ロッキード事件発覚直後、田中邸からの車の中で、夫が金銭の受領を認める発言をした」「その後、日程などの証拠書類を自宅で焼却した」と証言したのだった。
田中有利に傾きかけていた流れが、再び有罪の方向に向かうことになった。
強力な一刺しだったわけで、まだ若かった私は、女性の恐ろしさを垣間見たような気がした。

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