田母神氏のアパ論文における主張…対華21箇条要求
田母神俊雄前航空幕僚長が、最優秀賞を得たアパグループの懸賞論文の評価はどうか?
賛否両論、既にさまざまな人によって論じられている。
さほど長いものではなく、下記のアパのサイトからダウンロードできるので、一読してみては如何だろうか。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
私も、著書は買わなかったが、この論文には目を通してみた。
率直に言って、高校生の「私の主張」といった趣きである。
早熟な中学生ならば、もう少しヒネリを効かせるかも知れない。
主張は単線的だし、論拠も通俗的な資料が殆どである。
冒頭のフレーズを見てみよう。
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。
田母神氏は、事例として、対華21箇条要求について、次のように書く。
また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。
この辺りの事情は、錯綜しているので、視点や立場によって、ものの見え方が大きく異なってくる。
田母神氏の論拠として示されているのは、審査委員長を務める渡部昇一氏の、専門書とはいえない読み物的著書である。
論拠として提示する方も如何かなものか、とは思うが、それを「最優秀」とする渡部氏の判断力を疑わざるを得ない。
かつて『知的生活の方法 』講談社現代新書(7601)によって、知的生活を志向する人間に大きな影響を与えた渡部氏はどこへ行ってしまったのか?
知的とは、何よりも「批判的精神」の行使のことではないのか?
なんらの批判的視点を持たずに自分の著書を引用する「論文」を最優秀とするとは、知的退廃というしかないのではないか?
「対華21箇条要求」は、一般的な概説書ではどのように扱われているだろうか。
以下では、武田晴人『帝国主義と民本主義/日本の歴史19』集英社(9212)を見てみよう。
1912年1月1日、辛亥革命により孫文を臨時大総統とする中華民国が発足。
1913年10月、孫文から臨時大総統の地位を引き継いだ袁世凱が、正式大総統に選ばれる。
中国は、大総統の権限を拡張しようとする袁世凱と、これに反対する勢力によって、激しい対立抗争を繰り広げる。
日本政府の態度は、当初の清朝擁護方針から、革命派援助による利権の追求、最後は列強に追随した袁政権支持へとめまぐるしく変わった。しかし、それ以上に問題であったのは、対中国外交をめぐって、日本政府の方針が事実上分裂状態におちいり、、陸軍を中心とする軍の独走が内閣のコントロールを逸脱していく傾向をみせたことであった。
1914(大正3)年6月28日、ボスニアの首都サラエボでの1発の銃声により、ヨーロッパは4年余りの第一次世界大戦に巻き込まれる。
このヨーロッパの戦争は、列強が軍隊を駐留させていた中国を舞台に、アジアに飛び火しようとしていた。
日本は、それを好機として捉えたのだった。
当時の日本の外交の基軸は日英同盟にあり、イギリスは日本の宣戦布告を見合わせるよう要請してきたが、日本政府は、参戦中止は日英同盟の「真価に重大な影響を及ぼす」として、参戦した。
東洋経済新報などは、非戦の社説を掲げていたが、それは少数派で、世論も中国領土の侵犯を容認する方向にあった。
ドイツへの宣戦布告、ドイツの膠州湾租借地への出兵は、対外強硬路線を主張し、中国革命の動乱に乗じて日本の権益を拡張すべきだという考え方の人々にとって願ってもない好機であり、経済的利権を「平和的手段」で拡張することを主張する人々にも受け入れやすい出兵の口実となった。
日本軍は、1914(大正3)年9月2日に、山東半島北岸からの上陸を敢行し、10月下旬には、青島攻撃を完了した。
在中国公使日置益は、日本の軍事行動の縮小を求めると共に、日本軍の婦女暴行や家屋・物資の徴発行為について善処するよう依頼してきた。
中国政府は、青島陥落後、日独の作戦行動が一段落したとして、日本軍の撤退を求める交渉を開始したが、日本軍は、青島を中国に返還する義務はないとして拒否し、中国の強い反発を買った。
「領土的野心はない」として宣戦布告してから3ヶ月半しか経っていなかった。
日中間の対立は、日本が強圧的な方針をエスカレートさせていったことから、激しくなる一方となった。日本の意図を露骨に表現し、中国の人々を激昂させることになったのが、一九一五年(大正四)年一月一八日に在華日本公使から袁世凱大総統に手交された、いわゆる対華21か条要求であった。
……
内政への広範な干渉を含む、このような要求は、日本が、革命による中国の混乱と、大戦による列強の影響力の後退を好機として、それこそ「領土的野心」をあらわにしたことを示していた。
対華21箇条要求の内容は、表のようなものである。
武田晴人上掲書は、対中国強硬策を主張する官民の意見に共通するものとして、以下のような点をあげている。
①中国人は国を統一する能力がなく、日本の<支援>が必要だという中国侮蔑意識
②大戦を利用して、日本の中国に対する優越的地位を確立すべしという火事場泥棒的根性
③日本の優越的地位を基礎とする日中<提携>がアジアの平和を維持することになるという身勝手な判断
なお、上掲書では、アメリカは中国政府を支持する態度を示したが、英仏露三国は、ヨーロッパの戦線が大規模化するなかで、極東で対立が生まれることを好まず、公使を通じて「日本と武力抗争を試みるのは賢明でない」と袁世凱に「忠告」したという、と記述している。
そして、武力を背景とする高圧的な外交政策は、まったくの失敗であり、中国の人々の反感を買い、排日の気運を高めただけであった、と総括している。
現在の時点で、対華21箇条要求をみれば、やはり高圧的というしかないであろう。
田母神氏は、「中国も完全に承諾し」と書いているが、武力を背景とした要求であったのであり、田母神氏のような見方は、やはり偏向と言わざるを得ないのではないか。
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コメント
夢幻と勇源様、
私には、‘日本は侵略国家であったのか’を読んで、それを読む前には思いもしなかった清々しさで心が満たされたあの感動が、今も萎えることなく自分の中にあるということを、ここに告げさせて頂きたいのです。
ひょっとすると、この書き出しで 既に一抹の嫌悪感をもよおされているかもしれませんが、
あの「論文」を読んだ時、戦後の教育で育った私が、悉く父や母が時折云おうとする‘私達の時代には~’、で始まる話しを受け入れようとしていなかったことに気付くと共に、その、隔絶した世代への拒否感が緩やかに溶けて行く悦びを、私は知ることが出来たのです。
嘗て日本人は、‘日本に生まれて良かった’、という想いを抱いていたと思う、その心が、私にはよみがえったのです。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年1月13日 (火) 17時44分
重陽の節句様
コメント有り難うございます。
もちろん、読後感は人それぞれだと思います。
重陽の節句様が、国を愛し、国を憂う方であろうことは想像に難くありません。
そういう心情の人が、田母神論文を読んで、「清々しさ」を感じたことも理解できないわけではありません。
私ももちろん、日本という国の山河や四季の移り変わりを愛しいと思う者です。だから、いわゆる「自虐史観」を是とするわけではありません。
しかし、反省すべきは反省する、ということを基本としたいと思っています。
(私生活では、なかなかそうも行かないのですが)
投稿: 管理人 | 2009年1月14日 (水) 00時19分
>中国も完全に承諾し
条約や要求というものは、武力を背景にしているかどうかなど関係ないのではありませんか?わが国も「日米修好通商条約」をアメリカとの間に締結調印しましたが、もちろんアメリカの圧倒的な軍事力と鎖国政策による日本の外交知識の欠如が原因で、それでもこの理不尽な条約は長い間有効でした。21箇条の要求については、後に一部放棄をしますが、それ以外の要求については、日本が負けて降伏文書に調印するまで有効だったようです。降伏文書の中に、中国が受諾したものを放棄するという文章が出てくるからです。つまり、国際社会でも、この要求が中国に受諾されたものと解釈していたことがわかります。軍事力をもって強制的に受諾させられた、とは書いていません。
「完全に承諾し」という表現はたしかに変です。不完全に受諾などということはありえませんから。
最初にアジアを植民地にしたヨーロッパ列強にも一緒に反省してもらいたいし、アフリカ・アラブの国境線をずたずたにして、人を奴隷としてつれ去って、今日のアフリカの貧困を招き、金のためにユダヤを招き入れてパレスチナ問題を作り出したヨーロッパ諸国にも十分反省して欲しいです。日本政府は、反省の弁をなんども述べていますが、ドイツ以外のヨーロッパ諸国について、寡聞にして、そのような反省を聞いたことがありません。
つまり、負けた国しか反省は求められない、ということなんでしょうね。
投稿: yumichan | 2009年7月 1日 (水) 21時59分
yumichan様
コメント有り難うございます。
武力を背景として締結した条約であっても、いったん締結されたらそれを遵守すべきだということは、その通りだと思います。
たとえ悪法であろうとも、法は守るべきでしょう。
しかし、現時点で振り返って、「対華21箇条要求」は悪法の類ではなかったのか?
中国侵略の始まりだったと位置づけるのは間違いなのか?
その辺りの認識の問題なのではないでしょうか?
今後とも宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2009年7月 5日 (日) 20時38分