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2009年2月28日 (土)

ロッキード事件③…児玉が秘匿していたダイヤモンド

東京国税局査察部の「Aファイル」にある児玉誉士夫の資料には、ロッキード事件以外の記録も収められていた。
立石勝規『闇に消えたダイヤモンド―自民党と財界の腐蝕をつくった「児玉資金の謎」』講談社+α文庫(0901)は、膨大なロッキード事件・児玉ルートの公判記録を解読して、児玉の戦後史における役割を追跡している。
ジャパンライン株買い占めをめぐる調停に対する謝礼に関する公判記録の中に、児玉がこの調停で、現金2億100万円と東山魁夷の日本画「緑汀」(1600万円相当)と黄金の茶釜(400万円相当)を、ジャパンラインから受け取っていた。

ジャパンライン株買い占め事件について、Wikipediaの三光汽船の項目(09年1月26日最終更新)から概要を抜粋する。
1970年(昭和45年)9月末、ジャパンラインの大株主に和光証券(374万株)、三重証券(150万株)が名を現した。半年後の1971年(昭和46年)3月末には和光証券名義の株数は926万株と3倍になり、同社の第7位の株主に躍り出た。
さらに半年後の1971年(昭和46年)9月末には、和光証券名義の株式が1,320万株へと増えたのをはじめ、一吉証券160万株、平岡証券120万株など、証券会社名義の株式数が同社の発行株数の4.7%に当たる1,670万株に達した。
これらの証券会社の名義を使って株を買っていたのは、同業の三光汽船だった。

1971年(昭和46年)12月になると、三光汽船はすでに7,000万株(19.7%)を取得したことを通告し、ジャパンラインに業務提携を迫った。
三光汽船はその後も同社株を買い集め、1972年(昭和47年)9月末には関係会社の東光商船名義で3,500万株、瑞東海運名義で約2,000万株なども含め、発行株数の41%に当たる1億4,600万株を取得した(買収資金には、度重なる第三者割当増資による資金が充てられたとみられる)。

三光汽船が迫った業務提携はジャパンラインのメインバンクである日本興業銀行の反対で遅々として進まなかった。
当初、三光汽船との提携に熱心だったジャパンラインの岡田修一社長が急死するというアクシデントも加わり、強引な三光汽船のやり方にジャパンライン側が反発し、世間の批判が高まる中で両社はついに1973年(昭和48年)4月24日に和解した。
この和解により、三光汽船が1株300円前後で買い集めた株を、ジャパンライン側に1株380円で引き取らせたため、三光汽船は約100億円の売却益を得ることとなった。

合意した和解内容は、以下の通りである。
 ・三光汽船が保有する1億4,500万株のうち、1,000万株を残してジャパンライン側に売り戻す。
 ・ジャパンライン側の買い取り価格は1株380円とする。
 ・両社は業務提携を進める

この和解に児玉誉士夫が関与したというわけである。
児玉は、調停の決着に協力してくれた野村證券の瀬川美能留会長とそごうの水島廣雄社長に対して、ダイヤモンドで謝礼した。
瀬川には5カラット(検察評価額2000万円)、水島には20カラット(同1億円)の指輪だった。
検察側資料には、「児玉が戦時中に取得していた」という記載がある。
ちなみに、著者の立石氏は、東京都心でカレーライスが300円、ラーメンが250円の時代だったとしている。
現在の物価に換算すれば、おおよそ3倍程度ということになるだろう。

児玉は、野村證券に深く食い込んでいて、毎年500万円の謝礼を受け取っていたという。
端的にいえば、癒着していたということだ。
野村グループによる石井進・元稲川会会長への株買い占めのための巨額資金の提供や総会屋・小池隆一への利益供与事件の上流に、児玉と野村證券との癒着があった、と立石氏は書いている。

瀬川も水島も、このダイヤモンドの取得を所得として申告していなかった。
もともと表沙汰にできない性格のものだったから当然である。
査察部はダイヤモンドを押収し、瀬川と水島に課税した。
瀬川は納税したが、水島はカネがないと応じなかった。
水島のダイヤモンドは、東京地裁で競売にかけられ落札された。

落札したのは、ある宝石商だった。
落札価格は2000万円だった。
この落札を仲介したのは、東京国税局の磯辺律男自身だった。
水島へのダイヤモンドは、児玉が奥さんへのプレゼントとして無理矢理渡したものだった。
児玉に突き返すわけにもいかず、水島が知り合いの弁護士を通じて磯辺に相談し、磯辺は相手が児玉で返却できなかった事情を勘案して物納を認めた。
宝石商に2000万円で落札することを依頼したのも磯辺だった。

落札額の2000万円が、水島の所得に認定された。
当時の所得税の最高税率は70%で1400万円、これに2年あまりの延滞税と過少申告加算税と住民税を加算すると、ちょうど2000万円程度になる計算だった。
水島は、日本興業銀行出身で、「そごう」の社長を1962年から32年間にわたって務め、その後会長に就任している。
拡大路線の結果として、2000年に「そごう」は破綻した。

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