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2009年3月15日 (日)

ロッキード事件⑩…事件の風化と露出する真実

田中角栄元首相は、昭和51(1976)年7月27日に、東京地検捜査本部によって、外国為替管理法違反容疑で逮捕され、8月16日、外為法違反と受託収賄の容疑で起訴されて、ロッキード事件はロッキード裁判となった。
昭和58年(1983)年10月12日、東京地方裁判所(岡田光了裁判長)は、田中角栄に、「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決を下した。
田中角栄は控訴するが、昭和62(1987)年7月、東京高等裁判所は一審判決を支持して控訴を棄却した。

田中角栄は、昭和60(1985)年2月27日、脳梗塞で倒れ、闘病生活に入り、平成5(1993)年12月16日に死去した。享年75歳だった。
刑事被告人のまま、田中角栄は、大平正芳(昭和53~55年)、鈴木善幸(昭和55~57年)、中曽根康弘(昭和57~62年)の政権を裏から支配し、「目白の闇将軍」と呼ばれた。
角栄の死の1年2カ月後の平成7(1995)年2月22日、最高裁まで争われた「丸紅ルート」で、檜山広、榎本敏夫両被告の上告が棄却された。

注目すべきことは、この判決で、ロッキード社のコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書には「証拠能力がない」と判断されたことだろう。
つまり、刑事免責を前提とした嘱託尋問は間違っていた、と最高裁自身が判断したことになる。
平野貞夫『ロッキード事件「葬られた真実」』講談社(0607)によれば、著者の平野氏は、最高裁がコーチャンおよびクラッターへの嘱託尋問調書に「証拠能力がない」と判決したとき、参院法務委員会の理事であり、平成7(1995)年3月17日の法務委員会でこの問題を取り上げた。

平野氏に対して、則定衛刑事局長は、「相当の知恵を出した捜査手法で得た調書の証拠能力が否定されたことに、いささか戸惑いを覚えている」と答弁している。
平野氏は、「嘱託尋問調書の証拠能力が否定されたことは、日本の司法制度そのものの信頼性を問われる問題だ」と指摘した。

平野氏は、ロッキード事件も30年の時間を経て風化しているが、風化はあながち悪いことではなく、地中深く葬り去られた「真実」が、その姿を露出させる、としている。
平野氏によれば、ロッキード国会で最大の謎は、児玉誉士夫の証人喚問である。
児玉誉士夫は、証人喚問の直前、脳梗塞の発作によって証人喚問を免れた。
国会から派遣された医師団も、「出頭できる状態ではない」と判断している。

その謎の一端が、平成13(2001)年の『新潮45』4月号に掲載された、元東京女子医大脳神経外科助教授の天野恵市氏の手記によって明らかにされた。
天野氏の手記には、驚くべき内容が記されている。

国会医師団が児玉邸に行くと決まった昭和51(1986)年2月16日の午前中、天野氏は、東京女子医大の脳神経センター外来診察室で患者を診ていた。
午前11時に近づいた頃、天野氏は、喜多村孝一同大教授と二人きりで向かい合っていた。
立ったままの喜多村教授が、「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と切り出した。
「なんのために?」
と問う天野氏に対して、喜多村教授は次のように答えた。
「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」。

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