東京湾引揚げの金塊類とCIA
1945年8月15日に、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏して第二次世界大戦が終結した。
日本は、ポツダム宣言に則り、朝鮮半島の統治権を放棄した。
朝鮮半島の北半部は、金日成を中心とした共産勢力が、1946年2月8日に、ソ連の後援を受けて朝鮮臨時人民委員会を設立し、共産主義国家建設に向かい始めた。
このような動きに対し、日本統治時代にアメリカに亡命していた李承晩は、南半部での国家設立をアメリカに迫り、1947年6月に、李承晩を中心とする南朝鮮過渡政府が成立し、朝鮮半島は、北と南で異なる道を歩み始めた。
東西冷戦が始まると、朝鮮半島の北と南の対立も激化した。
1947年に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うべく、設立されたばかりの国際連合に提訴した。
しかし、北半部は、1948年2月には朝鮮人民軍を創設し、北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言した。
アメリカはこれを激しく非難したが、金日成は南半部への送電を停止し、南北の対立が決定的になった。
1950年6月25日に、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が始まり、朝鮮戦争が勃発した。
7月7日にアメリカ軍を中心とする国連軍が結成されたが、準備不足もあって各地で敗北を続けた。
マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、9月15日に仁川に国連軍を上陸させ、戦局を一挙に転換した。
仁川上陸作戦は、マッカーサー元帥個人により発案された投機性の高い大規模な作戦を、元帥個人の信念によって実行に移し、戦況を一変させたものとされる。
WIKIPEDIA(08年12月22日最終更新)
この仁川上陸作戦の戦費に、隠退蔵物資や東京湾引揚げ金塊類を使った可能性がある、と安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)は推測している。
ダレス国務長官は、ドミノ理論の信奉者だった。
ドミノ理論とは、将棋倒しのように、ある一国の政体の変更を許せば、近隣諸国が次々と政体変更してしまうという考え方で、ベトナム戦争の際にも主張されたが、東西冷戦の中で、日本はアメリカから極東における反共の砦としての役割を期待された。
朝鮮戦争への使用は別として、冷戦の進行と共に、さまざまな工作資金需要が増大していったことは間違いない。
「M資金」のMは、GHQの経済科学局の局長だったマーカット少将に由来すると言われている。
岸信介の早期釈放をマーカット少将に具申したのは、マーカットの片腕と言われた二世のキャピー原田だったが、その後押しをしたのがダレス国務長官だった。
ダレスはロックフェラーと密着していた。つまり、岸の釈放には、ユダヤ系機関が関与しており、以後両者は友好関係を保つ。
東京湾から引揚げられた金塊類を、アメリカが本国へ極秘で運ぶのを黙認した日本側の最高責任者は吉田茂である。
1953年1月、アイゼンハワー(アイク)がアメリカ大統領に就任した。
アイクは、ユダヤ人の政策機関といわれるCFR(外交評議会)のヨーロッパ援助研究チームの長だった。
CFRは、ロックフェラー家を中核とする組織で、ニクソン政権下のキッシンジャー補佐官・国務長官、レーガン政権のシュワルツ国務長官、ワインバーガー国務長官らは、みなCFR会員だった。
アイクは、CFRメンバーのフォスター・ダレスを国務長官に指名した。
岸信介にとって、ダレス国務長官は恩人であり、CFRの支持者として行動することになる。
CIA長官には、ダレス国務長官の実弟のアレン・ダレスが任命された。
これもCFR人事である。
CIAは、予算額や使途明細は公表されていないが、さまざまなウラ金が必要になるであろうことは想像に難くない。
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)は、東京湾の金塊がCIAの活動資金の一部に使われたのではないか、とも推測している。
日本が被占領状態にあった時の実態を描いた著書に、マークゲイン『ニッポン日記』がある、
邦訳初版は1951年で、マッカーサーの占領政策の内幕を記したものだ。
この『ニッポン日記』に、水谷明の新日本党のことについて、GHQの命令で、新日本党の内情を探った、とある。
同書では、水谷は闇商人、ギャングのボスということになっている。
アメリカに渡ってしまった東京湾の金塊類が、水谷明らの運動によって返還される可能性はなかったということだろう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント