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2009年1月 5日 (月)

珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑤「博多湾沿岸周辺」説(古田武彦)

邪馬台国に関する諸説として、やはり古田武彦氏の論説は外すわけにはいかないだろう。
古田氏の立場や主張は、古田史学と称され(08年11月18日の項)、一時ほどではないにしても、現時点でも大きな影響力を持っているし、古田氏の考えをベースに独自の見解を発表している論者は少なくない(室伏志畔氏-07年9月22日の項、砂川恵伸氏-08年1月15日の項、藤田友治氏-08年6月4日の項など)。

古田氏の邪馬台国問題への登場は、1969年に『史学雑誌』に「邪馬壹国」を発表したことに始まる。
当時、古田氏は、高校で国語科や社会科を教える教師の職にあったが、既に親鸞の研究家として知られていた。
『邪馬壹国』において、古田氏は、次のような問題提起を行った(「邪馬壹国の原点」/『よみがえる卑弥呼』駸々堂(8710)所収)。

江戸時代前期以来、三国志の魏志倭人伝中の、白眉をなす中心国名「邪馬壹国」に対して改定の手が加えられてきた。すなわち、これを「大和」<のちには山門>に当りうると考えられた「邪馬臺国」へと直し、あたかもこれが研究上ゆるぎなき基礎文面であるかのごとく使用してきた。これは不当である。

古田氏は、「邪馬壹国」を発表後、1970年に教職を離れ、研究に専念し、1971年に刊行した『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社(7111)をはじめとして、次々に著作を刊行し、九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示した。
それらは、学界の通説に再検討を迫るもので、多くの支持者・賛同者を集め、「市民の研究会」が組織され、1979年より雑誌『市民の古代』が刊行された。

古田氏が中心になって、1991年の8月1日から6日にかけて、東方史学会主催「古代史討論シンポジウム・『邪馬台国』徹底論争-邪馬壹国問題を起点として-」というシンポジウムが開催された。
その記録が、3冊の著書として公刊されている。
古田氏は、そのシンポジウムにおけるもっとも印象的な発言は、木佐敬久氏の次の発言であった、としている(「古代史の論理」/古田武彦編著『古代史徹底論争-「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂(9301)所収)。
その発言の要旨は、次の通りである。

「魏志倭人伝」には、正始8(247)年に帯方郡治から張政という人物が倭国へ来たことが記されている。
張政は、卑弥呼の死や国内の紛争や壱与の擁立を経て帰国した。それは晋書倭国伝などによると泰始2(266)年であるから、張政は20年間、倭国に滞在していたことになる。
「魏志倭人伝」は、その報告に基づくものであって、軍事用の使用目的に耐えるものであるはずで、とすれば、行路記事について、以下のように考えるべきだ。
①「南」と「東」と、方角をまちがえていた、などということはありえない
②「里程」も、「5~6倍のいつわり」を書いていた、などということはありえない
③特に、帯方郡治から倭国の都までの総日程は、軍事行動上重要であって、必ずその総日程が書かれているはずだ

木佐氏の問いは、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』以来、提起してきた解読に対応するものである、と古田氏は言う。
結論的に古田氏は、次のようにいう(「古代史の論理」)。
①倭人伝の方角に狂いはない
②倭人伝の「里程」は、真実(リアル)だ。倭人伝では、魏・西晋朝の短里(1里=約77m)が使われている
③倭人伝の「里程」記事中の「方四百余里」(対海国)と「方三百里」(一大国)の各半周を「里程」中に加算すると、「部分里程の総和=総里程(一万二千余里」という根本の公理が満足される
④「水行十日・陸行一月」は「帯方郡治と邪馬壱国との間の総日程である
⑤「部分里程の総和=総里程」からして、部分里程最終着地「不弥国が、最終目的地「邪馬壱国」の玄関に当る。それは、博多湾岸とその周辺領域である

古田氏は、弥生後期の大和は、金属的出土物に関しては、ほとんど「裸の地帯」ともいうべきであって、卑弥呼の居する「邪馬壹国」の所在地としては不適である、という。
そして、「倭国の都」は、九州に求めるべきで、九州における最大の鏡(漢式鏡)の密集地であり、同時に銅矛・鉄鏃等の鋳型や実物の集中地である筑前中域に求めざるを得ないだろう、とする(「邪馬壹国の原点」)。

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コメント

唐の占領軍隊の駐留場所は大宰府?だったのでしょうか。何かそれに絡んで言葉地名などが残っていないでしょうか? 唐に絡むもの、唐の政治言葉・・・。一説では2000人程度の駐留だったとの説もあり。九州倭王朝が負けて勢力を衰えていった時期、九州では占領されてどのような扱いを受けていたのでしょうか?

一つの調査参考資料です。
九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は六六一年辛酉であり、二三年癸未(六八三)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(七三七)「太政官符謹奏」にも現れています

投稿: 唐軍の九州占領場所は? | 2010年5月12日 (水) 11時37分

魏志倭人伝の【 邪馬壹 】の読みは【 ヤマト 】です。

中国の辞書に【 壹 】は形声文字、そして一の大字とあります。

ご存知のように形声文字は【 声符 ( 旁 )】を基調として、それに義符が組み合わさった文字のことです。

したがって【 壹 】の声符は【 豆 】、そして義符は【 士+冖 】になります。

声符【 豆 】の読みは【 ト ( dou4 )】です。

中国語の【 d 】は【 t 】の音になります。

したがって【 tou4 】は【 ト 】になります。

つまり【 壹 】の読みは【 登 】【 澄 】【 豊 】と同じく【 ト 】です。

では何故【 壹 】を【 イチ 】と読むようになったかと言えば【 一 】の大字 ( 仮借文字 ) となったことから、仮借文字のルールにしたがって【 イチ 】と読むようになったとあります。

私たちは【 壹 】の文字を、数字の【 1 】と認識しています。

ところが中国の辞書に【 壹 】の意味は【 したがう 】とあります。

投稿: wajin | 2011年2月 3日 (木) 23時23分

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